中世の紛争解決基準・元祖マニュアル化1

宗教家の高尚な議論・「善きことをしましょう」「人のためになりましょう」という精神論より「何が善きことか悪しきことか」の具体的基準が必要な社会になったのです。
西洋中世に幅を利かした神学から、近代の法律学への重心の移動が日本でも必要な時代が始まっていたからです。
人はいかに生きるべきかを議論をしても、人がいかに道路を利用すべきかのルールは導けません。
「謙譲の美徳」といっても車社会で譲り合うのでは前に進めませんから、「青信号優先」「スピード規制」「一方通行」「追い越し禁止」「Uターン禁止」などを法令で決めていく必要が生じます。
金融取引ルールも同じですが、「被害者を出さないようにすべし」という弱者をいたわる精神の高い高僧や人格者ならこれら複雑なルールを自然に体得しているとは限りません。
これらルールを誰が決めるのか?
比叡山で修行を積んだ高僧がルールに詳しいのか?
分野ごとに精通したプロの出番です。
「貧者を労われ」「施しを!」という宗教論のお題目よりは、具体的な労働基準法の制定です。
車社会には車社会に応じた道路交通法が必要ですし、事故が起きれば聖人君子論が解決の基準にはならず、具体的な事故状況に応じた過失割合論の構築が必要です。
日弁連の青本、東京三会の赤本で図解入りの事故状況に応じた過失割合の基準が作成され、これによって日々の事故処理が行われ・最終的には裁判で決まって世の中が回っています。
人権尊重を誰も冷え値しないのですが、お題目を唱えれば解決できるのではなく、犯罪捜査でいえばGPS利用がどこまで許されるかが難しいので、具体的事件に合わせた判例(February 25, 2018,に最高裁判例が出たことを紹介しました)の集積で決まって行くのが現実社会です。
平和がよいに決まっているのですが、どうやって平和を守るかが現実のテーマであり、お題目の優劣?神学的価値観の優劣はとっく昔に決まっていることです。
「平和を守れ」という抽象論で終始し、その先どうすrかの提言のない政党は、その先・過去数百年の現実を見ていない・・「近代法の法理を守れ」と言うスローガンに酔いしれているのでしょうのでしょう。
社会活動が活発になると、大雑把な精神論的基準・・モーゼの十戒や仏教の不殺生、不偸盗、不邪婬等の誓いだけを千回唱えても具体的事件の是非をさばけません。
交通事故の過失相殺表のように、過去事例集積によって境界事例の判断基準を整備していく必要が出てきます。
離婚事件で言えば、私が弁護士になった頃には夫の浮気や暴力等の典型的離婚原因になる事件がほとんどでしたので、骨格事実の有無だけで勝敗が決まるし、弁護士会懲戒事件でも20年ほど前までは、使い込みその他、事実さえ決まれば判断できる事例ばかりでした。
離婚事件の場合、この2〜30年の間に一方の言い分を聞いているだけではどちらが悪いのか不明・ちょっとした前後の文脈次第で勝敗逆転するような複雑な間接事実次第の事件が増えてきました。
日本の離婚法制の変遷の過程の影響にもよるのですが、(・・日本の法制は昔から融通むげであることをJul 15, 2019 12:00 pm以来「融通むげ(道)1」以来紹介している(道理に基づくものですから、杓子定規の解決を嫌います)途中で、婚姻制度も融通性の高いものだったことを書きかけていたのですが、今横道に入っています)破綻主義に変わっていく中で、日常の細かな行き違いが離婚原因の大方を占める時代になってきたことによります。
13日書いたアメリカの日韓合意のコミットに関する反米的意見も、アメリカの押し付け論を前提にしていますが、もしかして日本が無理に立会いを頼んだのだのならば、結論が違ってきます。
弁護士会懲戒事件もここ5〜6年ではネット表現がどの程度まで許されるかや、交渉時の態度など前後の会話順によっては微妙な事案が増えてきました。
微妙事案が増えると裁決には事例集積が必要になります。

中世の紛争解決基準・非理法権天1

中世秩序が混乱したのは中央権力の威令が届かなくなったことによります。
威令がとどかなくなったのは武力がないからではなく、中世に入って道義基準が混乱したからでしょう。
南シナ海における中国の一方的埋め立て=軍事基地構築に対する国際司法裁判所で「どこの国の領土でもない、公海そのもの」という判決?裁定が出ても、中国は紙くずに過ぎないと公言したのは、国際司法裁判所があっても強制力がないことを前提にした開き直りです。
中国(この模倣社会である朝鮮族も)は古来から道義による支配をしたことがない・・武力強制力の有無・相手が自分より強いか弱いかだけを価値基準にしてきた歴史をここにさらけ出したのです。
韓国の場合も、日本との合意を無視してどんなに反日運動をしようと「民主主義国家なので国民の行動を規制できない」という変な民主主義論を主張していれば、日本は韓国国内政治には手も足も出ないという論理を露骨にした点では同じです。
道理も何もいらない・相手に打つ手がなければ何をしても良いという小津王基準の点では同じです。
日本では内容が道理に従っている・「公正な裁き」と思えば強制力がなくとも従う人が多いからわざわざ鎌倉まで訴え出る人が多かったのでしょう。
ここで、江戸時代に権力確立→司法網が広く行き渡った時代に提唱された「非理法権天の法理」論を利用して中世のルール状態を考えてみます。
非理法権天の法理については、これまでも何回か紹介していますが、これは江戸時代中期に中世と比較して提唱された法理です。
ウキペデイアによると中世はまだ道理優先社会だったとして(法がなかったというより、実施すべき能力(戸籍制度も登記制度も執行機関もなかったのです)以下の通り紹介しています。

非理法権天
江戸時代中期の故実家伊勢貞丈が遺した『貞丈家訓』には「無理(非)は道理(理)に劣位し、道理は法式(法)に劣位し、法式は権威(権)に劣位し、権威は天道(天)に劣位する」と、非理法権天の意味が端的に述べられている。
非とは道理の通らぬことを指し、理とは人々がおよそ是認する道義的規範を指し、法とは明文化された法令を指し、権とは権力者の威光を指し、天とは全てに超越する「抽象的な天」の意思を指す。非理法権天の概念は、儒教の影響を強く受けたものであるとともに、権力者が法令を定め、その定めた法令は道理に優越するというリアリズムを反映したものであった。
非理法権天は、中世日本の法観念としばしば対比される。この時代において基本的に最重視されたのが「道理」であり、「法」は道理を体現したもの、すなわち道理=法と一体の者として認識されていた。
権力者は当然、道理=法に拘束されるべき対象であり、道理=法は権力者が任意に制定しうるものではなかったのである。こうした中世期の法観念が逆転し、権力者が優越する近世法観念の発生したことを「非理法権天」概念は如実に表している。

非理法権天の一般的意味づけは、まだ法の強制力がなく道理に頼るしかなかったという位置付けですが、私は日本は古代から道理を基準にする社会だというのが私の理解です。
中国のように権力者はどんな残虐なことでもできるのではなく「やっていいことと悪いこと」のけじめは法以前に厳然とあるのが日本社会です。
ソクラテスの「悪法も法なり」という言葉が有名ですが、現在法体系的に見れば、道理に反する悪法は「憲法違反で争える」ということでしょうか?
私の実務経験では、憲法違反まで言わなくとも相手方に形式上法令違反なくとも実質被害が生じている時には、日本の裁判所は何とかしてくれるものですが、逆からいえば不当な被害を受けていないのに、相手の非をあげつらうだけの場合では勝てないという説明をして、受任したことがありません。
日本社会では式目や御法度のない時代でも、腕力(政治力)に任せて道理に合わないことを要求するのは恥ずかしいという思いが強いし、周りもそれを容認しない社会でした。
それがお坊さんの説教で済まず、式目や判例集・今でいう法令の必要な社会に何故なって行ったかといえば、白と黒の区別ははっきりしているが、境界付近事例が多くなると生まれつきの常識の応用・・基本的な生き方の習得だけでは裁けなくなったことによります。

利害調整基準明確化・御成敗式目1〜武家諸法度

御成敗式目に関するウイキペデイアの引用です。

御成敗式目(ごせいばいしきもく)は、鎌倉時代に、源頼朝以来の先例や、道理と呼ばれた武家社会での慣習や道徳をもとに制定された、武士政権のための法令(式目)である。貞永元年8月10日(1232年8月27日:『吾妻鏡』)制定。貞永式目(じょうえいしきもく)ともいう。ただし貞永式目という名称は後世に付けられた呼称で、御成敗式目の名称が正式である。また、関東御成敗式目、関東武家式目などの異称もある。
沿革[編集]
鎌倉幕府成立時には成文法が存在しておらず、律令法・公家法には拠らず、武士の成立以来の武士の実践道徳を「道理」として道理・先例に基づく裁判をしてきたとされる。もっとも、鎌倉幕府初期の政所や問注所を運営していたのは、京都出身の明法道や公家法に通じた中級貴族出身者であったために、鎌倉幕府が蓄積してきた法慣習が律令法・公家法と全く無関係に成立していた訳ではなかった。
承久の乱(1221・稲垣注)以後、幕府の勢力が西国にまで広がっていくと、地頭として派遣された御家人・公家などの荘園領主・現地住民との法的な揉めごとが増加するようになった。また、幕府成立から半世紀近くたったことで、膨大な先例・法慣習が形成され、煩雑化してきた点も挙げられる。

関東御成敗式目は、それまで武家内の規律を定める法令がなかったものの事実上武家支配が広がったので、これを明文化した初めてのものらしいです。
源平物語では義経が頼朝の許可なく朝廷から叙任されたことを問責されて義経の悲劇が始まるのですが、これは武家内の常識?礼儀にとどまるもので、法令化されたものではありません。
幕府成立後も朝廷法(律令法)が基本的に通用している西国と武家法が基本的に通用している東国方面に分かれる二頭政治が行われている時代が続きますが、承久の乱(1221)によって西国へも地頭派遣するようになり全国的に武家法が浸透するようになります。
全国区化していくと武家法の内容が慣習によるだけでは、(地域差もあるし)全国基準がはっきりしない・・問注所の裁決基準を明瞭化する必要に迫られた・約4〜50年経過で事例集積が進んだので明文化する準備ができたこととの両面によるでしょう。
徳川家が1615年禁中並公家諸法度と武家諸法度をを公布したのは、戦国時代を経て武家と公家の二本立ての境界不明の法制度から、徳川家の定める法度(法)が武家と公家双方規制する「法」制定を宣言した事になります。
大坂夏の陣直後の制定ですから、高齢化していた家康は急いだのでしょう。
その後、後水尾天皇が勝手に高僧に紫衣着用を許したことで秀忠と後水尾天皇の確執になったことが有名ですが、沢庵など高僧が朝廷側の論理で幕府に反論した為に処罰されるなど実力装置を備えた武家に叶わず(・この点は清盛の実力行使以来実証済みでした)結果的に朝廷が屈服します。
ちなみに紫衣事件は(1629年)家光時代ですが、秀忠存命中(1632年死亡)の事件で抗争の主役は秀忠と後水尾天皇でした。
赤恥をかいた・・後水尾天皇の退位宣言騒ぎに発展し・・和子の娘女一ノ宮に譲位・・女帝は結婚できない不文律の結果、徳川氏を外戚とする天皇出現不可能となり、他の皇族男子がその次の天皇と決まる・・藤原氏以来の伝統である実力者が外戚になり影響力を行使する方法を徳川家が断念する結果になり、以後幕末の公武合体論まで天皇家と徳川家の婚姻はなくなります。
後水尾天皇側・・貴族流策略の勝ちとも言えますが、徳川家は開き直って外祖父によって事実上次期天皇に影響を及ぼす→天皇権威尊重の必要を求めず、実力で天皇家行動を支配する関係が露骨になって幕末に至ります。
もともと徳川家の定める法(法度)が天皇家の定めより上位(法度に違反した天皇の宣旨勅許が全て無効)になるようにした以上は、徳川家が外戚になって天皇の行動に事実上の影響力を及ぼす必要を認めなくなっていたということです。
これが江戸中期の非理法権天の法理→「道理に合わなくとも実力に裏付けられた法には叶わない」・・誕生・「悪法も法なり」で良いのか!という幕末倒幕思想にもにつながるようです。
紫衣事件に関するウイキペデイアの解説です。

幕府が紫衣の授与を規制したにもかかわらず、後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた。これを知った幕府(3代将軍・徳川家光)は、寛永4年(1627年)、事前に勅許の相談がなかったことを法度違反とみなして多くの勅許状の無効を宣言し、京都所司代・板倉重宗に法度違反の紫衣を取り上げるよう命じた。
幕府の強硬な態度に対して朝廷は、これまでに授与した紫衣着用の勅許を無効にすることに強く反対し、また、大徳寺住職・沢庵宗彭や、妙心寺の東源慧等ら大寺の高僧も、朝廷に同調して幕府に抗弁書を提出した。
寛永6年(1629年)、幕府は、沢庵ら幕府に反抗した高僧を出羽国や陸奥国への流罪に処した。
この事件により、江戸幕府は「幕府の法度は天皇の勅許にも優先する」という事を明示した。これは、元は朝廷の官職のひとつに過ぎなかった征夷大将軍とその幕府が、天皇よりも上に立ったという事を意味している[1]。

いわば観念の世界ではまだ朝廷の権威(いわば有職故実の総本山程度のブランド力)があるとしても、実定法の世界では武家政権の定めた禁中並公家諸法度が朝廷の先例や決定より上位になる宣言でした。

オーナーと管理者の分配4(利害調整能力1)

平治の乱以降の政治は、清盛の意向によるしかない・・武士の力なしに何も決められなくなった事実が明らかにされました。
こうなれば従来貴族層有利な裁定が多かったと思って不満に思っていた武士団の期待が高まります。
ところが清盛はいきなりの政権奪取だったのでこの辺の準備がなかったか?気が付かなかった結果か不明ですが、先ずは平家一門の官位昇進中心で「平家にあらずんば人にあらず」とまで揶揄されるほど身贔屓が露骨すぎたようです。
信西が身内の栄達に邁進した結果、院政派と天皇派の争いを超越した公卿社会共通の怨嗟の的になった教訓を活かさなかったのでしょう。
その上に、平家以外にも少しは気配りしたとしても官位斡旋くらいしかなかったので、官位昇進など関係ない地方武士団の失望を買ったでしょう。
頼朝はこの点を教訓にした結果か?天下を掌握してからも自分の官位昇進を全く受け付けない・・官位返上まではしないまでも朝廷の権威無視?のまま・のちに鎌倉殿と言われるまで左(すけ)殿と言われています。
ちなみに、三条殿とか鳥羽殿とかいうのは外部からの呼称であり、鎌倉殿と言うのは、鎌倉以外から見た表現・・朝廷周辺の外部からの文章表記のことで、鎌倉幕府内・・特に政子が鎌倉殿と言うはずがないので、一般には死亡まで「すけ」殿が普通であったでしょう。
ちなみに佐殿とは頼朝が子供の(11〜2歳)頃平治の乱で義朝が賊軍になるまでのホンのわずかの間に任じられていた官名・・右兵衛権佐のままということです。
清盛に戻しますと、官位斡旋に関しては源頼政の不満を吸収するために四位から三位(殿上人)に引き上げたことが知られていますので、源三位頼政に関するウイキペデイアによると以下の通りです。

のぼるべきたよりなき身は木の下に 椎(四位)をひろひて世をわたるかな
『平家物語』 巻第四 「鵺」
という和歌を詠んだところ、清盛は初めて頼政が正四位に留まっていたことを知り、従三位に昇進させたという。
史実でもこの頼政の従三位昇進は相当破格の扱いで、九条兼実が日記『玉葉』に「第一之珍事也」と記しているほどである。清盛が頼政を信頼し、永年の忠実に報いたことになる。この時74歳であった。
翌治承3年(1179年)11月、出家して家督を嫡男の仲綱に譲った。

もともと平氏は源氏に比べて、地元密着性が低かったのかな?
(平将門の乱は平氏同士の調整能力不足で起きたものでしたし、頼朝挙兵に馳せ参じたた千葉氏も平氏でしたが、相馬御厨の管理権争いで平家が当てにならなかった)
その代わり宮廷多数派工作に慣れていたので天皇家同士、藤原氏同士の争いにうまく適応できた面もあったでしょう。
保元平治の争いは、上皇と天皇の二大勢力の他に旧来勢力というか、公卿旧勢力不満の三つ巴でした。
平家物語を読むと源氏はいかにも坂東武者そのままで垢抜けないイメージですが、源氏は摂関家の下で武士の分際を弁えて忠実に振る舞ってきた・・各地荘園で地方の揉め事を処理する経験を積み実務能力に長ける→その分京での公卿相手の複雑交渉不慣れだったでしょう。
(伊勢)平氏の場合、忠盛の時からジワジワと貴族社会に足を踏み入れていた・その分叩かれ嫌がらせされましたが、複雑な争いが始まると過去に公卿社会に揉まれた経験が生きてきます。
源氏は摂関家の良き忠犬としての役割に特化してきたし、たまたま当時不祥事が続き小さくなっている状態で波乱の時期に遭遇しました。
ウイキペデイアの記事引用です

源為義(みなもと の ためよし)は、平安時代末期の武将。祖父は源義家、父は源義親。叔父の源義忠暗殺後に河内源氏の棟梁と称す。なお父は源義家で、源義親と義忠は兄にあたるという説もある。通称は六条判官、陸奥四郎。源頼朝・源義経らの祖父。
当初は白河法皇・鳥羽上皇に伺候するが度重なる不祥事で信任を失い、検非違使を辞任する。その後、摂関家の藤原忠実・頼長父子に接近することで勢力の回復を図り、従五位下左衛門大尉となって検非違使への復帰を果たすが、八男の源為朝の乱行により解官となる。保元の乱において崇徳上皇方の主力として戦うが敗北し、後白河天皇方についた長男の源義朝の手で処刑された。

オーナーと管理者の分配3(武士の台頭1)

パルコや銀座シックスなど、全館統一セールをやるシステムの場合、売り上げの%での支払いで良い(営業マンの一部固定給一部歩合の逆張りで、最低固定金プラス売り上げの%にする)代わりに売り上げ代金を大家?運営主体が直接管理する仕組みになっています。
これを仕入れ管理まで徹底したのがフランチャイズシステムでしょう。
コンピューター処理等利用によって、帳簿管理が精緻になっているからできる事でしょう。
魅力が低いのに出店料納付歩合が高すぎる場合、テナントが応募しないか撤退が続き空きスペースが増える・・市場競争が働きますので、契約内容に政府介入の余地が低くなっています。
奈良時代から明治維新まで農業収入が社会の基本であった場合には、簡単に追い出すわけには行かないので現地実情に通じた現地預かり所・・現地支配人の裁量に委ねるしかなくなったのでしょう。
観応の擾乱に関する本を読んだ時に寺院領だったか、八条院領だったかで洪水被害による減免願いがあちらこちから出ている文書を読んだ記憶(他の文書の付属だったかの思い違いかもしませんが)です。
それにしても、2〜3年連続の凶作とか程度を超える減収報告で怪しいと思ってもどうして良いかわからないときに、源氏や平氏の棟梁に訴えて適当な解決をしてもらう時代に入っていたのでしょう。
平安末期になると武力解決に限らず日常紛争でさえも最終解決は武家の棟梁に委ねるしない状態になっていたので、鎌倉幕府が問注所を公に設けるしかなくなったようです。
秩序・法とは何かですが、正義がこれ!と決めたら強制執行する力をバックにしてこそ成立するものですから力のない政府には法の貫徹が不可能です。
非武装平和論・道徳教育さえすれば違法行為がなくなるならば警察力不要なのと同じで、違法行為を違法と断じて強制排除できる権力確立があってこそ平和が守れるのです。
パックスアメリカーナとかいう通り豊臣秀吉のような「天下人」が惣無事令を出さない限り、各地の小競り合いや大規模戦争は防げません。
政府権力が弱くなり実効性がなくなると、政府権力に頼れない各地で自衛のための武士が勃興したのでしょう。
政治権力の肝は「物事の最終解決を俺にまかせろ!ということですから、朝廷・・摂関家や院、寺社等の荘園領主が、地元武力に保持者に頼むしか解決できなくなると、地元武士で解決不能な大きな争いは武士のトップに頼まないと決められなくなった時点で、朝廷や摂関家は政治権力者の体をなさなくなっていたことになります。
保元平治の乱に戻ります。
平安末期には地元有力者・・元は飾り物の国司にかわって郡司さんが仕切っていたようですが、小作料・年貢?収入の取り立てに始まって不確定要素が大きすぎて、強制力の必要な場面が増えると地下人としてたくましく勃興してきた武士層が郡司さんにかわっていったように思われます。
平安時代から始まっていた武士への管理委託が、平安末期になると荘園本部の管理能力を超えてきたので現場に精通する武士のいいなりになっていたのでしょう。
保元平治の乱では朝廷内両勢力も貴族層である藤原氏内部争いも同じ・・両派に別れて戦ったものの武士の力を借りないと決着がつかないこと自体が、社会の実質決定権が武士の意向によるものに変わっていたのが表面化したことになります。
当時解決すべきテーマは、荘園経営を足元から食いつぶし始めていた武士の台頭(氏長者になっても地元武士団に食われ中央への貢納が減ってきた点)にあったので、この地殻変動に関する本来の争いが後醍醐天皇の建武の新政後の南北朝時代まで続きます。
この減ってきた収入源の奪い合いのため荘園オーナー同士・仲間内で揉め事を起こし、その解決に中間搾取している武士の力を借りたためにさらに武士の力が増大するしか無くなったことになります。
新井白石や松平定信、水野忠邦が、新産業を起こす努力をせずに質素倹約に邁進すると、経済活動が縮小してしまい、結果的に幕府経済の土台を蝕んで幕末に向かって行ったのと同じです。
管理を預かる武士団が中央へ納付する年貢が減る一方で朝廷貴族層の喫緊の課題は朝廷・荘園収入の維持拡大だったでしょうが、これの解決には武士上位者の協力が必要になっていたようです。

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