朝廷権力喪失2(徴収権喪失1)

武力のない中央の荘園領主の派遣者が現地に居着いたからといって、どうなるものではない・武士から見れば無駄飯食いが来た程度なのですぐにこの種の領主は消えてしまったようです。
幕府任命の守護は元々有力武士でしたが、足利氏の例で書いたように当時は飛び地領地といってもその領内は一円支配関係)経営でしたから、各領地で隣接領主との戦闘が常態化すると、飛び地領が多いと応援効率が悪くなり、「遠い親戚より近くの他人」の緊急応援が重要になります。
ただし、もともと荘園はあちこちの開墾地ごとの墾田永世私有許可制によって、開墾地ごとの私有が認められことから始まっている関係で、〇〇の郡・地域一帯ではなく中央貴族が飛び地で持っているに過ぎなかったものが、周辺開墾地を増やすなどして一定地域に広がってきた・地域支配に広がってきたものです。
もともと規模の小さなものが成長して今でいう市町村単位や郡単位規模になってもああちこちに点在しているのが原則でした。
現在農地法改正によって農地の法人所有が認められるようになっていますが、これが仮に世界規模の大企業が経営するように成長したとしても、全国合計すれば日本全国の2割を占有しているといっても一箇所に統合しているものではないので、各地の警察権やガス水道各種インフラ・・全部国家頼みで点は変わりません。
荘園領主の始まりは、現在の法人農地所有の先祖と言えばわかり良いでしょう。
人力会は地時代ですから、数〜十町歩開墾でも大事業だったでしょうから、その程度の飛び地から始まったことは間違いないでしょう。
解説では荘園領主が一円支配を目指して不輸不入の権が次第に拡大していくという欲得だけの解説が多いのですが、前提として個別の田んぼ私有から、一定規模の面支配に広がっていったことが先行していたはずです。
このように飛び地支配を原則としながら、飛び地ごとの範囲をじわジワと広げていく・・倦まず弛まずの成果が先にあったのでしょうが、応仁の乱までは山名、細川など中央の有力御家人の所領はまだ飛び地(の規模が次第に大きくなっていたものの)経営の系譜を引いていたのです。
飛び地規模を大きくしたいのが平安時代初期からの各地飛び地経営者・・現地を預かるものの願望ですから、領域拡大争いが熾烈になると現地武装勢力が重きをなし武士の発達になっていくのですから、武士の勢力が大きくなればなるほど在地勢力に関心の強い領域争いが大きくなるのは自然の流れです。
突発的小競り合いでは中央の応援など待ってられないので、地元荘園規模の大きい方が大きな勢力を持てるので、いよいよ自衛(力充実)に走るようになります。
現在喧しい集団自衛権問題同様に、遠い親戚より近くの領主と縁戚関係やお互い助け合い関係を密にしておく方が合理的、地元人間関係が重要になっていきます
中央派遣→地元密着力で守護代に劣る結果、地元武門トップ守護代に地位を追われていく時代の流れとなります。
戦国末期の長尾為景や織田信秀のころには、武門の棟梁や藤原氏の氏長者等の仲介を経ないどころか、守護や守護代すらを飛び越して一足飛びの朝廷への直接献金が常套化していたことに驚きます。
織豊政権成立の頃に生き残った戦国大名で、家柄だけで生き残った大名はいないと言っても過言ではないでしょう。
武田家や島津家などは守護大名から戦国大名に転換できた希少な例でしたが、もともと土着源氏であった者が、その地元で守護に任命されていたから地元武士団化に成功したように見えるのであって、中央任命の守護大名が家柄だけで生き残ったのではありません・・。
生死をかけた合戦の続く時代に、元々武力のない公卿が地元に居着いたくらいでは(日々の食費に困らなくなった程度しかなく)どうなるものでもなかったでしょう。
朝廷+征夷大将軍による正義・秩序の強制力や徴税能力喪失・・この段階で支配者と言えない状態になっていたでしょう。
まして周辺で何とか朝廷権威を守ってきた藩屏たる貴族や寺社の荘園取り分ゼロ(時折世代交代時に官職の斡旋をしたり、(今で言えば旧領から盆暮れのツケ届けが届く程度)で色紙(文化)を売る程度しか収入源がなくなってしまったようです。
これでは現在の作家や絵描き、音楽家・・各種芸人とどう違うか?となります。
荘園領主系で上からおしかけるのではなく文化力のあるものは、新興武士層の奥方系の需要に応じて(市場価値があるので)「ドサ周り」可能ですので地方に文化進出していきます。

戦国時代2→大和朝廷の実質消滅1

佐倉市にある歴博で、蔵人頭(今で言えば大蔵大臣?)だったかの官人の1日の流れが出ていましたが、朝早くから摂関家で家人として色々な事務をこなしてから朝廷に出仕し、帰りにはまた藤原氏に顔を出すなど忙しい一日を時間表にしたものを見たことがあります。
(生活費を書いていませんでしたが)朝廷の仕事は名誉職みたいなもので、(その頃には荘園に蚕食されて国税・朝廷収入はほとんどなくなっていたでしょうから)生活費は摂関家の下働きで得ていたような印象でした。
荘園収入が減り最後はほぼ全て途絶えるまで、摂関家でも家人をドンドン減らしていったでしょう。
リストラされた方は、食・職を求めて地方に散らばるしかありません。
大坂の陣までは、徳川家旗本や各地大名は、功績を競うために配下武士・足軽を最大限抱えていましたが、平和な時代が続くと無駄なのでどんどん減らしていきます。
関ヶ原で負けた方の戦闘員の大方が失業状態でしていたので、大坂の陣で大阪方は、この受け皿になって、浪人勢が大規模に雇われて大勢力になって大規模戦争になったものです。
真田幸村を代表として大阪方の名だたる武将(大阪城に詰める譜代の家臣は、実践経験の乏しいものばかり)は皆いわゆる関ヶ原浪人でした。
大坂の陣が終わるとオリンピック景気終了後の現場労働者みたいなもので、浪人が巷に溢れ社会不安の現況になります。
大坂の陣に向けて功績を競うために最大限戦闘員を増やしていた勝った方の幕府方大名も旗本も、まずは平時の常雇体制に戻すのが当然です。
学校教育では、福島正則などの改易が続いた結果失業浪人が増えた結果社会不安になったので、大名の改易を縮小したと習いますが、改易になれば、その分誰かの領地になる・新規採用があるので差し引き本来同じはずです。
「日本経済の低迷と会社更生法(非退場のシステム)4」前後のシリーズで不景気対策として銀行や建設業の倒産を救済しないと失業が増えるから救済が必要という一般的な意見に対して、いかのように主張したことがあります。
「国内建設需要・銀行需要が一定の場合、トータル労働力需要が一定だから淘汰される業者は、技術レベル労務管理等々が劣っているのだからその企業の退出を促すのは良いことだ。
年間100棟建設していた業者が倒産すれば近隣他社がその需要を吸収するために人手不足になり、倒産企業から使える人材を雇用するので、競合他社から声のかからない人材はもともと給与以下の仕事しかしていなかった人の証だ。
こういうダラ漢が居座る企業を税を使って温存する必要がない」
と言う意見をこのコラムで書いたことがあります。
外様大名に限らず越前宰相と言われた徳川一門120万石も改易になっていますが、その土地が外国領土になったのではなく、(旗本が加増されて小大名となるなど)いくつか小藩の領地になってそれぞれ必要な家臣を新規採用しています。その機会に内政に必要な人中心に雇用して武断派の人材が再雇用率が低く時代不適合系は、失業していったと思われます。
島原の乱も由井正雪の乱も・・明治初期の秩父困民党の騒動、各地不平士族の反乱事件も皆新時代に適応できず行き場をなくした浪人が集結したのが騒ぎを大きくした元凶でした。
文治政治の江戸時代が進むと平時向けの戦闘力不要ですので、さらにリストラが進みますがこの頃には俳諧師に始まり各種サービス業が発達したので、(平賀源内のように活躍の場があったり、浮世絵師、落語家等々)受け皿があって各地から江戸に人口が集中するほどになっていたことが知られます。
応仁の乱以降に戻しますと、京にいても食えないので実務能力のある者は散在する荘園のうち一つを選んで自ら領地に住み着き自分で管理するようになる・ある程度実務能力のある荘園領主(と言っても当主ではなく一門の実務経験のあるもの?)もいたようです。
しかしそれは、中央と地方の連絡が取れなくなった初期のこと・「預かり所」に任せてられないので、家宰レベルが自分で赴任して直接監督するようになった程度のことでしょう。
近隣の武士同士で日々夜討ち朝駆けの攻防が繰り返され、武士が砦・城で起居しなければならない時代になると、武士である守護大名でさえ地元密着型守護代から見れば役立たずなので駆逐されて行きます。

価値観激変時代3(戦国時代1→下克上)

足利幕府はとりなし的利害調整ばかりしているうちに、応仁の乱〜戦国時代に拡大していくのですが、応仁の乱以降・細川や山名氏のように何カ国もの守護を兼ねる時代が終わります。
各地に土着した守護大名が地元武士団との結合を強め、細川や山名のような大規模領主から独立し守護大名となってきたからです。
ところが、その守護大名家ももっと地元密着の守護代(そのまた家老)等にその地位を奪われる下克上が進んできたのがいわゆる戦国時代です。
下克上の代表的人物・長尾為景(上杉謙信の実父)については、ウイキペデイアの一部引用します。

越後守護代であった長尾能景の子として生まれる。
・・・永正4年(1507年)春頃「為景謀反の気あり」と守護・上杉房能が為景討伐の準備をしていたため、8月にその機先を制して房能の居館を襲撃する[8]。逃亡中に房能が自刃すると、その養子・上杉定実を傀儡として守護に擁立した。この新守護擁立に反対する阿賀北地方の本庄時長・色部昌長・竹俣清綱は9月に為景に対して一斉に蜂起する・・(これらを撃退した・・稲垣注)8月に為景は銭貨80貫文を室町幕府に献上し、11月6日、幕府から上杉定実の越後守護就任が正式に認められ、為景も定実を助け補うことを命じられた[10]。

上記の通り主家を攻撃して自分の傀儡を擁立・反対派を撃退して将軍家から正式承認されるところまで行きます。
織田信長の父織田信秀の場合は、長尾家のように守護代ですらない・・さらに下層の地元豪族です。
ウイキペデイアによれば概要以下の通りです。

永正8年(1511年)、尾張国南西部海東郡・中島郡に跨る勝幡城(愛知県愛西市・稲沢市)を支配する勝幡城主で、清洲三奉行の一人の織田信定の長男として生まれる。
信定は尾張の守護代織田氏の一族で、尾張下四郡を支配する守護代「織田大和守家」(清洲織田氏)に仕える庶流として、主家の重臣の清洲三奉行の一家で弾正忠を称した家を継いでいた。
信秀は父・信定の生前である大永6年4月(1526年)から7年(1527年)6月の間に家督を譲られて当主となる
・・・経済的に伸長し勢力を増し、上洛して朝廷にも献金し、従五位下に叙位され、備後守に任官された。さらには室町幕府にも参じて、第13代将軍・足利義輝にも拝謁した。天文9年(1540年)から翌年にかけ、伊勢神宮遷宮のため、材木や銭七百貫文を献上した[9]。これで、天文10年9月、その礼として朝廷より、三河守に任じられたというが、周囲への使用例はない[9]。さらに天文12年(1543年)には、朝廷に内裏修理料として4000貫文を献上し、朝廷重視の姿勢を示す
・・・・信秀はその頂点で、主家の大和守家への臣従関係は保ちつつ、地位や権威は主家やその主君である尾張守護斯波氏をも上回り、弟の織田信康や織田信光ら一門・家臣を尾張の要所に配置し、尾張国内の他勢力を圧倒する戦国大名の地位を築いていった。
しかし信秀は終末まで守護代奉行であり、実質上は尾張を代表する戦国大名として斎藤、松平、今川ら他国大名と戦い続けたものの、形式的主君であった守護代家、守護家は維持したままで、尾張国内の大和守家や他の三奉行や犬山の織田信清など何度も敵対し争ったり、反乱されたりしているのに、最後まで徹底して粛清したり叩こうとせず、それらを抱えたまま国外の敵と戦うという限界があり、旧来の権威や秩序を重んじる古さがあったと指摘され、それらの併呑や排除は信長の代を待つことになる[7]。

守護代織田大和守家一族の庶流(家臣団に降った・奉行の一員)でしかない家柄にうまれたのが信秀の親・信定です。
これが信定〜信秀と代を重ねる都度勢力を拡大し、事実上尾張国の守護や守護代を凌ぐ地位にのし上がって次の信長の世代になります。
応仁の乱→戦国時代に突入すると、中央(幕府)の裁決能力消滅→在地預かり(事実上有名無実化しなくなっていたでしょう)が荘園領主への貢納をしなくなってもどうにもならない状態になりました。
荘園収入の分配率争いどころではなくなっていたのです。
戦時中地方のツテを頼って多くの人が東京から疎開したように、応仁の乱以降混乱が続く中で京都にいたのでは危険だし(戦のたびに逃げ惑うしかない)仕送りが途絶えたので、食うに困る下級中級貴族・官人(給与支給もないので)が、ツテ・旧縁を頼って続々と地方に疎開していきます。

利害調整能力8(価値観激変時代2)

アメリカが、まだ行ける(ある程度やれる)ことは認めるとしても、最後の力を使い尽くして、衰退をはやめるかは後世歴史家が判断することです。
長期籠城して食うや食わずになってから落城するより、体力のあるうちに出撃して攻撃軍に一矢報いるのに似ています。
ドイツの挑戦を受けて当初懐柔策で対応したチェンバレンが、際限ない譲歩に追い込まれ失敗だったと言われ、受けて立ったチャーチルが米国の応援で辛うじて勝者になって英雄扱いですが、結果的に世界覇者の地位を失いました。
終わって見れば挑戦者であり、敗者になった筈の日独が昭和40年頃から約50年間も世界経済のトップグループになり、英仏は2番手グループに下がり現在に至ります。
EU内でドイツの発言力は、英仏の及ぶところではありません。
チャーチルの決断・・何千マンという戦争被害者を出した先の大戦はなんだったのか?(植民地支配→人種差別が終わったのは日本の功績ですが・・)短期的には大被害を世界にばらまいただけに見えます。
地力変化の動きを腕力に任せて通商交渉その他で強引に制約を課しても、(日米繊維〜家電〜半導体交渉など)恫喝等では阻止できないということでしょう。
ただし、ドイツは日本と違いむき出しの武力挑戦を挑み続けた(・中国による南シナ海での公海埋め立てと同じく)ので放置できなかったでしょうが、日本の場合今もそうですが、米英に対して剝き出しの武力での抵抗を挑んでいたわけではありません。
武力挑戦をしていない日本も一緒にやっつけようとしたのは(日本が国際連で人種差別を問題視したことに対する意趣返し)剥き出しの人種差別意識があったからでしょう。
その不純さが却って日本による植民地解放戦争につながってしまったのは皮肉な結果でした。
親子あるいは企業統治で、高齢社長がまだ行けると反抗する息子や次世代リーダーを解任する力を見せつけることができても、だからどうなるの?ということがあります。
大塚家具騒動では、反抗期の娘の方が内部闘争で勝ったものの、経営不振の極みです。
世代高交代は一家や企業あるいは国際的覇権維持でもどうすれば良いか難しいものです。
実力関係の変化に合わせて、徐々に地位を下げて行くのが賢いやり方ではないでしょうか?
足利政治に戻しますと、初めっから独自武力のない政権でしたので、強権決済不可能・その場限りで揉め事の「とりなし」ばかりやってきた足利政治の特徴は、ウイキペデイアによる以下の御所巻き事例紹介でもあきらかです。
後白河が清盛の兵士動員にしょっちゅう脅されていたのと同じ仕組みでした。
最後の義輝(いわゆる剣法将軍です)が御所巻きの脅迫に屈せず強気を貫いて三好三人衆に公然と将軍が斬り殺される終末を迎えます。
ウイキペデイア御所巻きの引用です。

記録によって「御所巻」とみなされる行為、あるいは記録がなくてもその前後のやり取りから「御所巻」とみなせる行為として以下のものが挙げられる。
貞和5年(1349年)に高師直らが足利直義一派の追放を求めて将軍・足利尊氏の邸宅を包囲する(観応の擾乱)。
康暦元年(1379年)に斯波義将らが細川頼之一派の追放を求めて将軍・足利義満の邸宅を包囲する(康暦の政変)。
文正元年(1466年)に細川勝元・山名宗全らが伊勢貞親一派の追放を求めて将軍・足利義政の邸宅を包囲する(文正の政変)。
応仁元年(1467年)に細川勝元・畠山政長らが畠山義就の追放を求めて将軍・足利義政の邸宅を包囲しようとしたところ、これを知った山名宗全・畠山義就らが畠山政長の追放を求めて足利義政の邸宅を包囲、更にそれを細川勝元・畠山政長・京極持清が包囲する。義政は原因である畠山政長・畠山義就のみで決着をつける(他の大名はこれ以上関与しない)条件で両陣営を取り成し、御霊合戦に発展する(応仁の乱)。
永禄8年(1566年)に三好三人衆らが側近集団(進士晴舎らか?)の処刑を求めて将軍・足利義輝の邸宅を包囲するが拒絶されて将軍殺害に至る(永禄の変)。

断固たる決断ができなかったのは、足利本家直属の兵力がなかったことによる面が大きいので、徳川政権ではいわゆる旗本8万騎・・旗本制度を確立します。

利害調整能力7(価値観激変時代1)

いざという時に真っ先にかけつけ「先陣をやらせてください」くらいの意気込みがないと、次に自分が困った時に応援を渋られます。
このために、いざという時に「着到」順の名簿書きに真っ先に駆けつけた(もちろん騎馬何名と動員戦力の書き込みも重要です)実績が重視されて皆一刻も早く旗幟鮮明にする努力を怠らなかったのです。
このように日頃恩義を感じている関係の場合には、武士団も無償奉仕を厭わないでしょうが、何の義理もない天下り着任したばかりの守護からの動員命令では、(前任守護には義理を受けている地元豪族がいても新任の守護になんの恩義も受けていない)無償奉仕の負担感は大きかったはずです。
恩賞にこだわるというと金に汚いようですが、日頃義理のない関係で物事を頼むには行動にはコストががかかるということです。
北条氏が各地守護に名を連ねても、私兵として本当に利用できる軍勢はすぐに増えるわけではありません。
吉良で言えば、足利家先祖伝来の領地ですから、北条家の誰かが仮に三河国の守護になっても吉良一党が従うかどうかは足利本家からの下知優先だったでしょうから、鎌倉幕府または三河守護が三河国で何かしようとする場合には、まずは幕府内で足利本家に「ご協力お願い」の根回しが必要になっていたでしょう。
鎌倉末期における足利家の強みは、つる草のように各地に一族の根を下ろしこれが、各地に土着して強力な血族集団を形成していたことでしょう。
全国展開・・軍の移動には、各地宿営を重ね進に連れていく先のより正確な情報・兵糧等の補給が必要ですが、2〜3日歩けば身内の村落があると安心です。
義朝が平治の乱で負けて東国の地盤に落ち延びていく途中、長田庄司に謀殺されますが、このように気心の知れた一族を頼りながら移動していくものです。
強固な信頼関係で結ばれた家人が、主君を裏切るとは当時としては驚天動地の出来事だったでしょう。
源氏が天下を握った後この長田の庄司の運命がどうなったのでしょうか?
蒙古襲来・防備目的で西国方面で北条一族が守護として名目地位を得たものの、私的な兵の動員力が高くなったのではなく逆に守護の地位を追われた元々の武士団や九州北部防備のために駆り出された不満をもたれたことになるでしょう。
竹崎季長のように奮戦して(もしかしてもらえるならば)近隣領地を少し広げる方が、5人でも10人でも農民を増やし一族郎党の拡大になると言えます。
足利直義は御成敗式目の思想を理想とする・正義一直線傾向があって(特定論文意見しか知らない・私は暇つぶしに読んでいるだけですから多くの論文を読んでいない・・受け売り意見です)あやふやな態度に終始した老獪な尊氏に負けてしまったように見えます。
あやふやといえば無能そうですが、価値観激変時代には硬直した価値観ではやっていけない時代であったといえます。
今の世界は19〜20世紀型価値観の再編成期ですから、柔軟対応能力が問われる時代に入ったというべきでしょう。
尊氏の政治的立場は、楠木正成討伐軍として出動しながら、京都郊外に布陣したまま動かず最後に反幕府を旗幟鮮明にしたために(・・応援にきた背後の大軍が敵方となれば前線は壊滅です)鎌倉幕府軍潰走の原因となり、観応の擾乱でも当初は高一族と行動を共にしながらも最後は直義と袂を分かつなど巧妙な動き方は、保元〜平治の乱で清盛がどちらつかずで有利な立場を築いていった点で似ています。
足利氏と新田氏は鎌倉幕府内で源氏直系高貴な血筋として同列競合関係にあったのですが、宮廷工作的能力に欠ける新田氏が長年冷や飯食い的立場に置かれてきたのと比べて官僚的立ち回りの巧妙さで鎌倉幕府内で重きをなすようになり、徐々に全国各地に飛び地的所領を獲得していき(吉良のように各地に勢力を扶植し各地の土着力となり)存在感を大きくして行ったものです。
ドチラつかずの宮廷官僚的生き残り能力は、官僚としては有効な能力ですが、トップの能力としては問題があります。
専制支配までは必要ないとしてもトップに立った以上は揉め事の採決や決断すべき時にはビシッと決める能力がトップには必要でしょう。
悪く言えば優柔不断の典型でしょうし、結果的に際限ない武力抗争を引き起こし、最後の応仁の乱で収拾不能な結果をきたして文字通り「天下が麻のごとく」乱れてしまい戦国時代に入って行き、将軍家権威が完全喪失してしまいます。
現在社会で言えば、オバマ政権の柔弱政治が中国による米国に対する「鼎の軽重を問う」動き(太平洋2分論〜一帯一路政策)につながり、現在の国際価値観混乱の元になっているのと同じです。
「まだまだ行ける、バカにするな!」と最後の力を振り絞って、強権政治に切り替えたのがトランプですが・・。オバマの柔弱政治は米国の力が弱ったことを前提に無理しない賢明な姿勢とも言えますが・・。

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