健全財政論6(中央銀行の存在意義1)

我が国で言えば、大恐慌から高度成長期ころまでは国民は生活水準向上・・量的消費に飢えている時代でしたので、お金さえあれば三種の神器・・次々と提供される家電製品等を買いたい・作れば量が売れる状態でした。
ところが、今では飽食の時代ですので給与が2倍になっても嬉しくてビールや牛乳やアイスクリームを今までの2倍消費する人は滅多にいません。
(余程貧しい人だけでしょう)
量が満たされれば消費の方向性が質に転化する・・レベルアップして行くことになります・・従来型産業が国内では飽和状態になって行くので、成長が止まり不景気だと大騒ぎになりますが、国民のレベルアップに合わせて国内産業も業種転換あるいは磨きをかけて行くしかないのに、この転換に遅れを取っている嘆きと言うべきです。
この辺の意見(消費が高級化すれば供給サイドに関与するべき国民・労働者のレベルアップの必要性・・これは遅れて発達するので当初ブランド品輸入が席巻するのは当然ですが、この適応問題は別の機会に書きます。
話題を戻しますと紙幣を仮に10倍増にしても大方の国民はその殆どを預貯金するだけでこれまでの2倍、3倍もビールを飲むことはないでしょうし、仮にこれまで思うように飲めなかった国民の何%かがビールを2〜3倍飲むだけです。
車でもテレビでもビールでもスマホでも売れるならばいくらでも増産出来るので、仮に2倍売れたとしても車やテレビ、パソコンの値段が2倍になることはありません。
昨年テレビが無茶苦茶に売れましたが、値段は上がらず販売競争激化のために実質値段が下がっているのが現状です。
日銀がいくら金利下げや紙幣の量的緩和をしても、暖衣飽食(ものの行き渡った先進国)の国民は金利が下がったくらいでは買い物出動しないし、生産力超過の現在、仮に売れ行きが伸びても在庫品の減少が進み、休止中の設備が動き出す程度で物価が上がることはないことをこれまでのコラムで何回も書いてきました。
加えて現在は1国閉鎖社会と違って、国内で供給が足りなかったり値上がりすればすかさず輸入品が押し寄せて来るので、供給不足による物価上昇があり得ない構造になっています。
我が国では長期にわたる国際収支黒字の累積で資金余剰が際立っているので、金利をいくら下げても借り手・・健全な資金需要が起きません。
赤字で資金繰りに困っている企業は少しでも下がったら有り難いでしょうが、トヨタ等世界企業は(内部留保が厚く手元資金が余剰気味です)金利の上下によって新規工場建設等を決めるパターンではなく新規投資戦略が先にあってその戦略次第で資金需要が起きる仕組みです。
個人は個人で多くの国民はお金を使い切れなくて1500兆円も個人が預貯金している状態で、飽食の金融版になっていますので借りてくれるマトモな客がいない(借りに来るのは貸したら焦げ付く人ばかり)銀行は0、何%の国債を買うしかない状態です。(商品を仕入れても売れない状態)
日銀が世界最低の金利にしても投資用に借りに来る企業の需要がなく、外国人投資家が日本の銀行で借り入れて円キャリー取引に使うくらいで、(日本の銀行は世界最低金利で仕入れられるので、国際貸し出し競争に有利となって、日本の銀行はこれで潤っています)言わば国内銀行救済・国際競争上銀行に対する補助金的効果になっている程度です。
このように今や中央銀行が貨幣政策・金利政策で経済を動かすことは不可能な時代が来ているのに、未だに政府は自分で行うべき財政政策を怠って日銀の金利調節や量的緩和に頼っていますが、言わば日銀の存在は無駄な存在であるばかりかむしろマイナスです。
(私は以前から、こう言う実態を紹介して現在社会では日銀不要になっていると書いています)
この現象はここ20年来の日本だけの現象ではなく、グローバル化以降先進国ではどこでも現れ始めて来たと言えます。
恐慌以降何十年も前から金利や量的緩和は刺激効果があることが分っているのに、今でも経済学者の集まりであるIMFでは、(バカの一つ覚えのように)アジア危機・ギリシャその他何かあると緊縮経済の実行を迫るのが常です。
確かに野放図に赤字財政を繰り返すのは困りものですが、緊縮強制一点張りでは智恵が足りない印象が拭えません。
これまた繰り返し書いていますが、学者というのは過去の経験を大学等で勉強をして修得する能力の高い人材・・秀才が多く、これに反比例して現実に進行している実態に新機軸で対応する応用能力が低いことによるのでしょう。
大恐慌あるいは不景気対策としては緊急避難的に気付薬的に麻薬使用・・紙幣大量発行も許されるというのが、実務から生まれた経験的智恵です。
実際日本では大恐慌の際にこの方式でデフレ脱却に先に成功していて、これを真似して大規模にやったのがアメリカのニューデイール政策だったと言われています。
大恐慌時に戻りますと、兌換制度が停止ないし廃止されてしまうと貨幣・紙幣の信用維持をどうするかとなって来ますが、官僚個人の「貨幣価値を守る」と言う気概に頼るのでは無理が出てきます。
そこで中央銀行の独立性等の制度的保障でこれを守って行くことになったことを、07年1月16日「不換紙幣と中央銀行の独立性1」以下のコラムや08年1月17日の「国債と非兌換紙幣の違い」で紹介しました。

健全財政論4(貨幣価値の維持2)

江戸時代に入って自前で貨幣鋳造するようになると借金しなくとも、徳川家に限っては国内的には現在の基軸通貨アメリカドルのように(貨幣でも金の含有比率を変えれば)いくらでも貨幣を造れるようになりました。
(ご存知のように古くは和同開珎などがありますが、実際には戦国時代までは日本では一般的に流通する自前貨幣をもっていませんでした・・永楽銭などを輸入して流通させていたのです)
その代わり「悪貨は良貨を駆逐する」原理で、江戸時代でも貨幣の改鋳は内容を薄めると直ぐに物価上昇・国民生活悪化の原因になってしまうので慎重に行われていました。
元禄時代に金の含有量を減らして悪改鋳をしていたのを、儒家であり理論家である新井白石が良貨に改鋳しなおしたものとして有名です。
新井白石の理論は誠に清廉潔白で正しいのですが、幕府財政赤字を貨幣改鋳で誤摩化せなくなった分だけ財政は逼迫してしまうので、8月8日に書いたように次に登場する吉宗の享保の改革(政府収入増加・米の増産政策)に連なったのです。
行政府・王様は昔からどこの国でも軍事・景気対策その他支出をより多くしたい傾向がありますが、政府の自制心だけに頼っていたのでは、紙幣・貨幣大量発行によって物価上昇ひいては経済(経世済民=国民生活)が破滅的になりかねません。
そこで、君主・首長の意向に反してでも命がけで、貨幣の悪改鋳を阻止するくらいの気概(武士の魂みたいなもの?)が経済官僚には求められて来た歴史があります。
実際徳川政権内では勘定奉行系はエリートの集まりで、彼らは役人中の役人、武士中の武士という気概があったと思われます。
ちなみに8月9日に紹介した大塩平八郎は、大阪町奉行所与力ですが、彼は陽明学の私塾を開いていてその経世済民の主義主張の赴く所その勢いで決起になったと思われます。
当時(1837年5月1日(天保8年3月27日)既に、主人のために(君主の命令が正しいことであろうがあるまいが)どんなことであれ盲目的に突進して君主のために命を落とすことが武士の美学ではなくなっていて、君主に逆らっても自分が正義と思うところに命を掛けることこそ武士の本懐という思想が成立していたことになります。
大塩平八郎の乱は彼一人が起こしたのではなく当然多くの門弟が賛同して命をかけて参加して起こしたものですから、大したものです。
正義のために命を落とす・・その正義とは何か、国民生活を守ること・・経世済民に変化していたことが分ります。
歴史上いろんな乱を通観してみると、古代の壬申の乱に始まって最後の不平士族の乱・西南の役までありますが、大塩平八郎の乱を除けば私の知る限り自分1党の権力欲のためや私利私欲のための乱が全部です。
これに対して大塩平八郎は、窮民を救うために自分の地位を捨て子供まで参加させて立ち上がったのですから偉大です。
(何回も紹介していますが、忠臣蔵はお家再興・自分たちの求職活動の失敗から決起したものですし、西郷隆盛には私欲がなかったとしても彼を担いだ運動体そのものは不平士族の集まり・・政治をどうしたいと言う政治理念を持たないままの暴発ですから、(熊本城を仮に落とせたとしてもその先何をしたかったか分りません。)結果的に私欲反乱軍となるでしょう)
貨幣制度が始まるとその発行量の調節が経済(国民生活)に及ぼす威力が甚大なものであることを、どこの国でも知るようになります。
その結果、貨幣発行量を決める官僚はその使命の重大さにおののくとともに、おろそかな運用は出来ないと言う使命感が醸成されて来るのは当然です。
洋の東西を問わず昔から貨幣価値を守ることが経済官僚の使命であるとする思想が強くなったのはこうした結果でしょう。
死刑判決を書く裁判官がいい加減な判断を出来ないのと同様に、素人でも裁判員になるとその精神的重みが大変だというのも同じ精神構造です。
近代の経済学においても「貨幣発行調節は慎重(当時は経済刺激策を知りませんので量の拡大は危険という片面的意識だけです)」にと言う精神は、当然の使命として経済官僚に受け継がれて来たものです。

健全財政論3(貨幣価値の維持1)

対外負債としてみれば税でも国債でも同じ効果であっても、借金・・国債となると税収とは違い、返すまでは債権者の意向を無視出来ないところが、権力者とその取り巻きの立場ではまるで違います。
国民主権国家になって政府と国民は理念上は一体化していると言っても、現実に権力行使する側に立つ官僚の意識が多分旧来(近代国家以前)の意識から切り替えが進んでいないのでしょう。
権力の威を借りて権威を保持することを本質とする官僚には、お金の使い道に一々国民の顔色・市場相場を窺わねばならない国債と一旦徴収すれば事実上自由に使える・・箇所付けで権威を振りかざせる税とでは大違いになるのでしょう。
ちなみに、官僚と公務員の違いですが、漢字が違うように元々の成り立ちが違います。
公務員・公僕観念は、国民主権国家成立後の(・・我が国で言えば戦後漸く生まれた)観念ですが、官僚は国民主権成立前から、君主や独裁者等の権力者に直接付き従ってその主人のために忠勤に励む側近・・直臣・お目見え以上の従者の謂いです。
彼らの権限の源泉は、主人の権限・威令に由来し、これに比例するので、仕える相手が君主から総理や大臣に変わっても旧来の意識が変わらないしまた従来の権限を手放したくないのは当然です。
租税法律主義が市民革命の結果決まり、支出については予算制度が出来て予算は国会の議決が必要となっても、ともかく実質的決定権限・官僚がさじ加減する権限を手放さない(ホンの一部に族議員が口はさめる程度)でこれまでやってきました。
対外的デフォルトの危険性に関しては、国債と税収の違いは、国民国家においてはこれまで繰り返し書いて来たように親が息子に生活費を強制的に入れさせる(税収)か借りた(国債)ことにしておくかの違いでしかありません。
親が死ねば息子は親の債務を相続しますが、同時に債権者でもあります。
上記次第で国民主権国家においては、政府が国債で資金源を得ようと税で得ようと国内資金に頼る限り対国外的立場は同じことであるばかりか、国民が政府の主人・オーナーになったのですから、国民からの借金があっても沽券にかかわることもありません。
(オーナー企業の場合、会社の資金需要に対してオーナー個人から増資として追加出資するか会社が借り入れにするかの違いですから、社員にとっては気にしないのが普通です)
国家財政資金が不足しているときにその財源を増税によるか国債によるかは対外経済的には同じですが、国内的には借りていると国民に頭が上がらないのを官僚が嫌がっていると思われますが、民主国家としてはむしろ国民の意向に従うのは良いことではないかと思いますが・・。
この意味で・民意次第である寄付や国債は民主的だと何回も書いていますし、事実上自由に使いたい官僚にとっては(国民こそオーナーとする意識に切り替えの進まない官僚に問題がありますが・・)逆の立場ですから面白くない資金源です。
増税と国債発行のどちらが、景気対策として優れているかの問題とすれば8月5日に書いたように増税よりは国債増発の方が内需拡大効果が大きいことは誰の目にも明らかです。
景気マイナス効果を無視して、ここでマスコミが何故増税路線を推進しようとしているかの疑問です。
景気を冷やしてでも増税しなければならない根拠について、合理的論拠を説明しないで前提事実・ブラックボックス化しているので、推測・憶測するしかありません。
憶測に頼るとすれば官僚の時代(8月7日に書いたように一種の智恵)遅れ(今や世界大企業でも社債等借金で投資している時代です)の財政健全化信仰に、マスコミが迎合しているのではないかと一応推測出来ます。
財政健全化路線の信仰が官僚精神にしみ込んで宗教(合理的検証不要と思い込むように)のようになっているのは、何故でしょうか?
1つには8月8日冒頭に書いたように被支配者から借金していたのでは、権力の威厳・沽券にかかわるという歴史が長く・官僚にはこの意識が骨の髄までしみ込んでいる(国民主権国家に切り替わっているのに)官僚は国民の公僕としての意識切り替えが遅れていることが大きいでしょう。
2つめには、この亜流ですが、税は法律で1回決めればその後何十年でも自動的に徴収出来る・・毎回国民の信を問う必要がない便利なものという観念もあるでしょう。
3つめの要因ですが、国民生活の維持安定のために経済官僚が貨幣価値の維持にも気を配るようになったことが上げられます。
江戸時代に入って、武士が刀槍を振り回す戦闘集団から経済官僚へ脱皮して行く過程で「経世済民」・・国民の生活安定を図ることこそが、自分で見いだした存在意義・・モラールの源泉になったからです。
武士は君命に命を投げ出しても従う関係ですが、元々は古代から続くムラ社会・・血族共同体を守るための自衛組織として発展して来た歴史があります。
君命に従うのもこの郷土防衛に合理的だからであって、元々は支配下領民は自分の一族という意識が濃厚です。
戦時が終わって平和時にると本来守るべきは領民の生活であって君命に従うのはその手段に過ぎなかった本質が現れたと言えます。
天満与力大塩平八郎の決起は、武・・支配地獲得のための戦闘ではなく、国民生活を守るという名分になっていたことを想起しても良いでしょう。
彼は主君のために命を惜しまなかったのではなく、経済=経世済民の実現のために命をかけて主君に反逆したのです。

財政健全化路線1(無借金経営論と知能レベル)

8月6日に書いたとおり、今のところ財政赤字が許容範囲かどうかの合理的な議論をするのに必要な情報開示がありません。
支出に対応して取得した資産がどうなっているかの議論すら全くないまま「大変なことになるのは自明だ」という大合唱ですが、・・情報開示して合理的議論に発展すれば「財政赤字大変論」の矛盾が明らかになるのが分っているのでマスコミはマトモな議論をしないようにしていると思われます。
マスコミが問答無用式の不公正な報道に終始している状態をみると、結局財政赤字論は、日本の経済破綻を心配してのことではないことになります。
マスコミが何のために半端で不公正な報道し続けるのか疑問ですが、財務官僚が信奉している財政健全化論→増税路線を推進しようとする勢力の代弁をしているのでしょうか?
(官僚にとっては財源が寄付→国債→税の順に自由度が高く、うまみがあることをこれまで書いてきました)
ところで、自明のこととされている官僚の信奉する「健全財政論」もそのこと自体何を意味するのかとなると、実は不明な議論です。
支出に対応して形成されている資産をまるで問題にしないで、金銭収支だけ取り出して均衡していることに自己満足する財政健全化論の精神は何に由来するかということです。
お金を使えば対応する有形(自宅を買えば不動産)、無形(ロケットを5〜6回打ち上げればその技術蓄積・・子供の教育投資など)の資産を取得しているのに、これとのバランスで考えないで、単年度の金銭の収支均衡だけをもとめて、もしも金銭収支だけが均衡していればこれで満足する精神構造はどうなっているかということです。
取得する資産を考慮に入れずに、金銭収支のバランスだけ考える健全財政論は、現在一般的である(商売人に限らず一般サラリーマンでも自宅の価値と負債(住宅ローン)のバランスで家計を考えています)バランスシート思考方式からいえば不思議な議論ですから、・・今や官僚特有の一種の宗教(合理的理解を超えたもの)になっていると言えるでしょう。
年収1000万円の人が預貯金1000万円と4000万円の借金で5000万円のマンションを買った場合、その年の金銭収支あるいはその後のローン残高だけみれば大赤字で不健全となりますが、こんな議論をすることの無意味さは、今の時代、誰でも分ることです。
(マンション購入価格が割高だったか・・値下がりしたらショックですが、大きな関心になるべきで、金銭収支だけみて今年は大幅マイナスだとしょげる人はいないでしょう。)
ただし、目の前から現金がなくなれば・・本能的に心細いことは分ります・・そこにマスコミが訴えるので国民が惑わされてしまうのです。
(ただし短期的資金ショートを防ぐために決済準備金の必要性については、2012/08/07「マスコミによる世論誘導の害1(世代対立を煽る愚1)のコラムで検討しました)
財政健全化論とは言い換えれば、不動産を買うにも、子供の教育にも「借金すること自体が悪である」という(バランスシート的思考の未発達な時代の)原始的本能に由来しているように見えます。
2012/07/27「世代対立を煽る愚3」でも書きましたが、人工衛星打ち上げ成功その他・教育設備の整備、次世代への教育投資・公園、道路・その他諸々の公共設備の整備など次世代に残すべく蓄積した資産効果を論じないで、資産形成のために支出したマイナスだけをみて次世代が損だと言っているのですが、これも何事も無借金が良いという原始的意見の焼き直しです。
次世代に借金を残す訳に行かないと言う論法も、国債保有者という債権者も国民である面をみない借金だけをみているのと同じですから、借金そのものが悪いと言う思考形態です。
マスコミの論理立て・・世に言う財政健全化論によれば、政府が次世代のために何もしなければ、(支出が発生しないので)健全な良い政府になります。
子供を大学へやるために借金するよりは、進学させないで無借金の親の方が健全な良い親だと言う論理です。
探査衛星ハヤブサやロケットなど将来の技術蓄積のために打ち上げ費用を借金してまで使うのは、不健全だということでしょう。
以上によれば、財政健全化論とは、原始的主張である結果却ってムード・本能に訴え易いキャッチフレーズですが、内容実質は借金は危険であると言う原始的本能に訴えているに過ぎません。
現在社会では、優良企業も相応の借金で投資している時代・・優良企業かどうかは借金の絶対額を基準にするのではなく、借金の使い道・・投資効率こそが判定の基準にすべき時代です。
金銭収支・・負債の大きさだけに着目する財政健全化論は官僚・政府が投資効率を判定を怠っている・・あるいは判定能力がないことから生じる意見であって、官僚の能力が時代に適応していないことを表しています。
・・今でも知能の低い子供を残して行く親としては、「危ない投資しないでともかくお金を抱え込んでいるのが安全だからね・・」と教え諭すのが基本的生き方でしょう。
大福帳しか知らなかった江戸時代と違い、現在社会で損得をバランスで考えられない・・目に見える紙幣の量でしか考えられない(マイナスになれば訳もなく怖がる)知能レベルと言えば、かなりの低レベル者と言えるでしょう。
投資効率チェック能力が低いことを基準にすれば、借金して儲けようするのは危険ですから、何が何でも無借金経営が良い・・借金で投資してはいけないと言う本能になるのは正しいことですが、世の中殆どの人がバランスシート的経済観で生きている時代・・すなわち平均的能力の時代に、バランスシート的計算に馴染まない知能レベルの人が官僚では困ったものです。
官僚の信奉する財政健全化論は、投資効率を見定めて投資する現在主流の運用環境・・現在的経済観念に官僚がついて行けないことを前提にしているとすれば、今や財務諸表的合理的思考に馴染まない宗教の一種みたいな印象を受けるのです。
ちなみに政府・官僚が投資効率の判定を放棄するとバラマキになりますが、バラマキのために借金をする必要があるかという議論は、財政赤字論とは別に考える余地があり得ます。

マインドコントロール1(人口ボーナス論の誤り1

政府や学者(マスコミ)は現在の不都合・・バブル崩壊後の経済停滞の原因を何もかも少子化に求めて、そこに責任を押し付けて責任転嫁すれば済むと考えているのでしょうか?
誰が考え出したのかこうした考えはここ約20年間マスコミのマインドコントロールによって、何らの検証もないままに少子化が諸悪の根源的考え方が普遍的になっています。
政権が変わっても「少子化を何とかしなくては・・」と言う考えに疑問をもつ人が滅多にいなくなり・・仮にいても「そんなことに税を使うのはおかしいのではないか」と発言できる勇気のある政治家はいない状態です。
最近流行の人口ボーナスやオーナス論は、少子化マイナス論の延長・応用編ですが、これもおかしな議論です。
人口さえあれば成長出来るならば、ずっと昔から巨大な人口を抱える中国やインドでは成長していた筈です・・。
歴史的にみると大き過ぎる人口は社会の重荷になることの方が多かったでしょう。
大分前に書きましたが、地球温暖化(この議論自体インチキだというのが私の年来の意見ですが・・仮に正しいとしてもの話です)や資源問題も原発廃止問題(節電のお願い)も人口が半分〜3分の1になれば簡単に解決します。
技術革新等で(新興国で言えば急激に最新技術が導入されるとその国にとっては急激な技術革新があったのと同じ結果になります・・)労働需要が急激に伸びた場合、それまでの余剰労働力(先進国に比べた大幅な低賃金労働力)が伸びシロになるに過ぎません。
急激な技術革新(即ち現状の高賃金での新たな雇用創出)の期待出来ない先進国や停滞している国(従来のインドや中国/インドネシア等の外、現在でもアフリカ諸国)で余剰労働力・失業者や無業者候補を次々と出産して大量に抱え込んでいても何の意味もありません。
人口ボーナス論によれば不景気になれば人口を増やせば良いことになります。
第二次世界大戦の遠因は明治初期からの人口増政策のツケが回って満州進出で解決を図らざるを得なかった事によると11/12/06「人口政策と第2次大戦9(棄民政策・・満州進出)1(「おしん」の社会的背景2)」前後で書きましたが、人口ボーナス論が正しければ、昭和恐慌による過剰人口を放置して国内で困窮していれば景気が上向いたことになります。
(確かに戦争にはならなかったでしょうが・・・過剰人口・大量失業者を抱えてさえいれば景気が良くなったとは思えません。)
景気回復はあらたな需要・技術革新によって生じるのであって、人口増加政策が景気対策に何の意味もないのは事実に照らして明らかです。
欧州危機の震源地であるギリシャやスペインだって失業者が一杯いる・・すなわち人口ボーナス(余剰労働力)があっても、経済成長出来ている訳ではありません。
労働者を吸収出来る産業装置の有無にかかわらない人口ボーナス論が正しければ、失業者が一杯いる国・失業者が増えれば増えるほど・経済危機国になると同時に、みんな高成長・好景気国でなければならなくなる論理矛盾が生じます。
雇用需要があるのに人口が足りないとその制約で成長が阻害されますが、経済停滞・失業増の時期に人口増加論を何故するのか疑問です。
ドンドン売れているのに在庫が足りずに売れ損なうのは困りますが、現在の出産増奨励策は売れなくなって在庫が溜まる一方(経済停滞状態)のときに、以前ドンドン売れたときの成功体験を思い出して増産産さえすれば売れると増産を命じているようなものです。
経済停滞(売れ行き不振)の原因が少子化(在庫不足)にあるのではなく、停滞している(売れない)から出産=生産抑制・少子化は正しい選択です。
マスコミは自己が吹聴するまちがった論理を基礎的思考方法として国民をマインドコントロールすることによって自己の意見を前提事実化してしまう傾向があり、マスコミ迎合のいろんな学者が無批判にこれを前提にした議論を始めます。
前提化されてしまった思考経路自体に反論したり疑問を呈するとそれだけで「変わり者」としてレッテルを貼られる(自由な言論が封殺される)し、マスコミでは相手されない・・干されてしまう雰囲気です。
今では殆どの学者が人口ボーナス・オーナス論を前提にいろんな論説を書いています。
中国の人口ボーナス期が2010年に終わったからもう駄目だなどと論じる人が多くいます。
しかし、中国経済停滞の始まりは民度のレベルが今の到達した人件費程度しかないならば停滞するでしょうし、もう少し高度な技術を身につけられればもう少し成長するというのが正確で、人口次第ではありません。
(現在中国は急速に伸びた子供の学力が40点程度に達したようなもので今後更に、60〜70点と上がって行く能力がなければ一定の段階で足踏みになります)
彼らの使いこなせる機械レベル・・能力の限界に遭遇したときに停滞するのであって、人口減が停滞の原因ではありません。

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