マイナス利回り6(世代間扶養のまやかし1)

そもそも世代間扶養というマスコミ宣伝からすれば、自分の積み立てたお金をもらうのではないことになりますから、金利想定がマイナスならば納付する気持ちにならないという議論が起きて来ません。
私の年金記録が6ヶ月だけ消えていて、「当時の集金人に使い込まれたのではないか?」と06/24/07「年金分割と受給資格3( 年金の行方不明事件2)」前後のコラムで書いたことがあります。
裁判しているのも面倒なので、「そんな程度のお金なら払うよ」となったときに、30年ほど前の納付金だから、単純な6回分ではなくその間の利息相当分らしき金額を払わされました。
国家公務員共済年金を司法修習生終了時に一時金受領で終了していたことが分って、貰ったお金を返して復活手続きをしたのですが、このときも約30年分ほどのどう言う計算か知らないけれども、利息相当分らしいものを払わされました。
こうした実務から言えば、世代間扶養であるから少子化で赤字になったとマスコミが宣伝しながら、他方で後払いしようとするとその間の利息をとる仕組みになっていることが分ります。
昨日紹介した日経経済教室の続きが今日掲載されていますが、そこでも金利設定5、5%に無理がある・あるいは年金基金とその他の利回りの二重基準が問題とも書かれています。
世代間扶養ならば現役世代に対する金利約束とは自体矛盾してきます。
そもそも国民が自分の将来のために積み立てる意識が基本にあるから、マイナス金利だとイヤになるし、後で遅れた分を払おうとすれば利息をとられても当然だと思うのです。
払う方の意識として遅れた分の利息を払うのに抵抗がないのは、自分の積立金意識があるからではないですか?
世代間扶養でも早くからみんな負担しているのだから、遅れて納付する分得をしているという理由で利息をとるのは矛盾する訳ではありませんが・・。
ただし、この場合運用利益がプラスになることを基本とした考えになりますが、自分で貯めておけないので、母親や国、会社に預かってもらうようになったのが年金制度の基本思想だとすれば、預けるのが遅ければ遅いほど預かってもらう保管料が少なくて済むことになります。
もしも今後ゼロからマイナス金利が普通の時代が来れば、高利回り保障を期待する人が減って来ます。
元々年金制度というものは、老後資金を自分できちっと貯蓄出来ない人の方が多いからこそ、年金制度が構想されて来たのです。
自分で充分な老後資金を蓄えられず「宵越しの銭を持たない」人たちにとっては利息がつかずある程度管理費用が差し引かれても、天引きしてもらって何十年もちびちびと貯めておいて貰った方が老後に助かる人がかなりいる筈です。
子供が働き始めたときに稼いで来たお金をそのまま持たしておくと使ってしまうから、将来のために母親が管理してやるようなことが、私の若い頃には普通に言われていました。
(とは言うものの、当時のマスコミ報道とは違って私の身近で現実に見たことはありません・・現場労務者や、スポーツ芸人関係者だけのことかな?)
母親が息子の稼いで来たお金を管理してやっている代わりに、社内預金や厚生年金や社会保険が発達して母親の役割が減りました。
年金制度は預ける相手を個人(長期の場合、個人では継続性に無理があります)から国や企業(企業年金)に変更しただけのことですから、それで良いのです。
使い込みしない安全性・継続性という意味では、生保年金なども充分な資格がありますから、(資金管理に関する外部監査制度の整備)国民は民間と国営のどちらかを選択出来るようにしたら合理的です。
世代間扶養でない限り、(私は世代間扶養などというまやかし論は全く反対です・物事は自助努力が基本であるべきです)結果的に年金制度は公営である必要がないという意見になります。
この意見は大分前に書いていたのですが、間にいろいろに意見が挟まって今日になっていますが、偶然ですが、今朝の日経朝刊の経済教室にも、似たような意見が書かれています。
世代間扶養であるにもかかわらず、納付しなかった人には年金受給資格がないのもおかしなことです。
こじつければ、親世代の扶養に協力しなかった人は自分も次世代から養ってもらえないという理屈もあるでしょうが、あまりにもこじつけが過ぎます。
やはり自分で納めた人がその見返りを受ける・・納付期間に応じた年金・・納付額に応じた年金と言うことでしょう。
親世代により多く貢献した人だけが(何の血のつながりも生前交流もなかった)次世代から、より多く受けると言う説明はあまりも迂遠で技巧的過ぎます。
世代間扶養説を身近な関係に戻すと、子供のいない単身者でも自分の親に孝行を尽くした人に対しては、周りの人が孤独な老後の面倒を見るべきだと言う関係になりますが、あまりにも関係が遠過ぎておかしな感じがしませんか?
独身者は若い頃に子育ての苦労・巨額出費がなく旅行観劇その他青春を謳歌出来た分、老後は孤独になるのは仕方がない・・ある程度自己責任を覚悟してもらうしかないし彼らもその覚悟で生きています。
独身者は老後困らないように子育ての労力がない分を、友人関係などの他人間関係の構築に振り向ける時間があるし、老後の蓄えをしているのが普通です。
こうした自助努力しない人のために同胞としての助け合い精神として年金を支給するとしたら、それは社会保障の分野ではないでしょうか?

マイナス利回り2(消費信用1)

食費等の純然たる消費信用では借りた資金から利潤・メリットを生み出さないのですから、(種モミを貸せば秋には何倍もの収穫が期待出来ますが、その日その日に食べてしまう食糧として、食用米を貸しても秋に米粒が増えて戻ることはありません)使ってしまった物を満額返すのさえ大変ですから、さらに金利を上乗せして回収するのは無理になります。
投資資金ではなく消費目的の資金を貸す方から見れば、信用のない・・元々返すのには無理のある人に貸すので焦げ付きリスクが高くなることから、市場原理からすればリスクの高い分金利を高くしないとペイしません。
スペインやギリシャ国債の値下がり=金利高騰を見ても分るように、資金の必要に迫られているところは苦しいので高金利を払うどころではないのに、苦しいところに限って高金利になります。
南欧諸国の資金需要は(付加価値を生み出す)新規投資資金需要ではなく、借換債のための資金需要ですから消費信用化していることによります。
消費信用として貸す以上はリターンを求めるのではなく、万物は無価値化するという原理に戻って、社会保障・恩恵的運用・・「元本の何割かだけでも返してくれたら良いですよ」と言う運用が必要です。
市場原理と万物の価値が減少する自然界の原理とは、本質的に矛盾関係になります。
ここ10年近く新自由主義経済悪玉論(負け組を作るな!と言うアッピール)が盛んですが、この主張者の多くは旧社会党系人権運動家に多いことから見ても、弱者の空間に市場原理を持ち込む領域の広がりに危機感を抱いているからかも知れません。
弁護士で言えば消費者系運動家がこの範疇に入るのは、こうした分類をすれば理解可能です。
現在社会は資本主義的利潤追求システムと個人間の情義に基づく(原則無償)システムが共存する社会ですから、どちらに比重をおくか・・その境界移動の激しさに対する反発とも言えます。
里山が荒廃して行き・山奥まで人が進出して熊などの生息域が荒らされ、動物のすみかがなくなりつつあることに対する危機感と似ています。
1994年のアニメ映画「平成狸合戦ポンポコ」を見たことがありますが、人権活動家と里山保全・自然を守れ関連活動家と心情的にかなり重なっているように見えるのは偶然の一致でしょうか?
法の世界ではご存知のように個人間の利潤追求を目的としない社会関係を律するのが民法で、飽くなき利潤追求・・商的世界(会社関連条文が商法から独立して6〜7年前に独立の会社法になりましたが、本籍は商の世界です)を律するのが商法世界です。
民法では委任でも貸金でも特約がない限り無償(無利息)が原則ですが、商の世界では以下に紹介するように特約がなくとも、何かをすれば必ず報酬請求権があり、お金を借りれば金利がつくことが法で決められている、まさに市場経済を前提としています。

商法
(報酬請求権)
第五百十二条  商人がその営業の範囲内において他人のために行為をしたときは、相当な報酬を請求することができる。
(利息請求権)
第五百十三条  商人間において金銭の消費貸借をしたときは、貸主は、法定利息(次条の法定利率による利息をいう。以下同じ。)を請求することができる。
2  商人がその営業の範囲内において他人のために金銭の立替えをしたときは、その立替えの日以後の法定利息を請求することができる。

最近は何もかも商的分野(親子で解決していた介護でさえ他人に頼んで対価を支払う形式が主流です・・介護自体が商行為という意味ではなく対価形式になったという意味で商「的」と書いています)が増えて来て無償行為が減ってきました。
まさに民と商の精神境界・領域が大きく変わりつつあり、民(無償行為)の分野が浸食されて大幅に減りつつある社会と言えます。
平和な江戸時代に商人層が発達しましたが、彼らが最下位で遇されていたように、利潤目的の行為は近代社会になって生まれて来た新たな行動パターンで、我が国の過去の何千年の道徳規準にはない価値観ですので冷遇されていたことになります。
明治以降列強に伍して行くために国家自体が貿易の主体となって(しかも儲けない限り赤字では大変です)行くしかなかったのですから、商(儲け追及)を(幕府もお金の重要性を知っていましたが、飽くまで表向きは重視しない態度でした)正面から重視する価値観に転換されたことになります。
その後150年近くもたっているのに、商・利潤追求行為を蔑む根強い気風があることは今でも変わりません。
我が国では、未だに物造りに対する価値・ウエートの強いことと関連があるかも知れません。
愛情をもっとも期待している介護についてまで対価関係になって来ると(道徳観の違いだけではなく)心に隙間が出来るので、無償のボランティアが発達して来たのはその穴埋め作用でしょう。
東北大震災で無償の助け合い活動が多くの感銘を呼んだのは、失われつつある無償行為への挽歌かも知れません。
今後交際相手のない独身が増えて来て、兄弟姉妹もいない中高年者が増えると完全無償の人間関係が激減して行きます。
ペットを中心にした疑似愛情関係・・人間同士の新たな関係が増えて来るのでしょうが、こればかりはボランティア頼りというわけには行きません。

マイナス利回り1

ちなみに、年金運用利回りは長期で考えればマイナスを予定するくらいが正当・運用としては手堅いところでしょう・・。
明治維新以降ホンの100年あまりほど投資用資金不足時代が続いたのでプラス金利がつくのが原則になっていますが、元々物を貯蔵保存すれば劣化するのが原則です。
明治まではお金持ちは金貨で貯蔵しておく(幕府の御金蔵という言葉がありますが・・)のが普通で、金利など気にしてませんでしたし、欧州ではまだ金志向が強いと言われています。
(食料品の劣化は言うまでもなく、ウランやセシュウムでさえ半減期がありますし、岩石でさえ割れたり欠けたりします。)
貨幣は物を価値化した抽象的なものですから、貨幣に変換された途端に物の価値が増え続ける訳ではありません。
物は置いておいても(減ったり腐ったりすることがあっても)増え続けないのに、物と価値が同一である筈の貨幣だけが利殖(増殖)を続けるとバランスが崩れてきます。
一定周期で貨幣価値を下げてバランスをとる回復運動が、インフレ現象と理解出来ます。
日本や中国が貿易黒字で儲けた分をせっせとアメリカ国債に投資していますが、アメリカは、これを国内インフレの亢進=時々ドルの下落(目減り)で調整しています。
どんなものでも長期保存すれば何割か目減りするくらいの覚悟がいるのが本来で、食料品に限らず工業製品でも、殆どの製品が10年〜20年すれば劣化する・・巨大建造物・・橋梁等も一定期間経過による劣化が問題になる点は変わりません。
その資金利用で新たな生産・・価値を生み出し続ける場合だけ、プラス金利が整合していたに過ぎません。
資金利用で新たな価値を生み出さない場合、物が化体したに過ぎない貨幣価値も物の劣化に合わせてマイナスになるべきです。
置いておけば増え続けること・・利回りがプラスになることを期待するのが普通だったのは、産業革命以降投資資金次第で生産力上昇が期待出来た・・投資資金不足時代が続いた例外現象だったことになります。
新興国ではまだ投資してくれさえすれば、経済が浮上出来る・・これから産業革命が始まるので資金需要が旺盛で・・ベトナムその他が日本からの投資を期待しているのはその例ですし、中国では今でも日本からの投資がなくなると大変なので、強面の一方で日本に対して神経を使っているのはそのせいです。
先進国では既にインフラその他の成熟の結果、投資による生産性上昇余地が乏しくなっていて投資資金が有り余っている・・資金重要が下がっているので、利回りは低下して行くしかなくなっています。
利息については、税の歴史で出挙に関連して02/23/06「出挙から租税と貸し金業(銀行とは?9)」以下で少し書きました。
稲モミが約1年(当時は今の夏を中心とする半年間を1年と言っていたようであることを以前書きました)で何倍にもなるので増えた子の一部を返すという意味から始まったものです。
利子を払うのは上記のとおり生産活動に利用してこそ、生産増加分の分配として意味があります。
消費信用の場合、そのお金は消費するだけですから、満期が来ても借りたお金が増える理由がありません。
何も増えないところに貸せば目減りしかない(物はすべて時間の経過で目減りして行く)筈ですが、逆に金利を付加して返してもらうのは自然の原理に反して無理があります。
このために金利を払うための借り換えの繰り返しで、借金が雪だるま状になって結果的に金利を付加する矛盾が明らかに・・先送りの限界が来たときに踏み倒し・破綻となります。
資金あまり状態の先進国では生産投資向け需要が少なくなってきて、資金需要は不健全な借り手・・すなわち資金繰り(借り換え)目当てや消費信用が中心になって来たのは必然です。
今朝の日経朝刊を第1面トップにトヨタ(今年の収益の中で金融収益が3割・・昨年では車の売上減で8割)その他の自動車業界が収益の何割も金融事業で占めている実態が出ています。
本来の金融機関の融資先が細って国債にシフトしている中で、車販売のローンを手がける業界で大もうけしている様子です。
車の場合、純然たる消費信用と投資資金融資の中間的金融に位置するから儲かっているのでしょう。
生活費の借金と違って、車ローンの場合、事業用もあれば、個人が買う場合でもその分タクシー代やバス・電車賃が節約出来るなどメリット分もあるから金利を付加する意味があります。
住宅ローンもその間それまで払っていた家賃が要らなくなるなどのメリット抱き合わせですから、一定の金利を支払う合理性があります。

年金赤字4(赤字の基礎1)

現在の年金赤字問題は、大きく分けて原因が2種類・・経営ミスと人口減の2種類あると思われます。
人口減の問題も突き詰めれば、以下に書くように経営見通しが大きく狂ったことに帰する・・結局は経営責任の問題と思われます。
先ず経営責任から入って行きましょう。
第1 経営責任
① 長寿化が進み計算(勘定)が合わなくなったことによる大幅赤字
年金受給開始後仮に平均して10〜15年で死亡を前提に設計していたとした場合、平均20〜25年も生きるようになると積立金が約2倍必要・・裏から見れば支給予定額の半分不足になりますから、このままですと大赤字になるのは必定です。
少子化と言っても年金納付年齢層としてみればまだ始まったばかりですから、現在の赤字原因の大方はこれによると見るべきでしょう。
この見通し違いの責任はどこにあるのでしょうか?
民間の年金・生保・損保等で考えれば分りますが、今年は死亡者が予定より多かったから保険金を払わないと言えないし、火事が多かったから火災保険を払わないと言えないのは当然です。
このために支払原資確保のために資金余剰が政策的に厳しく要請されていますし、突発的大事故に備えて再保険等が発達しています。
契約者の方も、25年も掛けて来たのに年金をもらえない年齢で死んだり、貰い始めて数年で死んだから損だ・・掛け金を返せと言えない・・生保で言えば満期まで1回も死ななかったから損だとも言いません。
私などいくつも生命保険に入っていましたが、一回も死なずに掛け損でしたが文句を言ったことがありません。
これが保険の原理です。
逆に長生きし過ぎたからと言って、(私の場合年金では長生きして元をとろうと思っていますが・・)顧客である生保年金等の加入者の責任である筈がありません。
これが国営になると長寿化の責任だ、少子化による加入者減が原因だとマスコミが宣伝し始めて経営責任・見通しの悪さを不問にするマスコミ論調が風靡しているのですから不思議です。
企業年金も同様に予定が狂って困っていますが、これに対してはマスコミはだんまりです。
年金赤字分は企業の負債(本体からの資金投入責任)として財務諸表に影響してきます・・GMが破綻処理で、これを切り離して再生に成功したことについては以前書きました。
最近では日航の再生でも年金の給付基準引き下げが話題になりました。
この部分の赤字は、制度設計した政府や企業年金が責任を持つべき分野(税の投入・・生保や企業年金で言えばこうした場合に備えた準備金や企業本体からの繰り入れや借入などで対処すべき)です。
政府は年金積立金で県営住宅建設資金その他に使って来て資金を蓄積して来なかった付けが回って来たのです。
食いつぶしてしまったのは運用者である政府の責任です。
② 当初の制度設計が、加入者増を前提にしていたのに加入者増が頭打ちどころか減少に転じたことによる資金不足=赤字
これも後に書くように永久に国民が増加し続ける筈がない・・企業年金も従業員数が無限に増え続けるワケがないのですから、増え続ける前提の設計は経営見通しの悪さ・目先の利益を目的にした制度設計に起因しています。
土建業界などでは、加入者減の結果払えなくなって困っていますが、従業員が減少に転じるとは思わなかったという言い訳は、通らないのが普通です。
優良企業でもいつかは、業容縮小・従業員減に見舞われることを覚悟すべきです。
現存する企業の平均寿命を見れば分るとおり、何百年も続く企業が滅多にないだけではなく老舗でも従業員が増え続ける企業などあり得ません。
(古代から続く企業は家業的にやって来たところが主で従業員を増やし続けると企業が続きません)
人口や従業員増加が無限に続く前提で・・年金額を決めることに、大きなミスというより故意責任があったのです。
少子化による加入者減も企業年金赤字と共通ですが、マスコミは少子化の影響と言います。
エルピーダやシャープ等の人員削減を見ても分るとおり、企業は少子化の結果従業員が減っているのではありません。
③ 制度設計当時に比べて積立金の運用利回りが低下して、予定通り支払が出来なくなったことによる赤字
AIJ事件が起きたばかりですが、多くの企業年金・適格年金が利回り低下に苦しんで、高利回り運用を売り込んだ怪しい投資顧問会社に頼った悲劇です。
高利回り社会=インフレ期待・・インフレの連続を期待していたことに誤りがあった・・結局は経営責任の範疇でしょう。
何回も書きますが、インフレ期待とは借金や資金を預かった者にとっては、返すときの貨幣価値が半分〜10分の1になっていれば返すときの負担が半分〜10分の1で済むという狡い発想・一種の詐欺行為です。
制度設計者が長期間の年金積み立て者をへの実質返金・分配額を減らせると思っていたが、うまく行かなかったに過ぎませんから、騙され損なった加入者が責任を取る話ではありません。
(まじめに年金を掛けて来た国民は被害者にならないで済んだだけで、何が悪いの?)
悪巧みをした方が「そんなうまいことは許されないよ・・」と天罰を受けている状態です。
④ 上記の亜流ですが、低成長下で給与アップ(あるいは絶えざる物価上昇)=納付金アップを前提にしたスキームに無理が生じて来たことによる一人当たり納付金の減少による赤字
 (マスコミによるインフレ期待論の基礎ですが、インフレ期待は邪道であることをこれまで連載してきました・・これも見通しの悪さ=経営責任であることは明白でしょう)
韓国・中国その他新興国の成長を見れば明らかなように、高成長は無限に続くものではない・・いつかは、給与アップが緩慢になり最後には停止するのは自明ですから、永久に給与アップが続くことを前提に制度設計すること自体無謀であり、その失敗による設計責任は設計者が負うべきものです。

少子化と年金赤字1

若者には少し苦労させて智恵がつくのを待つのは良いのですが、マスコミのように「次世代が損をしている」と世代間対立を煽っていると、若者は肝腎の工夫・自助努力の方に智恵が行かず不満が先行してしまって前向き解決にならないことを私は心配しています。
年金問題でも次世代が少子化の結果如何にも損するかのような報道が充満していますので、余計若年層の納付率が下がって行きます。
年金問題で次世代が損をする論は、以下のとおり誤りです。
年金赤字問題は、納付金額の減少に根源があります。
資金不足は次世代が納付する資金力が高齢者を扶養するのには不足している点に主たる問題があるのであって、(後に書くように想定外に長寿化したための計算違いもありますが、それは政府の責任です)中高齢者は約束通り納付して来た以上は自分が受け取るべき時期が来れば約束通り受け取る権利があって支払い資金不足は高齢者の責任ではありません。
その原因は、少子高齢化・・納付者数の減少になるからとマスコミが主張しているのですが、果たしてそうでしょうか?
先ず少子化の点から入って行きましょう。
途中で病死や戦闘で死亡する確率が高いと大勢生んでおかないと跡継ぎがゼロになるので一人当たり投資が少なくなっても多く生んでおく危険の分散が必要です。
これはあらゆる種に共通の原理であって弱い魚は膨大な卵を生みますし、強くなればなるほど出産数が減少して行きます。
人間の場合も自分が死ぬまで子供が生き残っている確率が高くなると、数でリスク分散するよりは子供を少なくして集中投資による子供の能力アップ・・親世代よりもランクアップを期待する方が合理的になります。
これが戦国時代が終わって平和な時代が来た江戸時代の少子化への流れの基本構造でした。
少子化への流れは、(子供が途中で死亡する確率が減少した時代には)子供が少ない方が自分の子供をより大事に育てられる・一人当たり投資額(時間・手間を含めて)が大きくなるから・・自分の子供にとって有利な環境になることを願う親心・種の本能に原因があります。
一般的に投資額(心配りも含めて)が大きい方が、より大きな効果が見込めるものです。
子沢山で小学校卒程度までしか育てられず、ある程度育つと(これと言った技術も身につけないまま)直ぐに丁稚奉公に出しているよりは、中学(旧制)高校と少しでもランクアップして世に送り出してやった方が子供にとって有利に決まっています。
小額投資した人が儲けられて大口投資した人が失敗することがたまにありますから、(いくら勉強させようとしても頭が悪くて効果の出ない子供も稀にいますがそれは例外です)集中投資の方が良いとは言い切れないと言う人がいるでしょうが、何らかの成果を期待する以上は(どうせ一定の比率で儲けられるならば)成果が大きい方が良いのです。
少子化の選択は次世代に損をさせるための集中投資ではなく、子供・次世代が有利になるためにと願う親世代が子供の将来を考えてやっていることです。
多産多死型の社会では、子供一人一人の幸福を願うよりは子供一人一人を捨て駒として誰が生き残っても良い程度(これと言った教育・訓練をしていないので一人一人大したことがないとしても、ゼロになるよりは良いという親の都合)の時代であったと言えます。
草花や樹木等が種を撒き散らかしっぱなし・・魚が卵を生みっぱなし等に比べれば、哺乳動物は、子育てに時間を掛け多ことによって、哺乳動物が発展進化したことが分ります。
種の維持・存続発展の歴史をみれば、多産多死を前提に次世代に何の訓練もしない、あるいは少ししかしないよりは、少産少死化によって一人当たり養育・訓練時間をより多くかけることによって次世代のレベルアップを図る方が種の発展に効果があることは明らかです。

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