中国に歴史があるか1

この辺でプロパガンダではない我が国流の客観的歴史に関するスタンスで、現在中国の所在する地域の歴史を(私の歴史観で)見ておきましょう。
現在中国の支配地域・場所には、古くは夏〜殷、周王朝以来いろんな民族がやってきて興亡した場所であると言うだけで、中国という国家自体に何千年も歴史がある訳ではありません。
中国(中華人民共和国)自体は1949年10月1日に建国したばかりで、まだ建国60年を漸く越えたばかりの世界でも最も歴史の浅い新しい国の1つです。
(私の生まれたときどころか小学校入学時にさえ、まだなかった国です)
それまでの約300年間は異民族である女真族→後金→満州族(と順次呼称が変わります)が清朝として支配していた場所です。
ここでのテーマではありませんがついでに一言書いておきますと、中国と我が国の領土問題となるのは、中華人民共和国成立後の支配地域だけのことであって、中国自身が滅ぼした異民族(満州族)が持っていた領土に関して、征服?した中華人民共和国がとやかく言う権利はありません。
満州族に奪われていた領土の回復かと言うと、その前の明朝では今の東北地方・満州の地を支配したことがないのですから、現東北地方に関しては領土回復ではなく新たな征服者に過ぎません。
チベットにいたっては清朝さえも支配さえしていなかったのに、中華人民共和国成立後侵略支配を始めたものです。
清朝に支配地域に関して中華人民共和国が何らかの権利を持っているでしょうか?
中華人民共和国は清朝から禅譲を受けた国ではなく、中華民国が清朝を滅ぼした後に中華民国を追い出して樹立した国ですから、中華民国に滅ぼされた清朝の旧領域について何らの主張する権限もありません。
モンゴル帝国・元が明朝成立後北辺の故地に撤退した後、モンゴル諸族の領域だった(明朝の領域ではありません・・この諸族の中から後金・女進続が興って明を滅ぼして清朝を樹立するのです)女真族以外の諸族はなおモンゴルの故地に割拠(と言っても遊牧生活で移動しているので確たる領域意識がなかったでしょう)したままでした。
その辺に今のモンゴル人民共和国が成立しているのですが、これも中華人民共和国の論理(一旦中国地域を征服した異民族の本国もみんな自分のもの・・)を使えば、モンゴル族が明朝から追い出されたときにその本国も独立国ではなく明朝の支配下に入るべきだったことになる・・だから今のモンゴルも中華人民共和国領土として併呑しても良いことになります。
秀吉が、もしも明朝を倒して支配していた場合、その後明の支配を諦めて日本に引き上げても中国の領土と言われてしまいかねませんでした。(秀吉が明まで行かないで良かった!良かった!)
我が国は尖閣諸島を中華民国からも清朝からも、尖閣諸島を奪ったものではありませんが、奪った奪わないの議論以前に中華人民共和国が成立後にその国が一旦領土とした部分から何も取っていないのは時間軸から見ても明らかです。
後から出来たアメリカ合衆国が、元はインディアンがこの辺にも住んでいたからと言ってカナダや中米地域までの領有を主張するのはおかしなことです。
尖閣諸島を我が国が領土化したときには中華人民共和国はなかったのですから、何故中華人民共和国の領土から盗めるのか、論理矛盾も甚だしい主張となります。
中華人民共和国による尖閣諸島領有の主張は、仮に日本が実力で奪ったというのが正しいとしても、中華人民共和国がの国が出来る前のことですから、今のイタリアが古代ローマ帝国の版図を基準に今のフランスやギリシャやエジプト、トルコ等に侵略されていると主張しているようなことになります。
領土を返すべきかどうかは第二次世界大戦後秩序以降に限るとしても、そもそも中華人民共和国建国前に遡るならば、彼ら中華人民共和国自身が、今の領土を戦後の1949年に武力で中華民国から奪ったものですから(チベット侵攻=併呑も建国後のことです)中華民国やチベットに返すべきでしょう。
一般には、中国の歴史と言うと、黄河及び長江流域に興亡したいろいろな民族による王朝史をいうのですが、(私も正確で端的な表現が難しい・・上記のようにまどろっこしい表現になりますので、そのように便宜表現してきました)現在のイタリアにはなお法王庁が現存しているにも拘らず古代ローマ帝国と全く別ものである・・イタリアの歴史とは言わないのが世界の常識だと言えば分りよいでしょう。
その地域の歴史とそこにある国の歴史と同一視出来るならば、アメリカ合衆国も何千年も前からインディアンがいたので世界でも古い国の1つになります。
アンデスやアステカの古い歴史を持つ地域の国々は、すべて何千年の歴史があると言えることになります。
ここまで言い出したら、その国の歴史、民族の歴史などという概念自体が無意味になります。
客観的なその地域の歴史・・南アメリカ大陸の歴史、北アメリカ大陸の歴史としては意味がありますが・・・。
北アメリカ大陸の氷河期あるいは500年前からの歴史を知って、今のアメリカ人気質を推測する手がかりが得られるでしょうか?
むしろ今のアメリカ人のルーツ・・人口構成(黒人が何万人、ヒスパニック系、ドイツ系何人、フランス系何万人アジア系等々)を知って、それぞれの気質を研究した方が意味があります。

民度3(孔孟の教え1)

民族の資質の違いを見るには、それぞれの歴史がどうであったかを知ることが重要です。
我が国と中韓両国の歴史の違いについて見て行きましょう。
日本では社会構造の変化に合わせて古代から次順位の階層が実権を握って順繰りに権力掌握をして来た繰り返しでしたので、徐々に支配に参加する数が広がり民主的運営の基礎が自然に広がってきました。
企業内で若手が経験を積んで順次、主任、係長、課長、部長、重役社長等になって行くのと同じです。
既成権力の下積み・実務官僚としての経験のある階層に順次権力移転して行くので、政治運営のノウハウが引き継がれ・文化の継続性・・順次的に安定成長してきたことが大きな特徴です。
今回民主党政権の実務能力不足は我が国の政権交代の歴史体験から言えば、異質なものだったことによります。
これに対して中国や韓国・朝鮮半島では専制君主制と異民族支配の繰り返しだったために文化の連続性が弱いというよりはむしろ、断絶が基本でした。
清朝では公文書は満州語と漢語の二重形式でしたが、最重要文書は満州語のみで書かれていて、漢人の中のホンの数人程度しか目に触れられない仕組みだったと言われます。
異民族侵入による王朝交代では王朝が代わる都度別の人種に政権が移るので、前時代の政治経験皆無の状態で新政権での政治が始まります。
比喩的に言えば中国では異民族交代の繰り返しのために前政権時代の文化のうち自分の統治に都合の良い(神髄のようなものは無理で外形的に理解し易い)ところだけをつまみ食い的に利用する戦略的選択が行われてきました。
この繰り返しの結果、被支配者も14日のコラムの最後に書いた「個人行動指針としては目先の打算・支配者の行動指針としては戦略的行動」がこの地域に住む人々の共通価値観・処世術となって来ました。
日本では孔孟の教えは道徳的価値のある良い部分だけ抜き取って国民の個々人の生き方の基本にして来ました。(何事も良い部分だけを学ぶ姿勢が顕著です)
これに対して現中国のある地域で興亡した歴代王朝では、漢の劉邦(高祖)が儒教道徳が統治に都合の良い面があったのでこれを抜き出して、世俗的利用し始めたのが始まりです。
最下層から身を起こした劉邦は儒教的道徳・礼儀に縁遠い人物でしたが、権力を獲得した後に礼儀作法や忠孝の秩序維持にうるさい儒教が統治道具として使えるという進言に応じて、先秦諸子百家のうち儒教を便利な統治道具として採用したものでした。
論語の全体をちょっと見れば分りますが、世俗的処世術問答が中心であって、日本のようにその中のエッセンスを抜き出して、しかも日本流に高尚な視点から解釈し直さない限り、悪く使えば単なるハウツー本でしかありません。
我が国は何事も世界中から輸入しては良いところだけ昇華して日本製にして行く国です。
(スペインのカステラと日本のカステラは内容がまるで違いますし、インドのカレーと日本のカレーも違います)
同じ牛肉を食べるのでも、日本に入ると和牛ステーキとなって高級化します。
仏教は我が国独自に発展を遂げたものですし、(空海以降は日本佛教です・・だからこそ定着出来たのです)孔孟の高度な教えも我が国独自の武士道の価値観を付与して存続して来たものです。
(ちなみに武士道の美学は源平の昔から基礎があって、これに儒教的骨組みを付与したものです)
これに対して中国大陸の人民は「孔孟の教え」など2000年間にわたって政府の統治の道具に都合の良いところだけ強制されて来たに過ぎないという受け取り方・・・支配される方からすれば支配される権力に都合の良い道具でしかありませんでした。
(中国人の多くは今回の激しい対日批判を見ても日本人の大好きな「仁」・・「巧言令色鮮なし仁」などは聞いたことがなかったかも?)
共産中国(伝統的被支配者が逆転して天下を取ったことになりますので)成立後の文化大革命では儒教が最重要な排撃対象になっていたことは記憶に新しいところです。
(後に書いて行きますが、文化大革命に限らず王朝が変わる都度前時代をいつも全面否定するのが中国民族の習性になっているのですから、否定するのを「歴史」と言うのは矛盾ですが・・・悲しい民族性になってしまいました。)

世界平準化後の世界ランキング5(民度1)

中国ではまやかしの統計を毎年積み上げて来た結果、計画どおり(実際の数字ではないので計画どおりになるのはあたり前です)に日本を昨年あたりにGDPが追い越したことにして大満足の状態です。
経済的に豊かになったと思い込んでしまった国民は(本当は国民も実態を知っている筈ですが、都合良く自己満足するために意識を使い分けているのです)自信を持ち過ぎて、直ぐに周辺諸国に対して威張り散らし始めました。
気に入らなければ相手の建物を壊したり反日と叫んで満足しているレベルでは、まだ50年や100年で日本の一般国民レベルに追いつくことは不可能な印象です。
「善人なおもて往生す、いわんや悪人おや!」という有名な言葉がありますが、善悪の区別がつくことがすべての基本です。
善人すなわち善悪の区別のつかない人でも往生出来るし、まして悪を悪と知った上で悪行を働く人はその一段上の人であるから悟りに近いので当然往生出来ると言う親鸞の教えです。
ソクラテスの言う「無知の知の自覚」と同じです。
中国人は、政府が煽動して暴徒に日本商店や工場を壊させることが恥ずかしいことだとすら思い至らず、(善悪の区別さえ付かない)暴虐を尽くすことが自分の優位性を示すことになるとする自信を深めているのですから、何周回かの文化の遅れを露呈しました。
これが庶民レベルではなく、(庶民なら日本でも「やり返せ」という人がいくらでもいます・・)指導者レベル・・政府の煽動による暴動ですし、中国の大手マスコミですら反省することなくこれは「日本が悪いから当然の報い」だとする主張を公式に繰り返しているのですから、大変なものです。
日本の文化レベルから見れば呆れるしかない状態ですから、今後50年〜100年で日本の文化水準に追いつくどころか、1000年単位の時間がかかる可能性がありそうなレベルが分ったので、日本としてはまあひと安心出来たというところでしょうか?
どんな貧しい国でも首都の表通りくらいは綺麗に出来るので、(食うや食わずの北朝鮮でも映像に映る首都は立派なものです)本当の国力水準はどの程度の裏通りまで綺麗になっているかどうかによるのが普通です。
人材で言えば一般の国民レベルが如何に低くても政府首脳は国の顔ですし、マスコミは良識に反したことには(恥ずかしいことだと言う)眉をひそめるくらいは出来るものですが、国を挙げて上から下までそうした視点すらなく大満足している状態を満天下に曝しています。
中国ではトップからマスコミ・文化人に至るまで、みんなそろって世界観が野蛮人/非文明社会の価値観そのままで生きていることを自ら世界に発信してしまいました。
韓国の場合、今になると日本ともめていることが経済的なマイナスが大きくなって来たことから静かになってきました。
両国は目先の打算だけ(・・これを戦略的と表現するのがマスコミの常で、日本には戦略性がないといつも非文明的行動を賞賛していますが・・)で動いている国ですから、行動原理を読み易い単純な国柄です。
韓国マスコミは、竹島上陸直後頃にはマスコミを含めて口を極めて日本批判をしていたことからも分るように、イザとなれば(上層部が率先して)国を挙げて直ぐに野蛮・非文明的価値観そのままになる国民性は中国と良い勝負です。
ネットで言えば2チャンネル的誹謗がいくらあっても、個々人レベルではいろんな人がいても、その国のレベルの問題ではありません。
階層別レベルでのシリーズで書いて来たように、どの国でも精薄から魯鈍級の最下位層までが存在するのが当然です(最下位層をゼロには出来ない)から、民度差は各階層別に占める比率の問題ですし、トップの差によることになります。
トップがどの辺のレベルかは国や組織によって差がありますので、トップ層の品性は国家や組織にとって重要です。

外国人の参政権1

外国人の参政権論議が盛んですが、現在の収入によって所得税等を払っているからと言って、過去の蓄積取り崩しと将来に残す負債に関係する予算とその関連法案に対して彼らが口出しする権利を与えるのは合理的ではありません。
ただし、 October 3, 2012「制限選挙論」に書いたように分野別参政権を認めるべきかも知れません。
一定期間以上居住していれば、その限度で何らかの利害が起きて来る筈ですからその意見表明の権利を認める必要があります。
こう言う視点から、都道府県や市町村政治に関する限度で参政権を認めよという意見が出るのですが、市町村と言っても国家予算同様に市債発行その他財政政策決定・予算審議のある点は同じです。
そのうえ、海外交流の盛んな時代ですから地方政治家も国際政治に大きな影響力を持っています。
東京都知事の石原氏や大阪の橋下氏の言動に大きな注目が集まり国政への影響力が大きく、また文楽への補助金問題、教育の場での国旗掲揚・国歌斉唱問題等政治的分野に対する影響力・政治権限が大きいので、政治単位(地方か国政か)で参政権の可否を決めるのは問題です。
都道府県や市町村などの地方政治か、国政かの基準で区別して外国人参政権の可否を認めるのではなく、上記のように外国人に特に関係のありそうな分野別参政権・・精々個別分野での意見表明権を与えるが限界でしょう。
賃金は能力に応じたものにしておいて、日本での高度な文化的生活を維持するのに賃金では足りないならば、個人で言えば預貯金の利子配当収入や取り崩しで差額を賄うように、国家で言えば、社会保障の充実の結果貿易赤字が進んだ場合には海外からの利子配当所得(国際収支黒字)範囲内で生活費を支給するのが合理的です。
例えば賃金が現在の生活水準を維持するのに安すぎるならば、子育て支援や教育費支援、家賃補助、(公営住宅の充実)鉄道や教育機関への補助金、出産給付金、医療費補助その他での公的支援で賄えばいいのであって企業負担にする必要がありません。
(集中投資ではないし、産業振興には遠いので政治的にはバラまきになりますが、産業の基礎を支える意味では合理的です)
身障者雇用問題も同様の問題があります。
現在は一定人数以上の雇用をしている企業には一定率の障害者の雇用を義務づけていますが、これなども企業に社会保障負担を強制しているようなものですから、こうした負担のない新興国へ逃げる誘因になっています。
(障害者雇用に対する政府支払や解雇回避のための雇用調整助成金制度が今でもありますが、ここでは企業負担部分があるのを問題にしています)
企業は採算の取れる賃金・労働に見合った賃金(労働分配率をどこに置くかを別途充分吟味する必要がありますが・・)までを払えば良いようにすべきです。
政府(国民)がかれらの生活水準を上げたいと思えば、底辺労働者雇用一人あたり10〜15万円補助金を企業に交付するか、個々人に生活保障(障害者年金など)として10〜15万円交付・・あるいはインフラの底上げをすればいいのです。
生活保障が行き過ぎると、共産主義国あるいは公務員の労働意欲低下に類するモラルハザード問題が生じますので、それは別途考察対象として必要ですが(別の機会に書きます)、ここではあるべき賃金だけでの議論をしています。
(現金給付に限らず公共交通費、医療費や教育費出産費、美術館・図書館等公的施設への補助等で生活費を安くする広義のインフラ充実しているのが先進国ですから、給与だけ低額に抑えても外国人がこれらを無償利用出来るのは問題だという視点で1昨日から書いています))
そうすれば新興国並み低賃金になっても労働者の生活水準・結果は同じですから、雇用企業だけの負担ではなく国民全部での負担となります。
出産前後の休暇制度や介護者の休暇制度も同じで、これらを企業負担とするのではただでさえ、新興国との比較高賃金に困っている企業はドンドン海外に逃げてしまうでしょう。
企業が人を雇ってくれるだけでも有り難いのですから、いじめる方向ではなく後押しするくらいの気持ちが必要です。
低賃金化して来たときの差額=生活補助金の財源はどこから?となりますが、給与を上げなくて良ければ、底辺労働分野でも企業活動が活発になって国際収支も改善し、税収が上がります。
あるいは正当な賃金になり、国際競争力回復の結果儲かった企業や株主らに国債を売って資金源にすることが出来ます。
いろんな分野での弱者救済は必要ですが、救済の必要があるかどうかについて政治判断で決める以上は、その資金源は政府負担にすべきです。
政治が経済原理に反した給付水準を決めておきながら政府がその費用を負担せずに企業負担を増やして行き、(高齢者雇用義務づけも同じ視点からの検討が必要です)企業の海外脱出を後押しする政策方向ばかりしていると、その内富を生み出すべき企業がドンドン少なくなってしまう・・ひいては国際収支黒字が維持出来なくなってしまいかねません。
以上、低賃金レベル=低技能労働者の給与をどうするかの議論から最低賃金制度その他政府保障すべきことは政府が負担すべきであって企業に負担させるべきではないという意見を書いてきました。

最低賃金4と外国人労働者1

我が国の人件費の決め方は、労働の対価性が低く生活給的要素が強かったのですが、グローバルな経済競争時代に突入した以上は、純粋な労働対価と民族国家としての助け合い・生活保障部分を峻別して行くべきです。
我が国で賃金を決める基準として労働対価より生活水準維持を強調するようになったのは、意外に歴史が浅いのです。
10月7日、日経朝刊第19面に紹介されている「日本労働関係史」(アンドル・ゴードン氏著)によれば、戦時中(私の想像では満州事変ころからではないでしょうか)に一般国民からの兵士徴用の結果、銃後の生活保障が重視されて生活給が強調されるようになったとあります。
(ちなみにゴードン氏の著作には関係ないですが、企業の厚生年金制度も戦時中に銃後の生活を安定させるために昭和17年に始まったものです)
戦後経済は廃墟からの始まりですから、国家全体が貧しかったのでその思想・習慣がそのまま定着していて、私の若いころの労働運動のキャッチフレーズの中心は「これでは結婚も出来ない」(子供産めない)などという生活保障の主張が中心でした。
本来労働能力に対する対価は(適正な労働分配率によって)対価としてきちんと支払い、それでも「生活出来ない・子供を生むと育てられない」という部分は本来国家が補償すべきものでしたが、戦争経済で国家財政が疲弊していたので民間・企業にその負担を求めるようになったのが始まりです。
その伝統の無批判踏襲で今日に至っているのですが、戦後70年近くも経過したのでこの辺で労働の対価と社会保障を峻別すべきです。
世界第2位の経済大国になっても貧困時代のママ社会保障部分を企業負担にして来たのですが、(障害者の一定率雇用や厚生年金の企業側半額負担もその1例です)世界中で似たような制度があるから(どこの国でも財政赤字は困るのでこのやり方を踏襲しています)と言って、正しいとは限りません。
人材の交流が盛んとなり、外国人底辺労働者が増えて来ると過去何十年にわたる蓄積の取り崩し・利用による社会保障・生活保障部分までを参入して来たばかりの外国人労働者にも保障するのは行き過ぎです。
今後は、正当な労働対価と社会保障部分を峻別して行かないと外国人排斥運動が激しくなりかねません。
外国人排斥運動が起きるようになったのは、インフラ整備や社会保障政策が行き渡って来るとただ乗りに対する不満が出て来るからです。
我が国では昔から稲作=ムラ社会・・灌漑設備等のインフラが充実していたので他所ものに対して冷たかったのは、インフラ瀬尾の進む近代社会の千年単位の先取りだったと言えます。
他所ものを・・簡単にムラの寄り合い仲間に入れなかったのは、社会資本・農道の整備・灌漑設備の新設や維持負担等々を千年単位で先祖代々営々と築いて来た蓄積があったからです。
社会保障政策は個々人の能力不足分を同胞としての一体感もあって民族国家成立後(我が国の場合その前から村落共同体)社会=国家全体で助け合う・その資金は結局は民族が蓄積して来た結果によるものですから、(高齢者の貯蓄取り崩し・年金生活を考えれば分りますが、)過去の蓄積に関与していない外来者が来たばかりで、ある国・領域・場所にいるだけで同じように恩恵を受けるのは狡いと思う人が出て来るのは仕方のないことです。
排外的右翼の主張に大して狭量だと批判していても始まらないので、そう言う批判が起きないように労働の対価と過去の蓄積を利用した同胞間の助け合いである社会保障部分を峻別して行くべきだという考えを書いています。
私は外国人をヤミクモに差別しろという主張ではなく、受けるべきでないメリットは与えるべきではない・・与え過ぎるとそれに対する反感が嵩じて本来受けるべき権利まで迫害する方向に行き過ぎてしまう懸念を書いています。
外国人のただ乗りを放置しているとナチスによるユダヤ人迫害だけではなく、昨年夏だったかノルウエーで青年による銃乱射事件がありましたが、どこでも起き得る危険・・命まで奪う・・根こそぎの反感に行き過ぎてしまう危険があります。
外国人居住者の問題は、労賃に関しては労働の対価部分と生活保障給部分を峻別して外国人には労働対価だけ支払えば良いとすれば解決します。
ただし、これでも生活保障的公共料金・医療費などは実費以下の供給を受けるなど生活保障的給付を外国人が知らず知らずのうちに享受するただ乗りの問題があります。
この分の差額徴収をどうするかも決めないと、税で整備した公衆便所・医療機関等を外国人が何らの負担もしないで使えるのはおかしいとなります。
千葉県弁護士会では会館建設資金・あるいは維持管理費?負担金について、数十年以上負担して来た会員には免除する規則が何年か前に成立しています。
過去の会員が長年積み立てた資金で漸く出来上がった会館を新入会員が無償で使い、維持管理費も長年積み立てて来た会員と平等分担が続いていたのですが、それでは長年積み立てて来て会館建設後数年〜5年程度で隠退する予定の会員と比較して却って不公平になるからです。
同じように外国人労働者には純粋な労働対価しか支払わないだけではなく、出来上がった膨大なインフラを無償で利用するばかりでは不公平です。
建設国債と言う概念をご存知の方が多いと思いますが、各種インフラ整備は借金で賄っていてそれを次世代が負担する仕組みです。
国民はその借金支払を分担しているのに外国人(旅行者等)はその分担をしないままインフラを無償利用しているのは不公平です。
外国人にはインフラ使用料あるいは維持費税を国民一般が負担する所得税や住民税にプラスして徴収したり、保険証のようにカード提示者だけが会員価格としてそれ以外は電車その他のすべての分野で正規料金を払う仕組みにすれば右翼の不満がかなり減るでしょう。
会員制システム・会員割引を国のいろんなシステムに導入するのは、電子機器の発達した現在、それほど困難ではありません。
いろんな弊害もあり得るので今のところ私は必ずしも推奨している訳ではありませんが、例えばの話・・国民総番号制にすれば・全部共通番号になるので、1枚のカードで足りて簡単です。

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