民法改正1

民法の抜本的大改正作業が内田貴元東大教授の努力で進んでいますが、その特徴は判例等で解釈が固まっている細かなルールまで法文に乗せてしまい、素人にも分り易くしようとするものですから、膨大な条文になりそうです。
(まじめに勉強していないので誤りがあるかも知れませんが、結果として膨大な条文になることは多分間違いがないでしょう・・)
新民法改正方向ではあまりにも条文が膨大になり過ぎて却って分り難いのではないかと玄人からすれば言いたくなりますが、この種議論も一種の抵抗勢力と言えるのでしょうか?
「民をして知らしべし」という思想からすれば少しでも分り易くすることは良いことかも知れません。
(ただし、学説判例で決まっている程度ですと柔軟に変化対応出来ますが、法律自体が細かすぎると社会のちょっとした変化がある都度、法律改正が必要になる・・時代変化に対応するのに時間がかかり過ぎる問題があることを7月29日に書きました・・)
今の民法の条文では、そこだけ見ても何のことやらさっぱり分らず、あちこちを総合して、さらに判例等をみないと答えが出て来ない・・法律学の訓練がないと条文だけ見ても訳が分らない仕組みです。
これでは素人にとっては法の意味を理解出来ないままですから、法治国家と言えないのではないかという疑問が生じます。
法治国家とは、国民が法を理解してこれを守るところに意味があるとすればそのとおりでしょう。
そうではなく、国民の代表である議会で制定した範囲のことしか権力行使出来ないようにする・・権力行使制限のために法治国家の思想があるとすれば、庶民全部が法律を理解していなくとも国民代表が理解して法制定に参画・同意していれば良いことになります。
権力の行使が法に違反しているかどうかについては最終的に裁判所が判断してくれる仕組みが今の原理ですから、国民個々人が法の明細を知っている必要はありません。
数日前から書いているように各種分野の規制・規則は専門化が進んでいるので、その職種に関係のない国民がこれを誰でもちょっと見たら分るようにすることにどれだけ意味があるのでしょうか?
原子力発電所の細かな技術基準や放射性治療室入室の規制その他飲食関連の保健衛生ルール・風俗営業法の規制・・建築基準法の鉄骨量やコンクリート等の基準など関係ない人が知っておく必要はありません。
廃棄物を勝手に棄ててはいけないらしいという程度のことを知っていれば良いことです。
業として行なうのに必要な知識を業者が身につけるべきは当然であっても、素人がちらっと見ただけで誰でも分るようになる必要はありません。
消費者はホテルやパチンコ屋、飲食店、航空機搭乗その他行った先の業種が守るべき規制法・マニュアルを知る必要がないし、専門的条項(原発の設計・仕様書に限らず、マンションなどの構造計算書や設計図書など見ても分らないでしょう)を見ても分らなくて当然です。
科学分野だけではなく金融取引のガイドライン等も金融取引に精通したプロ向けに作っているものであって、素人が見たら直ぐに分るものではありません。
一般人が知らないことを前提にクルマの運転免許を取得するには交通法規の専門的知識をテスト科目に入れているし、ボイラーマンその他全て資格試験・廃棄物処理業の許可等はこのような思想で出来上がっています。
建築の場合1級2級の建築士の資格試験があるのもこの原理によります。
これらを法律で決めれば、(その授権による規則・操作手順であってもこれに違反して事故が起きれば刑事罰の対象になる率が高くなります)国民の行動を縛るものだから、細部にわたるまで全て素人にも分るように法律に書けというのは、モーゼの十戒で間に合うような原始的単純社会の復活を望んでいるようなものです。

規制と停滞1

規制・基準を設けるとこの規制に努力して適応した企業にとっては既得権益となるので、参入規制の緩和や技術革新の進行による新たな基準への変更に対しては抵抗勢力になります。
国際競争に負けると心配するグループによる規制緩和大合唱の根拠がここにあります。
(新技術革新について行き、新しいことに挑戦するのは最初の内はいつも少数派ですから、ついて行けない多数企業・関係者は時期尚早と主張するのが普通です・・遅れる人はいつも多数ですから多数意見に従うと社会が停滞します。)
各種ネット申し込みやネット販売、ネット選挙あるいは診療報酬請求の電算化に対して、パソコンを使えない人が可哀想などの擁護論が幅を利かしていて、電算化が大幅に遅れているのはこの範疇です。
およそ「可哀想だ」という論法ほど、非生産的議論がありません。
我が国の場合、規制がブレーキになっているというよりは、ネット社会について行けない弱者が可哀想・・弱者切り捨て論が・その先の言論を封殺してしまっていて、進歩を阻害している傾向が強いように思います。
これから進んで行く方向へ誘導するために早めに軌道修正するか、99%の人が対応してから規則を変えるかの意識の問題です。
我が国では後者の主張が強過ぎて新時代に対応するルール作りが遅くなり過ぎています。
これでは、一旦出来た規制は全ての分野で社会発展のブレーキ役になってしまいかねず・・世界競争から脱落してしまう危機感が募って来ます。
進歩のために規制を大胆に撤廃すると言う極端な主張を採用して、訴訟社会にするか否かの二者択一的議論・・小泉元総理の得意なワンフレーズ型政治になりかねません。
必要なことは極端なブレよりは、これから進むべき方向の議論をしてその方向が決まったら、規制・基準を2〜3通り用意して古い基準でやりたい人はそのままやってもいいが社会の目指す方向の新基準を取り入れた業者には、何らかの優遇措置を設けるなど順次誘導して行く姿勢が必要です。
上記のように守旧的反対論を抑えるには、旧基準と新基準併存方式が有効です。
市の指定管理者選定会委員をやっていますが、ネット申し込みの是非を問うアンケーとに「ネット弱者がどうの」という回答が多いのですが、身体で行って申し込みたい人は今まで通り申し込めばいいのであって(申し込み順ではなく一定期間経過後の抽選です)併存方式ですから、何ら問題がありません。
世の中の複雑化に併せてマニュアルや規制が精密化して行く必要があるとしても、精密化に比例してちょっとした機能変化や技術革新に迅速・柔軟対応出来ないとかえって進歩阻害要因になってしまいます。
民法のように骨子しか書いていなくて細かい運用は判例や学説で補っている場合、社会の変化に百年単位で対応出来ます。
民法は以下のとおり、すでに100年以上たっています。
  民法(明治二十九年四月二十七日法律第八十九号)
  民法第一編第二編第三編別冊ノ通定ム
  此法律施行ノ期日ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム
  明治二十三年法律第二十八号民法財産編財産取得編債権担保編証拠編ハ此法律発布ノ 日ヨリ廃止ス

ルールがあまり細かすぎるとしょっ中規則・ガイドラインの変更が必要で、変更修正能力がない(反対論に気兼ねばかりしている)と日々刻々に変わって行く社会変化に対応出来ず、進歩に対するブレーキ役になってしまいます。
規制があると社会が停滞するのではなく、柔軟適応力が低いことに問題があるだけです。
規制が始めっからなければ変更しなくとも良いと言えて簡単ですが、これまで書いているように社会が複雑化して来ると常識任せではどうにもならないので、原子力発電に限らずいろんな分野で規制をより精密化して行くしかないでしょう。
規制が悪いのではなく、規制を柔軟に修正して行けるような「変更ルール」の研究こそが要請されているのです。

開発独裁と実質非効率1

韓国や中国あるいは後進国では、日本のように充分な根回しなしに唐突な政策発表をしてはあっさり撤回したり、あるいは直ぐに着工・実行など乱暴・・良く言えば政治決断や企業トップ判断が早いですが、その分無駄な投資も多くなっています。
このように社会合意もないし、事前規制の未発達国では、政治形態的には開発独裁という即断即行型の独裁政治(権力の誇示にもなるし・・・先進国で経験済みのプロジェクトの実施ですからある程度問題点が分っている効率性もあります)が適合しています。
GDPの計算上は、無駄な投資でも繰り返せば(後で解体しても)当面GDPを押し上げるし、国内需要が増えるので政府統計としては外観上見栄えが・勢いが良くなります。
中華帝国の栄光復活をローガンとして掲げる中国政府にとっては、目先有効な政策だったでしょう。
目先のGDP押上効果があって赫々たる成果の発表になりますが、後で公害被害問題が起きる・・あるいは不良製品を作り直すなどのマイナス面を隠しているので、言わば損失の先送りをしている粉飾決算みたいなものです。
マイナス面を先送り出来なくなって総合的・象徴的にあらわれて来たのが、公害の深刻化や影の銀行等の金融秩序破綻リスク・暴動の頻発による司法秩序の崩壊現象その他あちこちで噴出して来ました。
マイナス面を先送り・・隠し切れなくなって来たのが、最近の中国経済リスク浮上です。
中国の場合、新幹線事故で明らかなようにいろんな大工事を周到な準備なくして無茶苦茶に実行して、その後に危険となって全面的にやり直すと経済損失が大きくなります。
(企業で考えれば結果的に大損失になることは直ぐに分りますが、それでも毒餃子・毒入りミルクなど何でも目先の利益のためにやる国民性です。)
中国社会全体になるとは規模が大きいので、最後にしわ寄せの来る金融システムその他不都合な部分をヤミに潜らせて5〜6年間結果を隠して来られたのですが、最近では個々の不都合の集積である金融秩序や公害の分野で結果が出て来て隠し切れなくなった状態です。
首都全体を移転するしかないと言う議論が出るほどひどい状態・・公害発生はその象徴ですから、国全体で似たような不良品のオンパレードで先送りして来たのです。
大変な損失現実化がこれから待ったなしの状態ですが、これさえも首都移転等の大工事をすればGDPが前年度比拡大したという自慢の根拠になるのでしょう。
GDP発表と言うマジックでは都合が良いとしても、経済全体で歪みが生じます。
今まではこの無理の穴埋め・帳尻合わせに外国からのヤミ資金を含めた投資資金が使われてきて、一種のマネーロンダリング作用としてシャドウーバンキング(影の銀行)が使われていました。
昨年夏の反日暴動以降ヤミ資金を含めて外資流入が激減してきたので、シャドウーバンキングへの資金流入が細った結果、今年5月以降のシャドウバンキング(影の銀行)の行き詰まりリスクが顕在化して中国発の経済危機発生不安が現実化して来ました。
日経平均で言えば、中国関連株銘柄(日産等)が下押し材料になってアメリカ関連株(トヨタ等)が上昇株と明暗を分けていて、その影響力の割合で日経平均を上げたり下げたりの繰り返しになっています。
この繰り返しの過程で、中国関連株の比重が下がって行く・・結果的に日本経済での中国比重が下がり続けた状態で最後に中国発経済危機になれば、日本の損害が減ります。
(例えば今では、中国関連株が仮に半分あるとした場合、関連株式が3〜4分の1・・もっと進んで10分の1に減ってから危機発生の方がリスクがそれだけ減ります)
韓国や欧州勢が日本や米国からの投資減少の穴埋めに動いているようですから、(穴埋め勢力がなくてこの段階で直ぐに危機発生すると日本は甚大な被害を受けてしまいますので)有り難くお任せしておけば良いでしょう。
周到な事前準備・・悪く言えば規制でがんじがらめになると、新しいことに挑戦し難い弊害が生まれてきますが、これは事前準備・・細かな規制が悪いかどうかの問題ではなく、社会の進歩に応じて規制修正に柔軟対応するか、規制を硬直化させるかの運用能力の問題です。

事前規制と事後審査3(ルール整備と訴訟の減少1)

現行法では、行政への国民の関与については以下条文を紹介しますが、いずれも既に行政が(不作為を含めて)決定した行為を後日争うものばかりです。
(裁判・訴訟制度はすべからくそう言うものです。)
前向き参画の制度がない・・法制度が遅れていることがこれでも分ります。
行政事件訴訟法(昭和三十七年五月十六日法律第百三十九号)
(抗告訴訟)
第三条  この法律において「抗告訴訟」とは、行政庁の公権力の行使に関する不服の訴訟をいう。
(当事者訴訟)
第四条  この法律において「当事者訴訟」とは、当事者間の法律関係を確認し又は形成する処分又は裁決に関する訴訟で法令の規定によりその法律関係の当事者の一方を被告とするもの及び公法上の法律関係に関する確認の訴えその他の公法上の法律関係に関する訴訟をいう。
(民衆訴訟)
第五条  この法律において「民衆訴訟」とは、国又は公共団体の機関の法規に適合しない行為の是正を求める訴訟で、選挙人たる資格その他自己の法律上の利益にかかわらない資格で提起するものをいう。
(機関訴訟)
第六条  この法律において「機関訴訟」とは、国又は公共団体の機関相互間における権限の存否又はその行使に関する紛争についての訴訟をいう。

近年の規制緩和政策に関連して、今後は事前規制ではなく事後に不都合があれば裁判で争う方式にするというのが、新しい思潮であるかの如く宣伝されています。
しかし、何もかも規制をなくして事件が起きてから損害賠償を請求すれば良いというのでは、あまりにも粗雑な社会になって、現実的ではありません。
全て規制をなくすという主張ではないのは当然ですが、規制・・予めのルールが少なければ少ないほど良いという主張を煎じ詰めればの話です。
一定の合理的な細かな規制が前もって存在すればそれを基準にみんな行動すれば済むし、(建築基準や保健衛生基準等々)それに反しているかどうか・・あるいは規制自体の有効性等を争う方が裁判も省エネです。
逆に規制出来るものは出来るだけ微に入り細にわたって出来ている方が合理的です。
交通事故で言えば予めスピードや信号機、一時停止義務,追い越し禁止区間などを細かく規制していれば、どちらが規制に反していた否かの事実の当てはめで過失割合が簡単に決まってきますが、速度規制や一時停止等の規制が決まっていない状態で事故が起きたときに、どちらの過失が大きいか、一々手探りで審査して行く必要が起きて効率が悪くなります。
(信号機がなくて一時停止の標識がない交差点の事故の場合、どちらが優先道路かを決めるために双方の道路幅を測るなどその都度無駄な作業が必要ですが、信号機や一時停止標識があれば簡単に決着がつきます。)
建築紛争でも、素人が鉄筋の量や柱が少なくて危険だと争うには(どの程度なら危険なのかの基準が不明瞭で、その都度いろんな学者の意見・・鑑定等が必要になりますが、鉄骨の使用基準が基準法で決まっていれば、基準法に違反しているか否かだけで簡単に勝負がつきます
その他全ての紛争は予め細かく基準が決まっている方が訴訟社会になっても争点が簡単になります。
事前規制を出来るだけやめて事後規制社会にして行くというスローガンで始まった小泉改革は、本来は時代の進運に反した思想です。
粗雑なアメリカ由来の訴訟社会にするのが正しいというだけで、恰も進んだ考えであるかのように誤ってマスコミが宣伝して来たことになります。
訴訟社会とは、ルールがはっきりない・・作れない低レベル社会に必要になる社会システムであって、進んだ社会ではむしろ例外減少と言うべきです。
高レベル・・日本のように高度な合意のある社会では、基準がきめ細かく分っていればどちらがその基準どおりにやったか否かだけが争点になって専門家がそれほど多く要りません。
事前に細かく基準が決まっていれば、訴訟が少ない社会となります。
基準自体が大雑把でアヤフヤですとリーガルセンスに長けた達人が必要になって、事前の法律相談が必要ですし、裁判をやってみないと分らないので紛争が多くなります。
基準が整備されていても社会の変化によって規則や制度自体の合理性が失われているのに、基準の改定が遅れているときにその狭間で起きた事件だけが、基準の合理性を争って是正を求める裁判になります。
もしも、その訴訟の結果既存のルールが違法と決まれば、直ぐにルールを改めて行くので、それが一種の代表訴訟となって新たなルールになって行く社会になります。
一人一人がバラバラと裁判しなくとも基準自体を誰かが代表して争えば良いので、訴訟がホンの少しで済みます。
我が国では訴訟が少ないのは権利意識が遅れているからだと文化人が言いますが、実際には、むしろ微に要り細にわたって社会的に細かくルールが(明文がないとしても価値観が安定しているので暗黙の合意が成立する社会でした)決まっている社会だったから、これ(常識)に従っていれば良いし、これに反すればムラ社会から相手にされない社会だったからです。
企業内の人間関係あるいは企業間でも暗黙のルールがあって、それに従って交渉等をしているのが普通です。

事前規制と事後審査2

行政で言えば、裁量行為を自由にやらせていてその後にその違法(裁量権の逸脱)を主張して争うことが出来るのが行政訴訟システムです。
実際には(元々裁量の幅があるのですから、これの逸脱までを主張立証しなければなりません)法的にとても困難なことです。
後から争うよりは、行政決定段階で意見を言える・・あるいは民意を反映出来る方が合理的です。
選挙の洗礼を受けていないので、国民代表とは法的に言えませんが、中立的な学識経験者の参加による審議会や審査会が発達し、最近では弁護士が企業や行政庁内部に任用される例が増えてきました。
ある程度原案・・叩き台が出来上がってから審査会・審議会にかかわるよりもその前の段階で弁護士のリーガルセンスを取り込もうとするもので、実質的民意吸収促進策と言えます。
審議会政治よりは更に先に進んだ制度の始まりと言えるでしょう。
今夏修習同期の弁護士から届いた暑中見舞い状を見るとそれまで勤めていた何かの審議会委員を辞めて今は政府の特許関係の規則制定委員として頑張ってると書いてありました。
私も平成の初めころに千葉市で始めて制定する個人情報保護条例制定作業・・条文作成作業に参加したことがあります。
いろんな規則が出来上がる前に草案作成段階で参画して行く方が効率的で且つ合理的です。
各種世界標準の作成でも何でもそうですし、24日ころに参加を始めたばかりのTPP交渉を見ても分るように、あらかた出来上がってから交渉参加するのはとても不利なことです。
我が国の国民レベルが高いので、昔から権限が国司から郡司へ、守護大名から守護代へ、大名から家老クラスへ家老から下級武士へと権力が移り、官庁では局長などよりも課長クラスが最も実務に精通するようになって、次第に権限が下に移って行くことの繰り返しでした。
議会さえ出来れば民主化が完成していると考えるのは、下位階層に順次権限が移って行く習慣のない欧米流の意識です。
我が国の場合、江戸時代から庶民は寺子屋で既に勉強していたように全て庶民まで巻き込んだ意識の高い国ですから、「代表さえ選べば事足れり」という遅れた社会では元々ありません。
議会による会議は形骸化して行って、ドンドン下位組織に移って行く過程が日本政治の現状であり、我が国の庶民レベルの高さから言っても妥当な展開です。
こうした視点から見れば、議会審議の前に審議会等で練り上げられて事実上法案が決まっている状態が、数十年前から続いていましたが、今では審議会にかける前の草案作成段階からプロが参画して行く時代です。
明治以来の基礎法である民法大改正作業については、言い出しっぺ?の内田東大教授がわざわざ辞任して参与かなにかに就職し直して草案作成作業に集中している例がその象徴と言えます。
こうした動きは議会軽視という原理論で解決出来るものではなく、現憲法や法制度が社会進行の実態に数十年前から追い越されてしまっているのに、制度変更が追いつかない結果,実務を担当しているいる社会の方で困ってしまって、実態に合わせて変化し続けていることによるのです。
私はいろいろな審議会等委員会に出ていますが、私の関与している委員会では固定資産評価審査委員会が唯一地方税法に明文で置かれている独立委員会で、その他殆どは直接的な法によるものではなく、行政府が内部機関として自発的に設定(勿論それなりの法律上の順次の委任関係等の根拠がありますが・・・)したものが殆どです。
律令制ではどうにもならなくなって、令外の官として発達した検非違使庁や幕府のようなものでしょうか?
基本的な法制度・枠組みが社会の実態から数十年単位で遅れてしまっているので、こういうことになっているのです。
法制度・パラダイム変革の遅れを正すのが筋なのにこれをせずに、選挙で選ばれた議会の議論が形式化している・・審議会等で事実上全部決めてしまうのは、民主主義を形骸化する鬼っ子だと批判するのは形式的な議論に自己陶酔していることになります。

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