アメリカの神道敵視政策3と政教分離1

アメリカや中韓人民は自分が支配者になればこういうことをやった筈だという空想・・自分の行動原理を基準に、戦時中から戦後に掛けて日本がやってもいないことをやったやったやったと批判するのに躍起ですから却って彼らの心根・・自分がやってきたのかと疑われるようになります。
中韓両民族はアメリカの言い分に便乗して、でっち上げ主張を激しくすればするほど自分の卑しさが浮き彫りになることすら、理解出来ないほど道義心が退化してしまった民族のように見えます。
自分達の非人道的植民地支配を暴かれるのが怖くて、全て日本がやったとありもしない犯罪をなすり付けるのがアメリカや西洋の流儀ですし、強者の論理に乗っかって日本批判をし続けているのが中韓両政府です。
アメリカは残虐な過去の歴史を消せないために、これを薄めるためには日本やナチスがもっと酷いことをしたと宣伝すれば良いと思いついたのではないでしょうか?
それには、万物を慈しみ畏敬する神道の存在・・日本人の和の心が残っているのでは、日本人が植民地で人道的な政治をして来た証拠になり、不都合だったようにみえます。
神道の否定・・政教分離・日本人のモラルバックボーンの否定・破壊し、欧米並みの残虐獰猛・・私利私欲の追及が正しいとする生き方に変えることこそが、戦後日本人を退廃化・レベルダウンさせる基本原理として有効ですので、日本を支配する重要・・根本指針に定めたと思われます。
ポツダム宣言受諾の可否の時点から戦後ずっと国体の護持とこの破壊が戦後政治の基本争点でしたが、国体と言うと古い神格化した日本・・偏狭なナショナリズムの権化みたいに教えられて来ました。
アメリカのすり替え政策に学者が協力したことによって我が国では、自虐史観が横行して来たことになります。
国体の護持は古来からの日本人の心を大切にしようという意味であれば、これをぶっつぶし・日本民族の強固なアイデンティを破壊しようというアメリカの陰謀に組する訳には行きません。
いわゆる政教分離・信教の自由は、相手が絶滅するまで攻撃をやめられない・・際限のない殺し合い・戦争になることから生まれた経験による後付けの智恵(メッキ)であって、これは排他独善的な一神教にこそ必要として生まれた政治原理です。
・・ドイツ宗教(30年)戦争では人口が3分の1にまで減ったとも言われています・・。
政教分離が必要と言っても、その政治思想が生まれた経緯から見れば、宗教論で激しく争い相手の宗教を絶滅させることに政府や軍が関与してはいけないと言うことに気が付いたのが本旨でしょう。
政教分離が西洋で重視されるようになったのは、排他的闘争が行けないことに気が付いたからであって、そもそも我が国のように万物同等の価値観の国では縄文時代から克服して来た智恵です。
この辺は無制限に弱者をいたぶる西洋その他の国で修正のために生まれた人権思想よりも前・・万年単位で日本では、そもそも強者が何をしても良いと言う論理が許されない社会が成立しています。
お金持ちがいくら贅沢をしても勝手というのではなく、権力者も質素な生活しかしていない点も思想の根拠が同根ですが、幕末日本を訪れた外国人が一様に驚いているとおりです。
神社仏閣の前で公人が手を合わすこと程度まで、禁止するようなものではありません。
そもそもアメリカ大統領自身が、大統領宣誓式でキリスト教方式の宣誓をしているのがテレビ報道されています。
他方で戦後日本では神社へ奉納する数百円の真榊料でさえ憲法違反かどうかが大問題になり,閣僚が参拝すると公人か私人かが厳しくマスコミで問題にされます。
佛教関係に比べて神道だけ特に厳しく問題にされて来たのは、今にして思えば異常な感じですが、アメリカの神道・・日本の善良な心の根絶・破壊目的だったのではないかとうがち過ぎてみれば理解可能です。
アメリカの真意・意向をうけた知識人やマスコミ人が、こぞって自虐史観を宣伝することによって善良な日本精神破壊し・・欧米・中韓並みに私利私欲に邁進する社会(市場原理の徹底)の実現に精出して来たのが戦後政治だったようです。

アメリカの戦争犯罪と神道敵視政策1

以下20年ごとの遷宮年の参拝者数の比較を見て行きましょう。
昭和48年の遷宮では内宮504万対外宮484万の比率に開き、平成5年では552万対285万ですから、その比率が開く一方でした。
ちなみに今回の遷宮で外宮にお参りする人の比率が平成5年よりも増えた(平成25年10月12日現在では636万対363万)のは、外宮に遷宮館という最新式の資料館が出来ていることと、内外連絡用の臨時バスが発達して両方のお参りが便利になったこと・・一般人にも外宮の存在が多く知られるようになったこと等によります。 
どの業界も凝り固まったコアの信者・ファンは重要ですが、はっきりした教義がある訳ではない・・八百万の神を畏敬し万物を慈しむ・・絆(きずな)中心の日本人の心・・神道にとっては、無意識の共感の広がりこそが他の集団・業界に比べてとりわけ重要です。
あらゆる産業やイベント、党派維持にとっても同じかも知れませんが、一見逆説的ですが、プロ信者でない一般人の支えが教義のはっきりしない神道の維持には特に重要です。
周辺的参拝者・・内宮のみの比率が増えて来て、順次外宮その他(いろんな社・やしろがあります)まで足を伸ばすコアに近い信者が増えて行く方が、社会全体としては、健全な広がりを持って来たと言えます。
米軍は戦争責任を神道に押し付けたのですが、神道は八百万の神々を尊重するというだけで元々キリスト教のような過激な教義は一切ないどころか、政敵の神々も大事にする思想と言うか習俗ですから、戦争責任を押し付ける事自体論理矛盾になります。

国家神道神社神道ニ対スル政府ノ保証支援保全監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件
      (昭和二十年十二月十五日 連合国最高司令部日本国政府宛覚書)
一 国家指定の宗教乃至祭式に対する信仰或は信仰告白の(直接的或は間接的)強制より日本国民を解放する為に戦争犯罪敗北、苦悩、困窮及び現在の悲惨なる状態を招来せる「イデオロギー」に対する強制的財政援助より生ずる日本国民の経済的負担を取り除く為に神道の教理並に信仰を歪曲して日本国民を欺き侵略戦争へ誘導する為に意図された軍国主義的並に過激なる国家主義的宜伝に利用するが如きことの再び起ることを防止する為に再教育に依つて国民生活を更新し永久の平和及び民主主義の理想に基礎を置く新日本建設を実現せしむる計画に対して日本国民を援助する為に茲に左の指令を発す
以下省略

敢えて言えば、西洋流の思想・・異教徒・異民族に対してはどんな非人道行為も許される・・しかも現にやって来た・・自然を征服するという身勝手な論理の対極にあるのが神道精神です。
日本軍が東南アジア支配下人民に対し仁慈の政治を布いて来たことも、西洋式植民地の支配方式の対極でした。
キリスト教徒にとってはこの違いの大きさに愕然としたから・・折角日本をアジア植民から追い出した後に、英蘭仏等が植民地を復活しても再度統治し切れないと悟ったでしょう。
・・何とかして日本は酷い国だ・・その基礎になる神道を邪悪なものと定義付けたかったように思えます。
日本式道義心の広がりに対する恐怖心・・これが戦後一貫した日本の戦争責任の追及・・如何に日本軍は人類の敵であったかの虚偽・悪戦伝に努めるようになった基礎意識になっていたように思われます。
しかし実際に日本は中韓だけではなく、南洋諸島や東南アジアで広範囲に支配して仁慈を施した実績がありますので、その植民地復活後現地人民に対して欧米が如何に虚偽教育しても、この虚偽宣伝を受け売りする民族は中韓を除いてありませんでした。
中韓両政府は歴代は統治能力が著しく欠如していたためにこれでは日本統治に時代の方が良かったという怨嗟の声が満ち満ちてきたので、アメリカのデマ教育に便乗することにしたのです。
東南アジアでは日本軍統治時代に軍事訓練を受けた兵隊が戦後復活した英(マレー半島やビルマ)蘭(インドネシア)仏(インドシナ半島)等の植民地軍に対する独立戦争に立ち上がったので、当然欧米のの酷い・非人道政治がテーマになり、日本軍の方が酷かったという宣伝はたち消えてしまいました。
実際、インドネシアのスカルノ大統領やマレーシアのラーマン首相、リクアンユー等々指導者がちゃんと国内統治実績を残せる国が多かったことも影響しています。
日本は各地で教育や職業訓練に精出しただけではなく、現地人に武器を持たせて自立するように応援していました。
勿論朝鮮人も訓練していて、現朴大統領の父親は日本の士官学校を出て将校として徴兵されて来た日本人兵士を指揮していたくらいです。
欧米植民地では現地人教育を一切せずに無知蒙昧なままにしていたし、何らの武器も持たせず、圧倒的格差を見せつけて支配して来たのが西洋植民地政策でした。
この辺の経緯はシンガポール建国者リー・クアンユーの「私の履歴書」(日経新聞)に詳しく書かれています。
現地人に軍事訓練して武器を持たせていた国がどこにあるでしょうか?
日本は国内の大学整備を中断して・・大阪大学よりも先に朝鮮に京城帝国大学を設立していることを以前紹介しました。
このような自国同様の教育・・国内以上の教育投資・・そこには圧迫して支配し半永久的に隷属させようとする気持ちなどなかったことが明らかです。

日本人の心=日本教1(伊勢神宮1)

伊勢神宮参拝の話に戻ります。
私が30年ほど前に家族でお参りしたときには、寒いときでもあり人影もまばらで正宮付近には見渡す限り私たち家族だけの森閑としたものでしたが、今年の9月末に鳥羽で2泊して外宮から順にお参りしたときにはウイークデイにもかかわらず駅構内並みの雑踏でした。
私は郊外の森の散歩などが好きですから、雑踏の雰囲気は元々好きではありませんので今回は仕事を休んでウイークデイにしたのですが、平成に入ってから国民の神道回帰が進んでいる印象を受けました。
正確には戦後右肩上がりで推移していたのですが,平成に入ってから水面下を超えたので目立つようになったと言うべきでしょうか?
日本人は無宗教と言いますが、キリスト教のような非合理な教えには承服出来ないというだけです。
日本教と言うか日本人の基本姿勢は人智の及ばないのがこの世の基本であって、人智の及ぶ範囲はホンの僅かであると言う謙虚な姿勢です。
分らないのが基本であるから,自分以外のもの・・動植物含めて全て対する畏敬の念・・どんな動物も植物も人間同様に大切にする・・欧米のように万物の霊長・・山を征服するなどという観念はありません。
ましてや人間同士においてはタマタマ今自分が優位にあるからと言って、相手をいくらでも動物並み以下に貶めて良いという意識がおきません。
中国の歴史では勝てば相手に何をしても良いという無茶苦茶なおぞましい歴史のオンパレードですし、アメリカも動物と同視する奴隷制度やペスト菌を塗った毛布などバラ撒いて抵抗力のないインディアンをほぼ絶滅させた・・その残酷さは良く知られているところです。
アメリカに限らずマヤ文明やアステカ文明を滅ぼして殆ど跡形もなくしてしまったのも西洋人です。
我が民族にはそう言う歴史がなくどんな人でも動物でも家族同様に大事にする習性・・これこそが日本の和の心・・神道の基礎でしょう。
どこにも神がいまします・・八百万の神と言い、どこでも手を合わすのは、あらゆるものに畏敬の念を抱くからそうなるのです。
戦争に勝った相手の神も敬う心でやってきました。
あらゆるものがみな同じく尊敬の対象になる日本の社会で「和の心」が重視されるのは必然です。
これに対し日本以外の社会では異教徒かどうか同人種間でもエリートか否かの差別化が好きですから、(上層階級は働かないなど)そこには相手をそのまま受入れる方向よりは差別化→敵意が基本となります。
聖徳太子の言う「和」の心を随ではトンと理解出来なかったので、これを「倭」の国と貶めて呼称するようになったのでしょうか。
出土している「漢の倭の奴の国王」の金印は後漢時代ですから、聖徳太子よりはずっと古いので「和」を基本にする精神は聖徳太子よりもずっと前からの日本列島の基本ルールであったことによります。
私は元々和の精神は縄文時代からの精神だという意見ですが、これを対外的にも日本列島にいる人たちの特徴としていつから知られるようになっていたかのかまでは分りません。
縄文人と弥生人の争いを前提にした解釈が一般でしたが、(騎馬民族説もこの一種です)最近の研究では一定期間経過で折り合って、平和併存・・一緒に住むようになって行った様子が出て来ています。
政治的動機で作られた日本書記や古事記とは違う・・民衆の心を編纂した万葉集を見ても,諸外国に多い英雄を讃える詩文等とは違い、今の日本人同様の温かい「和」の心で満たされています。
日本では古来からの経験で渡来人がきて最新技術でも何でも入って来ると、そのまま懐深く受入れて従来の生き方と融合して行く智恵になっているのです。
佛教伝来や唐の律令制の導入や明治の和魂洋才(その間に鉄砲その他多種多様な文化の伝来を吸収してきました)もその応用でした。

マスコミの中立性5

伊勢神宮参拝の実数は別として合計数字での比較をみると、15日に紹介した新聞記事では2010年の合計883万人が1896年統計開始以来過去最高というのですから、今年末までの数ヶ月の合計を足すと大幅に増えていることは明らかです。
(必ずしも単純平均出来ないとしても、月平均約100万とすれば今後年末までに250万程度増えます)
ただ、遷宮は数日だけ行なうのではなく年単位で行事が積み重なるので次第に参詣者が増える傾向がありますから、比較するならば前回遷宮時の数字との比較こそが日本人の心の変遷を知るには意味があるでしょう。
マスコミは、遷宮に向けて盛り上がって来た直近の大きな数字を出して「そんなに増えていないよ」という意味を印象づけたいのでしょうか?
仮に2010年と比較するとしても、比較するならば1年間の集計と今年10月12日までの集計とを比較するのではなく、(残りまだ2ヶ月と19日間もあります)2010年の同時期までの数字と比較するべきです。
敢えて違った期間のしかも今回の遷宮に向けて盛り上がって来た途中の最大数字を比較記事に載せるのは、如何にも今回の伸び率を小さく見せたいような作為・意図が(うがってみれば)感じられます。
うがち過ぎの批判を恐れて誰も口出ししないことを良いことにして、この種の見出しや大きな文字と内容との違いが多く見かけられるのが、近年のマスコミの特徴です。
こうした繰り返しが近年マスコミが信用をなくしている大きな原因となっています。
名誉毀損等の裁判では「記事を良く読めば分る筈」と言うことで敗訴になっている事例が多いのですが、マスコミや週刊誌の場合見出しや囲み記事で多くの人は印象的影響を受ける実態を裁判所が理解していないようです。
裁判官は頭が良過ぎるのではないでしょうか?
裁判官の論理では,どんな誇大広告・紛らわしい広告も小さな文字まで良く読み前後比較すれば内容が分るから許されるかのような理屈になります。
日系記事で言えば最初の方で10月12日午後2時までと書いてあるので1年分ではないと分ることになりますが、最後の方で2010年の数字との比較を乗せると、比較期間の違いをうっかり見落とすことになり兼ねません。
そのうえ、比較する期間が違うじゃない?と疑問に思っている私の場合でも、後になれば、日割り計算し直した数字など忘れて1000万と8百何十万という大雑把な数字の印象だけが記憶に残ってしまう傾向があります。
この後で書きますが、伊勢市のネットで見ると月別の集計が乗っていますので(多分日経新聞は10年の数字もこれで確認したと思いますが・・)10年と比較するならば年間数字ではなく、10月までの数字と比較した記事にするのは容易だった筈です。
消費税増税決断の可否が大きな関心事になっている直前の報道で目立ったのは,内容を読むとマスコミ取材による「読み・予想・マスコミの期待」を書いているに過ぎないと解釈出来るものが多いのですが、見出しでは「決定」「決定へ」と如何にも決まったかのような報道が多く見られました。
マスコミが意見を言いたいならば意見として書くべきなのに、まず見出しで一定の方向付けをしたがる傾向があり、最近ではいろんな分野で殆ど中立の報道ではなくなっています。
庶民に限らず政治家も経済評論家も負け犬になりたくないので、大勢の赴くところにつきたい心理で行動し、流れに沿うような意見を予め言う評論家が大多数です。
(消費税に反対していた論者たちは、消費税が実施決定されてしまうと発言にイキオイがなくなりますし、何となく恥をかいたような気がするので・・多くの人は大勢の赴く方向に前もってつきたがります。)
前もって一定の方向へ決定という情報が毎日のように流れると、その影響力・・世論形成力は半端ではありません。
マスコミには中立性が要請されていることと、その法規制については11/12/04(2004年の意味です)「マスコミの中立4(サブリミナル効果)(国家警察と自治体警察・・・地方自治の本旨)憲法96」前後で連載したことがあります。
今回はその続きになります。
マスコミに中立性が要請されるのは理の当然ですが、中立概念・範囲はあやふやですのでそれなりの内部的倫理綱領があるのでしょう。

非賢人政治1

韓国の移民戦略・策謀の結果、最近では韓国系市民の多いアメリカ西海岸の都市で日本の寄付した日本庭園入り口に慰安婦の像を設置されてしまいました。
アメリカの善意を信じていて戦前大失敗しましたし、上記のような移民戦略の動きもあるので、アメリカ人の善意を信じて安閑としていると、日本はまた中国や韓国の謀略にやられてしまう危険があります。
2013/08/31「韓国民の行動様式12(虎の威を借る狐5)」,まで連載して来たトラの威を借る狐から、トラの意思決定に参画しようとしているのが、戦前からの中国の謀略・基本政策であり、今の中韓両国政府です。
今度こそ苦汁をなめないように、中韓の策謀のすごさとアメリカの善意の正体を見誤らないようにする必要があります。
道義の高さでは負けないといくら自慢していても、中韓両国の宣伝活動の結果、逆に日本が道義のない国と決めつけられることになります。
アメリカの善意は、2012/12/05「民主主義と正義12(政治資金3)」や2013/09/13「アメリカの政治2(ロビー活動とマスコミ利用2)」 前後で書いたように、関係国の働きかけ・・ロビー活動の強弱やハニートラップその他不正ルート次第でどうにでも変わって行く弱いものです。
(我が国政治家や役人あるいは企業経営者も同じ状態に陥っている可能性が高いことをこれまで書いて来ましたが・・。)
国民一般で見れば我が国もアメリカもどちらかと言えば道義心の確かな人・高潔な人は接待や広告などしたくない人が殆どですが、こうした働きかけを積極的にするのは、スジ悪の人やグループの方が積極的傾向があると一般的に言えるでしょう。
広告と言うとアクセス障害をなくすために必要だとかいろんなもっともらしい議論が出て来て分り難いですが、「自慢する人って?」「相手の悪口を陰で吹き込む人って?」親しくなりたい人ですか?と問えば、答えは簡潔です。
接待ばかりしたがる人って好きですか?
接待ばかりされて良い気になっている人って好きですか?
政治家に近づいて来る人物はそれなりの目的がある・・友人としては、望ましくないタイプが原則です。
政治家にとってはギブアンドテイクの関係が重要ですので、下心のある人物の方が却って役に立ちます。
話題が横へ飛びますが,スパイは相手に信頼されないと良い情報をとれないので,有能なスパイほどイザとなれば二重スパイの汚名を着せられて始末される弱みを握られていることになります。
相手に8の情報を与えて10の情報をとる・・8の情報を10の価値があると思わせて10の情報をとるなどが有能な諜報員ですから、・・ときには相手から8の情報を貰って10の情報を与えて,相手にもたまに良い思いをさせる必要がある・・この繰り返しで人脈を築いています。
この結果、自分が餌として漏らした情報を証拠としてにぎられていますので、何らかの権力争いの種に使われたらおしまいです。
政治家も同様でやったり貰ったりの繰り返しですから、落ち目になると過去に協力した何が政敵に利用されて暴露されるか知れません。
政治家をやっていると社会の良識から言えば交際しない方が良いような人物が、政治家にとって日常的に接触する階層になって行きます。
この結果、アメリカ・・に始まって我が国でもそうですが、先進民主主義国の政治には、道義心のしっかりした普通の国民は政治に近づかない・近づきたくない傾向になってきました。
政治家の人望がなくなるのに比例して、(変な人の)働きかけ次第で政治を行なうのを気にしない人材ばかりが政治家になって行き、結果的にサイレントマジョリテイーの意向が無視され、変なスジ悪の人やグループの意向が通り易い国となります。
衆愚政治とはレベルの低い国民の声に従う危惧を言うものですが、ココで書いているのは国民レベルが高くても政治家レベルが卑しくなる一方でこのリスクが高まります。
指導者任せ・代議制の場合ココに食い込みさえすれば良いのでこのリスクが高く、中韓等は専制政治下の讒言等の権力闘争経験が豊富なのでココへの働きかけに成功して来た・・経済で言えば言わば政商・財閥が活躍する社会です。

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