民主主義とは?1

ココでは民主的手続きによるか否かの違いがあるものの、多数派→権力さえ握れば(本質的正義に反しても)何をしても良いという無価値社会の批判・・日本流に「どんな権力者もお天道様に反することは許されないことがあるのじゃないか?」と言う疑問をもたない米中韓社会の共通性を書いています。
ところで民主的という意味は何でしょうか?
民意によると言えば、混乱を統一するのに成功した創業者・王朝の始祖も、そのときの多くの勢力の支持・・民意によるのではないでしょうか?
源平の争いに決着を付けたのも、足利尊氏も家康も結局はより多くの地方豪族(大小名)による支持を受けて政権獲得出来たものです。
数百人の兵力を動員出来る地方大豪族も、これを構成している数人〜数十人規模の小規模単位の多くの支持で成り立っています。
頼朝も、足利氏も自力で天下統一出来たのではなく、多くの豪族・武力集団の支持を集めたからですし,徳川家康も多くの支持者を集めて関ヶ原の合戦に臨んだのです。
漢楚の攻防で強い方の項羽が負けて、弱い方の劉邦が勝ったのも、民意・・どちらがより多くの集団支持を受けられたかによります。
いつの世にも権力はときの民意(多くの支持を集めた方が勝ち残る)によって成立していることが分ります。
民意獲得方法・・民主主義「的」か否かの基準が、普通選挙によるか否かだけであるとすれば、如何にも皮相的です。
地方豪族(大小名)の多くから支持を受けて天下統一に成功して創業君主になるのと、大統領選挙によるのとでは民意反映の直接性に相違があるだけです。
選挙制度が豪族・名門出身ではなくとも一定年齢以上であれば誰でも立候補出来るし投票権があるという形式があるものの、実際には一定組織の推薦・支持がないと立候補しても選挙にならないのが実情です。
我々日弁連の会長選挙には誰でも立候補出来ますが、実際には組織的支持があって立候補するのが普通であって、個人的思いつきで立候補しても恥をかくだけ終わります。
小選挙区の衆議院選挙でも同じです。
選挙制度は出自が豪族や地元有力者という家柄にこだわらないだけで、小単位から順次積み上げた支持・推薦がものを言う点は同じです。
直接選挙制と言われるアメリカ大統領も選挙人獲得による間接的選挙ですし,法の制定は議会=間接民主主義ですので、今や地方豪族・地方代表を民意・選挙で選んでいるかどうかの違いになります。
投票者の立場から見ても制限選挙に比べて普通選挙になると有権者が候補者を直接知らないことから判断基準がないので、古くは候補者を直接知っている有力者の意見/どんな人かの説明に従って支持を決めることが多かったので、結果的に有力者による制限選挙と効果に大差ありませんでした。
今でも自民党公認・・そのまた下位集団の医師会や農業団体推薦等々)等の強固な組織の支持表明で、大方の帰すうが決まるのが普通ですが、(革新系の場合連合や参加組合の支持)これなど戦国時代に上杉や織田信秀など各地域内の覇権争いに勝ち抜くには、地域内の豪族・小名の支持をどれだけ取り付けるかで勝敗が決まったのと本質が変わりません。
自由な投票行為が保障されていると言っても、せいぜい地元有力者や組織の機関決定に反感を持っている人が、組織の特定候補支持表明にかかわらず反対票を投じたり棄権出来る程度の自由が保障されるホンの僅かな例外的意味しかなかったことになります。
都市化が進み,大衆社会化が進むと都市住民は有力者との関係自体がなくなっているので、候補者に関する情報提供機能をマスコミが代わって果たすようになって来た結果、マスコミの宣伝戦(資金力)によって(選挙区が大きくなればなるほど)当落の影響を受ける時代になりました。
都知事選挙のような大きな選挙になると有権者の殆どが候補者と直接あったことがない・・マスコミによる露出の仕方・・中立を装った巧妙なマイナス宣伝または持ち上げ宣伝に左右されると言っても過言ではありません。
高度成長期ころからスポーツや俳優スター人気はマスコミの作り上げた虚像であると良く言われていましたが、政治家も実は同じです。
これが一気に露呈したのが、覚せい剤事件で世間を騒がした酒井法子の事件です。
彼女が清純派で裁判所の広告にまで使われていたのですから世間が驚きました。
この選挙パターンの普及が、マスメデイアが事実上の影響力・・政治権力を握るようになって来た源泉です。

愛国心と軍国主義1

今回のシリアへの軍事介入決断直前にオバマ大統領が議会の意見によって決めるようなことを言い出したので、グズグズになってしまったのですが,12日に紹介した戦争権限法が制定されていても、戦争開始に当たっては、事前説明が求められるだけで議会の同意まで要求されていません。
法で求められていないことまでオバマが言い出したので、やる気がないとなってグズグズになってしまったのです。
一定期間内に議会承認を得られる自信がなかったから・・とも言えますが、過去には兎も角対外戦争が始まった以上は一致団結して軍事行動を後押ししようとする雰囲気が一杯の国でしたから、やってしまえば何とかなる・・むしろ支持率が急激に上昇するのが普通でした。
今回のシリア介入には,やってしまいさえすれば支持率上昇とは行かないようなもっと根深い反対論があったからでしょう。
オバマのように議会の顔色を窺うのが普通になって大統領の一存で好きなように戦争出来なくなると、元々行政は議会が決めることですし大統領が政治決断すべき仕事はなくなります。
息子ブッシュはイラク攻撃やアフガン攻撃を命じましたが、彼は軍事そのものには何の能力もないので実際の権限は軍司令官に移ってしまいます。
その後は何の仕事もありません。
以下は2月12日現在のウイキペデイアのブッシュに関する記事です。
これによれば、戦争さえ始めれば支持率が急上昇するアメリカ国民気質・実態が分ります。
ベトナム戦争のように大義のない戦争でもやっている以上は、協力しないと非国民になるような雰囲気の国で、反対論を言えなくなるようです。
来歴
大統領の第1期目は、ほとんどを対外戦争に費やした。アメリカ史上最も接戦となった選挙戦を勝利し・・・不正選挙を行ったと主張する意見もある)ゴア陣営が抗議したため、発足当初の国民支持率は低迷していた。
任期9か月目の9月11日、ニューヨークとワシントンD.C.で同時多発テロが発生。三日後の9月14日に世界貿易センタービル跡地(いわゆるグラウンド・ゼロ)を見舞い[49]、救助作業に当たる消防隊員や警察官らを拡声器で激励してリーダーシップを発揮し、一時は歴代トップだった湾岸戦争開戦時のジョージ・H・W・ブッシュの89%をも上回る驚異的な支持率91%を獲得した。」

彼は敬虔なクリスチャンで朝早い結果、夜9時ころには寝てしまう日課が報道されていましたが、実は孤独というよりは,戦争開始の決定以外に仕事がなかったからです。
大統領は議会出席権がないのと法案提出権がないので,(議員立法しか出来ません)積極的に内政に口出し出来ないのが原則です。
内閣提出法案がほぼ全ての我が国から見ると、行政府の内政に関する権限が全くないこと・・制度の建て方が戦争するか否かの決断以外には議会の言うとおりやれば良いんだということが分ります。
我が国では工場労働者一人一人の意見で改良が進むのに対して,アメリカでは研究者が研究するから現場はそのとおり何も考えずに仕事していれば良いという社会との違いです。
しかし,財政難になって来て最近戦争ばかりしていられなくなってきたので、最近では出身政党に働きかけて、オバマケアのような法案推進に精出すようになっていますが、議会に対して他所ものが口出しするようなもので(根回し能力欠如で)うまく行きません。
アメリカの場合、大統領選向けの戦略は別の専門家が立ててくれるし、当選するまでの選挙活動・・これも演出に従って振り付けどおり演説したり、ガッツポーズしたりするだけで日本の戦国武将のような複雑な内政は全く必要がありません。
当選後は(行政執行は完備した行政庁の官僚が実際にやるので)大統領の主な仕事は対外戦争をするか否かを決めることだというのですから、いつも戦争予定の敵がいないと大統領本来の仕事がない国ですし、支持率が下がって行く関係です。
戦争するくらいしか独自性ハッキ出来ないアメリカ大統領の職務を見ても、また、戦争を始めれば支持率が急上昇する国民気質を見れば,アメリカは文字どおり生まれつきの(アメリカ建国以来強大で侵略されることのあり得ない国で・・戦争大好きということは)侵略国家・軍国主義体質の国となります。
実際に建国以来短期間にもの凄い勢いで周辺を併呑して来たことを紹介しました。

対外権限と内政能力4(アメリカの場合1)

アメリカの大統領制は、国内政治の利害調整は(法案成立までの調整は)議会でやり、(法成立後は)裁判所(どんなことでも裁判で決着を付ける国ですから行政裁量の余地が我が国よりも小さい)が行ない、大統領はその結果を執行することと対外戦争をすることが中心です。
ですから議院内閣制のように利害調整の経験がない・・利害調整に長じた人材が、大統領になる制度ではありません。
言わば創業・・対外的大統領選に勝ち進むだけ・・戦国時代で言えば、天下統一に勝ち進むのに特化した能力で足ります。
大統領には、言わば複雑な内政利害調整能力が求められていません。
大統領に当選するのに求められる能力は、利害調整能力ではなく対抗馬に勝ち進む戦略の優劣だけ・・演出家の振り付けにしたがって演技する能力だけで足ります。
December 3, 2012「選出母体の支持獲得3と政治資金1」で紹介したように、大統領選の結果は資金力にほぼ比例すると言われていますので、資金集め能力が重要ですが、これも選挙参謀・演出家の演出に従って挨拶回りやパーテイをこなせば良いことで候補者自身の能力は不要です。
大統領選向けの戦略は別の専門家が立ててくれるし、当選するまでの選挙活動・・これも演出に従って振り付けどおりうまく演説したり、ガッツポーズしたりする能力があれば足ります。
対外的に勝ち進みさえすれば良いように見える、わが国戦国武将でも、家臣団の利害調整能力が不可欠でした。
以前上杉謙信の例で書いたことがありますが,戦国大名の多くはその地域内小豪族の連合体ですから、家臣団同士の境界争いその他利害対立が無数にあってその調整に失敗すると不満な方は離反してしまいます・・。
石橋山の旗揚げに破れた頼朝が房総半島に逃げて再起出来たのは、千葉氏の力添えによるものでしたが、千葉氏は元々平氏でしたが、相馬御厨の所領争いで平家がうまく調整してくれなかったので、平氏を見限って源氏についてしまったことを、09/19/04「源平争乱の意義4(貴種と立憲君主政治3)」で紹介しました。
上記コラムでも書きましたが、戦闘集団である武士であっても利害調整能力がないと権力を維持出来なかったのです。
アメリカで大統領になるには、大統領選挙に勝ち進めば良いことであって,利害対立する双方を納得させる複雑な内政能力は全く必要がありません。
当選後は(行政執行は完備した行政庁の官僚が実際にやるので)大統領の主な仕事は対外戦争をするか否かを決めることというのですから、いつも戦争予定の敵がいないと大統領の仕事がない国です。
これを法的に見ておきましょう。
行政府の長としての権限は議会の決めた法律の執行でしかないので、言わば下請けでしかありません。
行政には一定の裁量の幅がありますが、その実務は官僚機構が実施するのとアメリカの場合,何でも裁判で決める社会ですから、行政の裁量権も狭いし,大統領が具体的に口出し出来ることが多くはありません。
日本では内閣の法案提出権が重要ですが,アメリカ大統領にはこの権限が一切なく,(日本とは違って議員立法しか認められていません)議会に出席する権利さえありません。
大統領の年頭教書演説が有名ですが、議会からの招待があって初めて行なえるだけです。
大統領が議会に何かを命じたり議案を出せることではなく,言わば「今年の抱負をみんなの前で言っていいよ」というだけです。
戦争権限は憲法上は議会の決定事項ですが、戦争兵器の近代化が進んで議会で議論している暇がないので,大統領が専権で開始出来るようになっていました。
(核兵器発射ボタンを考えれば分るでしょう)
これがベトナム戦争など無制限に戦争が広がったことに対する反発から,戦争権限法が相次いで制定されて1014年2月8日現在のウイキペデイアによれば,以下のとおりとなっています。

1973年戦争権限法(War Powers Resolution)[編集]
1973年に成立した両院合同決議であり、アメリカ大統領の指揮権に制約を課すものである。この法律はニクソン大統領の拒否権を覆して(両院の三分の二以上の賛成による再可決)により成立した。
事前の議会への説明の努力、事後48時間以内の議会への報告の義務、60日以内の議会からの承認の必要などを定めている

対外能力と内政能力2(吉宗1)

8代将軍吉宗については、質素倹約と軟弱政治からの脱却・・武の再興ばかり物語的にはもてはやされますが、彼が中興の祖となれたのは、国内屈指の複雑な政治状況にあった紀伊半島の大半を施政下において来た初代頼宣以来三代にわたる利害調整能力の高さ・統治経験が買われたと見るべきです。
江戸幕府創設後武断政治から文治政治への移行と言っても、当初は天海僧正のような宗教・哲学者の意見に頼っていましたが,・・・・これでは具体的政策決定に役立たないので儒学を取り入れて脱宗教になって行った経緯を、03/14/08「政策責任者の資格9(宗教の役割2)」等で以前書きました。
綱吉や家宣までは、林大学頭や荻生徂徠、論争の鬼と言われた新井白石(正徳の治)が重きをなしていたことがその象徴です。
金の含有量を減らして発行していたのを改めた貨幣改鋳問題はその最たるものですが,今で言えば量的緩和は紙幣濫発→紙幣価値低下になる・・政府の信任にかかわるので許されないという道徳論・伝統的経済学者の意見によったのが、新井白石となります。
しかし学者の意見では理論が一貫するものの、複雑な利害調整・・政治判断までは、出来ません。
学者間の自由な論争は必要ですが、経済に対して専門的識見のない儒教学者の道徳的意見が政治決定に採用される仕組みは問題です。
赤穂浪士の義挙に対する裁断に荻生徂徠の意見が通ったと書いたことがありますが,裁断するのは綱吉であるとしても、学者の意見がモロに採否の対象になること自体問題があると言う意見で書いています。
まして、儒学は経済・・商取引に関するルールではない・・農業社会ムキ道徳ルールですから,商取引が発達した江戸時代中期以降社会ルールの参考にはならなくなったことを、04/14/08「儒教から法へ2(中国の商道徳)」で書いたことがあります。
上記コラムで書いたとおり、日本は最早中国から学問を輸入しても商品交換経済に入った日本にとって有用な知識をえられなくなった・・もっと進んだ社会に入って行ったのが、吉宗以降の社会状況です。
失われた20年と言われますが、そのころから日本は欧米先進国の未経験の領域に先に入って行ったので、何かテーマがあると直ぐに「欧米では・・・」と訳知り顔で講釈する学者の意見が役に立たなくなったのと似ています。
法と政治の分離・・(裁判はプロに任せるとして・・)経済学と政治との分離・・(金融政策はある程度経済のプロに任せるとして・・財政政策までは任せない)等等の必要が高まったのが吉宗以降の社会でした。
吉宗以降学者の出番が減ったことを見ても、(現在政治では、経済学者や政治学者の意見を参考にする程度の関係になって行きます)政治が具体的利害調整に移って行ったことが分ります。
「東大教授やノーベル賞学者の言うとおり政治をしていればいい」(自動運転で足りれば政治家が要りません)と今では誰も思わないでしょうが、このような時代が吉宗から始まっているのです。
紀ノ川沿いの歴史地図を子供の頃に見た記憶がありますが,紀州随一の穀倉地帯にも拘らず根来寺領や高野山領などが入り乱れているのに驚いた記憶があります。
根来衆と言えば歴史に残る大ゲリラ集団ですし,外に有名な雑賀衆も和歌山城の直ぐ近くに控えている関係です。
高野山は言うまでもなく大名と言うより武門とは別格で、それぞれややこしい関係のママ幕末まで来ました。
熊野や勝浦方面はこれまた有名な九鬼水軍の根拠地でしたし、(九鬼氏は遠くへ追い払われましたが・一族郷党関係はそのまま残っています)熊野詣で有名な那智大社関係も大名家にとってはややこしい関係です。
外に本居宣長の出た伊勢の国もその領地ですが,ココはまた蒲生氏郷の築城した松坂城をそのまま受け継いでいて,名古屋から行くと松坂の先(紀州寄りに)に伊勢神宮があるので,別格の伊勢神宮も抱え込んだ関係になります。
言わば紀州徳川家は、群雄割拠の精神状態のままその上位機関(伊勢神宮や高野山に対しては上位とは言えないでしょう)として落下傘部隊のように舞い降りた大名家でした。
55万石にしては地図上の領土が広いのは、平野部が少ないことと内部が虫食い状態だったことによるのでしょう。
吉宗が将軍位を獲得出来たのは,初代徳川頼宣以降このややこしい政治を見事にこなして来た実績・・内政調整能力にたけていた点が重視されたものと見るべきです。

対外能力と内政能力1

06/08/10「(1)政権交代と実務能力」で少し書きましたが、創業と守成の区別は、言わば創業は対外戦争に勝ち進むことですが、守成・統一後は国内の利害対立の処理能力の巧拙に移ります。
国内・・勢力圏内の利害対立の処理がうまく行かないと、直ぐに不満が起きて政権が持ちません。
対外的な交渉はどちらが正義に近いかの競争よりは、先ずは強い方が勝ち・・武力をちらつかせて要求をのませられますが、国内利害対立の処理は権力だけではどうにもなりません。
対日戦争では、勝った方が自分の悪いところを全て日本に押し付けて外交上の勝ちをきめました。
国内利害対立の解決は権力で押し付けさえすれば良いのではなく、公正な判断やタフな交渉能力が要求されます。
(これを比較的無視し易い政体と言うか、そう言う能力のない社会では,政権奪取後、専制君主制〜問答無用形式の恐怖政治・ロビスピエールやフランスジャコバン〜ソ連の粛清政治〜中共政権〜現在の北朝鮮体制あるいは軍事独裁体制になりますが、民主的と言われる大統領制とどのように違うかを以下見て行きます。)
創業と守成の違いを06/08/10「(1)政権交代と実務能力」のコラムで後醍醐帝と足利政権の違いで書きました。
アメリカの大統領制は、国内政治の利害調整は(法案成立までの調整は)議会でやり、(法成立後は)裁判所(どんなことでも裁判で決着を付ける国ですから行政裁量の余地が我が国よりも小さい)が行ない、大統領はその結果を執行することと対外戦争をすることだけです。
ですから議院内閣制のように利害調整の経験がない・・利害調整に長じた人材が、大統領になる制度ではありません。
言わば創業・・対外的大統領選に勝ち進むだけ・・戦国時代で言えば、天下統一に勝ち進むだけの能力で足ります。
戦国大名も天下統一までの長年の過程で部下への気配り・内政が必要でしたが、さしあたり迫って来る敵と戦い・・対外戦勝利が第一ですから、勝ち進めば恩賞が多いので不満が簡単に解消出来ます。
信長〜秀吉はこのタイプに特化していたので効率が良かった分、恩賞に当てるべき新規獲得領地が減って来ると、(耐えざる拡張主義に走らないと)人心掌握が難しくなります。
後醍醐天皇や新田義貞・楠木正成などは、朝廷復権というイデオロギーは確かでも実務・・内政訓練を受けていない点が,北条氏を倒して権力を握ってみると利害調整能力欠如からたちまちのうちに人心離反を招いてしまった原因です。
成り上がりの秀吉は対外拡張一本でやれて効率が良かったのに対して,拡張が止まると過去の成功体験が役に立たないので,内政に苦労し始めます。
家康は、子供のころから家臣団の統制に苦労して来た経緯があって、(これに比例して必要な人材も育っていたので)内部調整能力が高かったことが徳川300年の基礎になりました。
徳川300年は対外戦争能力ではなく、内政・利害調整能力を問われた時期でした。
家康の多くの男子の中で戦功のあった結城秀康等武功組の子孫が次々と失脚して行ったのに対して、軍功の低い秀忠が将軍になり、複雑系の10男頼宣が紀伊徳川家の初代になれたのは偶然ではありません。
大名家で言えば複雑系能力の高い細川や加藤清正が生き残り,単純系の福島正則が失脚したのも同じ基準になります。
物語では如何にも武断派が利用された上で切られた・・家康は腹黒いというストーリーですがそんなことではなく,平和になれば乱暴なだけではどうにもならなくなったからです。
この争いが石田三成と武断派の争いで、(内政中心になって来ると武断派は能力がないのでないがしろにされ勝ちですから面白くなくなって来たのですから仕方のないことでした)これに家康が乗じて豊臣家を乗っ取ったのが歴史の流れです。
徳川家は身内を折角越前120万石の大守にしていても、その子孫をドンドン失脚させていますが、家康は自分の生きているうちは義理があると言って、武断派から文治派への入れ替えを慎重にやったことが成功の秘訣でしょう。

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