共謀罪の対象が全ての犯罪ではなく一定の凶悪犯だけとすれば、悪事共謀の事実が証拠で認定出来てもこの段階で処罰すべきか放置すべきかは、政治が決めるべきことです。
法律論としてみれば、この段階で処罰したり、検挙して犯罪実行を抑止することが何故人権侵害になるのでしょうか?
逮捕裁判するには厳密に絞られた共謀の事実(あてはめ)と確かな証拠がいるのは自明ですから、反対論者は確かなあてはめと証拠があっても処罰べきではない・・人権侵害のリスクがあると言う矛盾した論理で反対していることになります。
この程度のことは事実と証拠があっても処罰すべきではないという政治論を法律論の如く主張していることになります。
特定犯罪の共謀の事実があってそれを裏付ける「証拠があっても駄目だ」と一生懸命に反対している勢力はもしかして、どう言う人や集団の利益擁護をするために頑張っているのでしょうか?
恨みを晴らすためや保険金殺人のために自分に代わって殺人をしてくれる人をネットで募集するような個人もいます。
大した考えもなく何となく誘拐犯をネット募った結果、初対面同士でグループになって誘拐・殺人行為をしたグループが数年前にいました。
今回の北大生が簡単にテロ組織「イスラム国」に参加しようとしたことのハシリみたいな事件でした。
個人であっても、ネットで公開募集して犯行計画を進めている場合に、(証拠があっても)これを事前検挙抑止出来ないのでは社会が危険過ぎます。
(危険過ぎるかどうか、この程度ならば放置しておいて誘拐・殺人等の実行行為を待って処罰すべきかどうかは、国民・政治の判断事項であって法律家が専門的な意見を持っている訳ではありません)
法律家が懸念すべきは、共謀概念の曖昧さによる恣意的な検挙の危険性防止…思想信条の自由・・・内心仕返しをしたいとかいろんな妄想段階・ちょっとした冗談や世間話まで処罰されるのでは困りますので、この辺の心配を訴えるのは当然です。
法律家としては、共謀事実の定義・境界の緻密な議論と証拠論が重要です。
内心の妄想の域を超えて 具体的な計画を立て第3者を交えて計画するようになれば放置すべきではない・・共謀罪処罰対象の共謀とすべきでしょう。
要は、どの程度の意思の連絡があれば(冗談に相づちを打った程度ではなく)共謀があったと認定すべきかの学説判例の集積による分野です。
この辺は、わが国では、諸外国と違い昭和30年代から共謀共同正犯理論が学説判例上発達して来たことを無視すべきではないでしょう。
この集積の結果、共謀概念の成立要件についてかなり精密に事例が集積されていますので、諸外国よりも共謀の限界事例集積が進んでいる・・言わば共謀定義に関する先進国です。
(高齢化やデフレ現象が諸外国より早く進んでいるのと似ています)
10月22日に紹介した条約では「相談することを犯罪とする」とあるように「相談」となっていて、我が国の法律用語である「共謀」となっていないのは、我々法律家が見れば驚くような幅広い概念です。
諸外国では、日本のように50〜60年以上(後に紹介する最高裁判決が昭和33年ですから、そこまで行くには10年以上の実務があります)に及ぶ共謀概念の事例蓄積がなかったから、こう言う漠然とした用語になったのではないでしょうか?
ちなみに共謀共同正犯論は、これを最初に提唱した草野豹一郎博士の昭和7年論文と言われていますから、その後幾多の学説論争を経て、昭和33年の大法廷判決になっているのです。
当時共謀を処罰するのは近代刑法の個人責任主義や、行為責任主義に反すると主張されていたのですから、反対論の主張によれば日本だけが突出して経験を積んで来たことになります。
我が国では諸外国と違い、(上記のとおり想像に過ぎませんが・・)相談や協議や会談等の漠然としたいろんな概念の中で、このコア(中核)になる「共謀」と言えるまで厳密に絞り込まれたときに限って共謀認定して来た・・長年運用して来た実績があります。
私のように刑事事件をあまりやっていない弁護士でもこれまで共謀共同正犯事件・・どの時点で共謀が成立したと言えるかなど数え切れない程担当して来ています。
実際に殺人事件等が起きてから後追いでやって来た従来の共謀認定とは、殺人行為等実害のまだ存在しない段階での共謀認定とは方向性など違いますが・・少なくとも共謀認定の実績・事例集積がある点では諸外国とは大違いですから、既に法制化している諸外国よりも我が国の方が濫用リスクが少ない筈です。
我が国では普通の「相談」程度では法律用語としての「共謀」にならない・・充分に絞り込まれていることは、争いがないと言い切れる状態です。