民主国家と人民論の矛盾1

2月7日の公務員と労働法の続きですが、労使であれ夫婦(離婚騒動)であれ親子(意見相違)であれ兄弟(相続争い)であれ、上司と部下(パワハラ)であれ全て内部関係は対立をはらんでいます。
なぜ公務員に労働法規が不要か?別立てにする必要があるかの実質的説明が欲しいものです。
国民は全て同胞といっても、国民同士でも敵味方があり相争うことが多いから国民同士の争いを裁くシステムが発達してきたし、ルールが整備されてきたのです。
消費者を王様と持ち上げていても代金不払いや万引きがあれば、敵対関係になります。

憲法
第十五条 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
○2 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。

公務員と国民一般は原則として対立する機能を持っていませんし、逆に全体の奉仕者です。
ただし王様であるはずの顧客でもクレーマーや万引きに対しては、販売員が厳正対処する必要があるように国民全体に対するルール違反者=犯罪に対して公僕が国民を代表してルール違反者を検挙するなどの利害対立が生じますが、この場合はあくまで例外関係です。
民主国家においての公権力とは、国民の福利を守るために行使されるべく存在するものです。
警察権力は国内の国民間の利害対立を話し合いを経て最終的には裁判でケリをつけて、それでも守らない人に対して強制力を行使して実現するためにあります。
外国人の違法行為も個人実行場合には警察対応で間に合いますが、外国政府行為として集団で行われる場合には、警察には対応できないので軍の出動となります。
軍と警察の役割分担は、日常的個々人の違法行為・・原則凶器を保持していても小規模な場合を対象とし、警察が日常的に所持する拳銃程度では対応不能な大規模武装集団を相手にする時に国内でも軍隊の出動となるように大まかな分類ができます。
個人生活で言えば、軽トラや軽乗用車、普通車等に使い分け、引越しになると業者に頼むような感覚でしょうか。
歴史的に見れば、警察活動と軍事活動の未分化状態から、軍事と警察の分化が江戸時代に発達し、一種の軍事基地である大名屋敷自体が盗賊等の被害防止や検挙を町奉行所に頼り、付け届けする関係になっていたことをだいぶ前に紹介したことがあります。
いずれも国民福利を守るためにあるものですから、無政府主義とかその焼き直しの公権力と距離を置くという主張は現秩序維持による日常恩恵を享受しながら、その負担を否定する自分勝手な意見です。
公務員であろうと政府機関の中枢であろうと国内で法を破れば、一般国民同様に法の適用を受けます。
国民と公務員は、公職についたり退職によって時に入れ変わることを前提にしているので、原則として入れ替わることを予定していない身分ではありません。
しかし、人民と政府とは、相容れない恒常的対立関係概念を予定しています。
人民概念は人民と政府権力・支配層が原則的に対立関係にあることを前提にしていますので試験や選挙等で被支配者が支配者と入れ替わることを予定していない対立概念です。
明治憲法制定者の真意は、権力の手足である官だけでなくもっと遠い関係にある民を含めて臣民一丸となって迫り来る欧米諸国に対抗すべきという含意だったのでしょうか?
臣民とは臣と民があるという意味ではなく、臣民一体化の強調の趣旨だったとすれば合目的的ですし実際に成功していたように見えます。
今でも大災害がある都度同胞意識・絆意識の再生産が行われますし、明治憲法の前文にもこの趣旨がにじみ出ています。
明治憲法前文

朕祖宗ノ遺烈ヲ承ケ万世一系ノ帝位ヲ践ミ朕カ親愛スル所ノ臣民ハ即チ朕カ祖宗ノ恵撫慈養シタマヒシ所ノ臣民ナルヲ念ヒ其ノ康福ヲ増進シ其ノ懿徳良能ヲ発達セシメムコトヲ願ヒ又其ノ翼賛ニ依リ与ニ倶ニ国家ノ進運ヲ扶持セムコトヲ望ミ・・・・。

「朕カ親愛スル所ノ臣民ハ即チ朕カ祖宗ノ恵撫慈養シタマヒシ所ノ臣民ナルヲ念ヒ」といわゆる大御心を「朕カ親愛スル」と表現し「祖宗ノ恵撫慈養シタマヒシ所ノ臣民」と先祖代々大事にしてきたよ!という書き出しです。
平成天皇の被災地訪問の繰り返しは、まさに恵撫の実践でした。
国民全てが天皇の恵撫に感動して臣民一丸になれば、臣民以外の刃向かうべき人民はいないはず→明治憲法の臣民論は人民論を根こそぎ抹殺する含意だったことになるのでしょうか?
人民と官とは同じ国民であっても特定の機能側面に限定した概念です。
ある人が生産活動や販売に従事する場面では生産等の供給側ですが、自己の生産品や販売活動以外のその他大多数商品やサービスに対しては消費者であるように消費者概念はその時々における側面の分類です。
例えば反乱軍や反政府デモ隊員もこれの警備出動した政府軍兵士や警備中の機動隊員も、国民か否かのレベルでは双方とも国民です。
特に一般デモ行動は、政権支持者のデモもあるし、いろんな目的(同性愛の婚姻合法化、LGPTなど)のデモ行進があります。
警官が非番の日に何かのデモに参加すること自体は自由なはずですが、特定政党支持を明らかにするのは全体の奉仕者としての信用に関わるので(事実上かな)ダメとされているようです。
特定政党支持ではなく、保育所をもっと増やしましょうとか、わが町に美術館を!というようなデモに参加してはいけないとは思えませんが・・。
支配されていた国民が抵抗権行使する場合だけを人民と言うとすれば、日常的に国民性を否定するものではなさそうです。
国民か外国人かの定義のレベルではなく次の小分類・国民内のサラリーマンか経営者か、大企業従業員か中小企業従業員か、ある人がある時は消費者であり、ある時は供給者側の人間であるなど、その時々の行動によって立場の変わるレベルの分類でしょう。

社会に応じた言語力1

戦前は職人と事務員等職種によって呼称が違っていたのですが、戦後労働者という統一用語になると次第に労働の範囲を広め、好きでやっている研究・・「ことに仕える」典型的な生き方ですが・・等も今では知的労働と言い、こうした中核部分にまで仕方なく働かされている「労働」意識を浸透させてきました。
加山又造だったかの工房の様子を報道する映像を見た記憶では大勢の弟子?スタッフが立働く様子が印象に残っています。
昨年だったか?
京都の「京アニ」放火事件を見ても、外見のみの判断ですが、芸術家集団というより工場建物のイメージですし、何故かオーム真理教のサテイアンを連想してしまいました。
運慶快慶や東博や狩野派も一定の集団作業と言われていますのでトップと弟子とはいえ、生活的には賃労働と変わらない外形もあるようです。
映画演劇も皆同じでしょう。
実家が領主層で弟子入りした方が、授業料、飲食費等生活費を負担する出家や弟子入り中心だったのが、戦後は落語や演劇等の端役その他の弟子にも小遣いをやらないと成り立たない関係になり、それが生活費になってくると修行より労働の性質を帯びる方向になります。
各種学問分野の研究者も同様で、元々は好きでやっているにしても「研究実験が三度の食事より好き」とは言っても家族を養える程度の生活費は保障してほしいものです。
これが現在のポスドク問題です。
芸術文化活動や学問領域参加者に無産階層出身者が広がったのは良いことですが、生活費を稼ぐ面が重視されてきたので知的労働という熟語が生まれたのでしょうが、知と労を足しただけの熟語は いかにも間に合わせっぽい薄い熟語です。
市町村合併や企業合併であんちょこに相応の頭文字をくっつけた市町村名や企業名が目立ちましたが、各種熟語も知的労働みたいな単純寄せ集め形式が進んでいます。
明治の人たちは新しい現象に合わせて色々な造語に成功して社会発展の基礎を築いておいてくれたのですが、戦後は、社会変化に応じた言語創作力が落ちているようです。
禁治産者系の法律用語が社会変化に対応できなくなった時に新しい単語を作るのではなく被後見人という新建材みたいな安っぽいアンチョコ用語に変えたことを批判して書いたことがあります。
明治の民法はフランス革命=ブルジョワ革命・・教養と資産のある人のための法であるナポレオン法典がその母体でしたので、「資産のある人」が対象でした。
自分を守る能力の欠けた人や劣った人を保護する必要があるのは資産を守る必要→禁治産者(資産を治める能力のない人という意味)や準禁治産者には後見人や保佐人を選任する仕組みだったのですが、戦後は大衆社会に突入したので無資産者も法の保護が必要になってきました。
「資産がなければ怖いものなし」と思うでしょうが、戦後は住宅ローンに始まり借金(サラ金〜カードローンなど)でモノやサービスを買う時代になったので、無資力者も取引のプレーヤーになってきました。
プレーヤーとしての能力がないとして放置する・借金できない=カードも使えないのでは人権問題の意識が高まり、無資力者も保護の必要が生じたので資産家保護にシフトした「禁治産制度)が実態に合わなくなりました。
資産がない人もプライバシーその他の保護が必要になったのですが、その権利を守れないのでその役割を果たす人が必要になります。
能力不足の人の権利確保のためには禁治産者に必要とされた後見人がその担当になるのが合理的ですので後見人の役割が資産保護だけから各種能力不足者の保護に広がりました。
無産者でも身を守る能力に欠ける人には有資産者同様の保護者が必要という意識が強まり、共通の保護政策に合わせた民法改正に際し、禁治産の用語を廃止したのは当然ですが、その代わりになる用語が作られませんでした。
従来同様に後見人や保佐人が選任されるのを利用して「被後見人、被保佐人」ということにしてお茶を濁して新しい制度目的にふさわしい新用語を作れなかったのです。
学校用語で言えば「生徒」や「学生」という用語を作らずに「被教育者」と言うようなものです。
患者、病人でなく、「被治療者」、会社員でなく「被雇用者」何でも「被〇〇」で済ませるのは間違いでないというだけで、非効率です。
「お客」と言う単語を作らずに「買う人」と言っても間違っていないですが、この種の表現は内容性質の分類に使う用語であって、そのもの固有の名詞ではありません。
それぞれに固有名詞があって意思疎通がスムースになるのですが、誰それの孫とか親戚の人・「ほらいつも遅れてくる人よ!」「派手な格好している人」という表現は固有名詞を知らないときとか、婉曲表現に使うものですが共通認識のある狭い世界でしか通用しませんし誤解を招く確率が高くなります。
明治の頃に日本語にない外来語を翻訳するときにいろんな熟語が創作されましたが、今の日本ではこのような時勢に応じた新用語創作能力が衰えてしまったように見えるのは残念です。
もしかして法律家の言語素養が下がっているだけかもしれませんが・・。
法律家に限らず、言語創作能力は文化基礎の広がり度による影響が大きいのでその効果が法律家に及んでいるというべきでしょう。
社会変化の大きさでは、明治維新と敗戦後の社会変化の激しさではかなり似ていますがどういう違いがあるのでしょうか?
明治維新後数十年で見れば英文学に進んだ夏目漱石は漢文学等の古典素養の高さが有名ですが、いろんな分野に進んだ偉人の多くが民族文化素養が厚かったように見えます。
江戸文化だとつい思い込みたくなる歌舞伎の名作の多くが、明治の河竹黙阿弥の作になるのと同様です。
古典落語や日本画なども同様です。
敗戦前後あるいは現在の言語能力低下(=交渉力低下・昭和に入ってからの国際孤立化は言語力によるだけではないですが、何らかの影響があった可能性がありそうです)は、その数十年前からの文化力低下によるものではないでしょうか。

是枝監督の政府祝意辞退と公権力1

補助金をもらわない人でも、各分野で活躍している多くの人々、スケートの浅田真央さんや羽生結弦、テニスの大坂なおみや野球のイチローなどが、国民の祝福を受けたくないのでしょうか?
国民代表である政府大臣の祝意表明行為をあえて「公権力と距離を保つ」と政府機能の一分野だけを抽出表現して拒否するレトリック自体に疑問があります。
政府の祝意表明は公権力行使である→距離をおくと言う図式のようですが、政府の行動のうち公権力行使に当たる分野は何かとあまり考えたことはなかったですが、なんとなく違和感を抱く人が多いでしょう。
菅直人氏が、総理現職中に警察等は物理的強制装置・・いかにも害悪の根源のような発言をして物議を醸しましたが、このような一方的な定義づけは、私が司法試験受験当時の基本書であった政治学原論だったか?に書いていたのを思い出したものです。
脳の柔らかい若者の多くがこういう洗脳に染まったまま成人し総理になっているのか?と郷愁を覚えたものです。
教育機関ではまだこのような思想を教えしている教授が牛耳っているのでしょうか?
韓国文在寅大統領はいわゆる86世代と言って学生運動家上がりで、その刷り込みで現実無視の政治をしているから韓国政治が無茶苦茶になっているという評価が出ています。(どの評価が正しいかは歴史評価を待つしかないですが・・)
文大統領は何となく菅政権の後をなぞっている印象ですが、日本のように政権が民意に敏感でないというか、制度上任期が5年間と固定されている関係で国民が困ろうと観念論を推し進める気配で、抵抗する官僚を抑えるために?
まず検察官の総配置変えの断行を始めたようです。
これが終われば、左翼系政権得意の粛清政治を思い通りに行える予定でしょうか?
左翼政治家の信奉する旧ソ連や中国の粛清弾圧体質を理想社会と仮定すれば、菅元総理のいうとおり「警察組織は政府の物理的強制装置」・・悪しきものの代表でしょうが、
日本の場合、武士の発祥に知られるように自警団・明治以降は身近な駐在さん→今は交番・・道案内や、動物が逃げたとか野生の猿が出たと言っては駆り出される・日頃困ったことがあれば相談に行く重要な存在ですので、社会のなりたち・意味が違います。
「交番のおまわりさん」というだけで嫌悪感を感じる国民が何%いるかの調査などないのでしょうが、神の声・国民総意を直感的に感得すれば、大多数の国民が、地元で揉め事などで暴力に発展しそうなリスクが生じた時に弱い方が真っ先に、いざとなった時のために交番にあらかじめ相談をしておこうとなる人が大半ではないでしょうか?
ヤクザに脅されそうになったりしたら弁護士相談と並行して警察相談するのが普通です。
国民の多くは警察を頼りにすることがあっても、見ただけで嫌悪感が走るような人はヤクザ等特殊な人以外に滅多にいないでしょう。(これは直感で書いています。)
パトカー通報後いかに早く来てくれるか、早い方がいい人と遅い方がいい人とどちらが多いか?
是枝監督は、日本ではもはや化石化しつるある左翼ガリガリ運動家の吹き込み・・警察=暴力装置論による知識を前提に格好良く発言したつもりなのでしょうか?
こういう程度の社会理解を前提に社会派?映画を作って動向のグループで賞賛しあっているのでしょうか?
話題を公権力に戻します。
公権力に関する一般的な理解では強制力を伴う行為・刑事処分に限らず各種行政処分・・許認可処分・・今回のコロナウイルス騒動での強制隔離処分等がありますが、学校教育も保健衛生分野も一種の公権力の外延でしょうが、国民国際的な快挙に対する大臣祝意表明になると駅前広場や公園整備等より権力性が弱いように思われます。
ウイキペデイアで公権力を見ると以下の通りです。

公権力(こうけんりょく)とは、政府の統治行為のうち、物理的な力により執行されるもの、あるいは服従しなければ刑罰を科せられるものを指す。また、公権力を執行する機関である警察・検察・裁判所・税務署・軍隊も指す。
公権力は様々な行為によって行使されるが、代表的な例は逮捕・収監・召喚のほか、行政処分(強制収用・徴税・かつての徴兵)などがこれに当たる。

私が考えているよりもずっと狭い・いわば物理力行使=中核的行為のみに限定するようです。
こう言う狭い定義が一般的理解とすれば、是枝監督の「公権力と距離を保つ」という声明?は、何を言いたいことになるのでしょうか?
警察権力等と距離を保つとの主張と理解した場合でも文部大臣の祝意を拒否するのとどういう関係があるのか分かる人は滅多にいないでしょう。
文部大臣が上記権力定義とどう言う関係があると言う主張か不明であるばかりか、祝意拒否がなぜ上記権力活動と距離を保つことになるのかも飛躍がありすぎで不明です。
警察権力との距離と限定しても、彼は強盗や泥棒被害にあっても自分の子供が誘拐されても警察に何も求めないし、交通事故や契約違反等の損害を受けても裁判所を利用しないのでしょうか?
文部大臣の祝意拒否が「公権力と距離を保つ」ことになるとすれば、上記ウイキペデイアの定義より広いイメージ・・私のいう程度の定義よりももっと広い・・なんとなく政府行為には全て距離を保ちたいというかのようなイメージが伝わります。
しかし、この世の中で水滸伝で有名な梁山泊みたいに政府と距離を置ける場所はない・・竹林七賢は世俗を離れて生活できていたか?というと、彼らは名門貴族の子弟で、権力闘争から離れただけで実家からの仕送り(今で言えば軽井沢の別荘)で優雅に暮らしていられたのは、権力による庇護(治安維持)があったからです。
日本の権力者子弟・皇族や将軍家子弟が出家して叡山等に入っても・相応の仕送りをしているから成り立つし、修行らしい修行もしていないのに天台座主などになれるのです。
今回中国のコロナウイルス蔓延に対してWHOの対応の遅さに対する批判的社説が日経新聞2月1日朝刊にでました。
同紙3ページは、中国の資金とWHOへの人材送り込み・・中国の巨額援助国エチオピアを事務局長として推して当選させたことなどの掘り下げた記事が出ています。
個々人宛の賄賂の有無は不明ですが、WHOやエチオピアへの大規模資金注入があるような解説記事です。
映画に限らず各種文化活動はこれを受容し育成すべき社会の経済力あってのことです。
自分の社会に敵意?距離を置いて文化が育つのでしょうか?

任命5と市場競争(是枝監督の政府祝意辞退1)

1月21日「任命の効力4→選択権1」の続きです。
競合権力多数並立の場合、武将や武士、足軽等階層にかかわらずどの豪族〜戦国大名に従うかの選択肢があり、日本の戦国時代の英雄豪傑で言えば島左近や後藤又兵衛や藤堂高虎のように戦国大名を自ら袖にして有力大名家を渡り歩く例が多く見られました。
豊臣秀吉だって、小者の頃には渡り歩いて(今川家の陪臣松下加兵衛に仕えたことが知られています)最後に信長の小者になって落ち着いた遍歴です。
高名な英雄豪傑に見限られた大名は面白くないので、戦国末期で大名間交際が安定してくると黒田家?のように「奉公構」という回状を回して後藤又兵衛の再就職を妨害する例も出てきます。
企業で言えば、楯突いてやめた社員の再就職妨害行動をするようなものです。
のちに黒田家から後藤又兵衛との関係修復を目指して幕府に斡旋依頼したようですが、うまく行かない内に大阪の陣に突入して行くようです。
群雄割拠・並列競合状態が終わって最高権力・国家権力が確立すると、最高権力者=国家からのお召があると、これに応じないのは謀反の疑いがかかるので、契約以前に喜んで参上するようになっていたから契約概念が育たなかったのでしょう。
ところが経済水準が上がり、主食以外の嗜好品や寒さを防ぐだけでなく、おしゃれを楽しむ衣料品、その他文化芸術や娯楽性サービスが発達し、勤め先となる民間企業が発達してくると、国家権力に連なる分野以外の働き先が増えてきます。
今でも景気が良くなると、公務員応募が減るなど民間雇用状況次第の傾向が強まっています。アベノミクスの成果で民間は働き手不足で困っている→公務員に任命してやるありがたいだろう!という優越的関係が薄れてきました。
形式上一方的任命精神同様に叙勲や祝意は、一方的に授けるものでした。
最近国家の叙勲や祝意を辞退する(是枝監督のような)人が出ますが、これの盲点を突くと同時に国家権力の相対性をアピールしたい人がやるものでしょうか。
「公権力と距離を置く」と言うのが趣旨のようですが・・。
任命のように義務を伴わない一方的叙勲や祝意拒否は国家政府などに褒められたりおめでとうと言われたくない」という・・国家権威無視の態度をはっきりさせたものでしょう。
とはいえ、能力発揮・特に文化発露は個人の遺伝的能力のみによるものではなく、長い歴史・文化蓄積を切り離して考え難いものですから、生まれ育った社会を代表する公的な祝意・民主国家においては政府が国民代表です・・政府からの祝意は、生まれ育った、社会そのものからの祝福です。
これを受けられないと言うのは自分を育んでくれた社会や自然を否定したいという意味でしょうか?
よほど自分生い立ちに不満があるのでしょう?・・育った環境に不満があっても逆教を跳ね飛ばし、名を挙げ功を遂げられた以上は、結局感謝するのが凡人の心情ですが、こういう人が出てくると凡人には違和感を感じる人が多いから反響を読んだのでしょう。
いや、自分を育んでくれた友人先輩、環境に感謝しているが、今の政府におめでとうと言われたくないだけ・と言うのでしょうか?
今回のテーマ・・任命と拒否権の関連に戻り大臣就任要請を断るのは、一定の政策目標実現組織である内閣と意見が違う場合当然の権利ですし、政府の文化政策と意見を異にする場合それに協力しないのは映画人当然の権利ですが、是枝監督が映画製作段階で政府が介入したのをはねつけて映画を完成したなどの特別な遺恨があるのでしょうか?
それならばそれを公表すれば良いことですが、武士の情けで公表していないのでしょうか?
https://www.asahi.com/articles/DA3S13532802.html

是枝監督「公権力とは潔く距離保つ」 カンヌ最高賞、文科相の祝意辞退

https://bunshun.jp/articles/-/7743では「万引き家族』是枝裕和監督の「祝意辞退」と「助成金」の関係で「辞退」に対する擁護論らしく、是枝監督の映画が如何に素晴らしいかを書いていますが、最後に以下の引用があります。

文化庁の「日本映画製作支援事業」の定義を確認してみましょう。
「我が国の映画製作活動を奨励し、その振興を図るため、優れた劇映画、記録映画の製作活動を支援する。新たに、日本映画の魅力や多様性を強化し、その基盤を維持するため、中小を含む制作会社や新進映画作家向けの助成枠を設ける」。
助成金は「優れた劇映画」を作るための支援です。カンヌでパルムドール受賞を果たした『万引き家族』は、まさに正しく助成金の目的が達成された例といえるでしょう。

上記意見は、どちらかといえば政府助成金をもらっていても政府の祝意辞退は問題ないという擁護論のようなトーンですですが、その最後に解説なし引用があるので、擁護論の根拠としての引用かな?と予想されますが、読んでみるとこれが何故祝意辞退擁護根拠になるのか不明です。
上記引用部分によれば一党一派の立場からでなく、国民全体・国税を使った助成を受けたので自民党からの祝意を受けなくとも矛盾しないと言外に言いたいのでしょうか?
しかし、文科大臣の資格において祝意を示すのは出身母体はどの党であろうとも国民代表としての祝意です。
政府所管大臣/長官が補助金を出し、その時は自民党大臣だから受け取らないと拒否したなら一貫しますが、自民党政権の大臣あるいは長官から補助金を受けておきながら、祝意辞退の時だけ自民党政権の大臣から受けられない・嫌だというのは矛盾がないのでしょうか?
私の基本的立場は、補助金以前に同じ日本人としての快挙に素直に喝采したい人が多いのではないか・・政府は国民代表として祝意を表したいということではないでしょうか。
大臣個人は主観的にその映画を良いと思ったかどうかは別として、公人としての職務行為をしている以上、大臣の好みを持ち込むこと自体が許されないはずです。
国民の大方の気持ち・・総意を汲み取って国民代表として政府が祝福するのを自民党政権だから嫌だというのであれば自分の方から政治的立場の違いを芸術活動に持ち込み政治化するための発言でしょうか?

プロの判断と司法審査(伊方原発)1

昨日から書いてきたように一定の危険・可能性がある前提での漸次縮小が国民総意とすれば、可能性があるだけで停止を命じたとすれば司法権の乱用になります。
NHKニュースのまとめ方が正しいとすれば専門家で構成される委員会審査結果を素人の司法権が否定するもののようですが、その否定根拠がどうなっているのか具体的記述次第です。
まとめ方によっては誤報道の恐れがあるので、NHKが独自にまとめるのでなく、ニュースの方法としては、「停止仮処分が出た」程度の客観的事実報道にとどめ、解釈にわたる部分は解説・・NHKの意見として分けて書くべきでしょう。
裁判所の重要判断の場合決定要旨など文書配布が行われるのが一般的ですから、・・要旨が仮に10pあってもPDF等でそのまま配信公開が簡単ですので、NHKの解説・決定の読み方が正しいかどうかは読者の判断に委ねるべきではないでしょうか?
決定書が公開されていないのですが、昨日紹介したニュース記事では、NHKが鉤括弧付きで出している部分は決定書自体の引用でしょうから、この限度で推論が可能です。
「地震を引き起こす活断層がある可能性を否定できない」という文言を見ると可能性が否定できないだけで停止を命じることが許されるかの議論となります。
危険性には抽象的県と具体的危険の二種類がありますが、決定では「具体的な危険があるとして、」と具体的危険があると認定したとも紹介しています。
この紹介によれば、原発事故以降にできた新ルールは具体的危険があるかないかで停止するか否かの結論が決まることになっているように理解できます。
そうとすれば、具体的危険が認定されたので停止決定されたというニュースは、一見決定理由を紹介しているように見えて結論の言い換え・同義反復に過ぎないことになります。
新ルールは「具体的危険があれば運転を認めない」となっていたとすれば、規制委員会の運転開始判定は具体的危険がないとしていたはずですから、国民が知りたい点は、なぜ今回結論が変わったかの点でしょうから、具体的危険があると判定したというだけでは決定理由の紹介になっていないことになります。
新ルールで、「活断層から何キロ以内は具体的危険があることにする」と、画一的に決まっている場合そのルールを紹介し「活断層からの距離測定方法にこういうミスがあった」と指摘すれば済むことです。
2〜3キロの幅の誤差範囲は慎重審査という場合には、プロの経験的裁量の幅が広がり、プロの直感的判断を否定するのは司法権の行き過ぎとなります。
どういう場合に具体的危険があると言えるかの認定ルールが定まっていると仮定した場合・・例えば「活断層から何キロ以内」というルールが設定されていてそれに該当するのに〇〇の計測ミスで3キロあるとしていたのが2キロしかなかったというならそのルールと計測ミスの内容を紹介すればスッキリしますが、これらの説明がないので上記決定がどういう理由で規制委員会と結論が違ったの不明のままです。
ただし、続けて決定理由として「四国電力は十分な調査をせず、原子力規制委員会が問題ないと判断した過程には誤りや欠落があったと言わざるをえない」と指摘しました。
と引用しています。
ここで根拠を具体的に書いたつもりでしょうが、「十分な調査をしない」というだけでは、何をすれば「十分」なのか水掛け論的紹介にとどまっています。
一見決定根拠を書いているように見えるものの論証過程を省略しているので「結果」部分の引用に過ぎず、どういう論証がおこなわれた結果「十分な調査していない」と判断したのか、どういう「判断過程に誤りや欠落があった」かの事実紹介・掘り下げがありません。
「十分な調査していない」という根拠説明も、規制委調査が十分でなく裁判所決定の方が正しいという自己撞着の説明にすぎず、国民が知りたいのはどちらが十分でない調査をしたかの具体的根拠です。
いわゆる説明責任の問題ですが、一人二人のプロでなくプロ集団の決めた調査方法が、十分でないというにはそれを主張する方が言いっ放しでなくどこがおかしいかの説明責任があるというべきでしょう。
裁判所はその説明を書いていると思われますが、論証過程の短文要約は無理があるのでNHKはそのままの引用にとどめたのでしょうが、それでは決定根拠不明のままです。
決定には当然図面等利用の詳細検証過程が書かれているでしょうが、 NHKはこれの要約報道は要約ミス等のリスクがあると謙虚に考えて抑制したのであれば、ネット配信の場合紙幅制限がないので裁判所配布の決定要旨をそのままPDFで添付し、関心のある読者に直接読むチャンスを与えて自由な解釈に委ねるべきでしょう。
従来国民は難しいことは理解できないからと言う尊大な立場で事実そのものを報道しないで報道機関の解釈を事実のように報道する傾向が強すぎたのを、意見部分を抑制するようになっただけでも一歩前進です。
従来法律専門家しか判決や決定書書にあたれない状態でメデイアが一方的解説をする・素人は黙ってついてくれば良いというイメージでしたが、数ヶ月〜6ヶ月後に専門雑誌に印刷されて見られるよになって専門家が見れば約半年以上前の報道機関報道は判決内容を正確に伝えていなかったとしても、(日付や氏名などはすぐ訂正されますが)要約トーンが微妙にズレている程度では「人の噂も75日」でそのままでしたので世論に与える影響は甚大でした。
結論あるいは結論とほぼ同レベルの「言い換え根拠」紹介だけでは消化不良の感じを受けるひとが増えてきます。
例えば日経新聞朝刊最終裏面に何年か前から連載されている美術〇〇10選かな?例えばこの約1週間の連載は装束面からの、国宝級絵画の紹介ですが、聖徳太子像や伝頼朝像などを装束面からの掘り下げがあって面白く楽しみにしています。
このようにいろんな説のあることはすでに知っている読者にとってはその次の段階・どういう根拠でどういう違いがあるのかというところまで知りたい読者が増えています。
土曜の文化欄の連載これまでいろんな人が登場しましたが、本郷新氏や今は出久根氏かな?違った角度の堀下げが面白いのでこれも大いに楽しみにしています。
報道系の人も、読者レベルに合わせてもう一歩掘り下げた報道すべき時代が来ているし、PDF等でこれに応じられるようになっているのですから、適応すべきでしょう。

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