証拠法則と科学技術1(自白重視1)

責任を問う場面の極限である刑事罰の根拠について・・近代刑法では、自由な意思と実行行為の両輪(構成要件該当行為実行+故意)で犯罪が成立する仕組みですが、これは哲学者の机上理念の結果法理になったのではなく、当時の証拠収集能力・・証拠法則と密接に結びついています。
近代刑法原理もその時代の有用性に即して成立したものですから、現在社会・・社会構造が大幅に変化し来ている現在には、現在社会の実態に合わせた理念の再構築が要求されています。
犯罪構成要件の決め方が「行為」と言う外形事実を必須要件としたのは、犯罪認定のルールとして、えん罪を防ぐためには、内心の意思だけで処罰するのではなく、行為と言う外形的事実・証拠による認定を要求したことによります。
その結果自白だけでは処罰出来ないことその他、厳格な証拠法則が発達しました。
近代刑法の理念を具体化した日本国憲法を見ておきましょう。

憲法
第三十八条  
 何人も、自己に不利益な供述を強要されない。
 2  強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。
 3  何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。

共謀罪についても、内心の意思だけを理由に犯罪にするのでは、恣意的運用・・政治弾圧になり兼ねません。
今の科学技術でも、内心の意思そのものは神様しか分らないのですから、どうしても判定したいとなれば、神判に委ねるしかないと思われます。
外形行為があれば内心の意思の判定は可能です・・例えば、人のクビを故意にちょん切った場合「まさか死ぬとは思わなかった」と言う主張をしても、殺意が認定されます。
即ち内心の意思・・故意=殺意の有無を争うのが裁判の主たるテーマですが、実際の裁判では、間違ってクビに刃物があたったかどうかが重要争点になり、この認定によって、殺意の有無が違ってきます。
警官が足を狙ってピストルを射ったところ、タマタマ相手が転んで頭に当たったとかいろんな主張がおこなれますが、全て殺意と言う内心の意思確定業です。
周辺事情に関する外形行為の証拠収集能力が発達しない時代に、内心の意思をそのままストレートに認定するためには、「神様しか分らないよ!」となって、古代には神判が行なわれていたのはこのせいです。
これがあまりにも不合理なことから、自白していれば、「本人が自分の気持ちを言うのだから確かだろう」・・逆から言えば、自白がない限り無理に認定しないルールが世界標準になりました。
これが「自白は証拠の王」と言われるようになった所以です。
本人の意思次第と言う・・人権重視・・えん罪を防ぐ目的から言えば、当時とすれば画期的理想的な制度でしたが、これを悪用して、「悪いことしても自白さえしなければ良い」と言う狡い人が出て来ると、この制度の有用性が揺らいでしまいます。
現在でも刑事弁護専門家によると、どんな事件でも、完黙(黙秘権を行使して何も話さないで押し通す)を進める弁護技術が奨励されているようです。
この論者の本心は、「免れて羞じない輩を唆す」目的ではなく、多分・捜査機関は外形証拠をきっちり収集すべきであって、自白に頼ろうとする捜査手法に問題がある捜査の科学化の進展を期待する愛のムチと言うことでしょう。
外形証拠が足りず有罪立証出来ないならば仕方がない・・これの繰り返しで、捜査機関が発奮努力して合理的な新技術が発展するのじゃないかと言う前向き意見と思われます。
上記の例で言えば、相手が直前に転んだのかどうかは防犯カメラで分ることが多くなりましたし、防犯カメラやGPS・各種電子機器・現場に残された微量の毛髪その他の収集能力の発達がDNA等によって、事件現場やそこに至る犯人の行動記録が秒単位で証拠として残る時代が来ました。
昨日あたりからニューヨークで大騒ぎになっている同市警察での黒人死亡事件も、警官が後ろから首を絞めていたことが議論になっていますが、これもビデオカメラと音声録音の御陰ではないでしょうか?

近代法理の変容3(クーリングオフ1)

11月30日に書いたとおり、近代法では自分で約束した以上・意思表示したとおりの法律効果が生じる=これを守らなくてはならない・・裁判すれば強制執行出来るのが基本原理ですが、今では意思表示に何らの瑕疵(未成年でも被後見人でもないし錯誤も強迫もない)がなくとも、特定消費者契約分野ではクーリングオフと言って、一定期間内に限って撤回出来る仕組みが出て来ました。
要は、意思表示の内容吟味を要せずして、約束事を撤回出来てしまうのです。
解約と撤回の違いは、解約は契約が成立してしまっていることについて、一定の事由があれば解約出来る権利行使ですが、撤回とは、一定の事由がなくとも一方的に「なかったことにする」魔法のような制度です。
民法が口語化したときに贈与の取り消しの条文が「撤回」に改正されたことを09/27/07「贈与6(民法273)と対価2」前後で紹介しましたが、贈与は親子などの親族間や特殊関係下で不用意に表明する・・元々非合理なものであるので、いつでも撤回出来るようにしようとする近代法意識以前の残滓だったと言えます。
今でも相談者の多く(女性に多い)が、「・・したことにする」などと言うので、(あなたは魔法使いのつもりか?)「そんなことは出来ない・・ありのまましか勝負出来ない」と説得することがありますが、「・・なかったことにしたい」「・・したことにする」と言い、何故出来ないのですか?と言う非合理的意識の強い人が多いのに日々驚かされています。
政治体制で言えば専制君主が気に入らないことがあると、一旦与えた臣下の資産や封土(命さえも)を理由もなく召し上げることが出来たことがその象徴です。
今でも「君主の無答責」と言って法=近代法の対象にならないことになっています・・・実際上スキ勝手に人を殺したりしていれば王制が保たないから誰もやりませんが・・。
このため近代民法では「人」(天皇・皇族は国「民」ではないことを以前書きました)が意思表示したら、法律の効果が出ます・・権力で強制します」と言う明文を設けて・これからこうなりますよ!」と言う教育効果が必要だったのです。
とは言っても、法律効果が問題になるのは、等価交換・・商品交換関係に参加した人から始まるものであって、親族や友人間ではまだまだウエットな思い入れ中心の社会が続いていました。
「◯◯がなかったことに出来ないか」とか「・・デモ・・。」とか言う発言が今でも女性に多いのは、他人間の交換経済関与経験が少ない・・・遅く参加したことによります。
大分前に連載しましたが、元々近代法が出来た頃にはブルジョワジーが「市民」であって、庶民は元々法的人格者としての、市民ではなかったのです。
民法とは「市民の法」の略語です。
言わば近代法以前には余程人格の立派な人以外には、人の約束は、信用と言う評価で守られるだけできっちりした法律効果の生じない(すぐになかったことにしてしまうような)当てにならないものだった名残です。
自給自足ではなく商品交換社会になって来ると、これに参加する人は貧乏人も資産家も皆、約束・契約を守らないと成り立ちませんから、法治社会化(約束は守られるべしのルール化)して行きます。
それでもなお、「家庭に法は入らない」と長らく言われてきたのは、家庭内では無茶苦茶で良いと言うよりは、家庭内では愛情に基づく行動原理が支配するので等価交換社会化が進まない・近代合理化し難い分野だったから先送りして来たに過ぎません。
家庭と言う十把一絡げではなく、家庭内でも近代合理化すべき分野では合理化(我が国では昔から、「親しき中にも礼儀あり」と言いますが、ルールは必要です)して行く必要性が出て来たのは当然です。
刑事分野でも殺人等に発展すれば法が入りますが、ちょっとした暴力行為は親権の行使として放置されていましたが、今では児童虐待やDVとしてドンドン家庭に法が入って行くようになってきました。
従来は児童保護法・・社会の悪人から児童を守る法律意識でしたが、今は親による子供虐待防止対策が重要になっています。
労働条件で言えば、私の青年時代には、基準法を守るのは大手企業だけのことで、零細企業では、そんなこと守っていたら仕事にならないといわれていましたが、今ではどこでも、きちんと守っています。
学校も家庭内類似の特別権力関係であると変な議論で人権問題を避ける議論が普通でしたが、数十年も前から「イジメ」を契機に法が学校に入って行くようになっています。
個々人で言えば、誰かが見ていてもいなくとも拾ったものは届ける・ゴミを拾うなどルール重視意識が個人の内面にまで浸透していることになります。

近代法理の変容1

日弁連や専門家の共謀罪反対論は、国際条約の決め方・議論経過にどう言う問題があったかすら明らかにしないで、(私の理解不足もあるでしょうが・・)理由もなく(近代刑法に反すると言っていますが、これまで書いているように合理的な理由になっていません)実行阻止の主張をしているだけのように見えます。
近代刑法の理念と言っても、国民の利益のために理念が決まって来たのですから中2階の概念を振り回すよりは、共謀罪新設が国民にどう言う利害があるのかを具体的に分析解説して行く方が合理的です。
近代刑法の理念と言う中2階の概念を振り回しているだけでは、素人は何も分らなくて良いから「・・専門家の言うことを信用して!」と言うスタンスに帰するようです。
高度な医療でさえ、インフォームドコンセントが重要と言われているように、今では、「あなたは無知蒙昧だから分らなくていいのだよ・・・・」と言われて、専門家の言うとおりで満足している国民は少ないのではないでしょうか?
医療の場合、いろいろ説明されてから、「よく分らないのでお任せしますのでよろしくお願いします」と言うのが普通ですが、だから何の説明もいらない・・無駄と言う解釈は社会的に容認されていません。
「近代刑法の精神違反」と言う抽象論だけでは今や何も解決出来ない時代・・具体的な効果分析が重要なことを、10月20〜21日ころから書いてきました。
それだけではなく、近代法の理念・・抽象論自体も20世紀に入ってから大幅に変容されて来ています。
たとえば、近代精神は自由な意思活動とそのもたらした結果に責任を負う・・法律効果が生じる意思責任主義が基本です。
近代法理の権化であるナポレオン法典の系譜を引く我が国の民法では、意思表示を法律行為と言い、意思表示に法律効果が生じる原理を採用しています。

民法

(任意規定と異なる意思表示)
第九十一条  法律行為の当事者が法令中の公の秩序に関しない規定と異なる意思を表示したときは、その意思に従う。

上記のように意思責任主義を原則にして、意思表示すれば法律効果がそのまま生じる仕組みです。
難しい言葉を日常用語・・卑近な例で言えば、1個100円で売っているパンを見て、「このパンを下さい」と意思表示すれば100円でそのパンを買う意思表示したことになり、そのとおりの法律効果が生じる・・パンを受け取れる代わりに100円支払う法律義務が生じると言う意味です。
充分な意思能力のない未成年者や被後見人等が自由に意思表示すると貴重な財産を安売りしてしまうかもしれないので、資産保全のために、一律に法律行為無能力者として法定代理人が代わって意思表示する制度設計になっています。
未成年者・子供が家屋敷を売る契約をしても法定代理人がこれを取り消せることになっています。
 民法
 第二節 行為能力

(成年)
第四条  年齢二十歳をもって、成年とする。
(未成年者の法律行為)
第五条  未成年者が法律行為をするには、その法定代理人の同意を得なければならない。ただし、単に権利を得、又は義務を免れる法律行為については、この限りでない。
2  前項の規定に反する法律行為は、取り消すことができる。
3  第一項の規定にかかわらず、法定代理人が目的を定めて処分を許した財産は、その目的の範囲内において、未成年者が自由に処分することができる。目的を定めないで処分を許した財産を処分するときも、同様とする。

政治と受益者1

会内政治政治勢力の動きについては、千葉県弁護士会のことしか知りませんが、昭和5〜60年代ころには代々木系と社会党系や民社党系・自民党系弁護士の色分けが進んでいて、仲良く順送り的に執行部をやっていて、私のようなノンポリは偶発的に執行部に入る時代でした。
当時私の事務所に来ていた修習生が、「先生みたいな(ノンポリ)が何故執行部に入っているのか不思議だ」と言っていたのを思い出します。
この20年くらいで見ると、(バックの政党が凋落してしまったこともあって)共産党系か社会党系か民社系かの色分けがなくなり、大雑把に見れば従来の革新系が大同団結に近いような結果になったようにも見えます。
昭和の終わりころまで公害反対運動や労働運動に関与していた革新系弁護士の多くが、公害や組織的労使紛争が減ったこともあって、平成に入ったころから消費者系の運動に注力するようになってきました。
憲法改正反対や労働運動、公害反対等と違って、政党色がはっきりしない分、ノンポリ系弁護士が参加し易い面がある上に、紹介で繋がる顧客基盤の少ない若手にとっては、魅力があることから多くの若手を引きつけて今では大勢力になっています。
ノンポリ系が多く入るようになって、既に10年以上経過していますので、消費者系は文字どおり消費社会での弱者救済に特化して行って特定の政党支持色を感じなくなりました。
数日前から大学自治会や弁護士会の委員会にノンポリ系が入れなくなっている弊害を書いてきましたが、消費者系委員会に関しては大量にノンポリを参入させて勢力拡大した結果、かえって中庸化して良い結果になっているように思われます。
各政党色が消えて、今では消費者系・民暴系など委員会系列別に違った組織化(専門化が進んで良い面もありました)が進んできました。
系列化進行が全国的に進んだ結果、弁護士大増員で苦しくなった若手・・消費者系の支持を受けた宇都宮健児氏が5〜6年前に日弁連会長になりました。
ただ宇都宮氏は上記中庸化する前からの古参ですから、日弁連会長を辞めた後の都知事選では旧来の革新系政党・・社共両党の主張そのままを体現するかのような政策で立候補していましたが、今の消費者系弁護士が皆こう言う政治意見ではなさそうです。
千葉県弁護士会では、平成の初めころまでは、各弁護士の政党色が明らかでありながら呉越同舟的に執行部形成して来たことから、お互いの政党色を出さないように自制して来たものでしたが、ココ10数年くらいその遠慮がなくなって来たように見えます。
近年(バックになる政党自体ズタズタですから)表面から政党色が消えたことが、革新系同士の鞘当てがなくなり、却って弁護士会での政治活動に遠慮がなくなってきた原因かも知れません。
この10年以上の動き・・憲法改正反対、放射能被害を救済する→原発再稼働反対・・ヘイトスピーチ反対・・沖縄基地存在自体の反対、オスプレイ反対・・秘密保護法反対、共謀罪法反対、その他各種政治的動きは全て、是是非の動きではなく、従来の社共系政治勢力の目指していたものといつも同じになっているのは偶然でしょうか?
平和憲法護持・・非武装論貫徹で誰・どこが得するのか?
沖縄から米軍がいなくなったり反対運動激化で弱体化することで、どこのどう言う勢力が得するか?
同じ米軍基地のある三沢、岩国その他で激しい反対運動がないのに、何故地政学的重要性のある沖縄だけで「少なくとも県外へ!となるのか?
秘密ダダ漏れで得するのは誰か、オスプレイ反対で誰が得するか(尖閣諸島その他離島防衛に関しては航続距離の長い機種選定は死活的重要性がありますが、この配備が出来ないとどこの国が得するか)沖縄で反日運動・反基地運動も確かに人権に関係がありますが、盛り上がれば誰(どこの国)が得するかなどなど・・。
戦闘機等の騒音被害も人権擁護には違いがないですが、戦闘機なら良くてオスプレイ導入に反対するには関係が遠過ぎます・・。
あまり遠い関係まで人権擁護と言い出せば、消費税増税可否も高齢者医療費負担率の改正も全て弱者の人権擁護問題になり全ての政治運動をすることが可能になります。
日弁連や単位会では、「人権擁護の検討をしていると偶然そうなっているだけです」と言うことでしょうが、共謀の認定は多くの外形証拠が必要と書いてきましたが、世間は結果・外形→誰が得する結果を求めているか・・その組織の主張を取り入れたり紛争激化によっていつもどの集団や国が得するようになっているか・共通項の外形で理解するのではないでしょうか?

日弁連の共謀罪反対運動と政治1

日弁連と言う政治をするための集団ではない組織が、政治運動することの疑問点を10月19日以来指摘しています。
共謀罪や秘密保護法反対運動は、政治活動ではないと言う意見もあるでしょう。
政治活動であっても日弁連が秘密保護法に反対するのは、法律家集団としての許された範囲の政治活動であって目的を逸脱していないと言う高裁判例があることを2014-10-30「弁護士会の政治活動4」で紹介しました。
厳密な法律論ではそうとしても(違法無効とまでは言わないまでも)、政治活動目的で集団を作った訳でもないのですから、少数意見が必ずある筈なのにこれを無視して組織全体の代表であるかのように行動するのは僭越または僭称のキライがあります。
裁判所は弁護士会自治を尊重して、余程のことがない限り無効とはいわないでしょうが、それと政治活動することが妥当か否かは本質が違います。
無効ではない限り何をしても良いと言うのでは弁護士会の社会的信用が低下してしまいます。
従業員が解雇されない程度のサボタージュをいくらしても良いという態度では会社人生がうまく行かないでしょうし、会社側も違法なパワハラにならない限り、従業員にいくら辛くあたっても良いと言うのでは会社経営が成り立ちません。
社会関係としても違法でないと言う程度では友人・隣人関係もうまく行かずみんなが離れて行きます。
日弁連としては対外行動するには常に機関決定を経ているので、会内合意・民主的手続手続としては合法的ですが、形式的合法にあぐらをかいて会員の総意を無視してやっていると次第に会員の会への愛着心や会の維持・盛り上げの熱意が薄れて行きかねません。
死刑廃止や各種法案反対運動することについて会員全員相手にアンケートが回って来たことは一回もないので、どのくらいの人数が実際に反対運動を支持しているのかすら分りません。
例えば、反対運動することに会員の4割しか反対がないからと言って、会全体=10割の総意のように反対発言することが許されるかは別問題です。
政治意見を言うために会員になっている訳ではないのですから、6割を占めれば10割の意見だと主張するのはおかしいような気がします。
機関決定を経ているから「民主的」手続を経ているとは言っても、まさに民主「的」でしかありません。
その機関ごとに選挙している訳ではなく、殆どの委員会では希望すればその委員会に参加出来るのが原則ですから、いわゆる活動家が委員会を牛耳る傾向があります。
関心があって入ってみても従来の動向に反する人が委員会に入って意見を言っても孤立して直ぐやめてしまうしかないので、そもそも意見の会わない人はそう言う委員会に入りません。
学生自治会でいえば、革マル派の支配する自治会に中核派支持者が入って行って自治会の方向を中核派支持に切り替えようとして意見を言い、努力するのを期待することは文字どおり自殺行為でしょう。
結局は一定の既定路線の実現に向けて熱心に活動する人ばかり発言して行動し重宝されて、その方向への流れが強まる・・先鋭化するばかりで弱まることがありません。
大学自治会とは言うものの、学生大多数の意見とは関係なく、実質はいわゆる「活動家」が牛耳っている状態が知られていますが、一般学生が一人二人入って行って、正常化?しようと努力することが不可能になっています。
弁護士会では、自制心があるのでそこまで行っていませんが、最近似たような傾向が生じていないか・・そこへ進んでしまうリスクがないかを常に謙虚に考える必要があります。
一般政党の場合、内部純化が進行して思い込みで先鋭化して行って、国民の支持がなくなれば、存在が縮小して行くしかないし、労働組合も活動家の行動が尖鋭化して行くと一般労働者の加入率が下がって行くので、組織維持のためにどこかで歯止めがかかります。
ところが、強制加入団体の場合、その職業をやめない限り政治の「意見があわないから加入しない」と言う訳には行きません。

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