第三者委員会の役割1(朝日新聞吉田調書2)

報告(見解)を見ると、発表前の内部チェック体制不備や吉田調書の誤報が分った以後における対応の不手際解明が中心ですが、国民が知りたかったのは、事実報道に見せかけながら、偏った一定方向へ誘導していたマスコミ全般の日常的体質そのものではなかったでしょうか?
朝日新聞はその特化程度が激しいので、批判を浴び易いだけです。
組織暴力団事件も末端殺し屋が動いて、トップが知らなかったでは済まないのが昨今の風潮(少なくとも民事賠償事件では)です。
いつも一定方向にしか発言出来ない状態で運営している社風の場合、問題点は社内決済システム不備ではなく日頃からの社風・体質のあらわれであって、個々の決定にトップが関与する必要すらなくなっている・・、どうせやめる予定のトップ責任ばかり検証しても仕方がないように思えます。
第三者委員会が2つになっているのでややこしいですが、両見解を読むと吉田調書事件では部門任せだった社内総合評価システムの不備を指摘しながら、慰安婦事件の第三者委員会では社長ら上層部が池上彰氏掲載記事に介入した点を強く批判しているなど、ちぐはぐな印象です。
ただ結果から見ると、吉田調書では総合関与がなかった点を批判し、池上報道では上層部意見が通った点を批判しているので、それぞれの委員会では結論から見解を出していることになるようです。
社の基本思想にあえば、わずかに現場記者2人しか資料を読み込まないままニッッポン民族の大汚点・・世界ニュースになるような記事をそのまま出せる仕組み・・暴走出来るし(大社会問題になってからでも広報部が資料すら見ないで弱い個人相手に法的手続すると脅かしています)、社風にあわないとなれば社長まで乗り出して池上記事を没にする決断をする・・この一貫した体質こそが暴かれるべきです。
そうとすれば後に紹介する第三者委員会の岡田個人意見のように委員会全体見解でもストレートに「角度に重きを置く」社風を指摘するのが王道だったように見えますが、政治的配慮から公式意見としてそこまで踏み込めなかった(本音は個人意見で理解して欲しい)と言うことでしょうか?
近年流行の第三者委員会設置の役割ついて、ここで少し見ておきましょう。
朝日新聞で言えば、国民は連続虚偽?誤報道が何故起きたのか?個人が思いつきで出来ることではないので、その体質に疑惑を持たれて世論が沸騰していました。
その大きな疑惑を放置出来ないために第三者委員会を設置するから、個々の質問に答えられないと称して、社長自身に対する厳しい質問等をさせない・・釈明をしないでうやむやにしたものでした。
その結果厳しかった世論の熱がサメた頃になって、出て来たのは「今後内部統制システムをしっかりする」と言う国民の関心とは直接的な関係のない結果公表で幕引きの印象・・肩すかしを食ったような印象を受けた人も多いでしょう。
これをどう読むかですが、淡々と事実経過を書くことにとどめて、読者による冷静な解釈判断に委ねる・・朝日新聞自身に対しても反省するチャンスを与えるのは手堅い方法です。
一定の立場に肩入れするような特定評価をしない・・・国内の感情的対立をあおるようなことを慎むのも大人の処方箋です。
煽るだけ煽って韓国のように感情的熱狂のウズに巻き込むのは、民族の一体的発展のために得策ではありません。
正月休み中で時間があったので慰安婦・池上氏関係に関する第三者委員会と原発吉田調書に関する「報道と人権委員会」の双方意見書を読む時間がありましたので一部紹介しながら書いてい来ます。
以下「報道と人権委員会」報告(11月12日)(朝日新聞社「吉田調書」報道「報道と人権委員会(PRC)の見解全文」)から見て行きます。
同見解では、原発吉田調書については事実関係・読み方そのものに争いがあったので、事実関係を克明に記載・検証しているのは当然ですが、結果的に内部チェック体制を見るために時間をかけた印象で、韓国でセウオール号事件報道(乗組員が乗客を放置して逃げた)政府非難が過熱している最中に、この発表をぶっつけた政治的意図については何ら触れるところもありません。
元々このセウオール号事件で過熱していた政府非難を冷ます目的と日本民族を貶める両目的があったのじゃないか?と言う疑惑から、大政治問題に発展して第三者検証が必要になった出発点に触れない点に不満を持つ人も多いでしょう。
しかし、淡々とした時系列的記述(調査結果)自体から問題性を読み取りたい人は読み取れば良いと言うのも1つの見識です。
関係者が原資料を読みもしないで「法的措置をとる」ような文書を発行している事実を淡々と公表することから、1月6日に私が書いたように読むことも可能ですし、そこから何を読み取るかは読者の自由です。
また記事発表前の緊迫した状況が克明に記載されていますが、元々3年以上前に発生した事故対応として「東電職員の9割が逃げたかどうか」を発表するのに、社内関係者が2〜3日かけて議論する時間的余裕がなかったとは思えません。
同見解で
「 専門的な知識、用語の多いテーマであることから、記事内容や見出しの適否を検討するには、担当記者以外の専門的知識を有する記者にも、2、3日の余裕を持って閲覧させるべきであり、部長、担当次長もそのように指示すべきであった。少なくとも、初報記事の関連部分は開示すべきであった。」

と指摘されているように2〜3日どころか、ホンの短時間の会議でさえ、そこで原調書を見せられていない関係者から、いろんな指摘や危惧が示されていたことも認定されていますが、調書を関係者誰にも見せないで短時間でこれを押しきって強行したのは、異常な進行ぶりです。
緊急速報性のない記事について社内関係者に十分な読み込み検討する時間を与えず急いで発表・・記事にしたのか・・緊急発表の必要性をだれが何の目的で決めたのかも疑問ですが、こう言うことには全く触れずに、時系列中心記述にとどめて読者の読み解き次第に委ねる姿勢といえます。
委員会が韓国スウオール号事件にぶっつける緊急性があったのか?と質問してもまともに答える筈がないから無駄ですし、委員会は国内対立を煽るのが目的ではありません。
事実検証の結果、国内向けには「撤退」と報道していたのに、海外向け英語表記では反抗して逃亡とどぎつく表現していたことが分りました。

「本件5月20日付記事の見出しを「90% of TEPCO workers defied orders, fled Fukushima plant」にして、20日夕方に発信した。直訳すれば、「東電の所員の9割は命令を無視して、福島原発から逃げた」との表現となった。公然と反抗するなどを意味する「defy」の過去形を使った。」

国民としては「命令に反して撤退」(「反して」の場合陰で言うことを聞かない場合を含みます)だけでも怒りの抗議が殺到していたのですが、海外向けには何故「反して」ではなく、強固な目の前で反抗を意味する「defy」にしたのか、「撤退」を「逃亡」に強調したのか知りたいところです。
これも国民の受け取り方に委ねると言うことでしょう。
(国民には反発を受けないように優しく表現して海外に誇張宣伝するのが元々の主たる目的だったのではないかという穿った解釈も成り立つでしょう。)
報道と人権委員会の「見解」は、全体として事実を丹念に拾っていることが評価出来ますし、丹念な事実認定の結果、無理に踏み込んだ見解を書かなくとも、明らかにした事実を基に国民の健全な判断に委ねる収め方は、法律家的手堅い「見解」と評価出来ます。

「報道と人権委員会」(朝日新聞吉田調書1)

吉田氏生前に密着取材していたノンフィクション作家門田氏から、内容が違うのではないかの批判を受けて、逆に「・・楯突くとジャーナリストの世界から抹殺するぞ!」と言わんかのような威圧をしていたことも知られています。
これも世論を刺激した要点でした。
あまりにも酷い態度に非公開文書の内容を知っている政府が動いて、公開を決めた途端に、公開日に間に合うように急いで謝罪会見するようになった顛末自体が、如何にイカサマ承知で報道していたかと推測されていました。
原発吉田調書関係についての「報道と人権委員会」結論が11月12日に、慰安婦でっち上げ?報道関係については第三者委員会の結論が12月22日に出ました。
以下「報道と人権委員会」見解の一部引用です。
(1)抗議書
6月上旬、週刊誌から相次いで取材申し込みがあった。担当次長、広報部長、編集部門で危機管理を担当するゼネラルマネジャー(以下「GM」)の部下であるゼネラルマネジャー補佐(以下「GM補佐」)らの集まる会議が開かれ、対策を協議した。担当次長は「少なくとも外形的には命令違反の行為があったことは間違いない」と主張し、この論理で対処していくこととなった。
朝日新聞社は、前記週刊誌2誌に対し、広報部長名で訂正と謝罪記事の掲載を求め、「誠実な対応をとらない場合は、法的措置をとることも検討します」とする「抗議書」を送り、10日付と11日付朝刊にそのことを伝える記事を掲載した。
また、8月、産経新聞と同紙に寄稿した門田氏に対しても、同趣旨の抗議書を送った。
(4)9月紙面計画
 朝日新聞は8月5、6日と、いわゆる慰安婦問題の特集記事を掲載した。7月はその準備に追われたが、掲載後も他メディアからの批判も含めて反響は多く、編集担当も含めた危機管理担当の役員たちと編集幹部はその対応にも追われた。
8月18日、前記のとおり産経新聞が吉田調書を入手したと報道したことを重く受け止め、編集担当やGEの指示で8月21日、GM補佐が初めて、吉田調書の開示を受け、読み込んだ。また、事態は深刻であると考え、編成局長補佐の1人を吉田調書報道の担当補佐(以下「担当補佐」)とした。」

上記によれば、産経が調書全文を取得したと報道したのであわてて読んだ・・関係者が調書自体を全く読まないで「法的手続をする」と脅かしていたことが分りました。
誰も調書を入出来ないから・・と(噓でも何でも)強き一方で推して行くこうと、高をくくっていたことがこれで分ります。
積極的な法的文書を出す場合には、法的判断・吟味をしてから文書化するものですが、(大企業が法的手続きをすると言う文書を出す以上は、弁護団の意見を求めている筈ですし、弁護士は肝腎の文書すら見ないで、朝日の解釈が正当だと言う意見を書く筈もないのですが、(書いていれば大弁護過誤事件です)が「見解」には委員会がこの調査をしたのかしないのかすら記載されていません)それすらしていないのは、非公開だから相手が証拠を出せる訳がないと言う判断が先行していた・・庶民の推測が正しかったことが証明されました。
記事内容の決定は、相手が反論資料を入手出来るかどうかを基準にしてどこまで噓を書いて良いかではなく、自社の報道が事実に合っているか否かこそ大前提・・事実報道こそが使命ですが、資料も読まないで反論するなどと言う荒唐無稽な行動をしていたと主張するのを見れば、朝日新聞社全体で事実を無視していたことが明らかになりました。
(ただし、「記者2名だけ責任をかぶれば良いので、上司や広報部等は誰も読んでいなかったことにしよう」と言う申し合わせによる調査結果であるかまでは分りません。)
データ改ざんまでしない・・正しい事実を紹介しながらでも、巧妙に偏ったイメージ報道するやり方を1月2日以来、批判して来ましたが、これを一歩踏み越えた事件です。
従来から頻発しているやらせ記事を(プライバシー保護と称して、実名を出さないので実在するかどうかの証明すらありません)一歩踏み越えた領域と言えないこともありません。
東電職員には、やらせに協力する人が一人も出なかった点が朝日新聞の誤算だったでしょう。
一般やらせ事件は、(巷間言われている慰安婦事件を含めて)何億人のうち、誰でも買収や日当を支払ってやらせ演技者に仕立て上げることが可能ですが、今回は非正規を含めた東電職員に限定されていたので「命令無視して逃げた」とか「指示を聞いた」と言う職員取材に)失敗したのではないでしょうか?
当然「見解」は「取材に協力得られなかった」と書いているだけで、やらせに協力する人はいなかったと書いていませんので、以上は小人による根拠のない憶測です。

マスコミの情報操作1(羊頭狗肉)

ここで、Dec 19, 2014「国際運動の功罪3」前後で連載していたマスコミの信用性に戻します。
投票直後の報道を見ると、争点がないので投票しても仕方がないかのように煽っていたことに触れないで、投票率が下がったと強調している一方で、(与党圧勝と言っても)自民党の絶対的得票数が何万人減ったと大きな見出しの記事があります。
投票率減=投票総数が減れば得票絶対数が減るのは当たり前ですから、得票率で比べるべきものを得票数で書いているのです。
投票率を下げれば、組織票の占める比率の大きい公明・共産党の得票率が伸びるのは当然予想出来ますし、そのとおりの結果になりました。
見出しだけではなく、内容を見ると議席をある程度増やしている民主党の方が大きく得票総数を減らしているのに、それは記事の中の小さなデータ的記載でしかありません。
週刊誌の名誉毀損記事に関する裁判を見ると、見出しが過激だが内容を見ると客観的な記事になっているので、普通の読者が読めば合理的理解可能であると言うような評価がされていることがあります。
言わば過激な表現で読者を引きつけても内容さえ表題と矛盾したことを書いていれば良いと言わんばかりですから、これが大手マスコミのインチキっぽい報道を誘発して来たのかも知れません。
判例は表現の自由との兼ね合いもあって、慰藉料を払うほどの違法性がない・・刑事処罰するほどの違法性がないと言うだけであって、好ましい報道の仕方であるとお墨付きを与えたのではありません。
NHKも台湾現住民が日本統治に対する好意の念で取材に応じたのに、放送の方は如何に日本統治が酷かったかのテーマにされてしまっていたことが政治問題になったものですが、「画像編集の裁量性や取材者に対する損害賠償義務があるか否か」しか裁判のテーマにならなかったと思われます。
取材対対象者が番組内容に口出しする権利がないと言うことで(・・放送内容はフィクションがあっても放送者の自由?)NHK勝訴に終わったらしいですが、(その内判例時報等に乗るでしょうが・・まだ判決書きを見ていません)国民の正当な疑問は国営?のNHKが何のために巨額予算を使って、台湾統治が酷かったと言う報道番組を作る必要があるかだったのです。
そもそも、政治問題を裁判で決着しようとするのは筋違いです。
この辺は在特会の朝鮮人学校・(公園不法使用)問題では、ヘイトスピーチが強調されたマスコミ報道とは違い、裁判ではヘイトスピーチか否かについては直接問題にされなかったと言われているのも同様です。
日弁連の政治運動に対する高裁判決も白紙のお墨付きを得たのではなく、高度な自治権を有していることを勘案して違法とまでは言えないと言う判断であったと思われます。
刑事罰や損害賠償さえ命じられなければ、道で痰を吐いても良いし、出会った知人に挨拶しなくても良い国民レベルでないのと同じで、大手マスコミには求められる品格がある筈です。
国民レベルが高いので、姑息な宣伝・やり方でも、国民が騙されないから違法ではないと満足していいのはなく、国民の品格意識として「こんなことばかりしていて良いの!」と言う時代が来ているのですが、マスコミは市場選別を受けない限り好き勝手をやっていいいのでしょうか?
国民レベルを問題にしなくとも、名誉毀損・・違法性・刑事罰を求める判断とは違い「誇大広告・・羊頭狗肉・・内容と包装紙や宣伝とが違うじゃないか」と言う商道徳の観点から見ても、問題性が明らかではないでしょうか?
マスコミ報道を商品供給者としてチェックする視点・・・商人道・適正業務違反と言う視点からの裁判がなかったから、マスコミ報道に対する裁判が甘い結果になっているだけではないでしょうか?
吉田調書虚偽報道や慰安婦騒動を見ても分るように、民族全体が被害を受けていて個々人の被害がはっきりしない場合、個々人が被害者として訴訟が出来なかっただけで、個々人の総和としての民族の損害は計り知れません。
誇大広告その他被害者が社会全体=広範になって個々人の被害としては薄まっている場合、個々人が自分の被害だけしか賠償を求められない仕組みでは、コスト的に訴訟出来ないので、市場淘汰に任せると言って放置出来ません。
一般商品の場合にはレッセフェール・市場万能主義とは言いながらも薬品・食品・車・飛行機、原発その他あらゆる製品分野では製造過程の品質確保の規制を厳重にしている外、製造後リコールその他広告販売方法等に関しても不正競争防止法や独禁法・クラスアクション・懲罰的賠償等が発達しています。
マスコミ報道についても「商品供給」者としてみれば、一旦報道されてしまうと取り返しのつかない効果が発生してしまうものですから、何らかの現在法的規制があっても良い・・必要な分野ですが、思想表現関係は言論の自由との兼ね合いが難しいことを理由に手つかず・時代の進展に適合出来てない状態になっているに過ぎません。
言わば、近代法で確立された・思想表現の自由・言論の自由を悪用・濫用している状態です。
文化人の好きな「近代法の法理を守れ」と言う主張自体が、この面でも現在的修正を迫られているのに対応が遅れている実態を無視した意見であることが分ります。
自由主義経済・市場主義が、思想表現の自由と表裏一体で発達して来たことを思えば、商品供給や広告に関して事前事後の規制が許されるようになっているのに、マスメデイアの商品供給である思想表現についてだけ、(個人意見は商品供給にはならないでしょうが)何をしても自由・・名誉毀損や業務妨害でさえなければ放任と言うのでは片手落ちです。
マスコミは事実報道することに重要な使命があるのであって、一定方向に向けて情報操作して良い社会合意があるのではなく、規制が追いついていないに過ぎません。

12月14日総選挙と戦後政策の総決算1

マスコミ発表を国民が信じていなくとも、政治家と違って投票による是正方法がないのでスキなように報道出来て都合が良いのですが、その代わりマスコミは自己満足・裸の王様になり勝ちです。
マスコミ意見と民意が乖離して来ると選挙が怖くなるので・・「大義なき解散」とか選挙費用が勿体ないとか選挙を回避したいような報道が充満していたのかも知れません。
そう言えば選挙の御陰で年末の忘年会などパーテイのキャンセルが多く困っていると言う変な特集記事まで大きく出ていました。
報道の自由が民主社会において重視されるのは、自由な批判によって健全な民意を育成する必要があるからですが、報道機関が、金がかかるなどと民意反映手段である選挙を怖がっているのでは、本末転倒・・存在意義がなくなっていることを自白しているようなものです。
こう言う馬鹿げた報道をを繰り返しているうちに新聞購読者やテレビ視聴者が減って行き、ネット経由情報に負けて行くことになる→ネット系で食べて行けるならば、本当のことを発表出来る場所に人材が集まるようになって行くでしょう。
物販がデパートからスーパーへ更にはコンビニに主役が変わって行くのに比例して人材も入れ替わって行くのと似ています。
この後で書いて行きますが、日弁連も国民の信任を直接必要としていない点では同様の弱点を抱えています。
「争点がない」「大義がない」と言う今回の選挙期間中のマスコミ主張に戻ります。
マスコミや人権団体は安倍政権の各種政策決定を「国民の意思に反する」と(国民の意思を判定して)宣伝していたのに、選挙になるとこれらを争点にしなくなりました。
マスコミが勝手に決めたことだけが争点であるべきであり、それ以外を国民が判定するのはけしからんとでも言うような勢いです。
「争点がない」としきりに宣伝するのは安倍政権の信任・選挙効果・民意を薄める工夫に励んでいるのではないかと言う批判が起きてきました。
このネット批判に抗し切れなくなったのか?(争点がなくて投票したい人がなくとも)「投票に行きましょう」と宣伝しているのは、半ば行かない方が良いと言っているようなものですが・・)途中からアベノミクスは大失敗と言う意見記載が増えてきました。
ちなみにここ数十年入れたい人がない・・と言う選挙忌避誘導系の報道が幅を利かすようになっていましたが、マスコミあg何の根拠でこう言う報道を垂れ流すようになったのかも不思議です。
そもそも選挙は入れたい人がいるから選挙があるのではなく、一定期間・一定のタイミングで誰かがやめたときの後任選びに参加出来ることに意義があるのです。
誰かをある人の後任にしたいと狙っている人ばかりではなく、選挙権のある人がその後任選びに参加出来ることに意味があるのは当然であって、予め自分の意中の人がいることの方が少ないのは当然です。
これは各種の受験採点であれ、面接試験であれ前もって誰かを通したい思って試験官になっていることの方が例外であると言えば分るでしょう。
今秋北京で開かれたAPEC大会直前からの小笠原諸島に中国漁船が大量に領海侵犯・珊瑚乱獲騒動で言えば、海上保安庁が巡視船を増派した結果漸く収まってきました。
非武装平和論者・・戸締まり不要論者はこういう事態に備えてどう言う効果を期待して非武装・戸締まり不要論を主張していたかを、これら侵犯事件直後の選挙戦で明らかにすべきでした。
12月22日ころから北朝鮮によるソニーピクチャーズに対するサイバーテロが国際問題になっているように、韓国による慰安婦騒動や中国の南京大虐殺宣伝も情報戦と言う意味では現在の国防論の一種・最前線に位置するものでした。
安全保障政策は国家・国民の重大関心事ですから、これが具体化している最中の選挙では、これが重要争点であるのが明らかです。
日本社会では自己が正しければ黙って耐えていてもいつか理解を得られる・・相手が恥ずかしくなって自制するようになる前提です。
アメリカの支配する国際社会ではアメリカに都合の良いようにでっち上げた噓がそのまま歴史として積み重ねられて行く・・不正が横行する社会であると言う現実です。
中国による反日暴動に続く尖閣諸島侵略行為、小笠原での白昼公然の強盗的な資源略奪や東南アジア諸国に対する侵略行為・・これに連携した韓国の慰安婦騒動で明らかになったことは、反論・反撃すべきときには反論・反撃すると言う毅然たる行動が必要と言うことではないでしょうか?
中韓両国は日本が我慢していれば、噓を更に大きくして来るし、いくらでも侵略して来る図々しい民族であると言う事実です。
でっち上げ情報による要求に対して断固反撃して行ったことが、中韓の主張を根拠なく事実であるかのように繰り返していた朝日新聞を謝罪発表に追い込み日本の名誉を守ったと理解している国民が多いのではないでしょうか?
何の反論もしないで相手が噓でも損をしたと要求して来れば謝罪の繰り返しが正しいとする戦後政治・・これは非武装論と結びついていた行動様式だったように思えます。
22日ブログ冒頭に書いたようにアメリカ支配・・戦後秩序の揺らぎにあわせて、今回は戦後政策を総括すべき選挙だったように見えます。
アメリカ一強の時代には、憲法前文に書いてあるとおり、アメリカの「諸国民の公正と信義」を信じていてもそれなりのメリットがあったのですが、パックスアメリカーナが崩れ始まるとそんな悠長なことを言ってられなくなります。
小笠原諸島での珊瑚強奪行為はまさに白昼の強盗行為そのものですが、強盗したい国が周辺に跋扈している以上は、自分である程度国民の生命財産を守るしかないと考えるかどうかの選挙でした。

憲法前文
「・・平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。・・」 

12月14日総選挙と民意1

12月13日以来「社会変化反対運動と功罪1」のテーマで、日本の変化に何でも反対して来た結果の功罪を書いているついでに、その国外編として12月17日以来国際的日本批判活動をする理由などについて書いてきました。
国内的には、成田空港や高速道路・・新技術が出るたびに全て反対しっぱなしで(公害問題では成果が出ましたがその他分野では・・)その結果についての総括・反省がないまま頰っ被りしているのでは、無責任極まりないことになります。
無責任主張ばかりで、結果について何ら反省しないかことが主な原因で旧社会党がほぼ消滅状態になってしまったとおもわれます。
慰安婦問題についても、社民党党首の福島氏が主導して来たことが知られていますが、これだけの大事件を引き起こした主導者でありながら、何らかの訂正その他の発表をしたとも(私が知らないだけかも知れませんが・・)聞いていません。
今回の総選挙で言えば、消費税増税の必要性をマスコミ各社やマスコミに登場する経済学者の多くがこぞって主張していましたが、その結果、折角立ち直りかけていた日本経済は、この夏以降腰折れ状態になってきました。
それでもなおマスコミ界とその意を受けた財界人や学者が夏に雨が多かったからだとか言ってはこぞって連続増税の実行を主張していた状態でしたが、安倍政権が解散を決めると雪崩を打って政界は増税延期賛成に一致してしまいました。
この結果を見れば、増税は日本のためにならないと言うことが、国民大多数の意見であることを政界もマスコミもみんな知っていたことになります。
増税実行要求を繰り返していたマスコミとマスコミ系経済学者は、解散が決まると手のひらを返すように増税延期に賛成しているのですが、これに対しても何らの弁明・釈明ありません。
だんまりで頰っ被りしていれば、その内国民は忘れるだろうと言う読みでしょうが、旧社会党が頰っ被りの繰り返しで責任をきちんと取らなかったからジリ貧になっていったことを忘れているのでしょう。
組織も個人も失敗した場合に責任を取ることによって軌道修正出来ますが、独裁制・・批判を許さない無責任体制の場合、軌道修正のチャンスを失うことが組織にとって長期的には致命的欠陥になります。
「失敗は成功のもと」と言いますが、失敗しても誤摩化して反省しなければ意味がないのと同様・・反省することが次から失敗しない教訓になります。
マスコミ系学者・政治家こぞって増税実行を要求していたのに、選挙になると黙ってしまい、「争点のない選挙だ」とマスコミが一斉に大報道を始めました。
これは、増税の可否が争点になると自分たちの間違った主張(国民を誤導しようとしていた悪事?)が白日の下に曝されることが分っていたからではないでしょうか?
マスコミその他の御用学者は、国民は無知蒙昧だから、国民の判断は間違っているから、選挙では黙っていてその後に増税するやり方が正しい・・国民を騙すべきだとでも言うのでしょうか?
民主党政権時代には、増税しないと明言・公約して選挙していたのに、野田政権は公約に反して増税決定してしまいました。
国民の意見など聞いていると増税など出来る訳がない・・「国民は馬鹿だから無視すべきだ」と言う非民主的基礎意識の強い政党が「民主」党と名乗っているのでは、ギャグを地で行った政党です。
国民はバカだから騙して良いと言うのでは、選挙制度=民主主義否定論と同じです。
選挙こそ民意反映の最強手段ですから、このときこそ、増税が必要ならば大きな声で主張すべきです。
特定秘密保護法が国民の理解を得られていないと言う批判が(内容に関する批判よりもこの主張が大きいように見えます)、反対論やマスコミに強かったし、今も続いています。
集団自衛権に関する解釈変更も、国民意思を問わないで内閣が勝手に変更して良いのかと言う批判がマスコミや人権運動家で普通に行われています。
反対運動はいつも市民活動家とか市民集会の名称ですが、(自分が市民の代表であるかのような僭称が普通ですし、「国民意思に反している」と言うときに誰が国民意思を判定しているのか不明で疑問したが・・)本当に国民の意思に反して政府が強行したと言うならば、今年夏に解釈変更したばかりですから、直後に解散・選挙になった以上はこのチャンスを活かして、国民意思無視に対する非を鳴らして民意を問えば良いことですし、また自ら争点化して訴えるべきだったでしょう。

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