日弁連と政治4(弁護士自治破壊リスク1)

弁護士会が自由な政治運動・即ち特定勢力支援活動するために、国家の規制を受けない特権があるのではありません。
弁護士や弁護士会は、人権擁護活動するには国家権力と対峙する必要があるので、その限度で自治権が保障されているだけのことです。
個別の争訟事件を離れてでも、人権擁護するための刑事手続法や刑法の規定の仕方などで意見を言うのは合理的です。
このためは政権と距離を置いた自治権・・自由な観点からの主張や建言が必要なことも確かでしょう。
弁護士は、訴訟手続上、権力と正面から戦う職業であることから、(韓国の産経支局長名誉毀損事件では、韓国弁護士は大統領府の意向と正面から対決する役割になります)権力に刃向かうことを理由に懲戒されたのでは、裁判制度が成り立ちませんから、自治権・身分保障が必須であることは文字どおり近代法の原理ですしその限度で現在の原理でもあるでしょう。
このため、弁護士会に自治があって弁護士の懲戒手続は、全て弁護士会内部で行ない政府は口出し出来ない仕組みです。

   弁護士法(昭和二十四年六月十日法律第二百五号)

 第八章 懲戒

    第一節 懲戒事由及び懲戒権者等

(懲戒事由及び懲戒権者)
第五十六条  弁護士及び弁護士法人は、この法律又は所属弁護士会若しくは日本弁護士連合会の会則に違反し、所属弁護士会の秩序又は信用を害し、その他職務の内外を問わずその品位を失うべき非行があつたときは、懲戒を受ける。
2  懲戒は、その弁護士又は弁護士法人の所属弁護士会が、これを行う。

ただし直接国民の信任を問うシステムがなく、しかも自治にあぐらをかいて社会意識に反する弁護士の懲戒をしないと、会自体の信用が低下するので、運営は却って難しいものです。
このため懲戒委員会は世間の良識を反映するために、弁護士だけで構成するのではなく、外部委員として学者や現職裁判官や検察官を選任していてその意見を反映する仕組みにしています。
ただし、綱紀・懲戒委員会は弁護士自治・弁護士の信用を守るために個人的な非行を処分するための組織であって、会の政治的意見・行為が会活動の目的から逸脱しているかの基準を判断する委員会ではありません。
ですから、当たり前のことですが、弁護士自治の限界は裁判や懲戒手続に頼るのでなく、政治活動をどこまでやるのが合理的かは、弁護士個々人が考えて行動し会内民主主義の結果意見を反映して正して行くしかない状態です。
「人権擁護と遠く離れた平和のあり方・軍備の程度や、戦わずして異民族支配に入った方が良いかどうかに関して意見を言い、行動するために自治権が保障されているのではない」と言うのも、私個人の意見に過ぎず、これが正しいかについても言論を通じて決めて行くしかないことになります。
何が、どこまでの政治活動が人権擁護と関係し、弁護士会が関与して行くべきかについての限界論は、会員相互の言論で決めて行くべきことであって、外部の裁判所に頼らないだけではなく、内部の懲戒委員会でも同じですが、権力的に決めるべきではありません。
いろんな立場の意見がありますが、どこか外部権威のお墨付きを求めるのではなく、全て会内民主主義によって会行動の限界を決めて行くべきことです。
ただし、これは弁護士会内部の自己満足の問題であって、会内民主主義を尽くした結果であれば、どんな結論を発表し、人権擁護と遠くはなれた行動をしていても国民が支持するかは別問題です。
弁護士会は選挙や市場行動による直接的国民支持のバロメーターがないために、政治家や商人よりも民意に敏感にしていないと、知らぬ間に独善に陥り、国民意思と遊離してしまって取り返しのつかないところまで突き進んでしまう危険があります。

 法理(原理主義)1から具体論へ

国民のレベルが上がっているので、過去に確立した法理など観念論(大方は過去に風靡したものですから時代遅れです)を紹介して、錦の御旗にすれば良いのではなく、具体的な議論が必要な社会です。
共謀罪反対論者が「近代刑法の精神に反する」と言うだけでは、具体的問題点が不明ですし、非武装論の正当化についても、「憲法の精神に反する」と言うだけで、実質的内容で・・国の安全をどうやって非武装のママ守れるかについての具体的・現実的議論から逃げているのと同じ論法です。
憲法改正論の是非を言うならば、どのようにして日本国の安全を守るべきかを議論し、そのためには現憲法条項が妥当か否かの議論であるべきです。
憲法を変える必要があるかどうかの議論・・即ち憲法理念変更必要性を議論しているのに、改正論はヘイワ憲法の理念に反するから、憲法改正反対と言うのでは論理矛盾です。
この欺瞞性が尖閣諸島問題以降明らかになってきて、左翼系主張が大幅に信用を失いました。
先日の千葉県弁護士会の総会で、ある会員提案議題が否決されましたが、推進論者の意見を聞いていると「世界的な流れに遅れるな」と言うような、抽象的主張中心で、その提案が目指す目的実現とその提案がどう関連するのかについて、最後まで具体的な説明を出来なかったことが否決の主な原因の1つになったと私は思っています。
総会提案に努力していた人には気の毒ですが、提案が悪かったと言うよりは具体的な主張・説明努力の必要性に気が回っていなかったように思えます。
千葉県弁護士会の議論は、結構健全だなあ!と安心しました・・と言うか、議論と言うものはこのようにあるべきです。
タマタマ今朝の日経新聞社説をみていると、上記のような私と同様の関心で書いているのに驚きました。
国会の格差論争について(上滑りな民主党の主張より)どうすればどのような効果があるかについての具体的な論争を期待するもので、上滑りな観念論の多いマスコミも漸く(・・マスコミも少しマトモになって来たかな?)現実的になりつつあるような期待を抱かせる社説でした。
岡田党首の格差拡大・ジニ係数の質問に対して、安倍総理が資産を考慮していない指数では実態を表していないと答弁したことを別の紙面に書いていますが、これは私が従来このコラムで何回も書いているとおりで同感です。
資産保有率の高い高齢者が小遣い稼ぎのために非正規で働いていると、却ってジニ係数が悪化する関係ですから、(億万長者が低所得層にカウント?)こんな半端な指数をもとに格差拡大を叫んでも意味がありません。
岡田民主党党首の国会論争は、流行の言葉をただ追いかけているだけの印象で、上記千葉県弁護士会での会員提案同様に上滑りな印象を免れません。
今朝の社説はマスコミの動きのまだ一部ですが、議論が現実化して来つつあるのは結構なことです。
弁護士会の政治的な議論になると、今でも「近代刑法の精神に反する」平和憲法に反すると」と言いっぱなしで、具体的な議論をしない憲法改正反対や共謀罪制定反対論等が幅を利かしています。
特定秘密保護法反対論も具体的な議論をしないで、「知る権利を守れ」と言うスローガンばかりでは聞いている方は「いい加減してよ!」「もっと具体化してよ!と言いたくなる人が増えていくのではないでしょうか?
この辺からは、2014/11/24「日弁連と政治3」の続きになります。
弁護士は具体的人権救済をする必要があるから存在意義があるのであって、(最近では、国際経済活動にも必要と言う意見が強くなっていますが、ここのテーマでは、あまり関係がないでしょう)具体的人権擁護から離れて、特定政治思想実現のために弁護士会の名を使って活動をするようになると世間から弁護士会が浮き上がってしまうような気がします。
慰安婦強制連行問題のように前提事実が虚偽であったとなると、これを信じて・正しい前提で日本が謝るべきだと世界中で政治宣伝活動していた、その責任がどうなるのかと言う疑問が起きてきます。
弁護士会が虚偽と知らないでやっていたとは言え、(実は日弁連がどの程度噛んでいたかをよく知りませんが・・もしも大きく噛んでいた場合のことです・・もしも個人的な活動だったとしても弁護士と名乗って活動していた場合・・その個人名で何らかの挨拶が必要な感じです。
強制したか否かは問題ではない・・と言う朝日新聞同様のすり替え議論に熱中しているのでしょうが、国民はそんな勝手な言い訳を聞く耳がないでしょう。

近代法理の変容10・破綻1(日本固有の法理2)

学校内の事故も同様で、損害賠償→責任追及されると教員も萎縮する一方で、マトモな教育が出来ません・・。
西洋式の意思責任主義・故意過失原理から解放して、校内の事故には(先生の故意過失の有無に関係なく)運営している学校が責任を持つ制度にすれば良いのではないでしょうか?
ここでは学校内事故を参考に書いていますが、介護施設や病院・スイミングクラブ内・工場内その他施設内の事故については、被害者に自招行為責任がない限り、似たような運用で足りると思います。
法理論・哲学的側面では、意思主義=故意・過失責任論をやめて、法技術的には原則と例外の入れ替え・・被害者が自分で危ないことをしたなどの自傷・自招行為・・施設側が自己の無責任を主張立証しない限り、原則として施設が責任を負う仕組みです。
教育方法の技能アップのための原因究明ならば、内部調査して責任を問うたり譴責して行く・・今後の教訓にして行く方が合理的です。
故意過失の有無にかかわらず学校や組織が賠償・保障すれば、事故にあった子供の親は先生の個人責任を問う必要がなくなり、・・裁判するコスト(熱心に指導してくれていた柔道などの先生を訴えなくても済むし精神面でも)負担がなくなります。
個人責任を問うのは、特に酷い対応をした場合の例外的制度にすれば、既に民事賠償が終わっているので、被害者に関係のない今後の再発防止などの研究や内部秩序維持・・再発防止目的の刑事責任や昇進・格下げや懲戒等の違った側面の問題になります。
現状の民事賠償責任制度では、無理な過失認定仕組みですので過失があると言われた方が納得し難い・・裁判に期待される合理的説得をする機能を裁判が果たしていないで、弁護士に頼っている状態です。
裁判所は個人の選任・監督責任と言いながら、本来の尺度は、古来からのどこまで組織(親)が責任を持つべきかの価値基準で判断しているように見えますが、これを口に出して言えない矛盾です。
このために本人訴訟では、なかなか納得しない被告相手に裁判所から、弁護士に相談してくれと言う勧誘が行なわれている様子です。
しょっ中裁判所から弁護士を頼んだら勝てるようなことを言われた・・だから先生さえやってくれれば勝つに決まっていると言う主張して相談に来る人がいますが、「逆でしょう」と言う事例が殆どです。
裁判所がその人に対して負ける理由を噛み砕いて説明出来ないからその役割を弁護士に振って来る感じの相談が多いのです。
振られた弁護士としては、この主張では負けるしかないと言う理由を苦労して説明するしかなくて、何故負けるかの説明です・・その人の信念・・価値観と噛み合わない説明ですから、大変な苦労をさせられています。
西欧由来の近代法は意思責任のフィクションに頼っているので、そのフィクションどおりに理解すると(秀才型の人に多いのですが・・)却って「俺にどう言う過失があるのだ」理解不能になるる人が出て来ます。
同居して親が監督している場合、どういう風に親が努力していても結果的に監督不十分の責任を取らされるのに、「この子は外に出して大丈夫かな?」と心配のある子供を都会に就職させたり学生寮等に入れている場合、何かがあっても「国許の親が却って監督する余地がない」と言う理由で、何の責任も負わない結果になります。
4〜5年前に私の受任していた大学寮内の暴力事件で、(私は加害者側でしたが)「親には監督責任がない」ことを前提に、親の日本的責任として事実上親が金を出して和解しました。
前近代的かどうかは別として成人した息子であっても、同居している息子が隣の家のガラスを割ったり、怪我をさせたりすれば、成人しているから親に責任がないと開き直る人はいない・・親が謝って弁償するのが普通でしょう。
アパートの独身居住者に何かあれば、親に連絡して(遺体など)引き取ってもらうのが普通です。
親の過失責任などを問題にしていません。
謝りに行って相手から、「親御さんは大変すね」とねぎらってもらえればお互い円満ですが、「あなたの監督が悪いんだ」と居丈高に言われれば、謝る気持ちが薄まってしまう人が多いでしょう。
監督の仕方が良くても悪くとも、(親に過失がなくとも)息子が不祥事を繰り返していると近所の人にとっては迷惑で不安なことは同じですから、無言の圧力があって、障害を持った息子を抱える一家は、その土地にいられなくなってどこかへ引っ越して行くしかなくなります。
親の過失の有無が問題ではなく、傷害や放火行為者の故意・過失にこだわらない・・病気だから故意も過失もないと言って無罪=放置→事実上親まかせにしていた心神喪失者等医療観察法のような隔離する法制度成立前の不備・運用の問題です。
(ただしこの法律は殺人・放火・傷害等一定の重要事件を起こした後の制度ですから、予防・・奇声を発していて不安だと言う段階では全く役立ちません。)

近代法理の変容9(破綻・日本固有の法理1)

殆どの経営者や親は裁判所の・・「もっと監督すべきだった」「監督不行き届きの過失がある」と言うこじつけ的過失認定論理に納得していませんが・・何をしていても駄目(過失がある)と言う裁判に対して、親や経営者としてはどうすれば良いのだと言う不満があります。
元々一家あるいは組織の構成員が何か不祥事を起こせば、その組織全体で責任を負うのは我が国古代からの法理でしたが、西洋近代の個人責任の法理によれば、子供がやった責任を親が負う・・従業員がやったことを別の人格者である経営者に負わせるのは論理的に無理があります。
しかも意思責任を問う近代法理によれば、その事件に直接関係していない親や経営者の責任を等には、何らかの、「故意または過失責任」を認定(擬製)してその責任を問わざる得ませんので、以下のような監督責任を問う法律になっています。
そこで裁判所は、経営者や親が「監督責任」を怠った・・と認定して企業等に責任を負わせる判決をするのですが、親や経営者・企業担当者に対する固有の責任認定・・過失があると言うだけで・・あなたが「悪かった」と端的には言ってませんが、「過失があるから責任がある」と言われている方はあなたが悪かったと言われているような感じを受けます。
親だから・・親方だから、仕事中の事故についてはあなたが、責任を取ってくれと言われた方が納得し易いのです。

民法
(責任無能力者の監督義務者等の責任)
第七百十四条  前二条の規定により責任無能力者がその責任を負わない場合において、その責任無能力者を監督する法定の義務を負う者は、その責任無能力者が第三者に加えた損害を賠償する責任を負う。ただし、監督義務者がその義務を怠らなかったとき、又はその義務を怠らなくても損害が生ずべきであったときは、この限りでない。
2  監督義務者に代わって責任無能力者を監督する者も、前項の責任を負う。
(使用者等の責任)
第七百十五条  ある事業のために他人を使用する者は、被用者がその事業の執行について第三者に加えた損害を賠償する責任を負う。ただし、使用者が被用者の選任及びその事業の監督について相当の注意をしたとき、又は相当の注意をしても損害が生ずべきであったときは、この限りでない。
2  使用者に代わって事業を監督する者も、前項の責任を負う。
3  前二項の規定は、使用者又は監督者から被用者に対する求償権の行使を妨げない。
動物の占有者等の責任)
第七百十八条  動物の占有者は、その動物が他人に加えた損害を賠償する責任を負う。ただし、動物の種類及び性質に従い相当の注意をもってその管理をしたときは、この限りでない。
2  占有者に代わって動物を管理する者も、前項の責任を負う。

自分は親として、使用者として子供や従業員の不始末に対して責任を負う必要があるのは分るが、自分に過失があり、悪いことをした本人であるかのように言われると釈然としない国民が大多数です。
車で言えば、国が免許を与えているのを信用して運転手を雇っているのに、経営者が何故運転手の運転ミス・交通事故について「過失」責任を持つのだと言う意見もあります。
要は「あなたが悪い」と言うのではなく、
「従業員・あなたの子供の方が悪くてこう言う結果が出れば、組織体として、親としての責任を取るべきでしょう」
と言う私のような弁護士が説得をすると、古代からの日本社会の価値観自体を否定する人は滅多にないので、(自分が何か悪いことしたかのような裁判には納得していませんが)私の説明には納得して引き下がっているに過ぎません。

マスコミの情報操作10と表現の自由1

ユダヤ資本の思想→アメリカ流儀は、宣伝戦に勝ちさえすればどんな噓でもまかりとおると言う思想ですし、戦後の国際政治を支配する価値観です。
このやり方にどっぷり浸かっている韓国は、アメリカ同様に歴史をねつ造した上で歴史を直視しない国は滅びるとギャグみたいな主張を日本に要求しています。
自分でねつ造した歴史でも韓国が要求すれば、これを日本が認めるべきと言う要求を繰り返しています。
以下、アメリカ式「ねつ造歴史強制主義」・・戦後レジームの正統性に関する疑問・・・個々人の言論の自由と言論を商品として大量供給するばあい・マスメデイアの言論の自由との違いに入って行きます。
自由経済主義の権化・・本家である筈のアメリカでさえも、各種商品供給に関しては厳しい規制が供給前後を通じてなされていることを2014年12月30日に書きました。
以下その続きになります。
資本主義・自由主義・市場主義国家の守護神を任じるアメリカでさえも、商品供給に関しては独占禁止法に始まり個々の商品の安全性に関して大幅な修正・・規制しているのが現在社会です。
商品販売の自由と表裏一体の関係にある思想表現の自由に基づくマスコミの意見は大量拡散方式ですから、これもまに商品供給としての品質保証原理による規制があってしかるべきです。
マスコミになると、個人の意見発表とは異なり商品供給の範疇であり、マスコミの意見の危険性に関しては不良品流通による一般商品の危険性と大差ないのですが、この商品供給に関してだけアメリカでは殆ど修正を受けていないのは奇妙な感じです。
ただし、ユダヤ支配と言われるアメリカでさえもテロの激化によって「愛国者法」とか言う法律で、テロとの商取引だけではなく、テロを応援するような意見が厳しく規制されていると言われますが、(原文は知りません。。受け売りです)気持ち・動機はユダヤ人保護でしょうが、対ユダヤテロだけでは不公平ですから、条文上は多分どんな民族相手のテロでも規制されるようになっている筈です。
対テロ対策に限定せずに、将来的には個人の言論の自由と大量拡散の言論・・無茶な宣伝誘導のやり放題とを分けて考える時代が来るべきでしょう。
ユダヤ系資本・情報系の力がアメリカでは強過ぎて規制出来ない・・この分野だけやりたい放題・・(テロ応援を除いて)自由主義が貫徹していることが分ります。
ロシア中国等の後進国では逆に政府が強過ぎて、政府批判報道が出来ないで、政府に都合の良いプロパガンダばかりが支配する状態が続いています。
中共政権が思想表現の自由を認めないままで市場経済に参入するのは、矛盾だから早晩瓦解すると言う前評判が一般的でしたが、改革開放後30年経過しているのに一向に瓦解しません。
最近政権が危険水域に入って来たのは、思想の自由がないからではなく民主化してもいつか体験する(一定の経済成長があると低賃金モデルに無理が出る)中進国の罠と言われる経済失速によるものであって思想の自由がないからではありません。
アメリカの場合でいえば、商品供給に自由主義の修正要素を持ち込んでいるのに、思想表現の「商品」供給にだけ手を着けられないでやりたい放題にしているのは中国とは逆の矛盾関係です。
即ち自由主義経済の強化のためには規制を強めるしかないと言うパラドックスですが、(原子力発電や高速道路や新幹線など利便性の強化に比例して危険性も大きくなるので規制が強化される関係)独占禁止法の運用は日本などに比べて強力ですし、医薬品出荷前には厳重なテストの繰り返しが求められていますし、車であれ飛行機であれ、およそ各種製品出荷前後(出荷後はリコール強制など)の品質基準の保証が重視されています。
科学研究・製品開発はそれ自体がガリレオの例を引くまでもなく、思想の自由の結果ですが、製品・商品化する以上は、このようにいろんな事前〜事後規制を受けても仕方がないと言うコンセンサスが出来ています。
これらについて憲法違反を主張する人はいないでしょう。
職業選択の自由が憲法で保障されても、医師や弁護士・薬剤師・パイロット等には資格試験があるし倫理違反の場合には、懲戒があります。
・・これらも憲法違反論を聞いたことがありません。
共通項としては、消費者・市場淘汰による事後選択では間に合わない・危険な分野では、商品供給者になる場合には、別途事前検定が必要と言うことではないでしょうか?
このように・・個人的に思想表現するのは名誉毀損にならない限り何を言っても構わないですが、マスメデイア・情報供給も商品流通の一態様としてみれば、事後の市場淘汰に任せ切れない分野である点では医薬品や車や航空機等と同じです。
車や医師・弁護士等の場合、独占の弊害が滅多にありませんが、事故が起きてからでは遅いと言う点で事前規制があるに過ぎませんが、マスコミの場合は虚偽情報が蔓延して国民を惑わしてしまってからでは取り返しがつき難いだけはなく、国民は数社程度(テレビ等はホンの何社もありません)からしか選べない不自由な分野・・独占の弊害もあります。
事実上独占に近い状態の外に、事実無根の報道繰り返しによって意図的に日本民族を貶める刷り込みがされると民族全体の利害に関わり、取り返しのつかなくなることが多いので思想表現の自由は憲法で保障されていると言って、そこで思考停止しないで安全のために何らかの工夫がいるのじゃないかと言うのが今回の提案です。
(上記のとおり職業選択の自由や研究開発に関する思想の自由も憲法で保障されていますが、業とするには制限があることや商品化するには検査が必須であることを誰も怪しんでいません)
薬品製造前の厳重なテストの仕組み・・これを報道商品にそのままに適用することは出来ませんが、この精神を応用して思想表現の萎縮を招かないような工夫の余地(両論併記を義務づけるなど)はいくらもある筈です。
危険な薬品その他の出荷前に基準を守らせる仕組み・・これを報道と言う商品供給にも思想表現の自由と折り合いを付けながらの仕組みを工夫適用出来ないかの関心で書いています。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC