原理主義の本籍(1神教)2

西洋では長い宗教戦争の時代を経て漸く理性の力で信教の自由を相互に認めあって、殺し合いをやめることにしましたが、これは理性の力によるものであって、1つの価値観だけが正しいと言う基礎精神・心情はそう簡単に変わりません。
日本では権利だの革命だのと言う前の古代からお互いいろんな考え方があると言う意識でやって来た・・心底相手の違う考えを認める社会です。
私の場合、好き勝手な意見をこのコラムで書いている代わりに、読者が賛成してくれても、賛成してくれなくとも、私は気にしません・・好きなように読んでくれたら良いし、勿論読まなくとも良いのです。
2月17日に午前中の東京高裁事件を終えて、日比谷松本楼で妻と食事してから日生劇場で同性愛カップルをテーマにした(80年代にブロードウエー初演大ヒットしたとのことですが)・・のミュージカル「ラ・カージュ・オ・フォール」を見てきましたが、「何で関係ない他人が他人の同性愛に反対するのか、アメリカ社会は窮屈な社会だなあ」と思いながら見てきました。
勿論ミュージカル自体は男性中心スタッフで、ダンスには「切れ」があって、楽しかったですよ!
「アメリカの思想は窮屈」と言えば、アメリカが自分が良いと思っている民主主義とか人権など、一定の価値観が良いとなればこれを世界に押し付けたがる点も、余計なお世話ではないでしょうか?
欧米では宗教戦争を漸くやめて〜市民革命を経て違った価値観を認めることにしたとは言え、考え方の基礎に一神教の価値観が残っているから今度は「民主的でないと行けない」と世界中に強制しようとしています。
他方、ソ連は共産主義が良いとなればこれを世界に広めようとしてコミンテルンを結成して布教?に努めた結果、いわゆる米ソ冷戦が起きました。
要は一神教の原理から逃れられず、どちらの生き方が良いかの決着を付けるためには戦争まであり得る前提でしたから、一種の第二次宗教戦争の意識で双方で頑張って来たことになります。
アラブ諸国では、1神教のままで、西洋のように宗派の違いによる宗教戦争の時代すらまだ経験していません。
ところで、イスラムの教えはダウ船の発達による商業活動の広がりにあわせて広がって行ったことを以前書いたことがありますが、(アラブの本拠地に比べてインドや湿潤な東南アジア諸国とは、気候風土が全く違いますので、硬直した教えでは広がらなかったと思われます)キリスト教のように異教徒に対してさえ排他性が少なく、寛容な宗教なので、ましてや宗派間のちょっとした違い程度で殺しあいの紛争が起きなかったのではないかと思われます。
この辺は日本人が宗派の論争にあまり価値を置かない・・一見無宗教のように見えるのと根が同じ・・通じ合えるのではないでしょうか?
日本人の場合、「郷に入りては郷に従え」と言うように「所変われば品変わる」と思うのが普通で、他所の国に行けば「へえーそんなこともあるの!」と違いに驚いて面白がるくらいが関の山で、気候風土の違う行った先で日本の価値観を押し付けたいと思う人はあまりいないのではないでしょうか?
日本列島は南北東西に長いので、行く場所ごとに気候が違えば同じ作も持つで作る時期順序も違うし、違った産業(山村から海岸に出れば漁業があるなど)作物があるので場所が違えば生き方が違うことが古代から自然に身に付いています。
行った先の気候にあった生活をするしかないのは当たり前のことで、現地社会に溶け込むように努力している・・目立たないことが生きる智恵ですから、移民先で日本人街を作りません。
このように考えるとイスラム教徒は意外に日本的価値観に近いかも知れません。
今原理主義が勢いを持って来たのは、あまりもキリスト教的価値観による侵蝕・押し付けに危機感を持った若者が出て来たことによるのでしょう。
日本であまりにも韓国・中国による激しい日本に対する攻撃に対して、一部日本人に嫌韓・嫌中感情が芽生えて来たのと同じ構図です。
これをマスコミは日本や先進国では極右とか極左と言い、アラブでは原理主義とレッテル貼りしているだけのように見えます。
アラブ諸国の騒乱をイスラム原理主義勢力によるとマスコミが定義付けしていますので、皆さんもそのように理解していると思いますが(私もこのテーマで書き始めるではマスコミの言うとおりに誤解していました)が、まだ内部宗派間対立による激しい戦争まではやっていません。
原理主義だとか極右・極左と相手を貶めるレッテル張りだけでは、モノゴトの本質が見えないことが分ってきました。

原理主義の本籍(1神教)1

原理主義者の支配する「イスラム国」と言っても彼らのモットーは原理主義ですから、少しでも違う意見を全く認めない・・一切妥協出来ない以上は、内部対立の激化→引き締めは恐怖政治しかあり得ないので、長期的な統治は無理があって、(スターリンのような特殊人材が出るかどうか次第です)一定期間経過で内部からどうにもならなくなって行くのが目に見えています。
古来ジャコバンであれ、なんであれ恐怖政治が長く続いた例はありませんので、放っておけば自滅することをいじりまわして問題を大きくしているのが欧米の介入政策です。
ただし規模程度やタマタマ内部人材次第でスターリンのように長く続きますが、それでも放っておけばソ連のようにいつかは自壊します。
ソ連の恐怖政治はすごく長くて永久化したように見えましたが、結果から見ると革命後でも6〜70年しかなかったのですから、私のような高齢者になってみると「たったの70年もなかったのか!と言う感じになってきました。
我が国がアメリカに支配されている戦後の欺瞞秩序だって、いつの間にか70年もたつと無理(噓のほころびが目立つようになります)が出て来たので、安倍総理の70年談話内容がどうなるかを世界が固唾をのんでみているところです。
恐怖政治の寿命に戻しますと、もしも放っておいて長く続くものならば、ロシア革命後の白色テロや赤色テロに対する列強の介入・・シベリヤ出兵のように外野から介入してもどうなるものでもありません。
ロシア革命後のソ連の恐怖政治はスターリン死後急速に内部崩壊が始まって行ったのであり、介入によるものではありません。
(フランス革命に対する周辺国の介入も、何の効果もなく、却ってナポレオンが誕生しました)
北朝鮮はアメリカを中心とする敵視政策によってハリネズミのようになっているので、却って無茶な独裁体制が存続出来ていると見るのが普通でしょう。
ところで、世界中で左右を問わずに過激思想・・原理主義的主張や行動が増えて来た・・あるいは目立つようになって来たのは、イスラムで言えば世俗化の進行に不満を持つ少数者を生み出したことに原因があります。
詳しくは知りませんが、キリスト教の一派◯◯教徒のように自分たちだけで特定教義を信じて山奥で生活している分には無害ですから、偏狭な意見でも何でも放っておけば良いことです。
ベジタリアンであれ、◯◯愛好家であれそのグループが勝手に愛好してる分には何の害もありません。
(犬好きも猫好きもそれぞれが大会を開いて満足していれば良いことですが、喧嘩までする必要がありません)。
自分の考えや好みを他人に押しつけたがるおせっかいな人やグループが厄介です。
「山登りやスキーが楽しい」からと登山したくない人に、強制したり登山出来ない人を貶めたり迫害するようになると迷惑でしょう。
西洋系宗教関係者(日本の場合日蓮系・・折伏と言うおどろおどろしい用語を使います)は布教と称して、特定思想や行動様式を「これは良いぞ!」と押し付けたい傾向の人が多いからトラブルになります。
それだけならまだ良いのですが、考えや行動様式が違うからと他者に強制したくなるだけではなく、意見が違うことを理由に殺し合いまでしたくなる点が一神教徒の異常性です。
我が国で◯◯宗と言っても、佛教典の中のどのお経を中心に考えるか(華厳宗・法相蹴・真言宗・法華宗・・)と言う一種の学問系列的要素が濃厚です。
佛教は知識や文化の導入便宜として利用して来たことを書いてきましたが、宗派と言っても法学部、経済学部程度の違いでしかないことになります。
昔から高僧はいろんな宗派の寺院を渡り歩いていろんな勉強をして来たのは、(この勉強はこの寺院で・・)学問の場所と言う意識によります。
宗派対立で、人殺しまでしなくてはならないような意識はありません。
三井寺と叡山の「寺門山門」の争いは、宗教の争いと言うよりは世俗的利権争いと見るべきでしょう。
そもそも異教徒なる日本語は昔から存在しなくて、西洋語の翻訳として入って来たものではないでしょうか?

テロリスト1と原理主義6

どこの国・社会にも、少数ではあるものの社会に対する不満の結果、一定数の過激思想の持ち主がいます。
社会に不満な人は一定数いるもので、その比率を下げることは可能でも、皆無にすることは困難ですが、昔は少数者や精神障害者が暴発してもすぐに取り押さえられて大した結果になりませんでした。
※最底辺の人だけが鬱屈しているのではなく、東大受験に落ちた人・・東大や一流企業に行ってもそこで落ちこぼれた人など各階層ごとに鬱屈した人は一定数います・・これがオーム真理教事件グループ内に一定のエリートがいた原因です。
要は個々人の精神の持ちようの問題が基本ですから、政治がうまく行っていれば鬱屈した人が減るものではありません。
アラブ諸国で過激思想の持ち主が仮に数%しかいなくとも、これが武装して過激行動に出ると厄介です。
先進国でアラブ原理主義に共鳴する人がかりに0、00何%しかいなくても、この僅かな人がイキナリ銃乱射事件や爆破を起こすと大変なことになります。
テロの脅威が高まったのは、始皇帝を狙った刺客列伝に出て来るような刀槍の時代に比べて、極端な少人数(100万対一人の戦いでも死を覚悟しての不意打ちの場合)でも火力が大きくなっていて大変な威力を発揮出来るようになったことに原因があります。
物理的威力・結果としては昔と大して変わらなくとも、平和社会になった反動で、1〜2人の殺傷でも、安心社会に対しては大きな衝撃を与えられるようになっています。
日本は平和な社会に慣れ切っているので、比例してテロに対する抵抗力が精神的に弱くなっています。
イスラム国のテロ組織に殺された日本人は2人しかいませんでしたし、しかも遠くの危険地域へ自分でへでかけて行った人でしたが、日本社会に与えた衝撃が甚大だったのです。
しょっ中あちこちの殺人事件や交通事故が報道されるので、「最近は物騒な世の中で困りましたね」と言う人がいますが、刑事事件統計では凶悪犯や交通事故死はもの凄く減っていることを大分前に統計表をコピーして紹介したことがあります。
昔は問題にならなかった北海道や九州のちょっとした事件や交通事故まで、東京で繰り返し報道するから、しょっ中事件があるような印象を受けるだけです。
「物騒になった」とか、「うっかり子供を遊ばせられなくなった」と言う人は、客観的事実を言っているのではなく、最近の「安全安心社会」を前提にちょっとした危害にも敏感になり耐力がなくなっているから、不安感を強調していることになります。
人間は暖かくなれば、たまにちょっと寒いと厳冬期より暖かくっても寒いと感じますし、その置かれた環境を基準に生きているものです。
しょっ中目の前で人殺しや強盗に遭っている社会では、ちょっとやそっとの犯罪に遭遇した程度で驚きません。
報道写真家の行動を見ていつも疑問に思うのですが、アフリカで裸足で歩いている子供は生まれつきそうした環境で育っているので、こちらの基準で可哀相と言って報道したり、クツや衣類を持って行って配る必要があるでしょうか?
現地の産業興隆の底上げに協力するならば意味がありますが・・衣類や食糧を配ることほど意味のないことはありません。
暑い国の人は可哀相だ、寒い国の人は可哀相だと言うのと本質は同じで、それぞれその環境が慣れていていいから極寒・炎熱の地で生きているのです。
紛争地域の子供は貧しいだけのアフリカの子供よりも悲惨なようですが、彼らも長年続く紛争やテロの現場を見聞きする環境で育っているのであって、日本の環境と比較して可哀相だと言って写真を撮りまくっているのって、上から目線っぽい感じがしますが、そう思うのは私だけでしょうか?
命をかけてテロの現場に入り組んで報道する人がいないと彼らの悲惨な現状が世界に伝わらない・・立派な行動をしていると賛美する印象のマスコミ報道が一般的です。
昨日書いたようにテロリストは一種の愉快犯ですから、世界に大々的発信してもらう方がやりがいがあるので、耳目を引くやり方をとっています。
彼らは政治支配する目的がない・多数の支持を必要としていないのですから、あっと驚くような残酷さなど大げさにアッピールすることが楽しみであり、目的でしょう。
こう言う手合いは、実は彼らの要望に応じて大々的な報道しないで放っておけば(政府・国際機関としては情報収集するのは必要ですが・・)自然消滅してしまうしかない運動体です。

原理主義と利害調整4(未成熟社会1)

大統領制といってもドイツやインドのように首相が全権を握っているお飾り的な大統領制から、ある程度議会が機能しているアメリカ、韓国、フィリッピンやインドネシア方式から、独裁制に近いロシアの大統領制まで多段階です。
お飾り的な大統領を除けば、議院内閣制の国に比べて大統領の権限が強力・・原則として行政執行に議会の同意が要らない点が共通→その分複雑な調整過程が不要・・しかも任期の長い点(韓国では1期5年です)が共通です。
軍事独裁政権・または旧ソ連や中国の共産党政権は、大統領制に移行するまでの過渡的社会形態ですから、社会の発展段階・・能力に応じて利害調整努力している点では、軍事政権・独裁政権と言ってもいろいろなニュアンスがあります。
調整能力のない民族が社会状況を無視して、民主主義を導入して、民意をまともに聞いていると国民は勝手な主張ばかりで妥協を知らない以上は、混乱し、内部紛争が激しくなるばかりです。
これが独立後のアフリカ諸国で発生した内戦・・部族紛争多発の原因でしょう。
未成熟社会では、アメリカや韓国のあるいはロシアのような大統領制にして任期中民意を直接問題にしない強権発動形式(国情によってニュアンスの段階がありますが・・・)にするか、そこまで行かない社会では専制的な軍事独裁体制(選任が民意によらないだけで日常業務が直接民意に縛られない点では大統領制と運営方法は同じです)が似合いです。
これが新興国で言われる開発独裁が賞讃される所以ですが、調整能力のない民度の社会では、民意を一々聞いていたら何事も進まない点では、開発に限りません。
開発独裁がうまく行くのは、タマタマキャッチアップは簡単で成功率が高く、開発→急成長があるので民意無視の強権政策のマイナス点・不満が陰に隠れているだけあって、成長が止まると矛盾が吹き出して(民意無視で我慢させられていた不満が吹き出して来て)独裁政が行き詰まります。
日本で言えば成長さえすれば、財政赤字や自殺問題が解決しそうになるのと同じで、成長が全ての解決策の底上げ材ですし、逆から言えばマイナス成長は全て不満・矛盾拡大の根源になります。
この危機感に揺れているのが、中国の成長鈍化リスク→習近平政権による内部引き締め策・・その次に用意されるのは粛清に継ぐ粛清をして来たスターリンのような恐怖政治でしょうか?
勿論軍事政権も民意を全く無視して良い訳がない・・国民の支持があった方が良いに決まっていますから、国民に支持して欲しい点では民主国家と本質は変わりません・・ここでは、法形式の違いと強権政治を受入れる国民意識の違いを書いています。
原理主義勢力とは、軍事・または独裁政権が、国民支持を求めるために徐々に進めている近代化・(トルコやサウジで言えば世俗化の進行))妥協を許せない、超保守・反革命勢力(例として言えば、中国の文化大革命・・アラブの女性にスカーフ着用を強制しろと言う原理主義)ですから、アラブ諸国での原理主義による反政府運動=民主勢力とするかのような歓迎論調のマスコミ報道姿勢は間違っています。
アラブの春で勢いを持っている原理主義グループは、(世俗に汚れた?)軍事政権よりもモット純粋に信教の自由を許さない・その教義もイスラム教徒内での偏狭な強硬一筋の宗派の意向の独裁体制の復活を求めているグループのようです。
(アメリカでもキリスト教の一派で特定教義にこだわる宗派があると言われますが、その宗派を過激運動体にしたようなものか?)
アメリカの茶会党も、利害調整を拒否する=他者の主張との妥協・利害調整を一切認めない傾向が強い点では、宗教に本籍を持っていないとは言え、アラブの原理主義者と傾向・本質は同じです。
アメリカは中東アラブ諸国での軍事政権打倒運動勢力を、反政府=民主主義議勢力であるかのように(マスコミ同様に誤解していて)応援するか、応援しないまでも民主勢力に軍事政権が妥協すべきだと言うスタンスが多い・・エジプト軍事政権に非協力になっているのがその結果ですので、中東・アラブの混乱が却って広がっている感じです。

原理主義と利害調整3(成熟社会1)

成熟した社会とは、具体的利害調整能力に長けた社会と同義ですから、高度な調整能力のある社会だけが本来の民主政体の成果を享受出来ます。
どんなに気のあった同志で結成した政党も、いろんな問題が生起する都度、完全に意見が一致する訳がないので、意見があわないからと言ってその都度分裂したり・・これが部族間の利害対立の場合、何かある都度意見相違の調整能力欠如のために毎回殺しあいの対決をしていたのでは、社会が安定しません。
幼児に自分たちで自主的に運営しなさいと言っていろんな行事の進行運営を丸投げすればどうにもならなくなるのと同じです。
新進党から始まる野党の歴史をみると、意見がちょっとあわないと言っては、分裂・合流を繰り返していますが、こんな未成熟な人の集まる政党では国政を任せられないと思う人が多いでしょう。
現在野党の構成員を日本社会の縮図の反映としてみれば、妥協・利害調整能力のない・・または調整したくない原理主義的グループ代表のようです。
世界で複雑な利害調整能力のある民族・社会は、英仏独伊を中心とする西欧諸国と日本・カナダくらいでしょう。
それ以外の世界ではアメリカ以下いろんなランクがありますが、100%民意に任せていると無茶苦茶になってしまいます。
これがアラブの春以降のアラブ諸国で起きている大混乱の原因です。
日本は古代から庶民レベルが高く元々ボトムアップ社会です・・多様な意見を併存させて行く社会(八百万の神)ですから、これが排他的な一神教を嫌う基礎的原因です。
・・このために排他的宗教活動に邁進している日蓮が鎌倉・北条政権から弾圧を受け、江戸時代に入ってもこれの原理主義的行動をやめない不受不施派が江戸時代に禁圧されると同時に、キリスト教が弾圧された真の原因です。
占領軍の思想支配下で、戦後教育が始まりましたので、頻りに江戸時代には厳格な階級社会であったと教えられますが、そんなことはありません。
幕末動乱で活躍した下級武士を如何にも例外のように教えられますが、約200年前に天下の政治を動かした新井白石はただの浪人上がりでした。
薩長に限らず幕末に幕府代表として活躍した勝海舟は下級ご家人上がりですし、武士が町人になったり(芭蕉や平賀源内など)いろいろ入れ替わりの激しい社会でした。
「平等を説くキリスト教が弾圧された」と学校で教えますが、日本は万葉の昔から、元々庶民力の強い・・能力さえあれば天下人にもなれる平等に近い社会でした。
まさに・・庶民から出た秀吉が天下をとったばかりのときに切支丹禁止が発令されているのですから、日本の身分社会に合わなかったと言う説明の虚偽性が明らかです。
このころのキリスト教社会は日本と違って強固な身分社会でしたし・・今でも階級制が強固に残っていることをココ・シャネルの映画を見た感想としてコラムで書いたことがあります。
戦後の教科書説明では占領軍=キリスト教にオモネて虚偽説明を始めたまま、今も改めない・・教育界がアメリカによる日本支配思想にどっぷりと浸かったまであることと、もしも改めようとするとこの支持者がアメリカに御注進に及ぶことが目に見えています・・戦後秩序挑戦とアメリカに警戒され・・お決まりの世界で孤立すると言う論争になるのでしょう。
上記のように西洋社会では多様な価値観を否定して来たキリスト教支配から始まっているので、多様な価値を認める社会を知りませんでした。
ちなみに多神教のギリシャ・キリスト教国教化前のローマと西洋社会は連続性がなく、別物です・・念のため。
宗教改革を経て漸く縛りが緩み、いろんな価値観を認める社会基盤が出来て来たことから、フランス革命(言論・思想信条・信教の自由)に繋がり、(その後もナポレオン〜第二帝政など行きつ戻りつしましたが・・ド・ゴールの第五共和制で漸く安定したことを以前書きました)以降約200年経過で徐々に民意・・各種利害調整能力がついて来た状況です。
それ以外の社会では当面、民主化したと言っても選任するときだけ民意を反映して、後の具体的政治決定はリーダーにお任せの大統領制にしてお茶を濁しているのが実情です。
(大統領制も独裁に近いロシア型からアメリカ型までいろいろあります)
この辺は、「民意に基づく政治4(大統領制と議院内閣制3)」Published July 16, 2013前後で連載しました。

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