非武装平和論の利益帰属主体は?1

社会党が方針転換するには党内に異論があったでしょうが、この時点で社会党内ですら自主防衛権否定論は少数説になっていたことになり、社会党内でさえ異端の少数説が憲法学者の世界では多数説として生き残っていることが分ります。
このように憲法学者は社会党でさえ支持しない国内で浮き上がった主張を維持する存在になっていたにも拘らず、集団自衛権に憲法学者の多数が反対していることを以て、「国民多数の反対を無視して強行した」とすり替えてマスコミが宣伝しているのですから不思議な論理です。
元々彼ら憲法学者の多くは、(憲法を字義どおり・・制定者の真意をそのまま守るために?・・解釈合憲の便法を認めず)社会党が認めた自主防衛権さえ反対しているのですから、集団自衛権にも反対するに決まっていますので、彼らが反対声明を出しても本来何ら新しいことではありません。
こう言う勢力が国内でマスコミの応援を受けて実態以上に声が大きかったことが、日本に対しては何をしても構わないと言う周辺国の侮りを受け、竹島に対して毅然とした態度を取らないことが尖閣諸島に対する領土要求を誘発し、反撃の心配がないことから気楽な反日批判を誘発して来たのです。
中ソをバックにして日米安保条約を根底から否定して来た反米左翼・文化人が、アメリカの非人道的占領政治を一切糾弾しないばかりか、アメリカ軍による制定憲法に対する護憲勢力化しているのは一見矛盾です。
彼らはアメリカ支配を拒否しているだけであって、中ソによる日本支配を期待していたとすれば、日本が異民族支配に不満を持たず無防備無抵抗主義・・弱体なままのが方が便利です。
このためにインド独立に関しては、ガンジーの無抵抗運動の結果独立出来たかのようなマスコミ宣伝や教育されて来ましたが、実態は違います。
独立の戦いが続いていてその終盤に無抵抗の運動も参加したに過ぎません・・欧米系マスコミは独立運動に負けたと言いたくないのでガンジーを大げさに報道しているだけでインドではそんな意識はありません。
黙っているだけでどん欲な欧米諸国が植民地を手放す訳がないことは、(ベトナム戦争で有名ですが・・ビルマ、インドネシア、アルジェリアその他全て独立戦争または内乱的動乱状態を経て独立出来たのが)歴史事実です。
ソ連が東欧諸国を人道的配慮だけで独立させたとでも言うのでしょうか?
ハンガリー動乱やチェコやポーランドの事件など戦車で蹂躙して来たことを歴史から抹殺してしまい、なかったことにするのでしょうか?
話を戻しますと、「無抵抗主義・弱い者は何をされても仕方がない」と言う教育が戦後70年もやられて来たので、世代が入れ替わって民族の誇りを失ってしまった筈と周辺国は安心したのでしょうか?
まだ無理があると思っても、彼らに協力的な民主党政権時の内にやるしかないと言う判断もあったでしょう。
骨抜き教育の必要性は、ソ連が崩壊してロシアになり主役が中国に変わっても、根本方針は変わりません。
民主党政権には社会党政治家であったときの反米・非武装論者が、民主党員に衣替えして多く流れ込んでいることから、イキナリ対米冷却化路線に進んだことから、周辺国が(日本内部の呼応勢力?の有力化に)俄然勢いついたのです。
ロシアが北方海域での軍事活動を活発化させると同時に列島を周回する軍用機の威嚇行為が繰り返されるようになり、韓国では大統領自ら竹島上陸・・天皇に対する国家元首の発言としてはあるまじき暴言を吐いた上で、ひいては壱岐対馬侵攻作戦すら取りざたされるようになりましたし、これに呼応して中国は、尖閣諸島への侵犯行為を激化させて行きました。
領海侵犯して来た不法中国人を検挙した海保の果敢な行為に対して民主党政権は、侵犯行為のビデオを公開しないで、根拠なく釈放を命じてしまいました。
さすがにノーテンキな日本国民も日本列島を取り巻く三方からの一斉侵略・威嚇行為が露骨になったことで、日本世論が騒然として来ました。
旧社会党の非武装平和論・・何をされても抵抗しない?政策を踏襲するかのような民主党政権・・何をされても検挙すらしないと言う基本的政策にノーを突きつけた国民意識が、当時自民党総裁選挙でマスコミから、泡沫候補扱いされていた安倍政権誕生の原動力になったと言うべきでしょう。
日本国民は無抵抗主義を放棄して断固違法行為に対抗する意思表示をしたことになります。
日本民族は西欧の民族主義が始まるずっと前の古代から・・白村江の海戦敗北以降日本列島を上げての列島防衛意識の高まり・・戦う前提として国家体制の再構築(大化の改新)に邁進し、防人制度・・東国人中心に編成されていた・その地域まで協力していて破綻しないで、機能していたこと・中世での蒙古襲来時の団結力・秀吉の切支丹禁令もカソリックの侵略体質に危険を感じたことが原因があった・・・幕末ペリー来航時の庶民に至るまでの国防意識の高まり・などなど、民族防衛意識は世界一高い民族性です。
平和なときが続けば、幕府ご家人が朝湯を楽しんだりして骨抜き状態に見えましたが、幕末に「太平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船のシャレ)たった四はいで夜も寝られず」(上喜撰・・当時の高級茶の名称・・カフェインの作用で眠れないのに引っ掛けた傑作です)と歌われたことから知られるように、イザとなれば、すぐに民族防衛DNAが覚醒し復活する体質です。
戦後70年にわたって占領軍によって強制されて来た民族の骨抜き政策・教育効果が、表面のメッキ程度に留まっていた・・日本民族のDNAは損なわれていなかったのです。

憲法改正・変遷1

先進国のありようを後進国留学者が学んで来て、立派な概念を輸入・→「一般国民に教えてやる!」場合に、(遅れた?)国民から見れば急激な・・想定外の大変化になります。
分り易くするために文字・・成文法で書く・・本などを書くからには・・何回も見直すことになる結果、前後整合性のあるように自然に体系的な形式になります。
これを国民に教える・・普及させる人が必要ですから新しく考えるよりは過去の事例を学ぶのが得意な学者が指導性を発揮します。
先進国の場合、他所からの完成品の輸入ではなく必要に迫られて実行してみた結果、生じた不都合に合わせて修正して行くことになる・・徐々に社会意識や実態が変化していくのにあわせて憲法解釈を変えて行くのが合理的です。
この辺の違いは、先進社会であったイギリスの経験論と大陸の観念論と言うテーマで12月17日に書きました。
左翼・文化人は未だに自分たちだけが知っている自慢をするためか?国連情報などを振りかざして「前衛」と言う立場で、国民を指導しようとしているから、おかしなことになっているのです。
この辺はNGOが頻りに「国連報告」と言う箔付けを得て、国内政治に利用している動きの批判を書いているところで、「国連報告のいかがわしさ2(御神託)」2015/11/18以来話題が横にそれていますが、共通の問題ですから、近い内にそのテーマに戻ります。
先進国では、イキナリ他所から有り難い考えを学んで来て改正運動するのではなく、社会実態の変遷に応じて憲法が徐々に変わって行くべきです。
タマタマ今朝の日経新聞朝刊の「私の履歴書」を読んでいると、米国で最先端流通を学んで来て国内で張り切って実践しようとして現場と合わないで失敗した元大丸社長の経験談がのっています。
流通現場に限らず社会と言うものを相手にする場合、相手にする社会意識を無視出来ない点はみな同じです。
例えば非嫡出子の相続分差別が合理的か否か、夫婦別姓を認めないのが憲法違反かに関する意見は、夫婦のあり方に関する憲法意識・・社会実態の変化・・女性の社会進出の流れその他を経て議論が熟して行くものですし、(数学の計算のように頭さえ良ければすぐに答えが出るものではないばかりか、他国の意識を基準にするべきものでもありません。)社会の基本に関する意識の変化は10年や20年で決着がつかないのが普通です。
タマタマ12月16日夫婦別姓に関する最高裁判決が出ましたが、この判決文はまだ入手出来ないもののマスコミ報道によると、観念論によって決めるのではなく、社会実態の変遷を詳細に認定したうえで、夫婦別姓を認める方向へ意識が変わりつつあることを認めながらも、姓の選択権を認めないのが違憲といえるほど社会意識が今なお熟していないと言うもののようです。
裁判所が神様のように御神託を述べるのではなく、社会がどう思うようになっているかの事実認定をする機関と言う立場の宣言です。
選択制を望む国民が多いのに憲法が邪魔しているから改正出来ないのではなく、法律改正すれば足りる・・立法府の自由裁量であるのに反対論が多くて立法に至っていない状況それ自体が、国民意思がなお充分に一致していない状況を表していると判断した大きな理由であると推定出来ます。
国民主権が事実上無視されている状況があれば別ですが、今のところ選挙の公正が保たれているし、政党の勢力分布は、国民意思を大方反映していると見ることに国民が違和感を持っていないでしょう。
別姓支持者も内心意思を分析すれば、別姓がいいかどうか少しは迷っている人がいるでしょうし、自民党支持者もみんなが反対とは思われません・・一人の人間の中で見てもいろんな意向が入り組んでいる状態で法案を通そうとする強い力になり切れていない曖昧な状態が正に国民総意であると思われます。
このような判断過程を経た結果、夫婦別姓を認めるかどうかは、政治・国民意思で決めるべき分野であって国民が決めかねている状態を(上から目線で?)違憲とまで決め付ける・・即ち選択権を認めよと国会に強制するのは、越権?時期尚早と言う判断のようです。
文化人は国民が迷っていることについて(自分が進んでいると思う方向へ)一方的に裁判所が神様のように(一歩先に)決めてくれるのを期待して、訴え提起することが多く、今回の合憲判決に落胆している・・裁判所の後進性?に不満があるようですが、司法機関は過去の事実を公平に認定するための証拠法則などに精通していて訓練をうけていますが、先見性の能力が保障されている訳ではありませんから、社会が進むべき指導力発揮を期待すること自体が誤りです。
近代に確立した法体系・近代法の原理がテロの挑戦を受けていると言うテーマに関して、司法権・・刑事手続が、過去の事実認定手続に特化している・・テロ予防に対応出来ない点がある・・・近代社会で確立した憲法自体部分的に変容して行くべき時期が来ていないか?と言う観点でこの後で書く予定です。
司法権が権限・能力外の、社会が今後どうなるべきかの意見表明をしない・・減殺の社会意識の事実認定に限定する謙抑性があって当然です。
違憲か合憲かの憲法判断は、抽象論ではなく具体的社会実態に即して行なうべき・・憲法学者の空理空論によるべきはなく、日本社会意識・・実態(別姓による実際の不都合の程度を含めて)に即して行なうべきと言う立場でこのコラムを書いています。
国民意識の大半が決まっているのに立法府が怠慢している場合、違憲とすべきでしょうが、まだ曖昧な状態の場合、裁判所が率先して方向性を決めるべきではありません。

憲法学の有用性?2

名誉革命や清教徒革命や産業革命で社会変化が先行していたイギリスでは、先頭走者として実践しながら考えて行くしなかったので法制度も実践によって不都合が起きる都度修正して行くしかないので、判例法の国と言われていました。
(現在のイギリス社会は、世界先端社会ではなく諸外国の事例を取り入れる方に回っているので、今や成文法中心になっています)
大陸諸国は最先頭のフランスでもイギリスより遅れて革命を起こし、産業革命も遅れて導入したことから分るように、思想家の観念構築が先行しての革命でしたので、「自由平等博愛」など華々しい標語等が歴史に残って有名ですが、要は遅れていたからに過ぎません。
ドイツにあってはフランスよりももっと遅れて参加した分、観念的思惟が更に深まった状態であった・・更に遅れて勉強を始めた日本人にとって、立派な観念体系の完成したドイツの観念論はもの凄く立派に見えたに過ぎません。
これを評してイギリス人は歩いてから考える、フランスは考えながら走る、ドイツ人は考えてから走る」と比喩的に言われていました。
哲学的基準では、「イギリスの経験論・判例法主義」に対して「大陸の観念論・(体系的)成文法主義」先行社会と未経験行為に一足飛びに挑戦する遅れた社会との対比で考えても分ります。
観念論や立派な観念体系の輸入が、役立つのは後進国社会であることが分ります。
佛教でもキリスト教でも、草創期には未完成で始まったに決まっていますし、遅れた社会が受け入れるときには、既に立派に教典になっているに過ぎません。
実際、観念論のドイツが今回の難民殺到に対して、無制限受け入れの原理原則(人道主義?)をメルケル首相が表明して、数日も持たないで、難民殺到に恐れをなして前言撤回するはめに陥っています。
良いことばかりではなく難民殺到と言うマイナス極面においても、最先端社会になれば観念論・原理原則論ではどうにもならないことが、今、正に証明されています。
日本社会は、江戸時代から庶民文化が花開いていたことから分るように、庶民レベルのもの凄く高い世界先進社会・ボトムアップ社会ですから、西欧にもアフリカにも良いところがあれば、部分的に摂取する程度が合理的であって、観念や制度の丸ごと導入・・「モンク言わずに従えば良い」と言うやり方は無理があります。
後進国が先進国の先端工場を丸ごと一足飛びに導入するだけではなく、最近では新幹線、原子力発電などその後の運営まで請け負うやり方と同じではありません。
日本が、古来から和魂洋才・・古代中国からでも良い部分だけ取り入れる・・律令制を丸ごと採用しなかったことを既に紹介してきました・・妥当であった根拠です。
幕末以来洋画の遠近法を取り入れても、日本画はなくなりません。
アメリカでは、ビル解体方法として大規模爆破するのが普通に見られますが、日本の場合時間がかかっても東京駅改造のように一日も運行を休まずに少しずつやって行く社会の違いです。
上海や香港・シンガポールのように高層ビルが良いとなれば、すぐに林立する社会とは、全く違います。
法制度も日本社会に適合する限度で徐々に良いところを日本社会に馴染むように変容させてから、採用して行けば良いのであって未消化状態でそのママ「ゴロッと」取り入れるとぎくしゃくして社会軋轢が生じるばかりです。
憲法解釈論に戻りますと、戦後アメリカによる憲法強制を例外(自主憲法を原則)としてみれば、憲法や社是等の基本精神は本来その社会の到達点の解釈であるべきです。
社是・社訓・憲法は各種分野・法律・実務到達点を制定当時に抽象化したものであるべきですから、法律の勉強で言えば憲法はスベテの法律(国民総意に基づく少しずつ修正の集大成))のまとめ・・法学概論にあたるもので、概論の専門家って必要なのか?ということになります。
フランス革命のように、「自由・平等・博愛」その他一人二人の思想家が何か言って、国民が反応する・・知識・技術を輸入に頼る後進国では、輸入思想の解釈論・・実務を知らない学者の出番ですが先進国社会には対応しません。
わが国の場合では、哲学者や宗教家の発言力の変遷を見ると、江戸時代初期の天海僧正などの宗教家から荻生徂徠や新井白石などの儒学者に移り、吉宗以降実務家に移って行った「御定書・先例集の編纂)経緯を紹介したことがあります。
我が国では、高名な思想家が立派な意見を発開陳して、大衆がこれに反応するような社会はフランス革命のずっと前に卒業しているのです・・。

憲法学の有用性1

憲法学は独立の学問と言えるかどうかすら、(政治学の一分野?あるいは各法律の一分野?)怪しいと思う人が増えているでしょう。
戦後アメリカがアメリカ製の憲法を強制する必要から「憲法学者」と言うアメリカ思想の伝道師を養成してこれが戦後ハバを利かしていたに過ぎないように思えます。
アメリカとしては日本占領時にアメリカが意図するように日本の法制度を完成するのは無理があるので、社会価値の基本である民法改正や農地解放あるいは教育勅語など、大急ぎで旧価値観解体を急ぎましたが、これを国民一般に浸透させるためにてっぺんの憲法学者の養成・・非武装論者や教育界の改造に取り組んで来たように見えます。
この尖兵・伝道者・・宣教師としての憲法学者や教員が養成されたのです。
・・如何に日本民族が劣っているかの教育に精出していましたし、(日本人は中学生レベルと言う有名な宣伝がでたのもこのころです)体型まで日本人の醜さはホッテントット人並みと言うマスコミ報道が・・昭和30年代後半私の高校生だったか大学生だったかの頃にはやっていました。
兎も角てっぺんの憲法からアメリカ式価値観を植え付けて行く方法として先ずは、憲法学者と言う宣教師を養成したように見えます。
朝鮮戦争が始まり、米ソ冷戦が激化して日本を自分の軍事力に組み込む必要が出て来ると、アメリカの意向で?日本の再軍備が始まり、憲法9条との矛盾を解決するために「統治行為論」が必要になって来ると、純粋培養した憲法学者や日教組が非武装論・・憲法9条をたてに中国ソ連寄りの行動をするようになって来て(左派の砦になってしまった)アメリカにとっても邪魔になってきました。
この辺はソ連抵抗勢力としてアフガンで養成したテロ組織・アルカイダグループが、ソ連崩壊後アメリカでテロをするようになったのと同じで、アメリカが力を入れて養成していた日教組と憲法学者が反米組織として最後の砦になって、残ってしまった印象です。
民法その他実務に根ざした法学系は、殆ど英米法の影響を受けませんでした。
実際日本社会の方がアメリカよりも進んだ社会ですから、数千年単位で遅れているアメリカモデルが日本社会に浸透出来る筈がありません・・・次第に日本の実態に根ざした学問になって行ったのと比較すると観念論に終始出来る憲法論や社会から遊離した観念に固まっていても子供の教育と関係がない・・小中学生はモンク言えない・・強制ですから、私立に行かない限り父兄に教師の選択権がないことから、日教組に根強く残ったのは偶然ではありません。
この後で書くように最近相次いでいる家事関係の憲法違反の最高裁判決の内容を見ると・・社会実態の変動に基づく実質的な憲法改正ですが・・これを主導して来たのは、憲法学者ではなく実務家の社会実態変動を基礎にした粘り強い運動が実を結んでいるものです。
以下(長くなり過ぎるので引用は20日のコラムになります)で非嫡出子相続分差別に対する違憲判決の詳細を紹介します。
これによると戦後の長い間の社会実態の変化やこれに合わせた戸籍規定の変更・・政府による改正案作成の経過などによる緩慢な?周辺整備の進捗具合、あるいは、過去の合憲判決の中身の変遷等を丹念に跡づけた結果、遅くとも平成◯◯年ころには、(それまでは合憲であったが)非嫡出子差別が許容されない社会意識になったと言う認定・・これによるとその時期を期して憲法が変更されたことになる・・判決ですので、煩を厭わずにお読み下さい。
要は我が国は何事も丁寧に・・観念論だけ決めるようなイキナリ乱暴なことをしない・・社会実態変化に即して修正して行く社会であることを知るべきです。
韓国では、先進国で良いとなれば、国情を無視して大幅改正していく乱暴な社会ですが・・後進国は製造設備なども一足飛びに最新技術の向上を誘致出来ますが、・・法と言うものが国民意識の上に成立していると言う意識がまだ成立していない・・エリートと庶民の意識格差が激しい・・庶民は黙って従えば良いという意識社会だから出来ることです。
憲法は国民のための憲法であり、異民族が押し付けるべきものではないと言う原理論から言えば、社会実態が数十年単位で変わって行くのに合わせて憲法解釈も徐々に変わって行くべきです。
そうなると憲法はドラスチックな憲法改正によるのではなく、判例変更に委ねるのが、合理的で国民投票による憲法改正と言う荒療治をやるのは革命的動乱時に限る(・・アラブ諸国のように数十年単位で社会が大混乱しますので・・結果的に数十年かけて徐々に運用を変えて行く方が合理的)べきでしょう。

憲法とは?4(統治行為理論1)

特に尖閣諸島問題は、机上の空理空論のための議論ではなく、目の前に発生している現実に対応すべき必要性から見れば、数十年以上かかる憲法改正→アメリカの占領政治における憲法制定過程・ひいては東京裁判や日米戦争の根本否定に連なる議論に火をつける・・今でも右翼系は問題にしています・・ことになりかねないことですから、そうしたリスクを踏まえて決着をつけるには、アメリカの国際影響力の消長を見極めながら慎重に対応して行くしかないことが明らかです。
要は薄皮を剥ぐように徐々にやって行くしかない分野です。
この政治的決着を図ったのが有名な砂川事件最高裁判決で、既に、このコラムで紹介しましたが・・いわゆる「統治行為」理論でした。
高度な政治判断を要することについては、「司法権は介入しない」と言う原理を宣言したものです。
今このコラムの大改造中のため、過去の検索が出来ないので、判決文自体を紹介しておきましょう。
以下は同事件判決の一部抜粋です。

日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第3条に基く行政協定に伴う刑事特別法違反被告事件
昭和34年(あ)七710号
同12月16日大法廷判決
「・・・・ところで、本件安全保障条約は、前述のごとく、主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有するものというべきであって、その内容が違憲なりや否やの法的判断は、その条約を締結した内閣およびこれを承認した国会の高度の政治的ないし自由裁量的判断と表裏をなす点がすくなくない。それ故、右違憲なりや否やの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない性質のものであり、従って、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであって、それは第1次的には、右条約の締結権を有する内閣およびこれに対して承認権を有する国会の判断に従うべく、終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねられるべきものであると解するを相当とする。そして、このことは、本件安全保障条約またはこれに基く政府の行為の違憲なりや否やが、本件のように前提問題となっている場合であると否とにかかわらないのである。」

上記のように高度な国際情勢判断を基礎にした政治判断の是非について、高度な政治判断をする訓練を受けていない司法権・・ひいては法律学者が最終決定するのは国益に反すると言う価値判断です。
集団自衛権に関する今夏の安保法制について、政府が既に憲法論は決着済みとして砂川事件判例を持ち出しているのは、この意味で正確であり正しい引用ですし、逆にこれを正確に報道しないで、憲法学者が狭い視野で言い募る視野狭窄的意見ばかり紹介しているマスコミの方が実態をねじ曲げています。
既に社会党でさえも認めているように政治的且つ憲法論としては、統治行為論によって、法律家が意見を言う権利がないことで決着されているのですから、この分野・・集団自衛権の可否に関する専門家の意見が必要とすれば、法律家ではなく、国際政治学者の専門分野ですが、何故かマスコミは国際政治専門家の意見をまるで報道しようとしませんでした。
政策ごとにその道の専門家の意見を参考にするのは合理的ですが、それでも経済学者等の意見そのもので決める必要はありません・・政治は参酌するだけでいいのです。
まして、その都度、憲法違反かどうかを先ず議論してその決着がつくまで金融政策や税制を決められないと言うのでは、何事も進みません。
例えば、金融政策に関しては、経済学者の意見を参考にするのが普通ですが、金利下げが庶民の財産権侵害になるかどうか・・消費税が弱者に影響が大きいから法の下の平等に反するかなど、憲法違反かどうかを憲法学者が議論して憲法学者の意見で決めていい訳がありません。
憲法学者は具体的政策の専門家ではありません。
政治の基本姿勢のあり方を哲学者や高層の意見を拝聴するのは有用かも知れませんが、具体的な政治の最高決定権を哲学者や高僧の判断に委ねるのは合理的ではありません。
テロ犯に銃で応戦したり、上陸して来る侵略軍を撃退するのは、殺生禁止に反するかと?高僧に聞いているようなものです。
まして憲法学者は、高僧等の知恵者の集まりではありません。
憲法学者は「もはや用済み」として国内で決着されている(空中論争をしていると現実の必要に間に合わないのが狙いです・・憲法論の決着まで何も出来ないのでは・・政策論争で負けている方が、結果的に何でも反対して時間引き延ばしに利用出来ますので「何でも反対」の社会党や左翼系文化人が憲法論が好きでしたが、社会党ですら自衛隊違憲論を変更していることを22日のコラムで紹介します)にも拘らず、今頃亡霊のように出て来て、「先ずは、憲法改正してからにしろ」と言う意見では目先に迫っている現実をどうするかの議論にはなりません。
憲法論争を先にすべきであると言う論争方式自体も、上記砂川事件の田中耕太郎長官の補足意見で批判されています。
集団自衛権に関する憲法論は、砂川事件で勝負がついていることの蒸し返しですし、こんなバカなことばかり今でも言っているので、憲法学者をどこでも相手にしなくなっているのです。
ソモソモ憲法学者って何でしょうか?

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