差異化社会2と多様な価値観の復権1

高齢者が自己の能力減退を見定めて生きているように、若者(中高年)も自分の将来の到達点を見定めて、老人並みに達観する能力を磨くことも重要です。
とは言うものの、若いときの特権で能力以上の遠大な夢があってこそ・・一見無謀な挑戦が成功することがあって、社会活力の源になるのであって「俺の将来こんなもの・・」と中学・高校時代から全員諦めている社会がどうなるかの心配もあります。
大方の若者が自分の能力に応じた選択して、たまに元気な若者が、夢に挑戦出来る社会・・・失敗すれば気を取り直して、別の方向へ転換出来るシステムが理想的かも知れません。
フランスその他の移民社会では、アラブ・アフリカ系移民2〜3世が将来の展望なく成人になって行く・・テロ予備軍になるリスクが、今になって重大問題になっています。
独仏等のアラブ系移民2〜3世のテロ予備軍は、本来能力(素質)がある子供もいるのに,移民したばかりの経済格差や言葉の壁などの外部要因でマトモな教育を受けられないことによる絶望的状況・・格差拡大・固定です。
難民の場合有能な人も交じっていますので、政策次第で何とかなる人もいますが、初めから現場労働目的で入って来る階層の場合、千年単位の文化継承が違う上に形式的知能指数基準でもいわゆる落ちこぼれ系中心になります。
代々の日本人でも社会の高度化について行けない人材が下から順に増える一方でこれをどうするかの問題に直面しているのに、日本語の通じない・家庭教育の習慣のない親に育てられた異民族2世の場合なお大変なことになります。
少年事件では(外国人)親が風俗系で働いていて朝方まで帰って来ない・・すぐに寝てしまうので弁護士の方から連絡出来るのは出勤直前の夕方しかない親がいます・・。
審判の結果自宅に帰れることになっても、親は寝ていて迎えに来られないと言う子もいて、その間事務所にいなさいと言うこともあります。
日本人の場合子供が事件を起こした審判となれば万難を排して親が出席するのが100%ですが、・朝起きられないからと言って、審判に立ち会いもしない・・行っても結果は同じと言えば同じ・・文化の違いに驚きますが、それは別として・・親が夕方からいない子供の家庭教育はどうなっていたのか?
最近学級に移民2世向け会話出来る教員配置の必要性などが言われていますが、社会にとって大変な負担になる割に大して効果のないことが明らかです。
私はこう言う結果になるのが分っているから、低賃金労働者受け入れの移民はやめた方が良いと言う意見を、古くは13年前の01/05/03「外国人労働力移入 2(人口減少賛成)」前後の連載で書いたのを手始めに、11/10/05「市場競争と脱落者のケア2(フランスの移民の暴動)」その他で繰り返し返し書いてきました。
目先労賃の安い労働力を利用すると、次の世代で膨大な負担と社会不安を引き起こし、大きな付け払うことになります。
独仏の移民政策の失敗・・目先の低賃金労働者確保目的でも移民導入政策間違っていたこと・・日本が人手不足代替のロボット大国になった成功を論じるべきで、ここまではっきりした段階で(独仏の移民受け入れ失敗→テロの恐怖に怯えているのを無視して)日本の難民受け入れが少ないとか、移民受入れ拡大主張を展開するおかしさには驚くばかりです。
ただし、日本では、偏差値その他で早くからスライスされ過ぎているので、早くから現実に目覚める・・夢を失った若者の続出は、(独仏等の移民2〜3世のように直ちにテロ予備軍にはならないでしょうが、)能力の低い若者が早くから閉塞感を抱くのをどうやってケアするかを検討する必要がある事は確かです。
人間に能力差がある限り優勝劣敗が起きるのは不可避ですが、これをいつどの時点で知るか,転換の容易さやどんな職業も尊敬する社会か否かによって、達観出来るか自暴自棄になるか、精神科医の世話になるか,原理主義宗教・テロ組織に入るかが分かれます。
自分の能力限界や適した方向性を早く知った方が不適性な方向へ間違って進まないで済むし、無駄な努力をしなくて良いので、1面では合理的です。
40歳まで挑戦し続けてやっぱり無理だったと諦めるのと、10台で諦める・・自分の限界を知るのとでは、効率性や衝撃度が大違いです。
教育界が多様な人材が必要と教研集会などのテーマにしながら、画一基準で選別教育していることについて、02/05/07「多様な人材の生きていける社会へ1」以下で批判した・・その他でも折に触れて批判してきました。
唯一神を基本とする社会・・画一的価値観の西洋から導入された学校基準に毒された(知育偏重基準のより上位を目指す)無理な挑戦にこだわらないで、出来れば早く方向転換した方が良い人が一杯いる筈ですので、早めに進路選択を決めた方が良いのは確かです。
進路選択が仮に早く決まるとしても、自分は東大や超1流大学は無理で、そこそこの大学しか行けないと分っても、その程度のことで人生に絶望し、自暴自棄になる人は少ない事は誰でも分ります。
ここで強調したいことは、偏差値基準の単線的上下格差を固定する進路選択ではなく、偏差値最低レベルの高校でさえもついて行けない子供でも、多様な価値観・・植木職人やトビ、ペンキ、基礎工事等々・・小さなものを終日根気よく磨き上げるのが好きな子供もいることです。
従来型ルートから外れてもアップルで有名なジョブスのように大成功する人がいる・・こう言う可能性を言うのではありません。
ジョブズの場合は、従来型単線的価値観の達成を前提にその目標に達するための別ルートに過ぎません・・。
私の言うのは到達点自体の多様性です・・路地の片隅の居職人のママまで、最後までこつこつとやって一生終わって行くことで満足する人が一杯いる・・日本では昔からこう言う生き方を尊敬する社会です。
日本古来からの伝統である多様な社会・・あらゆるものに神宿る・・多神教の社会を取り戻そうと言う意見です。
大きな神社も、寒村の祠も大切にする・・いろんな道具や物品・生き物まで◯◯の神様△の神様としてそれぞれ大切にお祭りする社会です。

若者と達観力(差異化社会)1

中高年を含めて若い人は高齢者のように悟る必要がないとしても、達観すべきときに達観出来ないとストレスが生じます。
(中高年を含めて)若い人のストレス・精神抑うつなどは、将来不安に根ざしている場合が多いと思われます。
精神科医がはやっていますが、要は自己能力と合わない無理な到達点を設定しないことや、間違った場合の修正可能性でしょうか?
うつ病等の増加原因が、・・能力以上のレベルを要求される学校や組織に入っていることにあるとすれば、薬を飲んで根本的解決する筈がない・・究極の解決は所属組織変更・目標値のレベルダウンしかありません。
レベルダウンを精神的に受入れられるかどうか・・個人の資質だけはなく、社会が転換を暖かく受入れる仕組みが必要です。
私どもも本来は高齢化に伴うレベルダウンに悩むべきですが、幸い年令(トシ)の功?で周りが一応敬意を表してくれる・・行く先々で大事にされているので、「俺はもう駄目だ」と開き直ってこれを悟りと称していられる?・・有り難さです。
能力の落ちた高齢者をバカにしないで逆に尊敬する道徳が確立しているのが,高齢者にとっては有り難いものですが・その分老害にならないように自覚的に身を引いて行くルールが成立しています。
高度成長期を生きて来たので、(例外もありますが)多くの高齢者には相応の蓄積や年金制度の保障があって生活に困らない点も大きな裏付けでしょう。
コトブキ退職みたいなもので、ノイローゼになる必要がありません。
この数十年で能力差による待遇差が厳しくなって来た・・受けいれる方もゆとりがなくなって来た点に戻ります。
昔・・農業社会を見れば分りますが、80点の能力の人も40点の能力の人も同じような時期に稲や麦を植え付けし、人の真似をしている限り収穫量がそんなに変わりませんでした。
能力差よりもより広い農地をもっているかどうかで、結果の違う社会でした。
現在社会では人並みの能力さえあれば、差がつかないのではなく、80点〜70点〜60点の人など、10点刻みどころか3〜5点刻みでさえ大きな差がつく時代です。
職場で大きな差がつけば、大きな家屋敷を相続した資産家の後取りも悩む点は同じです。
昔の女中さんの仕事程度では、隅々まできりっと掃除出来る人と出来ない人とでは、主人の覚えがちょっと違う程度ですが、これが企業で精密品を作る能力差になって来ると企業貢献度で雲泥の差が出て来ます。
事務処理や、対人交渉力も同じで1点差でも、契約を取れる人とれない人とでは、ゼロと全ての差になりますから、営業マンから能力主義が始まりましたが、内勤事務職も単に記録するだけはなく、企画立案能力やモノゴトをまとめる文書作成能力になって来ると,文字を書けるだけではなく、それ以上の差がはっきりしてきます。
企業は採用時点では求人者の能力詳細不明なので、比喩的に言えばアバウトな学歴や6〜80点の大きめのハバで採用しておいて、細かな能力差は仕事を通してみる仕組みですから、能力差を厳しく見る時代が来ると、無能でも年功で課長や部長にして行けなくなり、脱落組が出るのが避けられません。
弁護士の場合も実務経験によって能力差が広がりますが、これまでは弁護士数が少なくて実務向きでない・ある種の脱落組でも何とかなっていた・・外見不明でしたが、ここ10年ばかり弁護士数が増えているので不適合・底辺層になると食べて行けない不安一杯の若手弁護士が増えているでしょう。
昨年秋司法試験に合格したばかりの若者が公務員試験にも合格したので、私のところにどちらにするかの進路相談に来たのですが、今では合格時点で早めに悩む人が増えています。
これは弁護士になってから不適合に悩んでいる人が一定数いるからこそ、この気配を察した若者が入口で悩むようになったのでしょう。
大手企業に就職出来た場合も、脱落予備軍が組織にしがみついていると居心地が悪くてストレスが溜まります。
1流の高校に間違って入ってしまい、授業について行けなければ2流高校に転籍出来れば気楽ですが、(部活ならやめれば良いだけですが・・)これが簡単に行かないので、ストレスになります。
企業も同様で、いろんなランクの職場があって簡単に転籍出来れば良いのですが,一旦就職してしまうと中途退職に降格イメ−ジがつきまとうのが難点です。
「鶏口となるも牛後となる勿れ」と言うように最初に能力以上の組織に入るのは運が良いように見えて、長期的には却って不幸になることがあります。
バブル崩壊以降能力差を次第に厳しく見る社会になって来たのに対して、個人の方は厳しく能力査定されることに対する心の準備が追いつかないことや、これを受入れる(敗者復活)社会システムが追いついていことが、ストレスに悩む人が近年増えて来た大きな原因です。
1月3日日経新聞7pに経済学者岩井克人氏のインタビュー記事がのっています。
地方からの低賃金労働者吸収による高度成長・産業資本時代が終わったのがバブル崩壊であり、その後はポスト産業資本主義時代へ転換したと言う意見のようです。
これによると、(私の間違った理解かも知れませんが、)ポスト産業資本主義時代には、他企業→他者との差異化がないと生き残れない・重要になったように見えます。
汎用品を新興国に委ねる時代が来れば、汎用的・規格型人材も不要になります。
バブル崩壊後も前もって志願者の個性能力を把握し切れないので、企業は従来どおりに概括的基準・・学歴や旧来型試験で採用し続けている結果、採用後に実務経験を通じて事後的に差異化する・退職勧奨するしかなくなったようです。
若者は昔のように「◯◯に就職出来れば一生安心」と言えなくなったと言われます。

平成28年元旦(人生を味わう1)

あけましておめでとう御座います。
皆様におかれましては、おめでたい元旦をお迎えのことと存じます。
私も家族も御陰さまで元気に新年を迎えることが出来ました。
「今年も心機一転この一年頑張るぞ!」と言いたいところですが、ここ数年?あまり頑張らなくとも良いか!と思うようになりました。
若い人にとっては、勿論元気に飛躍の歳になるように頑張るのは良いことですので、読者の中で若い人にとっては、年齢相応に元気で良い歳になりますように祈念します。
私の方は、ま、あまり意気込む必要もないので、今年も年齢相応にゆったりした一年を過ごしたいと思っています。
60歳の還暦の頃にいよいよ高齢者の仲間入りか!と感慨頻りでしたが、今になると、あんなに若いときに何でそう思ったか?と言うところです。
そのころは、皆そう言う気持ちだったので、事務所・関係弁護士がパーティーをして下さるなど還暦を祝って戴いたものですが・・・。
最近では70歳の古希祝いも滅多に聞かなくなり、私もいつの間にか素通りしました。
80台は今でも元気な人が多いですから、私が80台になる頃には、もっと元気な人の比率が高い時代になっているでしょう。
今のところ、どこと言って具合が悪い訳でもないし、いつも自分中心と言うか自分から見て若い人が増えたなと言う価値観で来たのですが、若いと思っていた人たちの年賀状に、「子供が育って夫婦2人の生活になりました」と書いて来た人が何組かあったり甥や姪に孫が生まれたとあるのを見ると、さすがに自分世代の時代は終わったのだ!実感するしかありません。
体力的には自覚が乏しいものの、周辺情報や年齢を数えると高齢化したかな?言う程度ですが、人から見ればいろんな能力が落ちているんだろうなと自戒している状態です。
大晦日に書いたように時間が早く過ぎるように感じること自体が、能力の衰えの徴候です。
情報処理力や移動能力が落ちて来る代わりに、高齢者には時間が充分にあるので昔10分で歩いた距離を15〜20分かけてゆっくり歩けば良いことです。
食べるものも量を食べられなくなれば、良いものを少し楽しめば良いことです。
若いときには将来のための教養を積むとか、家を建てるとか老後のためとか、すべて蓄積目的の生活でしたが、高齢者は蓄積の必要がなく、(長寿で知られた金さん銀さんが質問されて「老後のため・・」と答えたことが知られていますが・・)その時間時間の刹那を楽しめば良いので気楽です。
子世代のことが気になる(煩悩を断ち切れない)ものの、何となく達観するようになって来たことを、昨年元旦のコラムに書きました。
高齢社会では(食べ物に限らず文化を含めて)量に関心がなくなり、良いものを素直に愛でる消費が増えるので、文化が更に発展する・・文化が上質化して行くのが楽しみです。
江戸時代の文化に限らず、その前から日本のいろんな文化は、高齢者が支えて来た上質文化が基礎にあるように思われます。
情報にも上質情報と粗悪情報が当然あります。
同じ映画でもこく味のある映画とアメリカ映画のようにただ元気がいいだけのもあるように、詩歌であれ上質情報が増えるようにして行けば、高齢者も短い時間で楽しめます。
高齢化すると時間が早く過ぎてしまうように思えますが、その代わり高齢者にはたっぷり時間があります。
今年は良いものを少しずつ楽しむ年にしたいものです。
ここから大晦日のコラムの続きですが、今後ますます能力低下が進み、時間が過ぎるのを早く感じるようになるのでしょうが、能力低下に合わせて、じぶんが感じるままの時間の流れに任せて生きて行きたいと思っております。
一年を半年に感じる人はその分に比例して情報処理能力・受容量が落ちている可能性があります。
厳然たる不都合な事実をそのまま受入れるしかない・・人によっては若い者に負けないぞ!とトレーニングに励み、◯◯学校に通う人もいますが・・偉いのか、◯◯なのか人によって評価が違うでしょう。
大げさかも知れませんが、寿命が尽きて行く方向への心の準備と言うか、私のような凡人でも高齢化して来ると体力の衰えの実感から、悟り・・あきらめ・向上意欲衰えの正当化?に近づいているような気がしてきます。
若い頃には、昨日あることが出来たら今日・明日は練習すれば、もっと良く出来ると言う価値観で50年ほど生きてきました。
ところが60歳前後のあるとき気が付いてみると昨年より今年の方がレベルが下がっているのじゃないかと気が付くようになりました。
比喩的に言えば、10個の英単語をやっと覚えたと思うと、10日前に覚えた12個の単語を忘れているような感じです。
この10年ほど、気に入った詩歌があっても記憶しておこうとしなくなりました。
こうなると時間の流れに抗うよりは悟りに近づいた気持ちになるしかないような気がしますが、(知らぬ間に判断力がついているのかも知れませんが・・これは詩歌をいくつ覚えたと言うように客観的に分りません)能力ダウンを逆手とって楽しくやって行きます(・・・結局は自分中心価値観に帰するようですが・・)ので、今年もよろしくお願いします。

大晦日(時間の早さ1)

今年も今日で終わりになりました。
一年の最後・・大晦日になると、正月に掛けていつもの意見を書くのを休憩して行く年、来る年に思いを巡らせます。
この一年を振り返ってみると、今更ながら、トキの立つのが早いのに驚かされます。
高齢化して来ると何故早く時間が過ぎるように感じるのか?
1つの考え方としては、ある仕事の処理能力が落ちると時間が足りなくなるからではないか?と言えます。
年をとると歩くのが遅くなるのは誰でも経験することですが、これを代表例として全ての分野で血の巡りが遅くなる・・情報処理能力が仮に3割低下すると時間が3割足りなくなります。
体力等が3割落ちると同じ距離を歩いても、仕事をしても、疲れが3割早く出ます。
2つ目には、情報収集能力・・蓄積量の違いが大きいように思われます。
私だけの経験かどうかも知りませんが、私の経験では、書類を見ても道路を歩いても焦点を当てて見ている部分しか、(原因は老眼眼鏡が一カ所しか焦点が合わないように出来ていることが原因かも知れませんが・・)視野に入って来なくなったような印象を受けています。
書類を見ていてここに日付があるべきだと思ってみた箇所にないと、大きな書面中どこに書いてあるのか探すのに時間がかかりますが、若手の場合あっという間に探し出します。
高齢化すると焦点を当てたところしか見えていないのに対して,若い人は画面的に全部目に入っている感じです。
道路を歩いていると、向こうから私より高齢者が来ると、私に気付くのが遅く逆に若い人に対して私の方が気づくのが遅くなっています。
どう言うことかと言うと、歩きながら前方見ているし50〜100メートル先も見えているのですが焦点を当てた人しか見ていないので、相手がちょっと道路の端を歩いて来ると人の形程度しか目に入らなくなっているからです。
毎日事務所にヤクルトを持って来て、しょっ中挨拶を交わしている高齢の女性と道路で行き違ったこがあります。
彼女が立ち止まっているときに出会えば、毎回普通に挨拶を交わしていますが、タマタマ向こうから自転車をこいでやって来るのに出会ったことがあります。
私とスレスレに行き違ったのですが、彼女は進行方向を必死に見つめていて数十センチしか離れていないで行き違う私の顔に全く気が付かないでとおり過ぎて行きました。
歩行スピード程度だとスピードが遅いのである程度視野を広げてハバ広く情報収集できるが、スピードが早くなるに合わせて、少しでも遠くを見るために視野が狭くなっているのです。
歩いていれば、数メートル先の情報を得てから対応でも間に合うので、遠くを見る必要がありませんが、スピードに比例してより早く遠くの情報把握する必要がでます。
若い人は数百メートル先を見ていながら近くも同時に見えるのに対して高齢化して来ると自転車程度のスピードに合わせて僅か約10メートル先に焦点を当てると1〜2メートル先にいる人(姿は見えるが顔かたちまで把握出来なくなる)も見えなくなると言う実験をしたような気がしました。
本を読んでいても目で追っている部分しか目に入らないのと同様で、道路を1km歩いても映画を見ても同じ時間に得ている情報量は若い人・・若いときに比べてもの凄く少なくなっているようです。
一定の時間で情報を得る量が少なくなれば、時間が短く感じるのは理の当然と言うか、印象だけではなく実際に正しいことです。
睡眠時間中には、何らの情報も得ていない・・寝入ってから、熟睡後目覚めるまで一瞬に感じるのはこの間に得る情報がゼロなので、情報量と時間の関係は一貫しています。
新幹線や飛行機で移動するとこの間の3〜500kmの空間移動に比例した情報量が入らない・・(500km通過する間の膨大な情報)景色も目にいらないし、2時間のフライトや新幹線移動時間では、(例えばこの間に本を読んでいると)結局2時間で読める本の情報しか入らない・・2時間しか経過していないことになります。
早送りのテープで2時間分を10分で聞くと10分間で受容出来る能力に対応した情報しか入らないでしょう。
このように、情報受容や処理量に時間の早さが関係しているとすれば、今年1年が早く感じるのは、その分能力が落ちていることの自覚になります。
能力が年々落ちるのは有り難くないですが、自覚しないよりはマシでしょう・・と自分を励ましながら今年終わりのコラムとします。
皆様よいオトシをお迎えされますように・・、また来年もよろしくお願いします。

米中の親和性と日本文化の隔絶1

23日の続きです。
日本民族は西欧近代で民族主義が始まるずっと前の古代から・・白村江の海戦敗北以降日本列島を上げての列島防衛意識の高まり・・列島人一丸として戦う前提で、国家体制の再構築(大化の改新)に邁進し、防人制度も創設しました。
卑弥呼の頃には、それぞれがバラバラに交易していて今のような民族意識はなかった筈ように習いますが、(交易用に代表団を結成しているうちに一体感が出来たのか?)長い交易期間を通じて列島人と半島人と気質の違いを実感して来て「自分たちとあいつら」の区別がしみ込んでいたからでしょうか?
文字を残した中国の史書だけを基準に考えて来た従来の歴史学から見れば、日本列島は卑弥呼のこの頃にはまだ未開の地域ですが、考古学が発達して来ていろんなことが分って来ると・・1万年前後遡ると、列島の縄文文化の方が進んでいた可能性すら分ってきました。
何もかも大陸から伝来したのではなく、逆に日本の工芸品?が大陸にわたっていた様子・・遠慮して言えば可能性が出て来たのです。
このように歴史は魅力一杯ですから興味が尽きませんが、縄文時代から植林するなど循環型社会が根付いていたことが既に知られているように・・これが佛教の輪廻思想が根付いた所以です・・循環型になると環境重視→同じ環境を利用する共同体意識が強力になります。
日本の場合、外敵と戦うための民族意識強調と言う政治目的による根の浅い概念ではなく、環境重視=共同体意識が縄文時代から自然発生していた・・その後水田・・灌漑社会になって、より共同体意識が強固になって行ったことが今の西洋流の民族意識の母体になっているものですから、西欧で言い出した民族意識よりも歴史が古く基礎がしっかりしています。
ゴーストタウンにして街を棄てて行く・・居住地域を結果的に砂漠化させて移動して来た世界中の有名文明の跡地とは心構えが違っています。
・・アメリカや中国(公害を除去しないで、北京を棄てようとしています・・)の生活意識では、先祖代々繋がるような共同体意識が育ちません・・そこで、権力維持のためにアメリカでは国旗を振りかざして国歌を歌う程度の皮相な愛国心の強調の場合、いつも外敵が必要です。
平和のためと称して、アメリカは戦争ばかりして来たことを見れば分ります。
西欧の民族意識強調は、ナポレオン戦争遂行の必要のために生まれたもので、日本のように共同体・・環境や動物愛護意識から、自然発生的に生まれたものではありません。
運命共同体意識の強さに比例して、よそ者の参加にはハードルが高くなるの当然です・・インフラ整備に参加していない人がイキナリやって来て無償利用出来るのでは、代々の積み重ねで築き上げた環境を他所から来た人にただで利用されることになります。
何かの行事をみんなで苦労して盛り上げて来たときに、全く手伝わなかった人がハイライトのときだけ参加して大きな顔をされたらしらけるのと同じです。
環境に関心の低い・・格差社会の国が、「よそ者を低賃金労働に使えれば良い」と言う計算で受入れるのとは訳が違います・・日本人は一緒に住む限り平等前提で、格差や奴隷制度を前提に低賃金労働者を受入れることが出来ません。
防人は・・東国人中心に編成されていた・遠くの九州の防衛に協力させていて破綻しないで、機能していたことが驚きです。
一般に東北地方の服属は、征夷大将軍坂上田村麻呂の遠征によると言われていますが、大化の改新のころには既に東国(と言っても岐阜県以東?)からの防人派遣がさしたる抵抗なく?(万葉集等に出て来るだけで歴史書に出て来ないだけかも?)行なわれていたことになります。
危機が治まれば民族意識は鎮静して平和主義に徹して柔弱そうに見えますが、中世での蒙古襲来時の団結力・・幕末ペリー来航時の庶民に至るまでの国防意識の高まりなどなど、民族防衛意識は世界一高い民族性です。
民族を守るために命を投げ出す覚悟のある日本民族の強固な意識は、民族の一体感より一族の利益を守る意識中心の中韓等民族意識がまだ1つハッキリしない国では、理解を超えた状態ですから、マスコミ中心に流布している非武装論を日本人の脆弱性と誤解してしまったように見えます。
日本人は腰抜けばかりになってしまったから、一撃を加えればすぐに折れてしまうと甘く見て攻撃強化を始めたのが中韓両国の失敗です。
(ロシアは日本が怒り出すとすぐに引いてしまい対日友好外交に切り替えたのは日露戦争の教訓があったからでしょうか?)
変わり身が早いと言うべきですが、・・日本人からみれば、日本の弱みに付け込んだ先の不可侵条約違反→シベリヤ抑留と二重写し・・ロシアは日本が弱ったと見れば何をして来るか分らない国と言う記憶を呼び起こしてしまうマイナスに気が付かないから、露骨なことをするのでしょう・・。
(ロシアは国の歴史が浅くて目先の損得しかない・・最近のプーチン氏のやることは一見うまく行っているようですが、(ウクライナ侵攻・クリミヤ併合、やシリア介入・トルコ威嚇等々・・)相手の弱みに付け込むだけで、あまりにも見え透いていて子供みたいです)

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