ダイジェスト報道2と正確(中立)性担保1

話題をダイジェスト版に戻しますと、たとえば、明治維新時の「5か条のご誓文」の高札については、私の依頼者の長屋門にしまってあって、見せてもらったことがあります。
これは小さな集落の莊屋に類する屋敷ですが、集落ごとに高札が建てられたことがこれで分ります。
達筆な墨書ですが、これを集落の物知りが集まった文字の良く読めない人(幕末にはそんなにいなかったと思いますが・・)に読み聞かせる・・解説するのが普通であったようです。
このように江戸時代には、難しい漢文でも分り易く解説する人がいて末端まで広がる前提でした。
現在でも法改正などがあると本省などから説明要員が出向いて来て市町村関係者を集める研修会などで「今度こうなります」と噛み砕いて説明され・これが又業界等を集めた研修会などを通じて浸透して行くのが普通です。
私の例では、映画やお芝居に行って、聞き取れなかったり見落として意味不明になると、妻に解説してもらって「そうだったの!と言うことはいくらもあります。
パソコンが動かなくなったら子供に直してもらって、元に戻してもらっています。
もしもマスコミが、複雑過ぎて難しいと思えば、(難しくなくとも数百ページもあると読む時間がありませんので)一般人に分り易いダイジェスト版を作る手間を惜しんではなりません。
マスコミによってはダイジェスト版を作る作業過程で誤解して作ってしまう場合や、まとめ方に各社の「色」が出て来るでしょうが、それは各社市場競争で是正して行くのがスジです。
マスコミ界では、尾ひれを付ける競争があるようですが、基本的立場に関する市場競争が本当にあるのかが怪しいのです。
犯人検挙報道では、本当に犯人かの視点がなく、警察発表をそのまま報道する問題点が、何十年も前から議論になっていて、今では、弁護側意見を聞くようになっていますが、元々、この問題は、「被告人には無罪の推定がある」と言う個人の問題だけに矮小化すべきではありません。
マスコミは警察発表ならばそのまま報道しても、名誉毀損・刑事事件の被告にならないと言う最低期基準を守ってさえいれば良いと言う基準がおかしいと言う基本的反省が必要であったことになります。
以下に書いて行きますが、現地の支配的マスコミ意見の転載・・尾ひれ報道ならば、仮に後で間違いが分っても名誉毀損等の責任がないと言う責任逃れだけを意識した世界中のマスコミ界の意識の低さが問題です。
もっと広く言論の自由との絡みで、右へならえ式の一致報道では、言論支配になりがちなマスコミの影響力の大きさから、「中立性を重視しなければならない」と言う最も重要な視点を欠いていたことの反省が必要であったように見えます。
反対論さえなければ、一方的洪水報道が許されるか・・中立と言えるかは別問題です。
一定方向で報道する場合、その反対視点・・立場の言い分はどうなのかを吟味する姿勢がマスコミにはいつも必要でしょう。
検挙された犯人に限らず、(刑事被告人の場合まだ弁護人がいるだけマシですが・・)世の中に反論出来ない弱者が一杯いるのですから、反論がないからと一方的洪水報道をするのは中立性に反しています。
朝日の慰安婦報道に関して書きましたし、この後で国連報告のインチキ性に関しても書いていきますが、朝日新聞が報道すると「朝日が書いているから・・」と言うことで各社は独自取材を殆どしないで、せいぜい「尾ひれ」をつける競争をするくらいでそのまま書いて行く・・特に海外マスコミの場合には、取材網を独自に持っていない・・少数の特派員が常駐する事務所があるだけですから、・・特派員の主な仕事は地元メデイアの転載と現地の受け止め方程度が主な仕事になります。
慰安婦度報道の場合には、朝日が報道すると日本中のメデイアがこれに負けじと(更に煽る方向で競争するだけで・・小保方氏論文の実験ねつ造騒ぎでも一定方向の過激化競争だけでした)追随し、世界に伝播して行く仕組みです。
韓国の産經新聞支局長の事件も「朝鮮日報の記事の転載+アルファが何故刑事件になるのだ」と言う論調(多分刑事事件の焦点も「付加した尾ひれ部分の真実性」が焦点だったでしょう)でしたが、図らずも受け売り程度の情報収集して本国へ送信するための特派員常駐が原則であることが分ります。
言論の自由の重要性から言えば、名誉毀損罪にさえならなければ、マスコミ界が一致して一定方向ばかり報道して良いかは全く次元の違う問題です。
我々一般人がネット発表している意見も、韓国ではこう言う報道があるとか中国ではこう言う報道があると言う情報紹介を基礎に判断していて独自情報はありません。
私のような報道に無関係な人はナマの情報にあたれないのは仕方がないですが、報道界自身が自分で別の角度からの独自取材しないで他社の受け売り・・競争と言ってもこれに対する「尾ひれ」強化策の市場競争程度しかない・・マスコミ界全体で一定方向ばかり競争して報道すると、いろんな言論の場で政策を決めて行く民主国家の前提インフラとしての役割を果たしていません。
・・第1報が事件発生報道だけとすれば、2番手のメデイアは同じ方向で大学教授のコメントを乗せる・・3番手は、アメリカまで行って共同研究者に聞いて来たり、被害者取材を更に深堀して関係者の嘆き・・疑惑の人の生い立ちはこうだと周辺情報など過激化する方向ばかりの市場競争では困ったものです。
最近でも、犯人の親兄弟に対する取材報道の行き過ぎに対する反省・自粛程度です。
一定方向に偏る問題点・誤った方向へマスコミ一致で進んでいるか・・「思想に関する市場淘汰が不十分ではないか」と言う反省がなくて、言論の自由から言えば些末などの程度の「尾ひれ」のつけ過ぎにお灸を据えるべきかどうかばかりが議論の対象になっています。
朝日新聞の慰安婦報道に関しても他社は、これを受け売りしていたのが基本と言うことで社会的指弾を受けていません。
これでは、マスコミが何社あっても方向性がいつも同じでは、言論の自由に対する市場淘汰が期待できません。

情報格差論3とダイジェスト版の重要性1

財務省による財政赤字論や保険赤字関係で言葉のすり替え・・「愚昧な国民を誤摩化していれば良い」式の報道が横行している件に戻します。
このコラムでは、繰り返し社共など革新系(と称する超保守主義・・ここでも「革新系」と言う言葉のすり替えがあります)政党支持者にはエリート意識が強く、「愚昧な庶民を指導する」意識の強い人が多いと書いてきました。
(東大卒や弁護士や医師など専門職を議員にするのが好きなのもその現れです・・安倍総理が東大を出ていないことを揶揄するマスコミが多かったことも記憶に新しいでしょう)
民主党の本籍は社会党かな?自分たちのエリート意識が強い(逆から見れば国民を愚昧と規定している)ので(愚昧な国民の意見に従っていると国が大変なことになると言う)財務省の宣伝にのって、民主党野田政権はあっさり増税決定してしまいました。
このときにこのコラムでも批判しましたが、民主党が政権を獲得したときの総選挙では、増税反対論を展開していたのに、政権獲得後新たに民意を問うことなく増税法案を通してしまいました。
小沢氏については、いろんな立場からの批判が多いですが、民意を問わないままの増税反対の立場を一貫して民主党を離党したのは筋が通っています。
民主党は「民意など聞いていたらいつまでも増税出来ないから・・」と言う(国民をバカなものと決めつけた上で)反民主的思考で増税法案を多数決で決行したことは間違いがないでしょう。
エリ−ト意識に固まった民意無視の政党が民主党を名乗っているのは滑稽とい言えますが、その気になってみれば、こう言う逆のことは(中韓の日本批判の主張を見ればほぼ自分の悪い点を日本に置き換えて日本批判していることが多いことを見ても、)世の常と言えます。
確かに国民は正確なことを知らないと言われれば、政府審議会などの膨大な記録がそのまま開示されても、余程時間のある人しか丸ごと読んでいられません。
私の関係している審議会や公的委員会でも、委員会によっては事前に10数センチもあるような分厚い資料・記録が2冊ほど届けられることがざらにあります。
その上で何回も議論を尽くして結論に至るのですから、これが丸ごと開示されても部外者が読むだけでも大変ですし、しかも専門的知識がないと理解出来ない議論もあります。
私の場合で言えば法律関係ならば、読むこと自体に苦労がなくとも、仕事に必要な論文ならば読みますが、膨大な資料を10数時間かけて余暇を潰してまで読む気がしません。
まして専門外の原子力発電所事故などの議事録や関係資料を開示されても、これを読み理解するのは困難です。
国民が愚昧だからではなく、それぞれ専門外のことは余暇時間で読むしかないし、(私は自宅に帰ってからこのコラムを書いているので、ソースは、新聞記事・ネット情報程度しか読む時間がありません・・健康寿命に関しては正月休みで時間があったので、データに入ってみる時間があっただけです)一読しても分らないのが普通です。
全ての分野で専門化が進んでいる現在では、国民に情報を伝達すべきマスコミの役割は難しいことは分らないだろうとしまっておくのではなく、◯◯白書などが公開された場合、専門外の人があまり時間をかけずに理解し易いようにダイジェスト版を作って理解し易くして公開する役割を求められていることになります。
各種スポーツやフィギヤスケート等を見ていると解説者がいて,これを繰り返し聞いているうちにその道の採点ルールや、見るべき勘所が分ってきます
専門家の議論をそのまま報道しても専門外の人は時間もないし読んで直ぐ分る訳がないのは確かですが、これは国民レベルが低いからではなく、素人に分るように噛み砕いて要約して時間を取らずに理解出来るようなダイジェスト版を作る努力・・サービス精神の問題です。
素人の国民には分る訳がない・・マスコミが世論を誘導して指導してやると言う高見にいる事自体が、スポーツ関係の記者よりもサービス意識がかなり遅れていることになります。
国民に分る訳がない・・だから入手した情報のうちの重要部分は開示する必要がないと言う開き直り意見ならば「民に知らしむべからず依らしむべし」と言うスタンスの時代とどう違うのかとなります。
難しい専門用語を噛み砕いてダイジェスト出来る人が初めて専門用語の理解者ですから、マスコミ界挙げてダイジェスト版すら作る能力がない・間違ったダイジェスト版しか作れないとすれば、マスコミ界自身本当の理解が出来ていないことになります。
遣唐使や明治維新で少数のエリート派遣で文化の普及に成功できたのは、彼らがきちんと理解し、(空海その他現地エリートよりも優秀だったと言われています)文物を持ち帰り、すぐに的確な日本語を作り翻訳して何百何万倍にも情報を拡散して来た点にあります。
こう言う伝統があるので,日本国民は自分で行かなくとも、いくらでも翻訳情報が入る・・朝鮮日報であれ・新華社通信・人民日報であれ、すぐに翻訳されてネットにのります・・留学熱が下がる一方です。
欧米植民地になった諸外国では明示日本よりも早くから、現地旧支配層の子弟が宗主国へ留学していましたが、彼らは自分だけが欧米文化を素晴らしいと関心しているだけで、自国へ持ち帰って、自国文字に変換して拡散する努力しなかった点が何百年も植民地支配から脱せなかった大きな違いです。
大分前にシンガポールその他では、「日本人の殆どが英語を話せないのを文盲かと誤解している人が多い」と言われていたくらいで、自国文字に変換する意識が乏しいのです。
中韓で流通している社会政治関連熟語は、明治日本が欧米熟語を漢字に変換した熟語を使っている・・現在では日本から中国が漢字を輸入している逆転現象になっています。

情報格差論2とマスコミの存在意義1

情報量が多く正確である方がより上質・正確な判断が可能であることは昨日紹介した政治経済学者加藤氏の言うそのとおりですが、逆から言えば、この論理はマスコミ関係者が取得している情報を正確に国民に知らせていないこと・・情報格差があることが前提になります。
政府と国民の情報格差ならば定石の秘密主義の政府批判すれば足りますが、マスコミと国民との情報格差を前提する彼の論拠によれば、何故情報格差があるかこそが問われねばなりません。
そもそも、マスコミ・報道機関は国民に正確な情報を伝達するために存在し,情報収集しているのです・・自分が情報独占するためにあるのではありません。
国民に速やかに伝達する役割を、前提に記者会見など特別な情報源接近が許されているのです。
オリンピック等でも報道機関用の特別サ−ビス・入国審査も別にあります。
NHKや新聞社の社員が社員として派遣されて政治家等に接触して得た情報を局・会社に帰って上司に報告しないのは、背任行為です。
あるいは、取材によって企業情報を得た場合、この情報によって株式等の抜け駆け売買をするのは違法です。
個人の好奇心を満たすためではなく、国民に知らせる目的で記者会見場に入ったりして得た情報は国民資産であるべきですから、得た情報を特定グループ内で秘匿しないで国民に総べて開示すべきです。
記者の取材によって得た情報・資料は玉石混淆なので、取捨選択の必要はあるでしょうがし、膨大な情報の場合要約する必要があるでしょうが、要約と称して国民が知らねば判断出来ない情報を隠匿することは許されません・・。
必要情報を漏れなく開示している以上は、国益判断に必要な情報を国民も得ていることになります。
昨日紹介した経済政治学者の論法によれば、(マスコミと国民には大きな)情報格差がある=必要な情報が行き渡っていない・・マスコミの判定が正しい・・「大衆意見は間違いやすい」と言うならば、マスコミが得た情報を国民に十分に開示せずに秘匿している問題点をあぶり出しています。
政府や企業情報その他が公開されてマスコミは入手しているが、(入手していないならば国民との情報格差が生じません)国民には非公開にしている情報がある・・重要情報を自分たちマスコミ関係者だけが知っている。
「自分たちだけが判断に必要な正確な情報を知っているから自分たちの価値観判断に国民は黙って従うべき」と言うこと自体が許されません。
上記学者の意見はマスコミが情報源から得た情報を取捨選択して国民に部分開示していることを理由にすることになります。
この情報は国民に開示するとマズイという判断根拠・基準は何でしょうか?
判断に影響する「重要情報は、愚昧な国民に開示すると国益に反するから・・」と言うのでしょうか?
ちょうど政府が重要情報を国民に知らせるのを嫌がるのに対して、国民の判断権保障のために公開要求して批判しているマスコミが、開示不開示の判定「権限を自分たちに任せろ」と言うかのようです。
同じ国民の中で、マスコミ関係者だけが賢明で重要情報に接する権利があって、一般国民が重要情報を知っても有効利用出来ず害があるだけである・・国民は愚昧だから知らない方が良いと決めつける根拠を明らかにすべきでしょう。
民主国家とは重要基本決定を国民の判断に従う制度ですし、国民が判断するためには、上記政治学者の言うとおり政府と同じ情報を得ていないと合理的判断ができません。
政府決定などが、マスコミ意見にあわないと「国民の声を無視して・・」などと自分の意見が国民代表であるかのような表現が目立ちますが、マスコミが国民代表と言う思い込み(・・この辺は野党も同様です)があるのかも知れません。
マスコミが政府から情報を得れば、①国民が政府から得たことになるので、政府に対する情報非公開批判をしない・・マスコミの得た情報のうち重要部分を②国民に開放しない・・その結果②国民判断は間違っているから取るに足りない・・②国民の意見は「大衆・衆愚」意見としてこれを重視する政治家をオポチュニストとして批判すると言う図式のようです。
マスコミは上記において「国民」と言う概念を①ではマスコミを「国民」と僭称し、②の国民(2級国民?)には情報が行かなくても良いと言う区別をしています。
どう言う根拠でマスコミが重要情報を2級?国民に秘匿する権利があるのかが明らかになっていません。
この基準にまたもや「国民には情報が少ないから、重要情報を与えても国益を判断出来ない」と言うのでは同義反復・・循環論法になって論理とは言えません。
国益とは?
マスコミは日米条約時の秘密文書でさえ開示すべきだと迫っているのがマスコミの姿勢です。
(マスコミには、いわゆる西山記者事件あるいは特定秘密保護法批判姿勢が顕著です)
ところで、マスコミが必死になって非難している難民の受け入れ功罪論を例にとってみますと、難民や移民を受入れるか否のかを判断するにあたって、国民が知ってはいけないような特殊秘密情報があるとは到底考えられません。
日本の実態・・犯罪情報で言えば、日本人その他外国人犯罪検挙の場合国籍や本名を出していますが、在日犯罪の検挙に限定して国籍や本名を出さないようにしていますが、何故在日の犯罪や不祥事だけ国籍本名を出さないのかのマスコミ基準が明らかではありません。
移民や難民受入れ可否の論争に対して、こういうことを秘密にするのは、何の目的効果があるのでしょうか?
在日犯罪に関してマスコミが国民よりも詳細情報を得ているとしても、この情報のない一般国民が、外国人を受入れるべきかの議論をしてはいけないというほどの情報格差になるのでしょうか?
国民は正確な情報がないので在日犯罪を実態よりも多く感じているから反対しているに過ぎない・・国民は間違っていると言うならば逆に正確な情報を開示した方が在日のためになるのですから、犯人検挙情報に就いて在日犯罪だけ特別扱いしないで公開して正々堂々の議論をすれば良いことです。
保険赤字論に関しても、透析患者一人いくらかかるか,この高度医療が保険適用になるといくらコスト負担かなどの個別医療情報を開示しても国益に反するとは到底思えません。
イヤ全部開示しているが、国民には難しくて大目に見ても国民の数%しか理解出来ていない筈だから(頭の悪い)庶民多数意見など相手にしていられないと言うのでしょうか?
こうなって来ると、上記政治経済学者の基準とは違ってきます。
上記学者は国民のレベルが低いから間違うとは書いていません・・情報が少ないから間違う・・だから大衆意見に従う必要がない?と言う意見のようです。
結局根拠のないエリ−ト意識が、・・「これは重要情報から国民に知らせない方が良い」と言う暗黙の基準になっているように見えます。
国民はバカ過ぎて自分たちしか理解出来ない・・開示しても仕方がないと言う、国民愚昧論が基礎にあるのでしょうか?
難し過ぎる・・資料膨大の問題・ダイジェスト版の必要性については、明日以降書いて行きます。

大衆迎合主義の定義2(情報格差論1)

マスコミのなりふり構わない恣意的基準による言論抑圧が激しくなって来た根源を探ると「国際移動の自由保障→国家の障壁を出来るだけ低くする」思想破綻の危機感に行きつきます。
マスコミ=ユダヤ資本支配と言う図式に当てはめると、戦後米欧の腕力によってアラブの地に強引にイスラエルと言う人口国家を得たとは言え、危うい存在であることに変わりがないので、基本がさすらいの民族であるユダヤの利益・・国籍移動の自由と少数民族保護最大化こそが彼らの最大の関心事です。
いわゆるユダヤの世界支配、マスコミ支配の陰謀論・・彼らの国際移動自由化・金融支配の展望悪化→危機感が高まり、背に腹を変えられなくなって、自分のよって立つ表現の自由を露骨に抑圧する言論弾圧に向かっているのではないかと言う意見が現実味を帯びてきます。
民主党・弁護士会などは、自党の主張が通らないと直ぐに「国民大多数の意見を無視した◯◯を許さない」と言う傾向がありますが、民主党の支持率が10%もない中で「国民大多数」と標榜するのは、これも言葉の間違った用法です。
マスコミや文化人は自分の主張だけが正しいと信じているようで、これに合わない意見であれば、「国民大多数の声を無視」と言ったり、数で負けそうになると「大衆迎合主義」、裁判で自分が負けると「不当判決」と言うレッテルを貼っている言葉の意味を自由自在にすり変えている印象です。
言論の自由こそが存立の基礎であるマスコミが自己意見に合わない意見を「大衆迎合主義」「極右」あるいは「レイシスト」と言うレッテル張りで言論抑圧するのって自己矛盾ではないでしょうか?
このシリーズでは、言葉の定義をはっきりする必要性・・意味をずらして主張するのって嘘つきの始まりであることを書いています。
正確な情報提供・・これによる民意重視がマスコミの使命・存在意義と思えますが、マスコミが、・・恣意的基準を勝手に作って気にいらない思想表現を批判しているのではないと言うならば、大衆迎合主義と民意重視との違いの基準をはっきりさせるべきです。
合理的根拠のない区別・・恣意的基準でレッテル貼りをした上で、特定主張のみを非人道的であるかのような大批判宣伝・・洪水は、意見を平等に尊重・市場淘汰に任せるべきと言う現在の価値観・・表現の自由に対する真正面からの挑戦です。
基準をはっきりさせないレッテル貼りが激しくなると、マスコミだけが抑圧すべき言論認定権があるのか?と言う疑問を持つ人が増えて来るでしょう。
基準がないままレッテル貼りが横行すると、「マスコミが認める範囲しか言論表現の自由がない」と言う結果になりそうです。
そうなると、表現の自由に立脚するマスコミの存在意義がなくなってしまうので、そこまで本音を知られないように必死ですが、あまり恣意的言論抑圧を続けると結果から見ればそうならざるを得ません。
対中韓関係報道ではここ十数年報道基準の偏りがあまりにも露骨だったので、ネット批判によってフジテレビや朝日批判運動に直結してしまいました。
最近、西欧への難民殺到に対する国民反発とアメリカ大統領予備選でのトランプ氏などの躍進によって、大衆迎合批判・・極右躍進とかレイシスト、大衆迎合とかマスコミの気に入らない方向に対する批判が熾烈になる一方ですが・・熾烈になればなるほどマスコミが批判する大衆迎合主義と民意重視政治との「違いが何か」を放置出来なくなって来たようです。
2月5日の日経朝刊の29p経済教室に国際政治経済学者加藤創太氏が意見を書いていました。
最近アメリカ大統領選でのトランプ氏の人気・・オポチュニスト拡大は、「情報が正確でない」ときに起きるものだと言う意見でした。
(マスコミに気兼ねしているのでしょうか?「大衆人気重視は間違っている」前提で、何が間違いかの判定基準がなく、大衆意見が何故間違うのかの原因論です)
これによるとマスコミの期待する弾圧すべき大衆意見と重視すべき民意の違いを書いていません・・。
情報不足だから大衆は間違うと言うのですから、前提として大衆意見は間違っていることになるのでしょうか。
国民を愚昧だから無視すべきとか、逆の情報を与えた方が良いというのではなく、(そんなことを新聞に書けないでしょう)「正確な情報を与えないことが原因」と言うだけですから、財政赤字の正確な意味・・難民が来たときのプラスマイナスの効果・・など正確な情報隠蔽を正当化する理論ではありません。
彼の論理では、マスコミの方が情報量が多いから、判断に優越性がある・・言論弾圧すべき民意と重視すべき民意の区別判定能力があると言う結論までは書いてませんが、そう言う印象に持って行きたいようです。

社会保険の赤字10(定義の重要性1)

公的保険赤字は、赤字になると分っている鉄道を政治力で無理に引かせておいて、国鉄に赤字を負担させていたのが間違っていたのと同じことです。
国鉄マンが経営努力しても政治介入分が赤字になるのは理の当然ですから、労働意欲が落ちます・・マスコミはこれを咎めて国鉄マンが如何に働かないか、だらしないかの大合唱でしたが、大もとの原因隠蔽に手を貸していた・・大もとは政治介入による労働意欲減退だったことは民営化した後の働きぶりによって証明されています。
※ダラ漢・無責任労働者がはびこっていたことも事実ですが、大もとが腐っているときに外部から見れば末端の無気力が可視的になるのはどこの組織でも同じです。
幹部が経営責任を持てなくなっていたので、労働組合も組織がどうなっても良いと言う価値観が浸透し、利用者無視のストライキばかりやるようになってしまったのです。
社会保険庁の無能ぶりが民主党+マスコミによって大騒ぎして暴かれ,政権交代になりましたが、赤字をどうやって解決していいか分らない(国民・・主として人権派が大判振る舞い運動しながらお金を出すのをいやがっている矛盾が、集中的に現れていた)憂さ晴らしに、職員をスケープゴートにしてどうなるものではありません。
国鉄であれ、社会保険であれ、経済原理を無視した優遇を要求する以上は例外措置によって生じたコスト・資金は、税で賄うべきですから税で賄った分=保険料で賄えない分を赤字と言っているのですが、赤字の意味が民間(社会常識)と違っています。
民間の経済に関しては赤字と言えば放置すれば倒産の危機に及ぶ大変な事態として知られていますが、民間経済用語を会計システムの違う公的機関に持ち込むのは用語のすり替えでしかありません。
この辺は財務省が財政赤字と繰り返し宣伝しているのと同類のすり替えです。
私が繰り返し書いて来たように、公共団体の場合には例えば収支トントンの団体が、ある年100億円で港湾や学校を作ると、100億円分そっくり赤字になりますが、同時に100億円の資産が増えたことを計算に入れない変則的な会計制度だからそうなっているだけです。
個人で言えば年収1000万円生活費900万円の人・・収支黒字100万円・預貯金・投資金5000万円の人が、(投資金をそのまま運用したままで)4000万借金して、4000万のマンションや大手企業の株式を買った場合,その年だけの金融収支としては、取得したマンションや株式価値などのプラス資産を問題にしないので、年収入1000万−(生活費等支出900万+4000)=3900万の赤字・・年収比3、9倍の赤字です
財政赤字とはこのようにその年度の債務負担だけ見て年収・GDP比何%になったと言うのですが、この概念に何の有用性があるか分りません。
家計であれ、企業であれ、財務の健全性を見るには、蓄積した+資産と金融資産とのバランスで見るべきですが、財務省(あるいはその意を受けたエコノミスト・マスコミは敢えてミスリードしているのか分りません)は、資産部門の増減を全く問題にしていません。
どこの誰も認めないようなこねくり回した独自概念を一般概念と同じであるかのような印象でマスコミに流布して、年収・GDP比何倍だから大変と主張し続けているが何が大変なのか、合理的に理解出来ない・・マサに虚偽説明そのものとプロの世界では評価されているので、国債市場や円相場はびくともしていません。
公的機関が独特の概念(国語?)を作ってマスコミに流布させているだけですから、比喩的に言えば、「役所では晴れた日を雨」と言うことに用語統一した場合、それは内部の隠語・符牒であって外部に一般概念同様に流布させるのは言語の混乱を招いてしまいます。
社会に流通している意味では、明日晴れと予想されるときに、気象庁が内部符牒のママ「明日雨です」と国民に発表すると雨を前提で仕入れたり行動する国民を欺く行為です。
こう言う場合直ぐに結果が出るので、「気象庁は何をしている!」と言う非難轟々でしょうが、経済や政治現象で言葉の定義を勝手に変えて発表すると国民は常識的意味で誤解してしまいますが、虚偽であることがすぐに分らないので、国民を欺き易い・・欺かれている方は長期的に大損害を被ります。
内部独特の符牒概念を一般概念のように使うのを「嘘つき」と言うのではないでしょうか?
同じ「ドル」でも香港ドルやオーストラリアドルや◯◯ドルごとに価値が違いますので、米ドルで交渉してまとまったときに香港ドルを払うつもりだったイキナリと言うのでは詐欺になります。

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