司法権の限界5(人権・正義の相対性1)

最近最高裁が夫婦別姓に関して、国民議論が熟していないとして違憲主張を斥けたのは・・司法の限界を弁えた賢明な判断だったと思います。
正義は数学の原理とは違って社会原理ですから、その社会の経て来た歴史経緯や実態を無視して抽象的・・超然として存在するものではありません。
日本には日本列島の経て来た歴史があるし、アメリカや中国インドそれぞれにちがった経験や歴史がありこれに応じた正義があります。
同じ社会でさえも、時間軸による差があります。
超短期的時間・・大規模テロ発生直後の現場では、全てのインフラ利用や人権保障を停止して先ずは救急救命や厳戒態勢の構築・捜査犯人検挙・連続テロ防止が優先されます。
中短期的にも、テロ被害が恒常化すると先ずは、治安を優先する必要があって・危機対処要員・・軍人の意見が優勢になるのと同様でその置かれた状況に応じた価値・正義の比重が変わります。
今、西欧で通信傍受その他の必要性(平時の人権が遠慮する必要性)が真剣に議論され始めたのが、その兆候・・アメリカでアップルの暗号解除が大議論になっているのもその一種です。
自分が安全なところにいて危険地帯での治安強化を非難していたのは、不公正な議論であったことを西欧諸国も身を以て知ったでしょう。
3月初めころに女系天皇を認めない皇室典範が、男女平等原則違反と言う趣旨(ネット報道なので文言不明)の国連人権委員会による対日勧告案(日本人弁護士委員長)が提示されて、おお騒ぎになりかけました。
憲法に平等の人権規定がありながら、同じ憲法に天皇制と言う世襲制度を設けている以上は、(男系優先まで含むかは別ですが・・)これは憲法の例外です。
まして以前書きましたが、天皇家・皇室は「国民」ではありません。
憲法がどうであれ、憲法に超越する上位規範を作って?皇室内にも男女平等原理や長子家督相続をやめて均分相続原理を認めるべきかとなりますが、天皇制がどうあるべきかは正に「国民総意」によることで国連・外国からとやかく言われることではありません。
こう言う問題提起している集団は憲法より上位の規範がある・・それを自分たちだけが知っている・・そのお墨付きを国連勧告などに求めているように見えます。
国民多数の支持を受けられない現実に対しては、多数派を衆愚とか大衆迎合主義者と言って無視し、自分が憲法を無視したいときには国連勧告や報告を持ち出すなど、都合良く切り分ける集団がいます。
この問題が大きくなると国連で誰がこんな画策をしていたのか!と言う大きな動きになりかねないと思ったのか?国連の(内で画策していたグループ?)方で直ぐに取り下げたので大騒ぎにならない内に終わりました。
国連委員会の勧告制度は、元々相手国がいやがることを勧告するものですから対立関係を前提とするものですが、日本の反応に驚いてホンの1週間ほどで取り下げになってしまった安直な動き自体おかしなものです。
以前の児童売買春に関する対日調査報告だったか記者会見もそうでしたが、やることが特定の反日少数グループによる安易な報告や勧告が量産されている印象を受けます。
何かと「国連で批判されている」と言う論法で憲法に優越する前提の主張を持ち出す論者には、人権と言えば国ごとの差が許されない人類普遍の原理・・遅れている国民の意見などいらないと言う選民意識がある(・・何かあると憲法違反論を主張する勢力と重なっているようですが・・本音は憲法や民意無視の勢力です)と思いますが、さすがに「天皇制そのものを批判するために国連を利用するのか!」と言う世論が沸き立つ前に早々と引き下がった印象です。
嫌韓感情の発火点は、李明博前大統領にによる天皇侮辱発言が伝わったことによります。
慰安婦騒動は韓国には迷惑をかけた以上はある程度の誇張は仕方がないとか、「またバカが言ってるか!」バカを相手にするとこちらまで品性が下がると思っている程度の人が多かったのですが、天皇侮辱発言となると、ついに民族感情が爆発してしまい日本人の韓国に対する思いやり・寛容の精神の限界を越えてしまいました。
韓国は国連のように直ぐに軌道修正すればよかったのですが、(国連委員会がすぐに修正出来たのは日本人委員がこのテーマに影響力を持っていたからではないかと推測されます)朝鮮人の民族性を発揮してパク大統領が開き直りに徹したので遂に修復出来ないところまで進んでしまいました。
今になって日韓合意になりましたが、日本からの観光客激減が続いていることに象徴されるように傷ついた国民感情を簡単に修復出来る訳がありません。
親族や友人間の裁判で和解したからと言って、・・その裁判での主張をこれ以上進めないと言う程度の合意に過ぎず、過去の人間関係が修復出来ることが皆無に近いのと同じです。
政治用語の「不可逆的」とは、法概念の「確定」「既判力」の言い換えです。
日韓合意に対するいろんな立場からの意見がありますが、裁判上の和解を下敷きにして考えると容易にその効果・・射程範囲を理解出来る筈です。
専制支配の経験しかない韓国では、指導者・政治家あるいはマスコミさえ抱き込めば良いと言う動きが最近急ですが、ボトムアップ社会の日本民族性を十分理解していないようです。
抱き込まれた政治家があまり露骨な動きをすると朝日新聞やフジテレビみたいな目に遭うでしょうから慎重です・・当面韓国批判をさせない間接的動き・ヘイトスピーチ禁止論から始めている印象です。
国連を利用した男女平等にかこつけた実質的天皇制批判・・勧告案に対する日本社会の憤激の大きさに驚いたのか、(韓国と違って機を見るに敏です)大急ぎで国連人権委員会が案を引っ込めたことから分るように、「人権」と言いさえすれば人類普遍原理・・国連が価値観を示して民族の総意を無視して主張出来る・・超越的高みから指導出来る訳ではない・・・社会ごとの人権・正義があることを認めざるを得なかったことを女系天皇騒動が証明しました。

司法権の限界4(謙抑性1)

大学入試はテストによるしかない・・しかもテストにもルールがある・問題を予め教えたり、個人的耳打ち情報や裏金・コネで特定生徒の合格を決めたらいけないように、裁判も訴訟手続に出た資料以外の材料を判断材料にするのがいけないのが基本です。
野球や相撲でも大方ルールがあり、裁判には勿論ルールがある・・これを決めているのが訴訟法です。
訴訟手続を踏んで出されていない心象風景を判断材料にするのはルール違反です・・野球で言えば、ピッチャーの投げた球を打つのであって、別の人が投げた球を打ってもホームランやヒットにカウントされませんし、料理コンペでは同じ具材条件で競うものであって、こっそり別の調味料を加えるのはルール違反です。
ましてや政治決定の優劣を最終審査する権利は司法にはありません。
料理審査員が政治に口出ししているようなものです。
料理やスポーツ等の審査員が政治意見を言っても国家意思にはならず影響力程度のことですが、司法が判決で政治を持ち込むと国家意思の最終決定・・権力行使になるので、性質が違ってきます。
司法権の限界を越える=越権行為をする裁判官は一部の不心得者に限定されるとしても、仮に裁判官全体の一部の人でも自分の個人的主張を通すために裁判形式を利用すると、国家権力・強制力として効力が生じるので大変な影響力があります。
医師の独断による安楽死実行は、規範的効力がなく逆に規範により処罰される犯罪行為としてのインパクトでしかない・・被害者は個々人だけですが、国家意思としての司法決定は全国民の行動規範・・法の解釈となるので影響が大きくなります。
民間や行政組織は組織的決定を経ないで外部発表するのはルール違反ですが、司法・・裁判官は単独(多くは単独事件ですし、合議体でも対等者間ではなく経験10年以上の格差のある先輩後輩の3人でしかないことをMarch 12, 201「個人責任と組織の関係3(仮処分制度の領域1)」のコラムで紹介しました)で国家意思として強制力を持つところが大違いです。
医師は病気を治すのが本業ですが、人の生死に関連しているうちに生死を左右出来る権利があるかのように振る舞うようになると怖いものです。
医師の個人信念で安楽死をさせている事件が時々殺人罪のニュースになりますが、医師は生死の場に多く関わっているだけであって、生死を決める優越的判断権を有している訳ではありません。
テーマがズレますので簡潔に法的整理すれば、「自死」に関してどう言う場合に自己決定権を認めるべきかその援助を容認するかの国民合意形成分野です。
刑法
(自殺関与及び同意殺人)
第二百二条  人を教唆し若しくは幇助して自殺させ、又は人をその嘱託を受け若しくはその承諾を得て殺した者は、六月以上七年以下の懲役又は禁錮に処する。
国民合意がないのに、特定医師あるいは医師会が勝手に国民意思を決めて実行する権利はありません。
このように一定の力を持つと限界をはみ出す人が生じ易くなります。
武道家がグレて違法行為に走ってしまうのに対抗する姿三四郎の映画や、チャンバラ映画のようなものです。
27日に紹介した日経新聞の「春秋の筆法?」によれば、大津地裁の仮処分決定は「国民の心象風景を認定しているように見える」ようですが、司法権には国民意思を認定して法をどのように創造すべきかを決める権利がなく、既存の法に該当するかどうかを「訴訟手続によって得た証拠を「自由心証」で評価した事実認定権限しかありません。
訴訟手続によらない心象形成・・独断決定は禁止されています。
とは言っても条文自体の解釈・・学問的甲論乙駁も定説もない分野では、裁判官の個人信条が反映され易くなる危険があります。
名古屋だったか三重県だったかで友人の子供を預かった間に起きた事故で、損害賠償を認めた事例が世間を騒がせました。
名古屋高裁の妻や長男夫婦の介護責任を認定した事件のように司法判断がおかしい・・司法権がそう言うことまで決めていいのかの疑問を持つ人が多いでしょう。
国民的議論がまだ熟していない段階で、司法が勇気を持って?率先判断を示すと「法」を創造することになります。
憲法上司法の最終決定が国の最終決定となることから、国は司法の決定に従わねばならない・・これを是正する方法がない分・・その分司法には自己規制・・謙抑性と言われています・・が要請されます。
憲法が司法に法解釈の最終決定権を与えた・最終決定機関と言うとはこれが誤っていても是正する手段が用意されていないことになりますから、その代わりに内在原理として自己規制・謙抑性が要請される原理ですが、最近これが狂っていないか、社会的に疑問をもたれる判例が時々出ます。
社会のあり方に関して国民議論が熟していない上に法の基準がない場合には、司法が率先して基準・法を定立しようとするのはおこがましい・・国民主権原理に反しています。

高浜原発停止と司法権の限界1

原発事故の被害想定が過大であったかどうかは別として、そもそも国民の信任を受けない司法が、どの程度の確率の安全ならば良いかについて最終決定権があるのでしょうか?
地震予知は科学的合理性では不明の状態にある・・現在科学では何年も前から具体的な地震予知が出来ないことが世界の常識です。
100%確かではない事柄は世の中に有り余るほどありますが、それでも日々何かを決めて行くしかないのが現実社会です・・。
企業で言えば、設備投資リスクや企業買収や、国外工場進出のリスク不明でも一定の情報でやるかやらないかを決断するしかないのですが、その代わり失敗すれば決断したトップが責任をとるしかないのが政治責任と言うものです。
原発安全基準もどの程度の地震がいつ来るか全く不明なので、原発設置するべきか否かも工場進出同様の政治決断しかない分野です。
政治が決めた決定基準・・その道のプロ集団がしている安全基準や適合性判断を司法権が否定するのは憲法違反行為です。
革新系は頻りに政治運動で負けると憲法違反を叫びますが、本来政治で決めるべきことを司法で決めるべきだと裁判を仕掛けること自体が憲法違反を(ガードの甘い裁判官が一定割合でいるでしょうから、)誘発するための運動になります。
権限外の判断をして憲法違反するのは担当裁判官であって、仕掛ける弁護士の責任ではないとしても、しょっ中仕掛ければタマにドジな裁判官に引っかかると言う意味で違反を誘発する方にも相応の道義責任があります。
国家にとって重大な事柄を、本筋の訴訟手続でない簡易な仮処分で決めるとなれば、二重に権限逸脱の可能性があります。
上記のとおり慎重審理の本案訴訟の結果決めても司法の範囲外・・権限外の疑いがある上に、軽易迅速を旨とする仮処分手続で決定をするには慎重審理する時間を待てないほどの巨大な被害が起きることプラス緊急性認定が必要です。

民事保全法(平成元年十二月二十二日法律第九十一号)
(申立て及び疎明)
第十三条  保全命令の申立ては、その趣旨並びに保全すべき権利又は権利関係及び保全の必要性を明らかにして、これをしなければならない。
2  保全すべき権利又は権利関係及び保全の必要性は、疎明しなければならない。

上記保全の必要性がこれにあたります。
保全の必要性とは本格的訴訟手続による判決を待てないほどの緊急性と被害の大きさの掛け算です。
これまで被害想定の重要性を書いてきました・・・・昨日伊方原発再稼働にはコストがかかり過ぎるので断念するとのニュースが出ていましたが、過大に被害想定すると対策費用がこれに比例します・・産業を活かすも殺すもコスト次第・被害想定次第であることが明らかにされたと思います。
以下事案の緊急性認定に関心を移して行きます。
判例時報などで決定文が活字化するのは約半年後ですので、まだ決定理由を見ていませんので詳細不明ですが・・。
どこかネットに出ているかも知れませんが、私は仕事の合間にこのコラムを思いつきで書いているのでまだ見る暇がありません・・判例時報に出れば仕事の一環として読むヒマがあります。
高浜原発のある地元福井地裁の停止決定が(同地裁の別の部か高裁だったか記憶していませんが)最終的に否定されているのに、もっと遠い隣県の大津地裁の方が危険・・本案訴訟の結果を待てないほどの緊急性があると言う決定になったのが不思議です。
(ただし決定の違いが危険性の差であるとした場合です・・)
28年3月11日に医療事故のミス認定判断との比較で書きましたが、実害が起きた後の医療ミス判断は、いわゆる「後講釈」ですからそれほど難しくないし、司法判断に馴染まないとは思いません。
交通事故や予防接種などを見ても分るように、事故が起きた以上は余程のことがないと、過失なしと言う判決を受けるのは難しいことも国民が納得しています・・。
実際に死亡事故など実害が起きている場合、相応の補償か賠償して補填すべき必要性もあります。
しかし,事故が起きる前に道路交通法の基準・・あるいは建築基準法の基準・・飲食で言えば保健衛生基準等々が緩過ぎるかどうかの合理性を事故前に司法が判定して良いか・・しかも他の批判を許さないかのような即時効(仮処分)を認めて良いかは別問題です。
数学の公理のようにはっきりしている分野では専門家が最終決定する仕組みで良いのですが、上記のとおり専門家でも地震予知不可能である以上は最終的に政治が決めるべきです

民主党政権の体質と諫早矛盾裁判の両立1

ここでは、民主党政治批判が目的ではありませんが、被害や対立を煽るだけ煽る政治やマスコミは何のためにやって来たかの視点で書いています。
沖縄の普天間基地移転問題は、騒音等の周辺住民被害解決のために,先ず大騒ぎがあって騒音や事故被害縮小のために一部海上移転の解決策が決まったものですが、そうすると今度は海の生物がどうのと言う反対運動が起き、それが解決すると「少なくとも県外へ」と言う実現不能な提案になりました。
この矛盾が露呈してやはり辺野古への移転が次善の策となると、今度は沖縄だけが本土の犠牲になっている・・沖縄知事が国連で民族自決権が無視されていることを訴えるなど沖縄県民は日本人ではないことを前提にした主張が始まり、中国が画策する沖縄の日本からの分離独立に繋げる公式発言をするようになってきました。
この過程の時間稼ぎとして司法闘争が始まったことになります。
(司法が政治の上位になるような司法権運用の合憲性・・政治と司法の憲法上の関係は後に書きます)
こうなって来ると基地被害を大きく訴えるのは(本質は反日でその防壁になっている)反米運動のための言いがかりでしかなく、民族分裂・・対立を煽り、「揉めさせることが目的」だったかのような印象を受けます。
被害は出来るだけ大きく主張した方が良いと言うスタンスは、被害者救済目的ではなく産業妨害・民族内対立を煽るには被害を誇張して主張すればその内に加害者も怒り出す・・対立激化させる意図によっていたことが分ります。
(放射能被害過大宣伝に応じて大仰に逃げた人との間で、地元民同士でも軋轢・不信感が生じています)
一般政治批判さえ許されない中国の支配下ないし従属化すれば、基地問題がなくなるのか?・・基地反対運動など全く出来ないから基地問題はなくなると言えますが、・・住民無視・蹂躙されるのが目に見えているのに基地被害を理由にする反政府運動で、中国の支援を当てにする運動を始めたのですから噴飯ものです。
民主党やマスコミの被害者救済運動は、昭和時代に中ソの公害や核実験を問題にしないでアメリカの核実験や日本企業の公害ばかり反対していた文化人の系譜を引いているようです。
沖縄を日本民族から切り離す運動を見ると「そこまで来たか!」と恐れる向きがありますが、逆に本音を出さざる得ないほど反日運動家に対する支持がなくなって来た・追いつめられて来たので外部勢力に頼る・・国連活動を始めたとも見られます。
(NGOを使って外部勢力を引き込む問題点は昨年末以来中断していますが、この後で書く予定です)
沖縄基地問題を騒いでいる勢力の本音が出て来たところで、沖縄県民がどちらをとるか・・彼らの煽動にのるか、沖縄県人の本音を本土の人がじっと見守っている状況になってきました。
一旦中国寄り意識・・どっち付かずの態度あるいは独立志向を明らかにした後で日本の方が有利となってすり寄って来ても、韓国に対する日本人の冷めてしまった気持ち同様に、(イザとなれば、信用出来ない民族として)千年の溝を作ってしまう分かれ道です。
沖縄県民が韓国レベルの智恵か本当に日本民族として残るに足る智恵があるかの見せ所です。
壱岐・対馬は元寇のときに現地住民は圧倒的勢力で攻め寄せた元軍に屈しなかった点で日本人は同一民族としての意識を更に高めています。
従来「何でも反対の社会党」と言われていましたが、民主党政権も何でも実現不能に持って行く・・国の政策停滞・・何も出来ない状態・・政府の弱体化を目的にして来たことが明らかになりました。
参院衆院のねじれ現象で何も決められない状態の「継続」こそは民主党の理想的政体だったでしょう。
あちこちで実現不可能なことを言っていた民主党が衆院で多数になってしまい、(同時性と継続性の両面で)一貫したことをするしかなくなるとどうして良いか分らなくなったのではないでしょうか。
政治の停滞・・何も決めない,しない・・させないことを目的にした政党が、政権獲得を目指すこと自体矛盾でした。
諫早干拓訴訟の結果、現出した矛盾状態の根源は民主党政権の目指していた開門方針・開門請求訴訟・・高裁勝訴判決(政府敗訴)が最高裁で負けそうな予想(政府勝訴予想)によって、敢えて従来政府方針との継続性を無視して上告せずに確定させてしまい・最高裁判断を回避したことが原因です。
政権交代したら何をしても良いのではなく、政権交代は政府の内部組織の問題に過ぎず、トップの方針が変わったとしても、政府自体は同一組織ですから継続性が必要です。
企業で言えば分り易いですが、社長が替わったからと言って前社長の決めた契約や約束を反古にすることは出来ません。
方針変更については、これまでの支援者と利害調整した上で和解すべきでしたが、姑息な手段・・一見裁判結果を尊重するかのような形式でありながら、実質は最高裁の判断を仰ぐのを拒否した・・菅総理が奇策を弄したことが矛盾した裁判所判断が確定してしまった原因です。
明日、法務省説明とウイキペデイア説明を紹介します。

原発被害想定基準8(人災と事故被害3)

今になると民主党政権が世界の科学基準を無視して、何のために(立ち退き強制する範囲を広げ過ぎる)無茶に厳しい基準を決めたのか謎です。
この非常識に厳しい基準設定によって多くの原発被害者?が生じていることが明らかです。
仮に政府の決めた許容放射能許容基準が子供の場合には合理的であるとした場合でも、1ミリシーベルト基準超でどの程度の身体被害を想定したかの検証も必要です。
例えば1ミリシーベルト越えで20年後に足の先がかゆくなる程度か、虫歯になり易いのか、内蔵がどうなるのか、生命の危険があるかなどによって避難程度が変わってきます。
足がかゆくなったり虫歯になり易い程度ならば、自宅を棄てて遠くへ避難したい人はいないでしょう。
数十年後にもしかして命に別状があるとしても、60〜70歳を越えた人にとってはどうせその頃には何らかの病気で死ぬので、その間住み慣れた自宅で好きな仕事していた方が良いと言う人の方が多いでしょう。
「1ミリの場合と2ミリシーベルトの被曝の場合の違い、「2ミリシーベルト超では何年後にこの程度の病気や障害になります」「1ミリシーベルト超では何年後にこの程度の症状」とその違いを開示すれば、「じゃあ1ミリシーベルトの地域まで逃げるか」と人それぞれに避難すべき距離の判断も出来ます。
これまで書いて来たように(私の理解によれば)元々放射能被害があるかどうかすら分っていないのに被害を過大に強調するために過大な規制をしたから、5年経過後の今でも合理的基準がどうであるか発表出来ないないままになっていると想定されます。
まして放射能被曝蓄積・・数十年後の放射能蓄積は中高年齢者には、関係がない・・ある程度生活にマイナスがあるにしても避難するマイナスの方が大き過ぎなかったかの検証が必須です。
昨日書いたように、(原爆そのものの直截被害は明らかですが・・)広島,長崎のデータを見る限り、その後の放射能被曝の実害が未だにはっきりしていません。
福島の場合、現地に残して来た牛は現地の草を食べて水をのみ・・マスコミ宣伝どおりとすれば、内部被曝も激しい筈ですが、今になって生き証人?として検査しても内部被曝がどうやら解消している・・蓄積する一方ではないらしいことが分ってきました。
https://motion-gallery.net/projects/hibaku-ushi
2015年9月現在、旧警戒区域の中には700頭あまりの被ばく牛が生きています。伝染する口蹄疫とは違い、近寄っても何の影響もありません。現在は国 は、殺処分に応じない農家に対し、圏外には持ち出さない、出荷させない、繁殖はさせないという条件で生かすことをやっと容認しました。研究者の手によっ て、被ばくした牛であっても3か月間から半年間、きれいな水と汚染されていない餌を食べ続けることで、体内の放射性物質(セシウム)は95%以上排出さ れ、その肉は国の安全基準である100ベクレル/kgを大きく下回ることがデータとして検証されました。・・」

この点はマスコミにとっては面白くない事実なので、無視のようです。
100歩譲って、かりに放射能汚染の実害があるとした場合を考えてみましょう。
たとえば、80歳の人が、このまま放置するともしかすると20年後には半身不随になるかもしれないと医学的に分って場合でも・・今手術すると死亡確率が6〜7割と言う場合に、今から命がけの手術する人がいるでしょうか?
まして放射能被曝の実害がまるで分っていないのに7〜8〜90台の高齢者や重病人等いつ死ぬか不明の病人まで、強制避難させたのは「暴挙」としか良いようのない失政です。
茨城と福島県境界付近居住の私の学生時代の趣味のクラブの後輩からの通信によると、透析をしていたらしいですが、こう言う患者にとって透析すべき病院が避難してしまうなど、避難生活によるマイナスの方が大きい印象です。
民主党政権が事前予測するには時間がなかったとかいろんな事情があるしょうが、5年経過した今では客観的調査が可能ですから、本当は避難の必要がなかった人が何人でその内何人が避難したために死亡したのかなどデータ化・・検証作業するべきです。
「被害想定は過大であればあるほど良い」と言う(規制される方の権利を無視する)偏った人権派の主張が、今回被害想定を過大にすると規制による被害を受ける立場が一般国民に広がったことによって冷静に見る必要が意識されるようになった筈です。
原発被害を強調したい現地住民が、その結果自分自身が規制を受ける方に回る皮肉・・に目覚めたでしょう。
自分さえ良ければ良いと言う戦後はびこった「自己中心の」矛盾が明らかになったのが原発被害想定です。

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