アメリカの場合人種のルツボであって民族主義の情緒に訴えられないので、for the people「人民のための政府」という秀逸レトリックが生まれたのですが、こうなると政府・人民とは何かが気になります。
国民を対外戦争に動員するためには人民による、人民のための政府擬制が必要なので、政府実在を強調するしかないでしょう。
政府・governmentとは何かですが、直訳すれば統治(者)ですから、これを日本の「政府」と翻訳するのは誤訳ではないでしょうか?
governmentの内容実質は、統治する機関・支配者でしかないのでしょうし、the people・ピープルは構成員?ではなく支配・管理対象でしかない、日本で言うところの国民ではなく「烏合の衆であるpeople」民衆がその対象になっています。
governmentに関するギリシャのプラトンから始まって、現在のガバナンス論まで有益な講演・質疑録が以下に載っていますので、関心のある方は参照して下さい。
専門家同士の長いやり取りがあって、これを私が勝手にまとめても間違いがあっても困りますが、運良く?まとめがありましたので、その部分だけ引用しておきます。
http://web.iss.u-tokyo.ac.jp/gov/research/dp_uno.pdf
DiscussionPaperSeries
全所的プロジェクト研究 ガバナンスを問い直す 政治思想史の観点から
東京大学社会科学研究所
InstituteofSocialScienceUniversityofTo k y o
宇野 重規(東京大学社会科学研究所)
2012年11月
「とりあえずのまとめ
(フーコーが正しいとすれば)本来は私的な財産や従属的立場にある人々を管理す
ることを意味した「統治」が、君主が自らの私的財産である領土と人民を管理する
という趣旨から、近代国家による行政、さらには公的秩序の維持一般を指す用法へ
と拡大した。と同時に、以前はさまざまな主体の実践に用いられていたのが、もっ
ぱら国家に関してのみ使われるようになった。」
欧米思想史では、日本の政府とは違い、governmentは統治、支配機関のあり方論でしかない以上は、ガバメントの特性は支配階層・・・共和党統治などで表現するしかありません。
日本の「政府」はマツリゴトをする府であり、集団員を超越したリーダーや支配者・管理者を予定していません。
古代の卑弥呼その他日本列島でのマツリゴトの本質は「憑依」に頼る点で一見非合理ですが、集団構成員の言葉にならない本音・・集団の総意を体感する儀式だったと見るべきでしょう。
「総意」については日本国憲法で書いている「総意」をどのようにして知ることが出来るかと言う関心で大分前書いたことがあります。
憲法
第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
大方の納得する総意・落としどころはその場の雰囲気?を読む能力が必要です。
多数意見であっても反対派もいるので総意ではありません・・。
多数意見で押し通すのでは、落ち着かないのである程度反対論者も納得する妥協的現実論は、選挙では知ることが出来ません。
最後まで妥協せずに(不利な判決が出れば不当判決と非難するなど)最後までいがみ合っている社会では民主主義社会は成立しませんので、本当の明主義社会が成立するには、高度な民度が必須です。
どうやって総意を探るかの智恵。民度ですが、口論の末につかみ合いの喧嘩をしているのでは社会の融和が保てないので、我が国古代には憑依に頼って、これに従うルールが出来たのです。
巫女に頼る古代社会は、現在でも冷静な話し合い解決能力がなく際限ない争いをする後進国よりも社会運営方法としては、はるかに進んだ制度です。
喩えば、スポーツ競技で0、何秒まで測定出来る時代と違い目測のときには、測定出来ないときに、判定不能な場合には勝敗をクジやじゃんけんで決めていたのと同じです。今でも相撲やスポーツでは行事や審判の判定は絶対と言う決まりがあります。
測定器あるいはDNAなどの発達によって厳密判定可能化が進んでいますが、政治意見の優劣はいくら議論しても決まらないのが普通ですから、(現在の支配的方法である多数意見だからといって正しいとはかぎりません・・クジで決めると予め決めたのと同様の一種の取り決めです)最後はクジやトランプで決めるのは意外に合理的です。
これと同じことを古代から考え出して内輪もめをやめたのですから、今でも適当なところで論争を終わりにする知恵がなく、内部紛争に明け暮れる社会に比べれば、かなり進んだ制度です。
測定機器発達同様にこれが次第に合理化されて(冷静・論理的な議論が出来るようになって)、朝廷や幕閣での合議制や村落での寄り合いによる民意集約方式に発展したものと見るべきです。
日本では組織と言えば村落集合体が基礎ですが、構成員である自分自身の意思が無下に否定されることがない融和的解決が多い社会の運営は参加人の意思をソンタクした「政(まつりごと)」であり、誰か強い人の意見で統治される対象ではなくみんなの総意、共同作業であることは古代から今も変わっていません。
日本の集団には支配・被支配という2項対立意識はありません。
ちなみに政治の「治」とは、治山治水の治であって、上から命令・支配出来るものではなく、自分より超越的な自然界に「御治め下さい」と受納して頂くものです。
結局は集団総意をルールに従って憑依して(お上の声を)聞き、これを実行しましたので嘉(よみ)して下さいと言うに過ぎないのが我が国の政治です。
「国民」と言う漢字がありますが、これは明治政府が無理に西欧流近代国家概念に当てはめただけであって、元はと言えば「くに」の民です。
「くに」とは何かと言えば、今でもクニ(郷土)に帰るとか邦人と言うように「くにを同じくするひと」「はらから」としてあい助け合う同胞を表す意味です。
郷土を同じくし、何世代にわたって維持して来た相助け合う同胞を国民と漢字表記しているのですから、支配の対象でしかなく共に助け合う存在ではない・砂粒の人達?であるpeopleをクニの民ではない「人民」と翻訳したのは誠に的を射た翻訳と言うべきです。
日本人をも欧米並みに「人民」と定義すれば、社共・文化人勢力のスキな「搾取」される被害者像がフィットする関係になります・・実際彼らは国民と言う言葉より「人民」と言う言葉が好きです。
アメリカの人たちは日本の国民に昇格していない・・工場の機械や工具・牛馬や原材料同様の支配利用の対象。商品でしかないが、タマタマ牛馬ではない「ひと科」に属すると言う意味で「人民」と言うのですが、その状態で今まで来たことになります。
フランス革命後の民主主義と言ってもgouvernement・government・統治機関を構成する支配層間のヘゲモニー争いをpeopleの選挙で決めるようになっただけのことであって、ガバメントは人民の支配(者)機構である点は変わりません。