シビリアンの相対性1(アメリカの反軍思想)

フランス革命に戻ります。
フランスが植民地戦争で負けた意趣返しにアメリカの独立を応援したからと言って市場参入がうまく行くとは限りません・・要はフランスの市場競争力の有無です。
産業の基礎が弱いといくら強制的にこじ開けたり、大陸封鎖令のように経済封鎖しても長期的には効果がないことが分ります。
武力や政治力は一過性に過ぎません。
トランプ氏の強引な政策も長い目で見れば一過性に過ぎませんが,業界は一過性だからと言って4〜5年間も逆境に甘んじるわけに行きません。
先ずは現政権と摩擦を起こしたくない・・迎合するしかないので,昨日のニュースではフォードもメキシコメキシコ新工場撤回に追い込まれていますが,長期的にはアメリカ製造業の競争力にかかります。
フランスがアメリカの独立応援によって市場参入の将来性が開かれたとしても目先の財政危機には役立ちません・・財政危機サナカの新たな戦費負担によって,目先の財政危機が却って高まってしまったのです。
財政危機打開に向けての協議が不調に終わり,その責任のなすり付けあい・・1種の弱い者イジメに向かったのが王制打倒だったように見えます。
昨日ロシア革命についてちょっと触れましたが,本来農奴・工員など弱者向け改革に努力していた帝政に対して大貴族が反対して進まなかったのですが,革命になると逆に王家の方が潰されたのと似ています。
今のアメリカの不満はお家芸である自由主義・グローバリズムによって世界中の門戸開放して来たものの、そのメリットを資本家・・金融資本ばかりが得ていることに対する不満です。
製造能力の基礎が弱っていることに対する不満ですから、誰か威勢の良いことさえ言えば解決できることではありません。
政治的意味としては製造業を強くするための政策努力目標を宣言していることは間違いがない・・長期的目標設定したと言う程度でしょう。
ウイキペデイアの産業革命の記事からの引用です。
「イギリス産業革命は1760年代に始まるとされるが、七年戦争が終結し、アメリカ、インドにおけるイギリスのフランスに対する優位が決定づけられたのは1763年のパリ条約の時である。植民地自体は以前から存在していたので、1763年の時点でイギリスが市場・原料供給地を得た、というよりも、フランスが産業革命の先陣を切るために必要な市場・原料供給地を失ったというべきであろう。いずれにせよ、イギリスはライバルであるフランスに先んじて産業革命を開始し、フランスに限らず一体化しつつあった地球上の全ての国々に対して有利な位置を占めることとなった。言い換えるならば、七年戦争の勝利によって、イギリスは近代世界システムにおける覇権国家の地位を決定づけたのである[1]。」
革命とシビリアンの関係に戻りますと,増税の強制→軍事力背景ですから,アメリカでは独立直後には,軍に対する嫌忌感から常備軍を置かないシステムを採用していると言われています。
http://blogs.yahoo.co.jp/takizawa_shinichiro/61987964.htmlの記載で真偽不明ですが,一応引用しておきます・・真偽を知りたい方は連合規約の原典に当たって下さい。
「連合規約、正式には、連合および永遠の連合規約、アメリカ独立戦争における13植民地の連合の名称を「アメリカ合衆国(United States of America)」と定め、13邦を統括する連合会議の設置を定めた。
アメリカ最初の連邦憲法とも呼ばれている。
この連合規約では、常設の陸軍あるいは常設の海軍を平時に持つことを禁止している。」
以下はhttps://ja.wikisource.org/wiki/%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:Complex01/%E9%80%A3%E5%90%88%E8%A6%8F%E7%B4%84からの連合規約の引用です
第6条
前略・・・
いかなる邦も、連合会議に結集する合衆国が当該邦の防衛もしくはその貿易のために必要と見なす数以外の軍艦を、平時において保持してはならない。また連合会議に結集する合衆国の判断において、当該邦の防衛に必要な要塞を守備するために不可欠と見なされる数以外の軍隊を、平時において保持してはならない。ただし、すべての邦は、常によく統制され訓練された民兵を、十分に武装し装備して保持すべきであり、政府所有の倉庫に適切な量の野砲、テント、武器、弾薬、および野営用具を準備して、緊急事態に備えなければならない。」
どこのクニも防衛に必要と言う解釈で軍を常備しているのですから,この規約だけから常備軍禁止規約だったとする解釈は文言的に無理があるので,2回の革命経験のあるイギリス系移民にとっては,独立戦争を独立革命と言うように3度目の正直・・軍に対する嫌忌感が強烈でその背景を持った議論の末に出来た条文なので、出来上がった成立経緯を重視した意見でしょう。 
飛躍しますが,日本国憲法の非武装原理もここに淵源があるかも知れません。
いずれにせよ、上記条文のように,装備品を用意しておくだけで必要な都度軍(志願兵?)を招集する仕組みだったらしいので、南北戦争当時もホンの少ししか軍がなかった・・だからこそ日本で想像する政府軍〜反政府軍との大きな差がなく,南北軍が拮抗していた原因だったかも知れません。
でも南軍には大砲がないじゃないかの疑問があるでしょうが,各地に兵器倉庫が分散していれば,南軍支配下にも兵器庫があってそれを南軍が利用したとすれば納得がいきます。
日本で考えると古代の平将門〜藤原純友の乱でも,西南の役でも政府軍と反乱軍とでは,圧倒的兵力差が基本ですから変な感じを受ける原因です。
今のアメリカの強大な軍事力からは想像もつきませんが,建国当時は常備軍不要の思想の憲法になっていたと言うのです。
アメリカでは・・軍の存在そのもが人権抑圧組織として如何に嫌われていたかが分ります。
当時は軍と言っても,一般人が銃を持つ程度ですから,イザ戦争が始まってからの準備でも何とかなるものでした。
18世紀末から19世紀に入ると戦艦や兵器が近代化して来たので,今では数十年単位の兵器開発準備や訓練が必要です。
中国がソ連崩壊後ウクライナから中古の航空母艦を購入して、これを元に作っているのですが,大変な時間(ソ連崩壊後でも既に20年以上です)を要して昨年あたりに漸く進水したばかり・・1〜2週間前に漸く台湾をぐるっと回る示威航海しましたが,これから実際の発着訓練が始まるのを見ても分るでしょう。
そこで常備軍・・職業兵士が必須になって来ます。
近代法の原理と言ってもこの一事だけを持っても,大きな変容を受けていることが分ります。
アメリカ徴兵制の歴史はウイキペデイアよると以下のとおりです。
アメリカの徴兵法の歴史
独立戦争 – 先住民との戦争終結までの徴兵政策
1861年 – 1865年、南北戦争時の徴兵実施。アメリカ合衆国と合衆国からの脱退を宣言したアメリカ連合国は、南北戦争遂行のために徴兵制を実施したが、合衆国軍も連合国軍も兵士の大部分は志願兵だった。
先住民との戦争終結後 – 第二次世界大戦終結までのアメリカの徴兵制策
1916年2月、徴兵制に合憲判決。
1917年5月、1917年の選抜徴兵法の制定。
西欧に戻りますと,王権の強制力は元々軍によっていますが,その正統性の基礎にキリスト教・聖職者がいて実際に異教徒審問などで猛威を振るったので,市民にとっては軍と聖職者を一体的抑圧者として意識してきました。
王制やキリスト教の圧迫に抵抗する市民・・ローマ風の戦うべき階層として市民自らを意識したときに「シビリアン」と言う別の名称が生まれて来たように見えます。
以上のように,西洋では軍と聖職者に抵抗するものとして中世中頃から,徐々にシビリアン概念が育まれたものですが,新大陸アメリカは新教徒が中心になって建国したものですから,既にカトリックによる宗教強制がなくなっていて,軍だけが恐れるべき対象でしたから、軍だけを市民が規制すべき対象になって来たのです。
我が国には,米軍占領を通じてシビリアンコントロール思想がはいって来たので、シビリアンコントロールと言えば軍に対する文民による抑制しかイメージ出来ないのはこの差によります。
タイやエジプトその他で軍事政権が生まれると、すぐに制裁をしたがるアメリカの短絡的発想の基礎がここにあります。
アメリカによる日本軍国主義批判(日本人分断政策)に対する疑問から、16年12月29日以来軍国主義とは何か?その根底にあるシビリアン論に関心を持ってこのリーズを書いて来ました。
シビリアンコントロ−ルがないと戦争になり易いと言う信仰は本当か・・シビリアン・・市民の内包である商人・産業資本家こそが近代の大規模戦争の原動力になって来たのではないか?
重商主義以来絶対王政との二人三脚(フランス)その後の多くの民族国家による政府と一体化させて国際市場を求める・・シビリアン自体が帝国主義戦争の原動力になって来たことを書いて来ました。
歴史の一コマでしかない,「シビリアン概念」を田舎者が?有り難がって時間軸や場所の特性を越えた普遍的な価値と誤解しているのではないかと言う意見です。

重商主義政策と植民地争奪戦1

今日から、年末のシリ−ズの続きに戻ります。
今年は母校が何十年ぶりか・・あるいは史上初?で箱根駅伝に出られない年となって例年と違い,正月2日は手持ち無沙汰です。
そこで今日は正月早々家族で上野の国立博物館に出掛けて国宝級の逸品見学の予定となりました。
今年は[長谷川等伯」の松林屏風図が目玉らしいです。
昭和50年代半ば頃に小さな子供らを引き連れて智積院の宝物館で等伯の作品を見学していると「もっと良いのがある」と係の人が奥の部屋に案内してくれて、秘蔵している等伯の息子の作品を見せられて素晴らしいので感激したことがあります。
周知のとおり等伯の息子は等伯よりも更に才能が見込まれていたのに夭逝してしまった惜しい人材でした。
当時家族旅行が少なかったこともあって、?行く先々で大事にされたのも良い思い出です。
昭和56年秋に東大寺の3月堂だったかで家族で土間に座って拝観しているとタマタマ高僧らしい方が,欧米人学者らしい人を案内して入って来たことがあります。
内陣に入って仏像の間を縫って説明をしていたのですが,土間の椅子に座っていた私たち家族に気が付いて,「入ってきなさい」言われて,子供らと仏像と仏像の間に入れてもらったことがあります。
肝腎の国宝よりも,お堂の内陣?に入れてくれた方に記憶が残っています。 
こちらはプロではないので,細かな仕組みを聞いてもチンプンカンプンで,やはり一般人が見るべきように配列されている,正面から見ている方が素人には分りよいです。
美術展でに出品されている絵画でも「この色の出し方が難しく名人の技です」と説明されても,??と思うばかり・・猫に小判?こちらは全体として良ければ満足です。
2007年に久しぶりに東大寺に行ってみると、今は当時と違い、人が次々と入って来ますが,それでも有名美術館のような混雑がないのは良いことです。
土間部分が板張りになっていてその上にゴムのようなシートが敷いてありました。
知恩院の奥の方の廊下を歩き回って疲れて子供らと休憩していると,お坊さんが出て来たと思ったら御供物のお菓子を一杯持って来てくれたり、いろんなことがありました。
等伯の松林図屏風はまだ本物を見たことがありませんので、感想は見てからのお楽しみになります。
と言うわけで朝起きたらすぐに出掛ける予定でしたが,事情があって急遽延期・・明日に変更になりました。
今年は,正月気分を早めに切り上げて今日から普段のコラムに戻ります。
昨年末のシビリアンコントロ−ルの関心です。
一般的解説では,市民の抑制がないと戦争になり易いからシビリアンコントロールが必要となっていますが,重商主義・商人・教養と財産のある市民の方がより広い市場・・植民地を求めて戦争の時代に突入して行ったことを重商主義のコラムで10年ほど前に連載したことがあります。
モンゴルが版図を無茶に広げたのは、遊牧による移動を限界とするモンゴル人の自己欲求としては無理があります。
政権に入り込んだ商人・・色目人による西域通商路確保に関する要望によるものと理解するのが私の感想です。
ウイキペデイアのモンゴル帝国に関する記事では以下のとおりです。
「遊牧民は生活において交易活動が欠かせないため、モンゴル高原には古くからウイグル人やムスリムの商人が入り込んでいたが、モンゴル帝国の支配者層は彼らを統治下に入れるとオルトクと呼ばれる共同事業に出資して利益を得た。占領地の税務行政が銀の取り立てに特化したのも、国際通貨である銀を獲得して国際商業への投資に振り向けるためである。」
「モンゴル帝国は、先行する遊牧国家と同様に、商業ルートを抑えて国際商業を管理し、経済を活性化させて支配者に利益をあげることを目指す重商主義的な政策をとった。」
時期的に見るとチンギスハーンの即位が1206年 – 1226年で最大版図の第5代のクビライの治世は1260年 – 1294年ですが,この当時の西洋の歴史を見ると実は十字軍遠征と大幅に重なります。
リチャード獅子心王とイスラム側のサラデイーン両雄の登場で知られる第三回十字軍遠征が1189〜1219年で、その後第8回(1270年)まで大規模に行なわれています。
(9回以降は小規模です)
他方でモンゴルの第三代皇帝グユクが1246年に ローマ教皇インノケンティウス4世に宛てたペルシア語文国書が残っているなどローマ法王との交流も行なわれていて、モンゴル軍によるフレグ西方遠征軍による『バグダードの戦い』が1258年でありフレグがイランに「イル汗国」を樹立してモンゴル帝国が連合統治体制になる最初になり、これが西進の最後です、
世界規模での動きでみると,東西から世界交易の中心である中東地域までの通商路確保を目指していた時代であることが分ります。
モンゴル帝国の版図拡張が内陸ではロシアの前身であるルーシ、(ハンガリやーポーランドでもキリスト教のテンプル騎士団などと戦っていますが支配下におかず)中東ではバグダッド付近で終わっていること(代替わりが進み分国統治になて膨張エネルギーが衰えた事情もありますが)・・・地中海地域の商人にとって、中央アジア通商路の入口拠点だった(アッバース朝の首都であったが・・当時はイスラムの中心都市がカイロに移っていました)バグダッドあたりまでの通商路確保さえすれば良かったとすれば合理的です。
西欧にとっても十字軍遠征でイスラムの先進文化に触れたことが次のルネッサンスの導火線になっています。
膨張収束後の元の内政でもマルコポーロなど地中海の商人との交流が盛んでしたし,国際的に移動する商人を優遇し,多様な宗教の保護など,商業重視の政策を採用しています。
モンゴルによる西域通商路確保後には,関税・木戸銭については,途中木戸銭(日本の関所)徴収を禁止(最後の売上だけに課する)して流通の合理化を図っています。
元寇の原因は元が通商を求める文書に応じなければ武力制圧するかのような文言があった結果、誇り高い日本(武士)が拒否したことによるのが普通の解釈でしょう。
フビライの国書の最後は以下のとおりです。
「願わくは、これ以降、通交を通して誼みを結び
 もって互いに親睦を深めたい。聖人(皇帝)は四海(天下)をもって
 家となすものである。互いに誼みを通じないというのは一家の理と言えるだろうか。
 兵を用いることは誰が好もうか。
 王は、其の点を考慮されよ。不宣。」
これでは,通交に応じないなら[兵を用いる」と言う宣戦布告と同じです。
朝廷は「失礼ではないか」と言う返書を用意したようですが、武家政権の鎌倉幕府は返書拒否した・・元寇になったと言う流れです。
三国時代の曹操が発した呉の孫権に対する80万曹軍「呉において(お前の領地内で)将軍と会猟(勝負を付けよう)せんと欲す」と言う孫将軍に対する脅し文句→これが呉蜀同盟に発展し三国鼎立・・赤壁の戦いの発端になるのですが,昔から相手の立場をソンタクしない高飛車なのが特徴です。
高校時代の教科書にある・・18史略の1節です。
「今治水軍八十万衆、与将軍会猟於呉。」
水軍だけでも80万を手中に収めている・・いわゆる100万曹軍の触れ込みの1節です。
幕末、西欧諸国も「開国に応じなければ不利になりますよ」と暗に匂わせていたので危機感から幕末騒乱が始まったのですが,最後にアメリカが武力を背景に強引に開国を迫りました。
アメリカも直接的表現しか出来ない点は中国とレベルが似ているので気が合う筈です。
これがトランプ氏になって,日本にとって危険性がある・・ハラハラするところです。
4~5日前に大雪による千歳空港の運行停止に対して中国人数百人が暴れて警察出動になったニュースに対して駐日中国大使が,「マスコミが煽っている」と逆批判しているニュースが流れていました。
日本人ならば「お騒がせして大変申し訳ない」と御詫びするところですが,先ず相手を非難しないと気が済まない不思議な国民性です。
御詫びした上で,そのように言い足したのを、マスコミに報道されたのかも知れませんが、そこに本音が出るリスクに気がつかないのでしょう。
北朝鮮や韓国あるいは中国が上から目線でしか言えないのは,弱過ぎて高飛車に出るしかないと思っている人が多いかと思いますが,威張った方が勝ち・・古代から礼儀・ソフトが発達していないのでしょうか?

シチズンからシビリアンへ1

日本では千年単位で武士は一族を守るためにあると思って来た民族ですから,軍や警察が悪くて国民に罪がないと言う欧米価値観による戦犯論・・使い分けには国民の多くは納得していません。
軍人はみんな国民のために戦ったと多くの国民は心から信じています。
特攻隊員も硫黄島で死力を尽くした兵士もみんな,背後のニッポン民族・同胞の破滅を1分1秒でも遅くするために頑張ったのであり、権力者が国民をいためるために頑張ったものではありません。
菅総理が,現職総理でありながら自衛隊を「暴力装置」と言う言葉を使って物議をかもしましたが,日本と西洋の歴史の違いを知らない暴論です。
あるいは沖縄戦をねじ曲げて日本軍人が沖縄人を無理に殺したかのように宣伝しているのは、南京虐殺同様に欧米型価値観を無理に植え付けようとするデマでしょう。
市民だけではなく,シビリアンと言う用語が近世になって何故重視されるようになったかに深入りしましたが,これは欧米では市民とピープルが何故厳然と別れた来たかの関心からです。
ギリシャローマの昔から市民だけが都市が攻められたときに軍人として戦いに参加して戦う権利と義務を有していたのは異民族の地に進出した先進部族の商人が橋頭堡として砦を構えた名残です。
この場合城外の原住民は夜襲して来る恐れのある仮想敵そのものであり,砦内に駐留している市民は皆武器を取って戦う義務と言うより生存がかかっている以上は戦う必要があったのです。
ジャングルで野営しているときに野獣の攻撃を防ぐために夜中じゅう焚き火の火を絶やさずに交代で見張りをしているような状態を大規模にしたイメージです。
今と違い商人と言っても戦闘力を兼ね備えたツワモノが出掛けて行く関係です。
現地駐在規模が大きくなって,都市国家と言えるほど安定すると分業的になるでしょうが,当初は少人数ですからマルチ人間から始まります。
市内居住の商人の世話をする原住民出身の各種サーバントが住み込みで働くようになっても、彼らは元々先進地域から出張して来た商人から見ればよそ者ですから、戦いに参加する権利も義務もなかったことになります。
当然のことながら城外の民衆・原住民は夜襲をかける方の同族ですから,救援に駆けつける義務も権利もありません。
この発祥の歴史が「市民」と市民以外(原住民)をはっきりと分ける原理であり、城内居住の「市民」は一丸となって外敵と戦うべき権利義務になったものと思われます。
地中海地域に商船隊を利用して点々と飛び地的に発達した都市国家と違い,ガリア〜ゲルマニア地域を発祥とする原住民は牧畜と農業主体民族であり,しかも陸路の場合,商人は隊商を組んで移動してもわずかな商品・人数しか移動出来ませんから,現地に排他的拠点を構えるのは不可能に近い・・どちらかと言うと現地人の助けを得て水を貰い食糧を得て交易しながら移動する遠慮ガチな存在ですから、排他的基地を構築するなどは考えられません。
地中海沿岸とは違って陸路経由の西洋の都市は、先進地域から先進製品・物売りに来た異民族の排他的居留地・砦から始まったものではなく,日本同様の自然発生的なものだったでしょう。
元々同族の集まりですから,都市・城を外から攻めて来る城外の原住民・異民族はいませんから市民が城外の民から自衛する必要性がありませんので武器を取って戦うことを想定していません。
西洋内の戦いは,敵対領主同士の領地獲得戦争が中心ですから、西世では砦・シャトーの多くが市街地から離れて市民と関係なく孤立して建っている所以です。
長年戦争は領主の個人事業で(スペインの王様は何回も破産しています)領民には関係がなかった(ナポレオン戦争で初めて民族意識が生まれたのです)し,領主同士の結婚でスペインの王様がオーストリアやネーデルランドの相続するような日本では想像もつかないような関係の基礎です。
大陸の原住民が,キリスト教受入れによって一定の資産(商人が始まりすから資産は絶対要件です)を有していてローマ文化を勉強したら市民にしてやると言われて第三身分に昇格して行くのですが,ソモソモ同じ民族の周辺農民が市の立つ町を襲うイメージがない・・市民になったからと言って郊外の農民と戦う必要性がありませんし、領主が勝手にやっている戦争に参加する必要性もありませんでした。
戦費調達の協力に反対する・利害対立・戦争反対の立場です。
イギリスであれ,フランスであれ,軍事費調達のための増税反対が革命に発展していることから見ても、ギリシャ・ローマの「市民」とは成り立ちの違いが分ります。

PeopleとCitizen5(市民の資格1)

西洋中世でのキリスト教の広がりとその反動としてのシチズン→シビリアンの成長に戻します。
ローマ崩壊後ガリア・ゲルマニアの地を支配したフランク族その他支配者が,支配地域が広がると武力だけではない合理的運営が必要になり,何らかのルールが必要・ルール強制の権威根拠を(日本のように各地習俗を汲み上げる面倒なことをせずに)先進地域のルールブックであったキリストの教えに求めたものと思われます。
1神教は支配者にとっては民意を一々聞き取る必要もないし構成諸部族の意見を無視出来る・・単純明快で支配者にとって便利です。
まして巨大なローマ帝国で普及していたとなれば権威も充分ですから、これと言った説明や納得を得る手間がいらない・・「こんなことも知らないのか!」とバカにすれば済みます。
韓国人は初対面で先ず学歴自慢をして相手を黙らせてしまうのが常道です。
我が国で言えば,内容妥当性議論の逃避・我が国でこれを適用すればどうなるかと言う具体的議論をすることなく留学経験をひけらかして,「欧米では・・」と言えば勝負がつくように思っている社会です。
そしてこの先進文化・ルールに精通している聖職者が支配的地位(第一部会)を占め・次にキリスト教文化をある程度体得している教養人が(野蛮人・バーバリズムから昇格して)「市民」第三部会員として優遇されます。
そしてこのルールを守らせるための強制力・軍事力となって軍事力も一体化します。
軍事力正当化の完成です。
我が国のイメージでは何故シビリアンの敵が「聖職者と軍」であったか分り難いですが,こうした支配体制構築の歴史によります。
中国文明はオリエント・メソポタミア文化の導入で始まったと言う私の仮説については、(すべてこのコラムは私の独断・偏見に基づいています)を、09/01/05中国の独自性とは?1(ペルシャの影響1)以下で連載し、その他、12/14/05「漢民族の広がり?4・東西移動から南北移動へ2」その他あちこちに書いています。
中国でも何かと周囲の民族を蛮族(南蛮・北狄・西戎・東夷)と言いたがり,(今では国名にまで恥ずかしげもなく中華と使うほど)違いにこだわるのは、何段階も隔絶した先進文化導入(自民族で足下から自然発生・段階的発達した文化でない)の歴史があると見れば符節が合います。
こう言う社会では被支配者との間で超越的分化格差があるので,専制支配が可能になります。
これが欧米のピープルとシチズンの分化の始まりであり,中国の士大夫層とその他の始まりです。
日本で漢民族伝来の漢字を読み書き出来る階層が長年エリート層を形成して来たのと同じですが、日本の場合直ぐに万葉仮名を工夫し庶民まで和歌に親しみ,さらにはひらがなを発明し・漢字仮名交じり文になって庶民に普及した・・漢字は文字として利用しただけで,思考内容は日本民族独自性の維持でした。
西欧では民族別思考温存ではなく文字文化も導入されたアルファベットそのままで、しかもルネッサンスが来るまでラテン語だけしか文字化(・事実上どの程度自民族言語が文字化され利用されていたか不明)されませんでした。
朝鮮半島では,15世紀年中頃からハングルがあったらしいのですが・文書は飽くまで漢文のままで、日本統治になって漸く公式認知された?のと比較すれば独自文化発達の違いが分ります。
どこでもいつでも最初の支配確立は武力によりますが,その次の支配はルールによらない裸の武力だけでは大変です・支配道具としてキリスト教が採用された以上は,被支配者にとっては軍とキリスト教が一体化したものに見えたでしょう。
最初は,未開人ではあるが教養を得た者だけを「市民」として特別扱いされ三部会員に昇格して現住民のエリートは満足していたのですが,その内硬直したキリスト教支配が鬱陶しくなると,軍と聖職者に対する抵抗勢力としてシビリアンが生まれて来たことになります。
カール大帝に関するウイキペデイアの記事からです。
「カール大帝(742年4月2日 – 814年1月28日)は、800年には西ローマ皇帝(フランク・ローマ皇帝、在位:800年 – 814年)を号したが、東ローマ帝国はカールのローマ皇帝位を承認せず、僭称とみなした。
古典ローマ、キリスト教、ゲルマン文化の融合を体現し、中世以降のキリスト教ヨーロッパの王国の太祖として扱われており、「ヨーロッパの父」とも呼ばれる[3]。カール大帝の死後843年にフランク王国は分裂し、のちに神聖ローマ帝国・フランス王国・ベネルクス・アルプスからイタリアの国々が誕生した。」
西ローマ帝国継承者を勝手に号したこと・・古代ローマの輝かしい歴史・文化を理想として仰ぎ見ていたことが分ります。
そうなれば自然に思想・道徳その他善悪の基準導入になります。
その前からそう言う意識が定着していたからコソ「われこそが継承者である」との主張が出て来たことになります。
ところで、西洋中世と聞けば,今の英独仏伊などの前身の王国がそのころからあってその下位に各地領主・後の貴族や騎士がいた社会であったかのように何となく想像してしまいますが,上記によると現在のいろんな国の前身である王国が出来たのは,カール大帝死後・843年以降であったことが分ります。
平安時代が、延暦13年(794年)から始まって、 816年 空海が高野山に道場(金剛峯寺)を開いています。
フランク王国分裂後仮に数十年〜5〜60年間の動乱を経た結果いろんなクニの分立が始まったとすれば,899年 に菅原道真が右大臣になっていますし、905年 紀貫之らが仮名序・真名序で書いた『古今和歌集』を撰進したころです。
フランス王国の例で見れば以下のとおりです。
「フランス王国(フランスおうこく、フランス語: Royaume de France)は、現在のフランス共和国にかつて存在し、その前身となった王国。起源はフランク王国にまで遡るが、一般には987年の西フランク王国におけるカロリング朝断絶とカペー朝成立後を「フランス王国」と呼んでいる。1789年のフランス革命まで800年間・・」
「カロリング朝が断絶したあと、987年に西フランク王ロベール1世(ロベール家)の孫にあたるパリ伯ユーグ・カペーがフランス王に選ばれ、カペー朝(987年 – 1328年)が成立した。成立当初は権力基盤が非常に弱くパリ周辺のイル=ド=フランスを押さえるのみであったが・・」
フランス王国と言っても当初今のパリ周辺しか支配していなかったのです。
987年と言えば,日本では藤原兼家が986年に摂政に就いていて、995(長徳1)年には藤原道長が内覧の宣旨を受けています。
文化面では1001(長保3)年:清少納言の『枕草子』が完成し、1011年には紫式部の『源氏物語』が完成しています。
日本では遣隋使,遣唐使を派遣しましたが、明治の和魂洋才政策同様で合理的文化導入だけが目的で、国民のあるべきルール・生き方ではニッポン民族独自スタイルを貫徹していました。
我が国では専制支配(異論を許さない点では1神教支配と同じ)を前提とする科挙制や律令制・・区分田が国情に合わず根付かなかった経緯については、01/10/06「律令制の崩壊2(桓武天皇時代)」前後のコラムで連載しました。
24日にクリスマスの起源に関心を持って,書いているうちに話題がズレましたが,クリスマスを祝う風習は元々のキリストの宗教行事ではなく,いつのころかミトラとか言う別の宗教行事・あるいは習俗を取り入れたことに始まると言われます。
(そんな宗教があったかどうかすらはっきりしないのは、異教徒の習俗だったのを,沽券に関わるので何とかキリスト教に関係付けようとするからではないでしょうか?
これまで書いているように,キリスト教はガリア・ゲルマニアの習俗から発展したものではありません。
骨の髄までしみ込んだキリスト教意識・・キリスト教徒になり切れない者を異教徒として迫害に加担して来た歴史が邪魔をしていて、西洋では素直にゲルマニア・ケルト族の習俗だと認めるわけに行かないのでしょう。
田舎出身の人が東京生まれと虚偽経歴で生きて来た場合,生まれ故郷で覚えたことを「イヤ東京でも子供の頃にはこう言う習慣があった」と言い張っているようなものです。
儒教どっぷり度で日本に優っていることが自慢の韓国に至っては、(いわゆる韓国起源論の一種ですが・・)孔子が朝鮮半島出身と言い張っているのと50歩100歩ではないでしょうか?
外来のキリスト教を取り入れる前の現地民族・・本来自分たちの祖先の習俗そそのまま認めるとこれまで自分たちの宗教であると有り難がって来たメッキが剥げるのが怖いのではないでしょうか?
お祭りの原型がみるからに北欧向きですから,雪も滅多に降らないローマ時代からの習俗にこじつけるのは無理っぽい印象です・ただし地中海世界の習俗が北に行って今のように変化したと言う見方も出来ますのでいろんな意見があり得ます。
日本の神社仏閣は庶民が楽しむ行事中心・・今では観光名所・・いつも人集めの中心ですが,キリスト教と言うより西洋諸国でも,中世修道院に代表される陰気くさい教えの強制ばかりではなく,庶民が楽しめる要素が必要だったのです。
キリスト教の影響が,クリスマスを祝う以外になくなるとすれば,それはそれで信教「から」の自由の完成で目出たいことです。
今年は幸い3連休の中日ですし,信教の自由ではなく「信教からの自由」を満喫するつもりで仏教徒であり神社の信者でもある我が家では、信教とは関係なくクリスマスを今年も楽しみました。

非理法権天と野党1

非理法権天の思想は江戸時代の学者が言い出したことですが,徳川支配が盤石になって各種御法度などの具体的規制が始まっただけではなく、綱吉の時代になると生類憐みの令など(「殺生するな」と言うだけならば誰も疑問を持ちませんが,)具体的・細かくなって行くとその命令に対する道徳性に対する関心も高まります。
綱吉の生類憐れみの令はまだ過去の道理や道徳(宗教観)の延長の域・・具体化の域を出ませんが,次の正徳の治は儒家でありながら新井白石が経済や貿易政策に関与するようになり,その次の吉宗になるとサラに一歩踏み出して(儒家の時代が終わり)経済政策→規制(たとえば1730年の堂島の米先物取引許可があればその表裏の関係で取引所のルール規制も生じます)にまで進みます。
自由放任・積極経済主義の田沼政治の反動として定信の改革になると規制だらけの政治開始・・緊縮経済の一環として文化作品にまで口出しして,山東京伝が手鎖の刑に課せられています。
いつものエリート批判ですが,定信は若い頃から秀才の誉れ高かったと言われますので,才能を伸ばすより既存知識・・新たな風俗を好まない・規制を好む・・現実政治向きではなかったのではないでしょうか?
この辺は秀才の慶喜が(大政奉還)政権を投げ出すと、案に相違して諸候会議を主宰出来なかった(人望がなかったことも明治維新の原動力に関係したでしょう)のが日本のために良かったとなります。
政治の具体化が進むにつれて・・忠臣蔵で言えば忠孝の倫理と幕府秩序の相克で右往左往した末に切腹に決まったように,抽象論の理解(宗教家や儒家・荻生徂徠だったか?の議論)だけでは政治が動かなくなり、政治の表舞台から退場して行ったのです。
佛教〜儒教〜実学への流れについては03/13/08「政策責任者の資格9(儒教道徳と市場経済4)」前後で連載しました。
江戸時代に宗教哲学や有職故実を持ち出してもどうにもならなくなって来たのが正徳の治〜享保の改革以降の政治ですが、・・戦後から現在に至る革新系野党は日本社会が江戸時代に卒業した筈の抽象論から卒業しきれないグループ・・高邁な平和論・憲法論・あるいは近代法の精神だけをぶって満足している印象です。
最初は欧米では・・と言えば何でも立派に見えましたが・・。
国会で必要とされている具体的な議論をする能力に欠けているのか?スローガンの域を出ないので・・(今でも抽象論で満足するレベルの人が一定数いるのでその支持を受けているものの)多数の支持を得られないのです。
たとえば、土井元党首の「ダメな物はダメ」鳩山氏の「少なくとも県外へ」年金についても野党のときに厳しく追及していたのに・・何をどう改革するかではなく,やっていたのは集計ミスなどの揚げ足取りばかりだったので・・民主党が政権についても何ら目に見える改革が出来ませんでした。
昨年の安保法制国会でも憲法違反かどうかの抽象論(民意無視・国会に反対デモが何万人集まったとか)ばかりで、安保法制の必要性の有無について国際環境に対応した具体的議論を国民に示せませんでした。
山尾氏の「日本死ね!」は現在進行形ですが,同氏はこれが政府の保育園増設に弾みがついたと自画自賛しているようですが,いずれも具体的政策は与党任せで政治家に必要な具体論・・どうやって保育園を増やして行くか・・保育所政策がどうあるべきかの具体論がありません。
格差反対論も左翼系の十八番(おはこ)ですが,安倍総理の方が非正規の賃上げを要請したり,「同一労働同一賃金」の実現に努力しているのに,野党や連合からは格差是正のための具体論が全く上がって来ません。
生活保護基準や最低賃金を上げろと言うだけでは,格差が発生する基礎構造の改変・根本解決にはなりません。
最近成立したばかりの通称「カジノ法」でも「ギャンブル依存症」が増えると言うスローガンで野党が反対していますが,現実のギャンブル依存症ではパチンコ関連しかなくこれが今でも問題なのに・・と言いながら,これの改善策について、同党がこれまで具体的にギャンブル=パチンコ依存症対策を講じて発表しているのを見たこともないし,(逆にパチンコ業界から資金を受けてるのが左翼系ではないかと言う指摘すらあります)逆に努力しているのは政府の方です。
グローバリズム反対論も同じで,どうすべきと言う主張がない・・結果的に不満を煽っているだけになります。
乳幼児がぐずったり犬が騒げば,親や飼い主が解決してくれるのと同じで,野党は政府が何か解決してくれるためのアラーム装置と言う役割分担・・万年野党を自己目的にしているのでしょうか?
自分で政権運営するのが政党の目的とすれば,「何でも反対するだけ」「国民不満を煽って政府の是正策を求める」のが仕事では,政党としての将来がありません。
江戸時代に戻しますと,各方面で法令が具体化して来ると,具体的適用の蓄積と安定運用の期待から判例集(御定書)整備・熟達した官僚機構形成が白石→吉宗の頃から進みます。
日常生活に直結する法令が次々と出るようになると(「殺生するな」と言うだけなら誰も反対しませんが・・)これに対する賛否の意見が,利害のある関係者から起きます→反対論からすれば悪法か否かの議論が起きて来ます。
仮に悪法とした場合従うべきか否か?など・・「法と道徳・道理の関係」を研究する学問が発達して来ます。
非理法権天を記載している伊勢貞丈家訓はhttp://21coe.kokugakuin.ac.jp/db2/kokugaku/ise.002.htmlによれば,宝暦13(1763)成立と出ていて,吉宗の死亡が1751年ですから,綱吉〜正徳の治,享保の改革など過去3代で日常生活に入り込む形で急激に増えて来た法令が研究対象・・重要関心事項にはいっていたと思われます。
ただ彼は,ウイキペデイアによれば
「伊勢氏は元々室町幕府政所執事の家柄であり礼法に精通し、江戸幕府3代将軍徳川家光の時に貞丈の曾祖父伊勢貞衡(さだひら)が召し出された。」
「28歳で御小姓組に番入り、儀式の周旋、将軍出行の随行などにあたった。貞丈は特に中世以来の武家を中心とした制度・礼式・調度・器具・服飾などに詳しく武家故実の第一人者とされ、伊勢流中興の祖となった。」
彼は有職故実・今で言えば法制史のプロですが,当時は忠臣蔵で有名な吉良家のように有職故実=現役指導係でもあった筈です。
ただ,彼の役職は,「儀式の周旋、将軍出行の随行」などで,具体的法令執行や研究に当たる公事方・吟味与力に採用されていません。
古いことを知っていても(法制史の学者が裁判出来ないし立法に関与出来ないのは今でも同じです)時代に合わないので役立たずだったのです。
室町幕府以来の家系で有職故実に通じていることによって成り立っている家柄?ですから、次々と打ち出される新法令・生活様式の変革は家業の存続に関係し・冷や飯を食っている環境から批判的立場だった可能性があります。
いずれにしても次々と法令が出て来る時代になって,「権力さえ強ければ,何をしても良い社会でない」と言う思いがあるからこそ、こう言う議論・・大公儀に対する明からさまな批判が出来ないので,「権力が法に勝つ」(勝って良いのか?)と言う反語的研究が起きて来たと見るべきです。
「非理法権天の法理」は最終的には「権力も天に勝てない」と言う意見ですが,天と道理の区別がはっきりしない(私の理解不足?)ところから見ると、将軍家の発する法令を旗本である貞丈が正面から違法とは言えないものの、結局「道理に反した法は無効だ」と言いたかったのではないでしょうか?
幕末に開国の必要性に直面したときに約200年前に決めた「(鎖国の)祖法を守れ」と時代錯誤な反対した攘夷運動と同じです。
今で言うと護憲論・憲法違反論で・・具体的な国際環境を前提に政策の可否を論じるよりは,もっと超越した有り難い物・・近代法の精神に反するとか言って,・・・野党が反対するのと似ています。
共謀法やスパイ防止法で言えば,先進国でこれらのないクニがないのですから、現在ある諸国で,どう言う弊害が起きているかの具体的議論が必要なのにその紹介がないまま単純に近代法(1800年代のことか?)の精神や原理違反とか言うだけでした。
日銀の異次元緩和が実行されると(「異次元」とは先例から一歩踏み出すことですから)日銀がそこまでやっていいのか!の議論がほうはいと起きるのと同じです。
過去の踏襲だけならば政治家はいりません。
天皇退位(譲位ではありません)問題も過去の知識を中心とする歴史家や学者の意見は参考にとどめるべきであって、現在から近い将来に合わせてどうするかは政治家の仕事です。
将来まで縛るのは行き過ぎとすれば,特例法にとどめる謙抑性も1つの選択肢です。

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