あいちトリエンナーレ不自由展に関する専門家意見と民意乖離7
  (表現の自由市場論16と世論軽視論の矛盾8)

専門家意見重視論は共産党がはっきり支持しています。
共産党自身性奴隷論を主張しているようですが、自党の主張にあっているからそのように主張しているだけなのか不明です。
共産党の主張によれば、共産党批判の主張集会開催を演劇とか芸術表現と銘打てば、公費補助しても良いかのように見えます。
ISなど過激派集団を支持している勢力が少ないので、IS糾弾集会や演劇などないのと同じで、わざわざ社民党反対や共産党反対の政治集会や講演会を開く右翼もいないでしょう。
もともと国民の大方に相手にされていない(過激派集団を含む)政治集団は、自分らを非難相手の集会が開かれるリスクがほぼ皆無という気楽さもあるのでしょうか?
政治集団が公的設備を安く使えるようにすると大きなメリットを受けるのは、国民支持のほとんどない過激派など(国民支持が少ないどころか嫌われている過激派政治集団にとっては、(例えば赤軍派反対の)自分らを標的にした政治集会される心配もないし)魅力ある制度かも知れません。
芸術祭を名乗れば、広告ポスターなど公立施設の名で出してくれるし、願ってもないことになるでしょう。
コミュニテイセンタ集会室などをサークルのように(毎週1回)年間使用申し込みをして、毎週日曜はAセンター、火曜日はBセンター、水曜日をCセンターという風に事実上回転させながら、(今は固定電話不要で移動式事務所でも十分です。)事務局みたいに使えるようになるのかな?
過激派集団は事務所を持ち、借りるのさえ大変だから大助かりでしょう。
議論すべきは政治活動に補助金を出したり公的施設を使ったりする便宜を与えないという基準が容認されるべきかどうかが先決すべき論点でしょう。
これが決まれば、政治主張の展覧会か、商業目的かの基準が憲法違反になるか?の問題となり、さらにその基準に違反するかどうかの判定は第一次的には行政機関の使用許否決定であり、それを最終的に決めるのは裁判所です。
主催した芸術家集団や政治家、商売人が自分でこれは商業目的でないとか、政治目的でないとか決めるべき権利ではありません。
コンサートや落語の演目決定はその主催者の自由でしょうが、その落語や音楽の時間が半分まで後の半分が政治家の選挙演説、または商品展示即売会と分かれば、その分については使用許可できないと決めるのは第一次的には施設の権限です。
愛知トリエンナーレ「不自由展」では、芸術監督がどういう企画するかの自由と、それを施設許可権者が政治目的部分不許可するかは別の問題なのに、企画者と許可権利者の権限分離がはっきりしていなかったとすれば議論を混乱させている原因でしょう。
知事が実行委員長になっていても許可権者としての知事の行為には、使用許可申し込み受け付けから始まる決裁手順があるべきなのにそれをしなかったのでしょうか?
あるいは担当部局が実行委員長の知事意向を忖度して許可すべきとしてしまったのでしょうか?
今回の争点は、もともと使用許可条件の問題であり、憲法論や芸術か否かの問題でないと思われます。
具体論・実務論では不利なので、しゃにむに芸術論や憲法論に引き寄せる傾向の主張が目立つ感じです。
内部決定を自由にできる自治権と、それを外部強制できる権利とは別次元です。
不自由展擁護論を見ていきますが、概ね、この違いを敢えてごちゃごちゃにしているように見えます。
ウイキペデイア引用続きです

展示再開への動き
日本ペンクラブ・・・日本軍『慰安婦』問題解決全国行動は・・・「戦争と女性への暴力」リサーチ・アクション・センター・・・、日本YMCAが・・日本キリスト教協議会の金性済総幹事が・・展示再開を求め・・・。
日本バプテスト連盟の加藤誠理事長も抗議声明を発表した。
アムネスティ・インターナショナル日本は・・・河村たちの発言を「日本軍性奴隷制について、その歴史的事実のみならず、人権侵害に対する国家責任や被害者の尊厳などをも否定する言動である。」と批判し、「日本政府は『平和の少女像』の展示を攻撃する今回の公人の言動に対して、これを是認することなく公式に反駁し、日本軍性奴隷制の被害者の尊厳を傷つける発言をくい止めるための具体的な措置を取らねばならない。」と声明を発表した[92]。
平和の少女像の展示中止を歴史修正主義との闘いとする運動も行われた。
法学者の田島泰彦が「公権力が許す範囲で表現の自由を認めようとする流れが安倍政権にはある。
荻野富士夫小樽商科大学名誉教授や醍醐聰東京大学名誉教授らが加わって「歴史修正主義とのたたかいでもある」と決起した[119]。また、日本史研究会も2019年度の大会で「歴史の学術研究の成果を無視し、隣国への差別意識を助長する歴史修正主義及び排外主義に反対するとともに、昨今の事態に深い憂慮を表明し、表現・言論・学問の自由の重要性を強く社会に訴えるものである。」と声明を発表した[120]。

以上いろんな専門分野の人々の声明らしいですが、要は慰安婦の性奴隷制を否定するのはけしからんという政治論が基本であり、公費助成対象がどうあるべきかの議論ではありません。
専門分野と言っても議論の立て方は思い込み集団レベルのイメージです。
歴史修正主義批判論に対する意見は、8月24日に書きました。

外需依存度1(韓国16)

韓国経済の外需依存度の高さが、昨日書いた関係・・国民負担で内需拡大してきたことを表しているように思えます。
なぜかデータが古いですが、本日現在の「大韓民国の経済」と題するウイキペデイアの記事からです。

韓国経済は輸出依存度および貿易依存度が非常に高く、その一方で内需に乏しいために世界経済の影響を受けやすい傾向にあり、これが過去のアジア通貨危機における経済危機の主因となった。
貿易依存度は盧武鉉大統領の時代は50〜60%であったが、リーマン・ショック後に更に高まり、2011年には96%となっている。ちなみに日本は27%、アメリカは25%、中国は40%、ドイツは60%である。輸出は相手国との政治的な要因によって上下動する傾向があるため、内需の拡大こそが安定した経済基盤を作るという主張が国内でなされているが実現に至っていない。

貿易依存度の計算式は人によって違う?外需依存度も違うのかな?ウイキペデイアの記事のように90%代の意見は見始めですが、2010年ころのデータで止まっているからでしょうか?
東亜日報2010年の記事によると以下の通りです。
http://japanese.donga.com/3/all/27/311790/1

Posted June. 17, 2010 08:25,
東亜日報
韓国経済の貿易依存度、昨年82%と世界最高
昨年、韓国経済の貿易依存度が過去2番目に高かったことが分かった。これは世界最高レベルで、海外発懸念材料に脆弱な経済構造の原因と指摘されている。
16日、企画財政部(財政部)によると、経済に対外貿易が占める割合を示す経常国民所得対比輸出入比重は、昨年82.4%で、過去最高だった08年の92.3%よりは低下したものの、依然として最高レベルだ。代表的な輸出大国である日本と「世界の工場」である中国の貿易依存度が、それぞれ22.3%と45.0%であることを考慮すると、韓国の貿易依存度は高すぎるという指摘が多い。

以上のデータは古過ぎるのと、最近見聞きしてるイメージと違い過ぎるので、さらに当たってみると以下のグラフと意見が出てきました。
https://ameblo.jp/koshioheikuroh/entry-12432525343.html

2019-01-14 11:00:57

「韓国経済にとって日韓関係は大切」は間違い!小塩丙九郎

上のグラフからも分かるように、韓国の輸出総額(インフレ要素を取り除いた実質ドルで表示された額)は、2011年以降まったく増えていません。ならば韓国のGDPは伸びなくなったかというと、(リーマンショックに端を発する世界的景気後退の影響分を除き)それ以前と同様の高い伸び率を維持しているのです。つまり、韓国経済の輸出依存度は、2011年から2018年のわずか7年間の間に「半分」から「3分の1」に下がったのです(日本の2017年のGDPの輸出依存度は14.3パーセントです)。

上記を見ると輸出総額が11年頃から頭打ち・下落傾向になっているものの、GDPだけ上がっていたので、外需依存度がどんどん下がっているらしいですが、なお日本の倍以上の依存度です。
上記引用記事の論者は、こんなに韓国GDPが上がっているので、『日本など目じゃない』・・だから強気に出ていると言いたいようですが・・。
ネット検索すると上位に出てくるデータ・・ウイキペデイア等がこの7年間の大幅変化に合わせて何故内容更新しないままになっているか不明です。
嫌韓一色→韓国の実力に関する実態報道を怠るべきではなくこう言う事実紹介は重要ですが、これが事実であれば実態を前提に日本人は冷静に判断するしかないでしょう。
東亜日報党と数字が約半分位なっているのは東亜は貿易依存度=輸出入合計であり、輸出依存度は輸出だけで見殿で約約半分になるらでしょう。
このグラフの前提が事実に基づくか否かを知るために世界ネタ帳でGDPを検索して見たら、ネタ帳ではリーマンショック時のマイナス成長が出ていない点がまず大きな相違点ですが、リーマンショックによるGDPマイナスは常識的ですので、逆にネタ帳自体の信頼性に他のデータを見比べるまでもなく・直感的疑問符がつきました。
韓国はリーマンショックによるマイナス影響がなかったと言うのでしょうか?

司法権の限界16・謙抑性4(民主主義の基礎1)

司法権のあり方に戻りますと、日経新聞に出ていた訴訟手続外の「心象風景」を重視する裁判官が増えて来ると結局はマスコミさえ味方に付ければ、民意を知るために行なわれた選挙の結果を覆すことが出来る・・政治の負けを挽回できる図式になります。
こう言う繰り返しの結果、政治論争をドンドン司法に広げて行くと政治と司法の限界がなくなってきます。
この結果・・司法権が肥大して行き政治論争のうち重要なテーマであればあるほど憲法違反の言いがかりをつけ易いことですから、重要事項については全て司法権が最終決定する場になってしまいます。
16年3月27日紹介したように右翼から批判されている日経新聞でさえも「裁判所が国民心象を認定する・・」危惧を示しているように民意吸収の場になってしまって良いか・・裁判所周辺デモやマスコミ報道だけを民意のように誤解させてしまう訴訟戦術は民意を覆す=国民主権の憲法理念を空洞化させてしまう・・民主主義を破壊する悪い戦術ではないかの疑問が生じます。
こう言う実質的憲法破壊勢力を見ると、何かと憲法違反と言い立てる集団構成員に多いように見える・・冗談みたいな集団です。
買収に応じる役人が悪いのは当然としても、これを誘惑する贈賄提供する方も汚職罪として処罰されるになっているように、民意は選挙で決めるべきが憲法の原理なのに選挙結果無視の裁判を求めるのが日常化すると民主主義が死滅します。
憲法は下位目的の運動に誘惑される裁判官個人の責任だけと言い切れるのでしょうか?
人権団体?がアメリカの大統領選挙の結果を認めないと言う主張で、連日激しい反トランプデモを繰り広げていますが、人権団体の主張は憲法をより所にすることが多いのでですが、出たばかりの選挙結果を認めないと言うデモをする人たちが憲法を拠り所に運動する集団って、どこかおかしい印象です。
選挙後の政策が憲法に反すると言うならば分りますが、選挙後まだ何もしていない選挙の翌日から、反トランプ運動するのでは、何のための選挙だったのか・選挙制度否定論と同じです。
自分の意見に合わない集団には表現の自由や人権を認める必要がないと言う(気に入らないデモは暴力的妨害しても良いし、中ソの核実験や公害・人権侵害等々不都合な事柄には一切触れないなど)偏頗な我が国の人権団体と同じ偏頗集団に見えます。
大統領選挙後のアメリカの騒動を見ていると、サッカーの試合に負けた方のフーリガンが暴れているようで、我が国のような落ち着いた民主主義社会(・・合議を尽くす社会)になるには、数千年単位で遅れているから無理が出て来たと見えます。
過去何世紀もアメリカが何とかなっていたのは、産業革命後必要になった豊富な資源+労働力の(移民をドンドン入れることによって補給する)供給力、右肩上がりの成長経済によって、不満が隠されていたに過ぎません。
アメリカの成長ドンか・・ニクソンショック後で言えば約30年以上経過で遂に国民亀裂を隠し切れなくなって来た印象です。
中国でもサウジでも、どこでも成長しておこぼれをある程度分配出来ている限り不満は起きません・・。
配分が減り大災害や敗戦などで、国民が困り切った極限状態で国民がどのような行動をとるかで民度・・元々の信頼関係が試されます。
イザとなれば、団結するのか分裂するのか、略奪に走るのか助け合うのか、国外脱出に走るのかが民度・信頼関係の簡単なバロメーターです。
中国でも韓国でも少しでもお金を造り、子供を如何にして国外脱出させるかが大きな目標になっている社会です。
民主主義とは本来「信なくんば立たず」信頼関係があってこそ定着するものです。
信頼していないがお金をくれる(補助金などで分配してくれる)限度で支持すると言うのでは、実質的賄賂を合法化しただけの社会です。
実利優先社会では、相手が落ち目になると(あるいは韓国やアメリカの大統領のように任期満了近くなるとレームダック状態になります)潮が引くように去って行きます。
論語
子貢問政、子曰、足食足兵、民信之矣、子貢曰、必不得已而去、於斯三者、何先、曰去兵、曰必不得已而去、於斯二者、何先、曰去食、自古皆有死、民無信不立。
書き下し文
子貢(しこう)、政(せい)を問う。子曰わく、食を足し兵を足し、民をしてこれを信ぜしむ。子貢が曰わく、必ず已(や)むを得ずして去らば、斯(こ)の三者(さんしゃ)に於(おい)て何(いず)れをか先きにせん。曰わく、兵を去らん。曰わく、必ず已むを得ずして去らば、斯の二者(にしゃ)に於て何ずれをか先きにせん。曰わく、食を去らん。古(いにしえ)より皆死あり、民は信なくんば立たず。
イザとなると何から順に棄てますかと聞かれて孔子様が、先ずは「兵力」次に「食糧」→「信頼は最後まで死守すべし」と言うことです。
孔子様は兵や食糧よりも、最上の政治は「信」であると喝破しています。
我が国では、このフレーズが好きな人が多い・・そうあるべきと考えている政治家が多いので人口に膾炙していますが、肝腎の中国では個人・人民としては最優先選択肢は食糧=財貨でしょう。
諸子百家時代には中国でも立派な考えが出たコトを何回も書いていますが、肝腎の中国現地では良いものを誰も顧みない・下劣な考えが尊重される民族になり下がったのは構成する民度によります。
今でも中国に立派な人が皆無とは思えません・・要は民族総合評価時代になっているので、少しくらい立派な人がいても埋没して守銭奴的中国人ばかり目立つのです。
立派な古典を読んでも、その中のどこに感動するかは読む人の能力によるのと同じです。
シックな洋服と成金趣味の洋服がある場合どちらを選ぶかは客の品性が決めます。
現在中国の為政者としては、不満を抑えるためとあちこちに武張るコトによって国益・国富を損じても平気・・兵力を棄てるよりは兵力拡大が優先課題のようですが・・上記孔子様の意見によれば、上中下のランクで言えば最下策です。
他方国民の関心は食糧・実利・守銭奴的関心が際立った民族ですが、為政者は外国に威張るために国富を損じる=国民の腹に入るものが減っても兵力強大化に邁進しているのは矛盾関係ですから、経済破綻が現実化して来ると無理が来ます。
欧米の自慢する民主主義と言っても「相互信頼」によるものではなく実利で民心を釣る政治ですから、中国人民同様の中〜下等度の民度向けです。
アメリカの「スクラップ&ビルド」と言うとなんか格好いい印象で教えられましたが、状況が悪くなるとその町をゴーストタウンにして棄てて行く安易な実利社会を表現するものです。

サイレントマジョリティ17(投票率6)

各種売れに売れている大ヒット商品についても、大ヒットテレビ放送等でも国民の過半数が視聴したり買っていることは滅多にありません。
映画も野球もベストセラーも全て国民の過半数が見に行ったり買ったりしないと、国民がその映画や本が嫌われている・・失敗作とは言わないでしょう・・国民の一割でも見たり、買ったりすれば大成功ではないでしょうか?
特定のチョコレートを国民の1割も買うようになればヒットどころかホームランです。
国民の9割が否定しているのではなく、何万と言う似たような商品がそれぞれ0、00何%しか支持されていないのに対して、その商品だけが10%もの人から支持されていると言う見方をするのが普通です。
ある店で作ったお菓子が10個しか売れないのに、別の店で作ったお菓子が100個売れれば、多く売れた方が成功していると評価出来る・・人口比何%しか買っていないかではなく、比較多数に価値基準をおくのが人類共通の基準です。
上智大学教養学部教授中野晃一氏(政治学)の意見では、政党別の得票率を言うだけであって個々の候補者の得票率は有権者の半分以下でも良いんだと言うのかも知れません。
しかし、政党は選挙区で当選した・信任を受けた代議士の集合体として国政に影響力を持っているのであって、政党と言う抽象的なものは、制度上直接(比例代表制によって顔を出している程度ですし、これも個々の代議士の小選挙区での得票率・・惜敗率によることになっています。)予定されていません。
また政党別得票率と言われているものも、多分各選挙区の得票合計=各候補者の得票数によっている筈です。
政党の力は、個々の代議士が選挙区で国民の信任をどれだけ受けているかの集積ですから、選挙制度論は、個々の代議士の当落に関係させる議論でないと意味がありません。
あるいは政権批判しているだけで、野党の得票の場合には、こんなに批判票があったと、得票数だけを取り出すのが正しいとすれば、御都合主義過ぎてこれもおかしな議論です。
安保法制反対デモでは、人口一億数千万のうち(主催者発表で)数万人も参加したと大いばりですが・・・。
この学者の意見だとデモに参加しないその他国民全員が、安保法制反対運動を支持していないことになるのでしょうか?
投票率に話を戻しますと、選挙の都度、有権者の過半数を得た場合だけが信任されている→当選とした場合、昨日紹介したように石原氏でさえ僅か3割の得票率にしかなりませんので、適格者が全国でゼロ名〜7〜8名しかいない可能性が大ですが、そうすると日本全国殆どの選挙区では地元選出代議士がいない状態になります。
それでは困るので共倒れ防止のために選挙前の談合がはやって、実際には各選挙区では一人しか立候補しないようになるのでしょうか?
事実上の絞り込みの結果、選挙が事実上なくなって地方ボスの話し合いで村長さんを選んでいた時代に逆戻りになりそうです。
実際に千葉県弁護士会は未だにそう言う状態で、選挙らしい選挙したことがないことをこのシリーズで紹介しました。
気心の知れた少人数組織でしかも元々政治的な意見対立課題がない・・日常的同業組合的事務処理が中心だった時代・・例えば総称手続運営についての裁判所や検察庁との話し合いなどでは、プロの委員会主導で検討して、会長そのとおり発言して行けば良い・・適当な年功でなって行く・・言わば政治的立場は誰でも良かった・・日教組との政治対立のないときの小中学校の校長先生が名誉職だったのと同じです。
現在のように弁護士会が政治意見をしょっ中発表し行動するようになって来ると、(従来型お任せ意識の会員にとっては話が違うじゃん・・潜在的な会内意見対立・・)不満が蓄積して行きます。
運動体的な各種委員会はこの動きを早めに制して、従来名誉職的地域代表だった常議員会に委員会推薦立候補をさせるようになって来ていることを以前のコラムで書きました。
この結果「政治運動まで任せていないよ!」と不満が出るようになると、直ちに「正当な会内手続を踏んでいる」と言う反論が出て来ます。
こう言う正当化論が中国の全人代(地方から順次上がって来た民主的意見によって運営していると言う独裁正当化論)が民主的であると言う論理の基礎です。
弁護士会の場合、一人しか立候補しないと選挙すら実施しないのですが、立候補者が一人の場合こそ、信任・不信任の投票をしたら本当にみんなの意思で候補を絞ったのかの判定が明らかとなります。
公職選挙法の場合はどうなるのでしょうか?
候補者を一人に絞っても選挙・・信任投票を実施するとした場合、有権者の5割以上の投票率がないとこの理屈では不信任になります。
22日に紹介した上智大学教授の意見はこの段階を言うのかも知れません。
この場合でも棄権者を不信任に数えるといつまでも決まりせんから、(競争相手のない選挙・・信任だけの投票になると投票率が5割を超えるのは難しいでしょう)信任・不信任のどちらかの投票が出来るようにしておいて、有効投票の比較多数だけで決めるのが現実的でしょう。
結局棄権者を不信任と評価する考えはこの段階で破綻します。

サイレントマジョリティ16(投票率5)

棄権者の心理を、信任・不信任に区分して議論する不毛さは、棄権者を不信任に数える場合の現実弊害を考えればすぐに分ることです。
戦後ずうっと中選挙区(2人区)ないし大選挙区(3〜5〜6人区)でしたから、投票者の過半数獲得者でさえ、滅多になかったし、ましてや選挙区全有権者の過半数獲得などは夢物語の世界です。
過去の中選挙区制や、現在の比例代表制の場合、これらの制度自体が選挙区の有権者の過半数の得票を得た候補者のみが当選者とすることを予定していません。
政党単位で見ても与野党が併存する仕組み・・民主制の基本ですが、これ自体が過半数支持を得ていない政党の存在を前提にしています。
過半数支持を得た代議士しか存在出来ない前提の議論は・・これを政党段階に押し進めると・・中野教授の意見では全有権者の5割以上の支持を得ていないと何も決められないことになるので、結果的には一党独裁制・・中国等の政体を理想・前提にした議論になります。
左翼系学者派はこれが好きなことは繰り返し書いて行きました。
日本の中〜大選挙区制は、1つの地域では、Aの政治姿勢に対する支持者が4割で、Bの支持者が3割、Cの支持者が2割その他・・諸派の場合、Aだけが地域の声を代表するのではなく、地域少数意見もその比率で中央に出て行って意思表示出来ると言う意味で優れた制度です。
我が国古代から八百万の神・・多神教世界の合議制社会・・多様な声を吸い上げる伝統に則った優れた制度だったと思われます。
豊かな社会とは売れ筋商品しかおいていない画一社会よりは、100〜200人に一人しか買わないような特殊な商品(サービス)も提供されている社会ではないでしょうか?
思想の自由も同様で過半数支持を受けた思想の代表しか存在出来ないような社会では、思想の自由が事実上抑制されてしまいます。
多数説一色しかないよりは、百家争鳴状態の方が思想の自由があるのです。
上智大学教養学部教授中野晃一氏(政治学)の意見が、仮に棄権者全員が不信任者であるとした場合、(同人の論文を直接読んでいない・・・・参加者の報告だけなので正確には分っていません・・何回も書いているようにこのコラムは専門誌ではなく、自宅でちょっとした時間に思いつきで書いているコラムですから、それ以上調査する気持ちはありません) 戦後何十年も行なって来た中〜大選挙区制や、現行比例代表制度を国民主権の理念に反している・・・実質憲法違反だと言うのでしょうか?
過半数を得ていない少数者も当選する比例代表制がある御陰で、少数政党=野党の存在が理論的に可能になっている現実を無視しています。
同教授の意見によれば、野党は皆無・・一党独裁性になるのが理念的に正しくなると思われれます。
現在の小選挙区制では、有権者の過半数の得票者だけ当選と言う場合も理論的には成立可能ですが、仮に7割の投票率の場合、投票者の7割の票を獲得しても有権者の49%でしかないので、過半数に足りません。
対立候補者・次点の2倍以上の票を獲得しても落選することになります。
この基準で当選出来た人が過去に何人いたか?と言うことです。
こんな非現実的制度が正しいことを前提とする意見?国民主権の理想に合致していて正しいと誰が考えるのでしょうか?
平成26年12月の総選挙に関する総務省のデータに入ると都道府県別有権者数が出ていますが、選挙区別有権者数が出ていませんので有名代議士の有権者に対する得票率を探せませんが、多分殆どの選挙区で有権者の過半数を得た人はいないのではないでしょうか?
石原元都知事のように選挙に強かった人でも、東京都有権者の過半数の得票を得ていたかとなると、疑問があるように思われます。
ウイキペデイアによると以下のとおりです。

2003年東京都知事選挙(2003ねんとうきょうとちじせんきょ)は、2003年(平成15年)4月13日に執行された東京都知事選挙。第15回統一地方選挙の一環で実施された。
選挙前から現職の石原慎太郎の圧勝が予想され、対立候補の擁立は難航した。
この都知事選では、事前に石原の圧勝が予想されていたためか、中松以外の常連泡沫候補は一様に出馬を見送り、候補者が乱立する東京都知事選挙では珍しい、少人数の争いであった。
投票率は44.94%で、前回1999年の57.87%を大きく下回った、当日の有権者数は988万4071人で投票総数は444万2195票となった[1]。
当選 1 ■石原慎太郎 無所属 現 3,087,190 70.21%

上記のとおり、圧勝の予想されていた石原氏は投票者の100%を獲得しても有権者の44、9%しか得票出来なかったことになります。
・・・実際の獲得票数は、3,087,190で得票率としては、70.21%でしたが、有権者に対する比率で言えば、44、9x70=約30%にしかなっていません。
中野教授やこの意見を有り難がっている特定グループの意見によれば、石原氏は都民の7割から不信任されていたのに都知事をやっていた・・違法な存在と言うコメントになるのでしょうか。
総務省が政党別得票率などデータ化しているのに、個々の候補者の有権者に対する獲得票率・・・選挙区別有権者数の数値をデータ化して公表していない・・上記都知事線に関するウイキペデイアでも有権者に対する得票率を出していないと言うことは、このデータ需要がない・・特定候補者の有権者に対する得票率について、多くの国民が全く価値を認めていないことが明らかです。

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