高齢化と社会保険の赤字5(透析の場合1)

話を1月24日まで書いて来た保険財政に戻しますと、保険医療費の増加・赤字化は高齢化だけが原因ではなく、医療サービスが充実したことが結果的に利用者急増・・医療の充実→長寿化を招いたのであり目出たいことです。
人命尊重で金に糸目を付けなかったことが国民の生命を救い寿命を延ばしたのであってそのために医療費が膨らんだのは当然です。
最近では、ちょっとした腰の痛みでも、(もしかして脊椎狭窄症かな?)と昔なかったMRIやCTスキャンなどを気楽に使うようになっています。
念のために検査をしておくことが1000人に1件の確率でも重大な原因を検出出来るメリットがありますが、そうした検査数の増加に比例して医療費が上がっている面を否定出来ないでしょう。
要は千人〜万人に一人の助かる人を救うためと医学データ蓄積のためには、残りの万人に無駄な高額医療機器利用を進めた方が良いかの政策判断です。
「国民の命を守るために金に糸目を付けない」と決めるのも、政府・国民・・一家で言えば家族価値観・・1つの立派な態度です。
金に糸目を付けずに医療費を使うと決めた以上は、相応の自己資金投入→その他出費抑制・・保険や社会保障の場合、掛け金増額か税金投入しありません。
障害で生まれた子が昔10日くらいの寿命だったのが数年さらには10年に伸び、あるいは、4〜5年しか生きられなかった難病者が15〜20歳まで生きていて医療や各種療養施設利用期間が長引くとこの期間延長に比例して莫大な医療費や社会保障費がかかります。
社会保険・保証費の増加要因には、生まれつきの障害児や若いときの糖尿病や心臓発作その他昔はすぐに死亡していた多くの病気でも助かるようになって、その後定期的に何回も医療機関を利用するなど(透析患者の場合が典型です)あるいは延命装置が発達して最後の医療を受ける期間が長くなったとか、あるいは高額医療が増えているなどのいろんな要因が考えられますので、これらを分類して国民に示すべきでしょう。
例えば従来4〜5歳での死亡だったのが高度医療の発達で20歳まで生き延びるようになり、5〜60台から10年前後透析を続けていると医療費が巨額であるばかりか、社会全体の平均高齢化アップになりますが、この種医療費は高齢者が使っている結果ではないのですから、高齢化による医療費増・・「老人が一杯医療費を使って赤字になっている」かのようなイメージ宣伝とズレていませんか?と言う問題提起です。
1例として透析患者のコストを紹介しておきます。
以下はhttp://www.zjk.or.jp/kidney-disease/expense/dialysis/からの引用です。
「透析治療にかかる費用
透析を受けた場合の費用負担
1ヶ月の透析治療の医療費は、患者一人につき外来血液透析では約40万円、腹膜透析(CAPD)では30~50万円程度が必要といわれています。このように透析治療の医療費は高額ですが、患者の経済的な負担が軽減されるように医療費の公的助成制度が確立しています。透析患者は、必要な手続きをすることで次のような制度を利用することができます。
医療保険の長期高額疾病(特定疾病)
高額療養費の特例として(一般の高額療養費とは異なる)により保険給付され、透析治療の自己負担は1か月1万円が上限となります。
(一定以上の所得のある人は2万円が上限になります。外来・入院・薬局等、それぞれでの負担となります。また、入院時の食事代は自己負担です。)
透析患者さんの平均年齢は、前年67.2歳から0.3歳上昇し67.5歳、導入患者さんは前年とほぼかわらず、69歳でした。
以下はhttp://www.qlife.jp/square/healthcare/story50267.htmlからのいんようです。
日本透析医学会発表 日本の透析患者数は約320,000人(速報値)[ヘルスケアニュース] 2015/07/10[金]

以上による透析患者は、年間500万円前後の医療費を使っていても自己負担は12万から24万に押さえられている状態です。
32万×500万=1兆6000億の巨額負担です。
いろんな高額医療費に対して、患者が1万か2万しか、負担しないと決めた場合、その分を、保険掛け金を引き上げないと赤字になるのは当然であって、高齢化が原因ではありません。
透析の一例を挙げましたが、高額医療は透析に限らず各種難病等でゴマンとあるので、難病等の多くは患者負担が低額に抑えられている以上は、保険掛金を上げないで、ドンドン難病認定→負担低減化して行けば、保険財政が赤字になるのは当然であって、これを高齢化原因と誤摩化しているのではないかと言う疑問を書いています。

高齢化と社会保険の赤字4(感謝する心2)

生活保護制度(養老院→老人ホームなど)が昭和25年に成立していますので、設計時には、有資格者(老後生活に困っている人)がいても、他人の世話になるのは、恥ずかしいから一定数は親類縁者(友人)の受け皿がいて救済される・・縁者がいない人の最後の受け皿として設計されていたと想定されます。
以前コラムに書いたことがありますが、この15〜20年近く前から、大企業の役員をしている息子がいてもお祖母さんを所帯分離して無収入として安い老人ホーム入所資格を得ているのが普通になって来ました。
昨年だったか?有名お笑い芸人の母親が生活保護受給していることを高市早苗さんが指摘してマスコミで問題になりましたが、この傾向は大分前から私のコラムで指摘して来たところです。
生活保護受給する権利があると言う教育?・・他人の世話になるのは恥ずかしいという道徳心を否定して、何も恥ずかしいことではない・・「権利を堂々と主張しましょう」と言うのは、本当に困っている人に対しては必要なことです。
しかし、従来基準で言えば、子供世界が経費を出せるのに、経費出費による生活水準を落としたくないために所帯分離するなど、権利主張するためにどうしたら受給資格を得られるかの工夫が発達して来ると一種の制度濫用です。
子供の年収が何千万あっても親が生活保護受ける権利があると言う考え方が一般的になれ別ですが、今のところそこまで国民意識が変わっているようには見えません。
高市早苗氏が問題提起したお笑い芸人の場合、年収5000万と言うことで社会問題になったものですが、そう言う「狡い」行為を国民は許容していない国民意識を前提にしています。
最低生活水準の人でもやりくりして助け合って生活するのが今までの風潮でしたが、その程度の人は別として、年収1200万の人でも1000万の人でもお金と言うものは、月5〜10万の出費が増えるのは避けたいものです。
そうは言ってもそのお金を関係のない他人が出すべきと言う意識・・極端に言えば、「育ててくれた親に対して舌を出すのもイヤだ」と言うことで、社会保障費が膨らむのっておかしいと思いませんか?
このコラムを書くついでにちょっとネットを見ると、◯◯が生活保護申請すると自分の収入を調べられるかと言うような公務員など一定の年収のある人の質問がいくつも出ています。
元々は、最後の受け皿・・セーフテイネットとして制度設計したものなのに、周りの友人知人どころか、肉親も援助しない・・所帯分離などの工夫が発達すると、統計上貧困所帯が激増して行きます。
この制度が出来た戦後直ぐのころよりも日本が貧しくなって、生活保護請求者が増えた言うのは、無理があります。
本来の権利者が遠慮していた点は改める必要がありますが,勢いが余って?巨万の資産家の母親や身障者などまで所帯分離するように勧誘するようになると本末転倒で助け合いの精神を破壊してしまいます。
在日系に生活保護所帯が多過ぎると言う批判論は、自分の母親が生活保護なんて恥ずかしいと言う・・恥を重視する日本人と違う道徳意識の違いによると思われます。
高市早苗氏の指摘した有名お笑い芸人は・在日だったように記憶しています。
この4〜5年ばかり弁護士による生活保護受給援助活動が急速に盛んになったように見えますが、日弁連が音頭をとっているのかどうか知りませんが、在日だけではなく日本人にも身内に頼らずに権利要求するのを応援するだけではなく,生活保護受給は権利であって、恥ずかしいことではないと言う風潮を広げようとするのかも知れません。
元々家族で助けあう・その外延として親戚→一族→同じ集落で助け合う価値観でしたが、これに頼る意識を前提にし過ぎるのは古過ぎる・・改めて行く必要がある点については、私も同感です。
とは言え、同居していた母の住民票を動かして所帯分離するようになってくると行き過ぎの感じがしますが・・。
この運動の行き着くところ、日本人の「同胞に出来るだけ迷惑かけたくない・・恥ずかしいことだ」と言う道徳意識が変っていくのでしょうか?
東北大震災被害で特性が明らかになった日本人の世界に誇る同胞意識「絆」の解体が目的でないとしても結果的にそうなって行くでしょう。
生活保護を受ける権利と言えば、昨日書いたように法で基準を決めた以上は基準に合致する限り(本質は社会の善意によるとは言え、形式的には)権利ですから、その運動自体弱者救済となります。
本来の有資格者が遠慮して苦しんでいるのを放置せずに権利意識を覚醒させて受給するようにするのは人権擁護上必要ですが、(子供の年収数千万の人が境界かどうか分りませんが)境界付近の人まで所帯分離して押し掛けるようになって来ると(お金のある人までホンを買わないで図書館に行く時代にするようなものです)国家予算に限界があるので窓口作戦を発動し、保護基準を引き下げるしかありません。
制度設計当初の社会意識では、老後困った人の大方を子供らが、面倒を見る前提で設計されていたし、権利があっても遠慮する人しか想定出来なかった・・不正・不当受給など考えられなかったので、子供や兄妹の経済力証明など要求していなかったに過ぎないと想定されます。
今になって、子供らの収入証明が必要と言う規則がないことを理由に「聞かれても拒否しましょう」と言う宣伝が行き渡って来ると、ルール改正すべきだと言う意見が増えて来るでしょう。
年収千万以上の子供らがいても面倒見なくなる時代を比喩的に言えば、100の受給者を想定して予算額が100のときに受給者が急激に3倍になれば、一人当たり支給額を3分の1にしないと計算が合いません。
そうは行かないとなれば、予算を倍増するか、イキナリ倍増出来ないとすれば、2〜3割増して支給基準を6割減にするなどの外、運用基準を厳しくする・・親兄弟などの年収要件を作るなど調整が必要です。

高齢化と社会保険の赤字3(感謝する心1)

我が国では何かありがたいことがあったり成功すると、何となく神様に感謝する気持ちになる人が多いと思いますが、(今ではそんな古い人はいない・・私のような高齢者だけかな?)古来から、やおよろずの神々が空間に満ちあふれていて、神と民族の一体感・・渾然一体で来たので、「御陰さまで・・」と言う民族共同体全体に対する感謝の気持ちと繋がっています。
感謝精神の有無・程度は、何か良いことがあったときに「望外の幸せ」「有り難いこと」と受け止めるか、当然の権利と(冷静に?)受け止めるかの日頃の心構えの違いかも知れません。
以前、権利と恩恵の関係を書いたことがありますが、特定個人から(将来のための先行投資的場合を除いて純粋な)無償サービスを受けるのは100%・拠出者の善意恩恵によることを疑う人はいないでしょう。
ところが組織からの贈与・恩恵になるとルールで決まった以上は、「貰う権利がある」と言う気持ちになる人が出て来ますが、組織構成員全体からの善意や助け合い意識によるものである本質は同じです。
拠出者と目の前で配布している人が別になっていて距離がある場合、ややこしくなるようです。
目の前の担当者を基準にする人は、救援物資が届くとお前に貰っているのではない・・「受け取るのは俺の権利だ」と言う意識が強くなるし、背後にいる多くの人の善意を気にする人は「有り難い」と伏し拝んで受け取る気持ちになるでしょう。
生活保護費の受給や障害者に年金を支給する、高額医療を無償にするなどは法(国会)で決めた以上は、受給資格者にとっては権利です。
この権利は、生活保護担当役人による「お気持ち」で戴くのではなく、もっと上位者(国言えば国会、個人事業で言えばオーナーなどトップ)の決めたことによるのですから、末端担当者に対しては、(路上生活者が「俺はオーナーからただで食って行けば良い」と言われているんだ」と言うのは、権利主張であることは間違いないでしょう。
この場合もオーナーの無償の好意に寄りかかっている大もとは変わりませんので、主人の気持ちが変わればおしまいです。
生活保護等は、国家意思として国会で決めた限度で公務員がこれに従う義務があり、国民は受給資格に該当する限度で(上記例で言えば店員に対するのと同様の)公務員に「請求する権利」があります。
ただし、これを権利と言うのは技術的なものであって、100円のものを売った場合100円の代金請求権があると言う天賦不可譲的な?権利とは、本質が違っています。
生活保護の不正受給批判が高まったことによって、最近窓口規制が厳しくなって来ていると言われます。
他方、本来受給資格があるのに恥ずかしいから・・人の世話になりたくないと受給申請しない人を掘り起こして「権利」だからと生活保護受給申請を応援するかのような動きも目立ってきました。
権利を知らずに眠っている人を掘り起こして救済するのも弁護士の重要な職務と言えばそのとおりですが、権利の成り立ちの違いを違いとして理解した上で権利要求する精神が必要です。
話が飛びますが、図書館に週刊誌も新聞もあるから国民みんなが図書館で無料で読めば良いと言う運動をして、徒歩圏内に図書館設置運動をした場合、出版業界が成り立たずひいては著作者も食べて行けないので知的活動が衰退します。
保険制度も元は・・病院へのアクセスが悪いその他の時代の設計ですから、(保険制度が出来た頃には都市集中が進んでいませんでした)余程のことがないと病院まで行かない前提で設計されていたのですが、人口の都市集中が進み、町中の徒歩圏内に多数のクリニックが出来るなどアクセスが良くなって、健康意識も挙った結果、受診率が挙り、自分で食事を工夫するなどして直せばいい程度の軽い体調不良まで何でも暇つぶしに?病院に行くようになると保険制度の設計で収支計算してしていた前提基礎が狂ってきます。
(クルマや火災保険や生命保険でも、事故発生率を統計的に計算して保険料率を決めて行くものです)
大病院受診は紹介がないと割増料金を取れるようにするなど利用率を減らすように工夫するなど制度設計を見直す必要が出て来ます。

高齢化と社会保険の赤字2

もしも、生存期間が長引いたので医療費がかさむと言うならば、受益に対する(若いときから)保険料が低過ぎることになりますから、受益に見あった保険料引き揚げの議論をすべきことになります。
年金の場合には、「世代間扶養」だからと散々宣伝されて、各人の掛け金合計と比較する議論が封殺されていますが、その余波?で健康保険にも何となくその議論が関係あるようなムードで、各人掛け金合計と利用額の比較対照表作成が回避されています。
保険制度は、生命保険・自動車保険でも、火災保険でも、世代間扶養ではなく現在加入者間の相互リスク分散関係ですから、世代間扶養のへりくつで?収支を明らかにする必要がないと主張するのは制度意義からして無理があります。
そこで、年金の世代間扶養論を大大的に宣伝しておけば、大方の国民は各人別の収支明細など要求出来ないんだと思い込むのを期待している戦法のようです。
誤解するのは国民の早とちりであって、政府はそんなこと一回も言っていないと言えます。
19日ころに紹介したようにネットで見る限りでは(古い新聞を探し切れないので直ぐに検索出来るネットに頼ることになります)健康寿命と寝たきり開始とは関係があるかのように宣伝していますが、批判されれば、政府もマスコミも「そのようにズバリ言ったことはない」と言えます。
如何にも年金同様と言わんばかりに宣伝だけしておいて「誤解するのは国民の勝手です」と、健康寿命と寝たきりとはストレートの関係がない・年金の世代扶養と保険とは「関係ないことですから誤解しないように」と言うアナウンスは一切しないで黙っているのでしょうか?
ま、そんな議論は無駄と言う意見もあるし、有用だと言う意見もある筈ですからオープンな議論の場を提供するためにも基礎データを公開すべきです。
有用かどうかは客観データを開示した上で、民主的に決めて行くべきであって、政府が初めっから無用だと言って、(赤字の宣伝だけはしているのに・・)データすら作成しないで公開しない方が怪しい話です。
昔は1000年ほど前のトイレ跡などただ汚いだけだったのですが、今になると考古学的に有用な資料として未消化の種などの研究で何を食べていたかなどの研究が進んでいるのは周知のとおりです。
違った見方をする人には有用な資料になることがあるのですから、政府が必要と考えるかかどうかの基準だけではなく先ずは基礎データを作成して公開すべきです。
世代間扶養制度であるから、個々人の収支合計の計算する必要がないかのようなイメージ流布して、何のデータも公開しないのは何となく誤摩化しっぽい気がします。
保険制度が相互扶助の思想・・信頼を基礎にする以上は、統計的処理・計算によるとは言え、個々人1生の掛け金合計と受益の相関関係を無視しては成り立ちません。
「民をして知らしむべからず,依らしむベし」と言う政治理念ならば、仕方ないですが、民主社会である以上は死亡年齢別の収支を公開して合理的説明をすべきです。
その前提として毎年一定時期に「あなたのこれまでの掛け金合計が◯◯◯円で,これまでの医療給付金合計は△△△円で差し引き何円の残金・・または、マイナス何円」と言う収支表が毎年送付されて来た方が分り良いです。
あまり医療費を使わずに掛け金残の方が多い人は、自分が「世の中の人に良いことをしている」と言う満足感を得るでしょうし、マイナスの人は世間に感謝する気持ちになるでしょう。
毎年利用明細を送って来ると、自分が1年間にどれだけの医療費を使っているかの自覚にもなります。
透析その他天文学的高額医療の継続利用者としては、保険で認められている以上は、「無償利用する権利がある」と言う気持ちかも知れませんが、毎年または毎月こんなにも高額医療費を国民の善意で受けていると言う感謝の気持ちが沸くような制度設計にすべきです。
無償利益・サービスを受けている場合、提供者が誰か特定しなくとも、不特定多数の人に対して有り難いと思う気持ちを持つべきです。

高齢化と社会保険の赤字1

何でも高齢化や少子化による赤字と言う決まり文句でマスコミが報じていると、本来の問題の所在・・解決策を誤ります。
落語家の柳亭痴楽の綴り方教室で「・・郵便ポストが赤いのものみんな私が悪いのよ!」と言うセリフが1世を風靡したことがありますが、今は「高齢化が原因」と言えば免罪符になって全て議論停止の状態です。
医療機関の発達した現在では、人生最後の一定期間、医療関係の世話になるのは高齢化社会に関わらず同じです。
例えば40歳で亡くなる人も50歳で亡くなる人も皆病気や大怪我で最後を迎える以上、最後の一定期間医療の世話になる点は寿命の長短に係わらず同じです。
逆に若いトキからの難病で数十年医療機関にかかりっぱなしの人や、4〜50歳台で重病にかかって死亡した人の方が、生存維持に必死ですからいろんな高額医療に・しかも(透析その他)長期間精出す可能性が高いように思えます。
私の母が100歳の祝いをした(時には和食のコース料理を1人前に平らげて、健啖ぶりを発揮していたのですが・・)翌年あたりに胃腸の間にガンがあると分ったときには「放っておく方が良い」とになり、胃腸の間にステントを入れる簡単な手術をしただけで退院し、これと言った治療をしませんでしたから,高齢化したからと言うことで特別な医療費を使っていません。
高齢化すると最後の医療は却って簡単・少額かもしれないが、90〜100年の間に何回も医療を受ける関係がありますが、(年に数回程度の歯医者通いも亡くなるまでの合計では数十回に増えます・・)その代わり保険料を払う期間も長くなります。
寿命が延びると医療費のかかる期間も延びるでしょうが、その代わり労働期間・・納付期間も延びているので、私の場合既に大卒後約50年も払って来ていますが、今後まだまだ支払が続いていきます。
(いつまで払うのか調べたことがないので知りませんが・・仕事を辞めたら払わなくていいのかな?年収ゼロになっても納付義務がゼロになるのではなく最低の基礎的金額の支払義務があるのかも知れません。)
例えば30年間保険料を払った人が、最後の数ヶ月いろいろ病気するのと、私のように約50年以上も払って来て最後に(30年間払って死亡した・寿命の短い人よりも)仮に一ヶ月ほど余計世話になったとしても、これを比較したらどちらの方が、保険財政負担が大きいかの疑問です。
例えば、若い頃には、平均5年に数回の医療費支払が従来生涯に6回だったのが、寿命期間が延びて7〜8回の受診に増えてもその分保険料支払い期間が増えるのでこの収支は同じである筈です。
ただし、若いときには5〜10年に1回程度だった受診が70歳を超えて年数回〜10回になって来ると年間の支払い保険料も数倍から10倍にして行かないと計算が合わないような印象です。
ところが、逆に高齢者の保険料負担が軽くなっていて、しかも自己負担率も下がるのでは保険の原理からして逆張りです。
世代ごとの計算では、75〜80台になって来るとその年に払った保険料よりも多く使う人の比率が増えるでしょうが、その理屈から言えば若い頃には、保険料も数年に1回しか払わなくて良い制度にしていないと話が合いません。
若い頃に全然医師にかからないで保険料だけ毎月納めて来た普通の人にとっては、70台になってその年に払った保険料以上に年数回〜10回程度医者に行ってもいいじゃないかと言う気持ちになっている高齢者が多いと思います。
失業保険を60歳まで掛けた人が60歳になって失業保険を貰うときに、退職直前1年間の掛け金合計限度しか失業保険がでないと言われるような気持ちがします。
(それじゃ何のために何十年も払って来たのだと言う気持ち・・)
高齢化の所為で赤字になっていると言うならば、我々世代の生涯合計掛け金と、使っている医療費の比較を集計して公開して欲しいものです。
健康寿命の定義で19日に書いたように、生涯医療費を算出するには厚労省の調査は合理的だと思いますので、この調査結果を活かして、死亡年齢別の生涯医療費と生涯支払保険料額の収支表を公表して欲しいものです。
例えば、昨年の死亡者年齢別表を作ってその死亡者が過去に使った医療費・・支払った保険料の収支表を作るには、50歳の人が死亡した場合・・50年遡ったデータがいります。
仮に今はまだ遡れる記録が5〜10年前までしかないとすれば、生年月日まで遡れるようになるまではなお今後何十年もかかるでしょうが、現在の45〜50歳死亡の場合で言えば、当該年度の健康人も含めた45歳または50歳各年齢別に全員の使った年齢別医療費総額と総保険料金支払額額の対照表だけでも公開したら当面の年齢別収支関係が分ります。
(マイナンバー等が普及すれば、将来簡単に同一人の過去歴が遡及調査出来る時代が来るでしょう・・マイナンバー前から個人単位の保険番号がついている筈ですからやる気なれば過去に遡及してやれる筈ですが、コンピューター処理・・ソフトを作るのに金がかかるのか、やる気がなくてやっていないだけも知れません・・)

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