新型コロナウイルス対応の巧拙8(軽症者施設の必要性)

致死率の意味に関係しますが、以前から書いているように人口比致死率ではなく感染者と公式把握した総数に対する致死率ですので、検査数拡大に応じて致死率が低下する宿命です。
検査数と検査精度という国別に違う数字に依拠する比率は、あまり意味がないことを周知すべきです。
極端な話、最貧国で死亡者だけ検査すれば致死率100%となる理屈です。
当面は人口比どれだけ死者が出てるかで大雑把な推計を言うべきでしょう。
死亡分類も基礎疾患の多い人の重篤化・致死率が高いので、基礎疾患での死亡にしてしまえばほぼゼロに出来る・・ゼロでは幾ら何でも信用がないので鉛筆なめながらこの程度の数字発表にするか?というデータ操作常習国の数字は全く信用できません。
中国の数字をほとんどの国が信用していないのは、過去の統計発表実績が影響しています。
信用は1日にしてならずです。
日本のように系統的検査・・濃厚接触者や症状発生後検査を求める人中心の検査の場合には重症化率も致死率も高いし、死亡者拡大が始まって手当たり次第?ドライブスルー式の簡易検査(精度も低いので実は陽性ではなかったものが半分程度含まれる?)を急拡大すれば感染者数が急増する割に重症者致死率が低く出ます。
米国の場合、無症状が半分を占めると言われる所以です。
東京や千葉県が収まれば他の都道府県でクラスターがボコボコと発生し、もぐらたたきのような状況がいつまでつづくのか?
ワクチン開発までは収束する時期が見通せないまま、1年以上もずるずる続くのでしょうか?
その間に国民全般に抗体が普及?して新型コロナウイルスが普通の風邪ひき程度のレベルに下がっていくのでしょうか?
中国武漢の感染者や死者激減の秘策は何か?
まさか、統計に載せないだけというのではないでしょうが、どうやって激減させたのかの秘策が聞こえてきません。
2〜3週間厳重隔離していても、治療薬がないので隔離した分拡散を防げるだけで、周辺の感染者がいなくなったわけがないのにいきなり重症者が減り新規感染もゼロ近くになることがあるのでしょうか?
具体的エビデンス・・科学論文の信用性は再現可能な説明ですが、中国はこの説明なしに急激な感染者減少しているという結果の主張だけなので、従来の統計信用性の低さと相俟って国際信用がイマイチです。
日本全体では今後も新たなクラスター発生で一時的に増えることもあるでしょうから、一直線の縮小期待はできませんが、東京の大規模拡大さえ沈静化成功すれば、大きな流れが見えてきます。
昨日のデータでは東京だけで482名もの感染発生ですので、東京を中心にまだまだ増える一方の印象ですので文字通り瀬戸際状態が続いています。
ついに厚労省も軽症者未発症者全員入院ルールを見直す方向ヘカジを切ったようです。
メデイア論調は厚労省の腰の重さ批判イメージが強いですが、法律家視点でみれば法の規定がどうなっているか?政省令マターなのか?法改正マターなのかの問題でしょう。
感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律
(平成十年法律第百十四号)

(定義等)
第六条 この法律において「感染症」とは、一類感染症、二類感染症、三類感染症、四類感染症、五類感染症、新型インフルエンザ等感染症、指定感染症及び新感染症をいう。
11〜12号略

13 この法律において「特定感染症指定医療機関」とは、新感染症の所見がある者又は一類感染症、二類感染症若しくは新型インフルエンザ等感染症の患者の入院を担当させる医療機関として厚生労働大臣が指定した病院をいう。

上記を受けて

※ 感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律第38条第2項の規定に基づく厚生労働大臣の   定める感染症指定医療機関の基準(平成11年3月19日厚生労働省告示第43号)=「指定基準」

があるようです。
この指定病院になるには厚労省によるさじ加減が効いているのでしょうが、その前に指定「医療機関(病院)」である必要があります。

(入院)
第十九条 都道府県知事は、一類感染症のまん延を防止するため必要があると認めるときは、当該感染症の患者に対し特定感染症指定医療機関若しくは第一種感染症指定医療機関に入院し、又はその保護者に対し当該患者を入院させるべきことを勧告することができる。ただし、緊急その他やむを得ない理由があるときは、特定感染症指定医療機関若しくは第一種感染症指定医療機関以外の病院若しくは診療所であって当該都道府県知事が適当と認めるものに入院し、又は当該患者を入院させるべきことを勧告することができる。

上記の通り特定感染症判明した場合感染者に対して「都道府県知事は・・勧告することができる」だけであり勧告義務がありません。
知事は症状や医療施設のスペース等に応じて勧告したりしなかったりする裁量権があります。
厚労省の許可不要ですので、知事の政治判断で行うべきことです。
同法の勧告しないで放置した場合の取り扱い・・ホテルなどの中間的な処遇をした方が良いかどうかは知事の政治判断分野ですから、ホテルその他空き施設活用の方が良いと思えば都知事判断でどんどん進めれば良いことです。
ホテルや空き宿舎利用をどんどん利用するについて厚労省が文句いう権利がありません。
報道では「地方自治体が積極的だが厚労省の腰が重い」ようやく全員入院させなくとも良いという通知が出たというようですが(4月4日経新聞朝刊)なぜ厚労省の腰が重いと批判報道されるのでしょうか?

高齢者は85歳から4(柔軟対応)

高齢者のさらなる活躍期待から老害・副作用の方に話題がそれてしまいましたが、本来のテーマ・高齢者の自助・活躍期間延長期待に戻ります。
介護者の身体能力の衰えを介護ロボットが代替する時代が来るように、(中長期記憶力はネット検索で間に合うようにかなり解消されましたが)短時間記憶力の衰えなども何かで代替する工夫が生まれて来るのももうすぐでしょう。
高齢者の物忘れの問題点は、短期記憶の定着力喪失がかなりの部分を占めています。
昔「博士の数式」という映画を見た時には「奇妙なことがあるものだ」という気持ちでしたが、自分が高齢化すると、最近のことの方が忘れやすくなっていることに気が付き始めました。
相手からすれば、数日前に約束したり自分が発言したことを覚えていないと驚くでしょうが、こちらは真面目に忘れているのです。
大分前から、審議会等の会議での発言のやりとりについては文字起こしをした逐語議事録を送ってくるまで、まるで何も思い出せないことが多くなったのに驚いていました。
(10年以上関与した千葉市個人情報審議会会長を昨年3月で終わりました)
我が家で言えば何かの料理では必ずタイマーセットして煮込み過ぎないようにしていますが、そうしたきめ細かい工夫器具の発達が老化による作業ミスを防げるようになっています。
今後この種の器具が発達する一方でしょうし、主な鉄道駅ではエスカレーターやエレベーターが設置されていて足の弱った人でもそれほどの不自由なく乗り換え可能になっています。
能力低下の自覚によって自らこうした器具を活用したり仕事分野から手を引いて行くのは良いのですが、外部から個別能力判定で辞職を強制するのは自裁には無理があります。
当面は年齢による一律的(この年齢ではこういうことに気をつけましょう程度・できるだけ緩やかにすべきですが)ゆるい線引きをやめられないとすれば、次善の策として今後「65歳以上を高齢者と言わない・後期高齢者の呼称を75歳から85歳以上に変更すべき」と提言したいとおもいます。
敬老の日のお祝い対象年齢は元は70歳以上だったのが、7〜8年前から75歳以上になっていますが、これもさらに85歳以上に引きあげるべきです。
早くから高齢者扱いしすぎると、これを真に受けて必要以上に老けこむ・できることまでやってはいけないのかな?とやらなくなる弊害が増えて社会的にもマイナスです。
本来高齢化問題は、個々人が自分の体調や能力変化にあった年齢で高齢化を意識し、何ができなくなっているのか個別に能力によって考えるべき・心の持ちようその他の準備をしていけば良いのであって、社会が高齢意識を強調し過ぎるのは行きすぎです。
ただし、自己管理能力がない若者でも医療や衛生状態・外部力の恩恵で長生きできるようになったように、高齢化に伴う能力低下に適正に対応できないけれども外部力(強制的健康診断等)のおかげで長生きしている高齢者が増えてきます。
この結果、自動車運転では高齢者による車の暴走事故が発生するのは目立ちますが、同率で何か目立たない失敗が起きているはずです。
鍋を焦がすようになっても自分が損をするだけですが、周りに迷惑をかけてはいるがニュースになるほどではないことなど・・。
娘さんがいる家庭では日頃からきめ細かく観察して、「おばあちゃんはこれをやれなくなっている」などの判断でおばあちゃんのやれることをきめ細かく縮小して行き、母親もこれを受け入れているのでしょうが、父親・男は柔軟性に欠ける嫌いがあります。
家庭内での存在価値が低すぎる・例えば百工程の多様な作業があれば、90〜80〜70と順次の能力低下が可視化するのですが、定年後テレビを見てるだけでほとんど家庭内での男性の役割がない・車での外出時だけ能力発揮するパターンが多い場合、能力低下自己認識チャンスが少なすぎることも原因のひとつでしょう。
曲がり角でこすったり車庫入れ時にあちこちぶつけるようになったなどの具体的エピソードなく、「75になったから運転をやめたら・・」というような抽象的提案では「俺は大丈夫」などと頑張られると周りはそれ以上言えません。
これに加えて、男は猛獣のような危険な雰囲気があって、普段から家庭内で腫れ物に触るように大事に(警戒)されているような場合、提案して拒否されたらそれ以上言えない雰囲気も女性に比べて強い傾向があり、こうした総合的結果、車の暴走事故が起きるまで放置されることになるのでしょう。
これらは長年の生活習慣の結果・自己責任でもありますが、この辺は今の若者が草食系と言われるよう優しくなってきたのは時代適合していて良い変化です。
現役の場合、例えば世界的に高名な外科医でも高齢化による手ブレなどの限界が起きて次第に現場離脱していくし、看護師、美容師、料理人一級建築士その他資格系の産業がいっぱいありますが、いずれも高齢化を理由に画一的に資格剥奪しなくとも、高齢による適応力低下→市場淘汰が進みますので、それほどの害がありません。
弁護士で言えば、80歳を超えた弁護士は、いわば御隠居仕事であって個別事件から手を引いていくし、そもそも顧客が来なくなります。
車運転免許の場合危険性の高い資格(歩行者はぶつかってくる車を選べない)ですが、(タクシー等の職業運転手は企業責任上困るので淘汰されていきますので、高齢・認知症による暴走事故は皆無でしょう)自家用車の場合市場淘汰がない点で問題が大きくなるのです。
交通事故の例でわかるように能力低下度に応じていろんな分野からリタイヤーすべきかどうかを100%自己管理・業界判断に委ねきれない・・周囲に甚大な被害を及ぼす分野では外部規制が必要でしょうから、今は問題になっていない分野にも自主規制を広げる方向性・議論開始が必要でしょう。

高齢者は85歳から3(長期支配の弊害2)

社長の(違法不当な)独走牽制のためには、外部監査〜外部役員の必要性が言われますが、その機能をどうやって発揮するかの具体策が見えません。
外部役員「人物」を当てるしかないのですが、独走したい社長に限って、煙たい人物排除に動く本質があるので、現役の社長会長の関与しない選任システムに変えて行くしないでしょう。
長い人類の知恵では、何期か前のトップ経験者・長老・元老システム・今風に言えば顧問団に期待が集まる以です。
寸秒を惜しみ世界中を駆け巡ってがスピーチしなければならない超繁忙社長を務める体力知力がないとしても、じっくり世の中を見ている時間のある何代か前の社長経験者の意見は相応の重みがあるでしょう。
世界企業クラスの社長経験者であれば、他社の事業に精通していなくとも長期支配のマイナスが出てくるようになれば直感的にわかる面があるでしょう。
年齢だけではなく、長期政権に必然的に生じる歪みを是正する方法がない・・一定のシステムが根付けばそれをかいくぐる裏技も発達しますので、大統領任期制のように、能力如何に関わらず一定期間で自動的に失職する絶対的任期制がスッキリしてわかりよい制度でしょう。
中国やロシアトルコ等民主的制度不十分な国で任期に代わるチェックシステムをつくらないまま任期制撤廃をすること自体が、自己独裁政権の長期化を狙った制度改悪と受け取られます。
我々弁護士会の場合には、会長や副会長を2期も続けてやっていると事務所維持できないので2期続けてやりたい人は滅多に出ませんが、(特に日弁連副会長は各地の選出なので、企業役員のように社長指名によらないので会長の意のままに動く人材ではありません)企業等では社長が取締役候補を事実上指名するのが慣例になっているなど独裁的執行体制になっているのが普通です。
これでは法の予定する取締役会の監視機能が事実上形骸化するのは当然です。
総理の指名する閣僚に総理の監視役を期待しているようなものです。
商法266の3(会社法になってからは429条に条文移動しています)の以下の最高裁判例以来各種判例が蓄積されてきました。
http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=52058

昭和46(オ)673
事件名 損害賠償請求
裁判年月日 昭和48年5月22日
法廷名 最高裁判所第三小法廷

株式会社の取締役会は会社の業務執行につき監査する地位にあるから、取締役会を構成する取締役は、会社に対し、取締役会に上程された事柄についてだけ監視するにとどまらず、代表取締役の業務執行一般につき、これを監視し、必要があれば、取締役会を自ら招集し、あるいは招集することを求め、取締役会を通じて業務執行が適正に行なわれるようにする職務を有するものと解すべきである。

会社法 (平成十七年法律第八十六号)

第四百二十九条 役員等がその職務を行うについて悪意又は重大な過失があったときは、当該役員等は、これによって第三者に生じた損害を賠償する責任を負う。
2 次の各号に掲げる者が、当該各号に定める行為をしたときも、前項と同様とする。ただし、その者が当該行為をすることについて注意を怠らなかったことを証明したときは、この限りでない。
一 取締役及び執行役 次に掲げる行為
以下省略

上記判例の結果、何かと言うと取締役の責任追及訴訟が頻発するようになっており、「事実上社長は命令に歯向かえない」という取締役の抗弁を許しません。
「取締役になる以上は職を賭しても社長提案に問題があれば非を鳴らし拒絶すべき」という「きれいごと」正義論で押しきれられていました。
しかし、古来から処罰覚悟で君主に諫言できた忠臣が何人いるでしょうか?
万に一つくらいしか例がないから歴史に残っているのではないでしょうか?

左遷至藍關示姪孫湘
唐 韓愈

一封朝奏九重天
夕貶潮州路八千
欲爲聖明除弊事
肯將衰朽惜殘年。
以下省略

https://kanbun.info/syubu/sasen.html解説です。

元和十四(819)年、唐の憲宗は仏教を厚く信し仏骨を宮中に迎えて三日間の供養をした。韓愈は「仏骨を論ずる表」(論仏骨表)を憲宗に奉って諫言した。その結果、憲宗の怒りを買い、潮州(広東省)刺史に左遷された。

朝に諫言して夕べには左遷されたが、「あえて残りわずかな命を惜まんや!という強りですが・・。
閣僚の場合には自己の政治地盤が別にあるので、石破氏のように自ら入閣要請を拒否したり閣外に去る選択肢もありますが、サラリーマン取締役には固有の地盤がないのでそのような選択肢すらありません。
このように取締役の監視機能には実効性がない実態があるので、外部監査や社外取締役制度が普及して来たのでしょう。
企業活動は一定方向へ舵を切った以上は邁進する必要あり、異論を主張できない雰囲気自体を否定できないので、取締役とはいえ実質は執行役員の機能しか果たせていない現状(江戸時代の番頭の機能)肯定した上で、社外ご意見番の創設になったのでしょう。
戦前の内閣制度は総理に指名罷免権がなかったので閣内不一致を批判されても手の打ちようがなく、軍部の横暴を許したこと・・弱体化の原因になった反省で戦後憲法では、総理の指名・罷免権による内閣一体化を図った閣議決定に署名しない権利→総理は罷免で対抗する・これをしない以上は連帯責任です。
(閣僚は閣議が自己の信念に反すれば署名拒否して閣僚罷免されても地盤があるので政治家の地位を失いません・信念によって行動し地元で総理の方針に反した正当性を訴えて支持を得れば良いことです・・これをしないで署名した以上は連帯責任を免れません)
総理権限強化の代わりに総理自身の選任罷免権は枢密院・天皇による「大命降下」でなく、民意代表の議会が握る・・純粋な議院内閣制になりました。

高齢者は85歳から2(長期支配の弊害1)

移動手段の発達(同じく区間でも時間短縮・乗り心地の改善)が距離の不利益(体力低下による移動能力低下)を緩和します。
例えばJR千葉・東京間の特急は所用29〜30分ですし、千葉〜品川〜横浜間〜鎌倉/横須賀間の快速にはグリーン車があるので、日常的行動半径の東京駅や品川などまでの約4〜50分の乗車時間は、体力消耗どころか(・・美術館巡りで足が疲れているときなど)疲れた足の回復時間になっています。
(乗車時間中に普段読めない本を読んだりネットチェック時間になっています)
京成電車は自宅から最寄駅まで200メートルで直通で上野(主に東博)に行けるので便利ですが、横坐りの電車しかないので座っていること自体が楽しくないのがJRに比べた問題点です。
昨日から書いた通り、分野別・職業によってもいろんな補完手段が進んでいますので、年齢で画一的に切り分ける今の基本的仕組み(定年制が代表的なものですが・・)は無理があるように思われます。
かと言って、個別能力次第にすべきというのは「言うは安く」して具体的運用が大変です。
車の運転免許のように、視力聴力など身体機能テストだけで済むなら割合簡単ですが、(テスト項目を増やし有効期間を短縮するなど)知的労働に限らずどんな現場作業にも監督行為と末端作業とは違った能力が求められるなど複雑系能力をどうやって判定するかです。
一般的に高年齢化すると現場的分野から統括分野に役職が移行するのが伝統的役割分担です。
我々司法界・・知的職業である裁判や検察でも同様で、若手裁判官は下調べ的記録調査に精出した結果を土台に合議体で基礎的意見を述べて、これに対して10年以上経験の右陪席が質問その他の意見を述べて、合議体トップの裁判長(20数年超〜定年まで)がさらに意見を述べる形で合議が進み、右陪席や裁判長の意見で問題となった点の補充をする形で最終結論に進みます。
(以上は、私の45年以上前の裁判実習時の経験によるので今は変わっているかも?)
高裁も左陪席がほぼ主査としてまとめた意見を合議体で披露し、これの方向性を合議体で確認されると、その方向での和解勧告→和解不調=判決となるようです。
こういう具合に知的職業世界でも年齢構成による分担が長年の慣習?の結果決まっています。
公的機関や民間企業でも懲戒処分をするには相応の議決機関があって行われているのでしょうが、懲戒処分を受けるには、相応の地位ある人の合議の結果=重みを重視する風潮が重視されている印象です。
組織の長老というか高位経験者が懲戒委員や選挙管理委員をやっている必要があるかどうかは、慣習に従っているものの今までのところその合理性が私には具体的にわかっていませんが、高齢者=知恵者という古来からの常識に従っているだけか?私に不明なだけで、相応の合理性があるのでしょう。
これが従来円熟期と思われてきた中高期(5〜60歳)を越えて高齢化するとあらゆる分野で能力低下が起きるのではないかの疑問・・複雑系判断分野でも担い続けられるか・・もっといえば、65歳の判断より75歳〜85歳の判断の方がすぐれていると言えるかの問題です。
裁判官定年は私が弁護士になった頃の定年は60歳だったというウロ覚えの記憶でしたが、いつの間にか65歳になっているようですが、この年齢程度までは年功ヒエラルキーがあっても良いという国民合意があるのでしょうか?
民間では役職(別)定年制があるように、定年あるいは就労期間を伸ばすことと決裁権を並行的に伸ばせるかは別次元・人の能力は複雑系分野でも一定年齢でピークが来ることを前提にしているのでしょう。
取締役では画一的定年制がない(ただしヒラ取締役等では事実上の定年制があるようです)のは、社長や会長等の超高度判断になってくると現時点では70歳前後くらいまでは、人によっては能力低下が起きない・70歳台が60歳台を指導する高度判断可能という合意でしょうか?
今も元気に指導力を発揮している有名人では、鈴木自動車の鈴木会長や、日本電産社長永守 重信(1944年8月28日 – )が知られています。
問題は能力低下が始まった時にどうやって「首に鈴」をつけられるかでしょう。
大物の首に鈴をつけられるほどの重鎮(他分野での大物)によって構成される社外取締役制度が必須ですが社外取締役の多くが現役社長の推薦によるのでイエスマン的機能しか果たせていないと言われています。
政治家は瞬時の判断によるちょっとした発言ミスが政治生命に直結するなど市場評価の最も厳しい分野ですから、生き残っていること自体で能力テストをクリアーしていることになるから別でしょうが・・。
政治の世界では地方選挙と参議院選挙を含めてしょっちゅう民意反映制度がある民主国家ではイエスマンに支えられる政権の存立が不可能になっているので外部勢力介入は不要・害悪になり・戦後枢密院制度などが廃止になりました。
政治の世界ほど頻繁な市場評価に晒されない・・任期継続禁止が確固としていない企業統治その他組織では放っておくと澱んでしまうので、戦前枢密院制度のような元老会議のようなものがどこの分野でも実は必須なのです。
企業統治の場合には、よほどの企業業績悪化や不祥事がない限り市場評価による進退表明に追い込まれることは滅多に起きないので、取締役会がイエスマンばかりの場合、ゴーンさんのような暴走が起きるのを防ぐ方法が確立されていません。
ゴーン氏が日産のV字回復に貢献したのは初期(2000年就任後)の数年〜4〜5年だけのことで、後はどちらかといえば打ち上げた目標未達の連続であったのにカリスマ支配力によって部下に責任を押し付けていたという意見を読んだ記憶です。
https://www.kuruma-sateim.com/market/carlos-ghosn-income/によると営業利益率の推移は以下の通りです。
具体的な経営再建の結果を、営業利益率の推移で見ていきましょう。

年度営業利益率(連結)
2000年度4.8% 2001年度7.9% 2002年度10.8% 2003年度11.1% 2004年度10.0%
2010年度6.1% 2011年度5.6% 2012年度5.7% 2013年度5.0% 2014年度6.1%
2015年度7.0% 2016年度7.3% 2017年度6.2%

比較のためにトヨタの財務データと比較しておきましょう。
トヨタに比べて喧伝されているほど内容が良いわけではありません。
https://docs.google.com/document/d/1B_k-2lcstvNhZWWRqkWpEo0Evf1mJlU7NLjlDEZOEak/editです

主な財務指標(連結)

会計年度 指標項目
売上高
営業利益率
売上高
税引前利益率
税金等調整前
当期純利益
総資産
総資産当期純利益率
(R.O.A.)
株主資本当期純利益率
(R.O.E.)
株主資本
総資産
2018年3月期 8.2% 8.9% 5.2% 5.0% 13.7% 37.2%
2017年3月期 7.2% 7.9% 4.5% 3.8% 10.6% 35.9%
2016年3月期 10.0% 10.5% 6.3% 4.9% 13.8% 35.3%
2015年3月期 10.1% 10.6% 6.1% 4.9% 13.9% 35.2%
2014年3月期 8.9% 9.5% 5.8% 4.7% 13.7% 34.9%
  • * 米国会計基準に基づく連結財務数値にて、算出しております。

高齢者は85歳から1

後期高齢者の対象年齢を75歳とするのは今では早すぎないか?という方向の意見を昨年大晦日に述べましたが、そうはいうもののトシは争えないもので、いつの間にか?健康第一の心境になってきているのが現実です。
70歳になった頃から、いつまでも元気だと内心自慢しながらも「老い先短いのだから良いものを食べたい」など高齢化を理由にいろんな面で身勝手な要求が強くなっています。
折良く農家の人が量が少なくとも美味しいものを作ろうと努力してくれるようになっているのは私の心境変化にうまくあっていてあり難いことです。
いつもこんな風におめでたく満足して生きてきたし、1月2日の箱根駅伝でも書きましたが、どういう結果が出ようと「ありがたいことだ!」と感謝したくなる、おめでたい気性です。
昨年12月初旬に司法修習終了(判事検事弁護士になってから)45年の同窓会が開催されましたが、未だに社会でこういうことをしていると活躍ぶりを披露する人もいれば、事務所時間の大半を碁敵との対戦に費やしている(夜中まで終わらないことが多く碁敵・・相手は横浜の弁護士らしく遠いので事務所に泊まっていくこともあるとのことで恐れ入ります)と現状紹介する人もいるなど、高齢者の同窓会になると何を大事に生きてきたかも分かり、味のある会合でした。
ただし、ほぼ全員が45年前卒業時の特徴そのままで今も生きていることが分かり、生きていくスタイルというものは変わらないものだなあと感心しました。
最近メデイア界では格差社会の弊害や不満論・煽っているのかな?が喧しいですが、日々の生き方の積み重ねが将来に大きな影響(格差が生じる)があるからこそ、若い頃から研鑚に励み(受験勉強やスポーツ各種芸事・・音楽やバレーなど訓練し)周囲から尊敬されるような人物にとか、ほどほど楽しく生きられる程度のゆとりを確保しようと皆励むのではないでしょうか。
蓄積資産・各分野での地位・健康管理による体力を含めて高齢者の能力は、長年の自己管理・研鑽の総決算・・結果ですから、歩んできた期間の長さに比例して結果に大きな差が出るのは当然です。
無茶な生活をしていた人の多くが40台なると大きな病気をして社会から消えていった時代には、(私が弁護士になった頃には、目の前でそういう人がゴロゴロいました・こういう人が多くいてこそ平均年齢73歳くらいであったと記憶しています)健康管理を含めた成功者しか高齢で残らない社会でした。
格差社会と批判しますが、無茶な生活をしていた人の多くが40台なると大きな病気をして社会から消えていった時代には、健康管理を含めた成功者しか高齢で残らない社会でした。
15年ほど前にこのコラムで書いたことがありますが、古代から名を残すような人は皆長寿でした。
古代から西洋ではアリストテレス、わが国では秀吉あるいは、家康、もっと前の藤原彰子(ウイキペデイアによると・・永延2年(988年) – 承保元年10月3日(1074年10月25日)北条政子(保元2年(1157年) – 嘉禄元年7月11日(1225年8月16日))など皆長寿でした。
当時から江戸時代までは、食うや食わずのその日暮らしのものは2〜30歳前後で淘汰されていましたし、一定の地位があってあるいは戦後高度成長の結果生活環境の底上げが進んでも、無茶をしている人に限ると咎めが出るのがいわゆる厄年ですが、当時は一旦大病にかかると直す方法がないので40台で多くが淘汰されますので、働けなくなって生き残っている高齢者の多くはなお人生の成功者中心であって、(たまに貧者が生き残ってもそれは特殊要保護者であって、社会問題になりません。
こういう社会では高齢者の多くは成功者(村社会では地主階層などそれぞれの地位相応の)ですから、高齢者間の格差(食うや食わずのものは40歳前後まで淘汰されています)は問題になりません。
生活水準アップし始めた明治以降では、社会的地位構築(子供に恵まれない場合もあるでしょう)に成功しなかったにも関わらず生き残った例外的場合だけ「養老院」という施設が必要になった・もっとその前には山間僻地の地域限定ですが姥捨山の時代でしょうか?
健康管理だけ成功したが、本人の能力アップによるのではなく医療や保健衛生の発達によって他力本願的に救急医療等で偶然助かる人が増えると、働かなくても食えるだけの人間関係や資産を残していない人が増えるので社会問題になって来ます。
医療発達の結果、障害児の寿命が延びて親が先に死亡するなど面倒見切れない親が増えるので障害者年金が必要になって来たのは障害児の能力が上がって長寿になったのではない・外力に頼る点では同じです。
高齢化と格差に戻りますと、5〜10分間だけスポーツ練習や勉強した人としない人との差はほとんどないとしても、10〜20時間練習では少し差が開き、数百〜千時間の練習をしたり算数を習った子供と全く練習せず勉強しなかった子ではその分野での能力に差が開くし、この蓄積が万単位時間の差になると大きな差になります。
この差に気づいたのが、専門分化(世襲の優位性・今でも歌舞伎役者等に残る・・幼児期から親の仕事・・見よう見まねで幼児期から訓練していく優位性)の始まりでもあったでしょう。
人生50年時代から、超高齢社会(無茶な生活をしていて4〜50歳で大病を患ってそのままこの世から消えていたグループが、救急治療受けて社会復帰しないまでも入退院繰り返しで高齢化することが増えると蓄積時間軸が伸びた分、その間の生き方次第で、格差がより開いていく一方になるのは論理必然です。
こうなると「各人の生き方の責任だ」と放置しておけないので、(救急医療で延命させる以上は退院後の受け皿・・生活保障が必要になります)結果平等をどの程度保障するかのテーマが大きくなってきます。
独身高齢者の病気が治って退院する時になっても家で面倒を見てくれる家族がいない人が増えると(これが一人二人の例外現象の時にはボランテア任せで済んだでしょうが、大量に出てくると)受け皿整備・完全に良くなるまでの生活の面倒を誰が見るか(デイサービス等)の整備が必須になります。
刑務所の刑期を終えても受け入れる家族のない人が普通になると、(この種の問題・出所後の福祉との連携は早くから始まっています)刑終了で路頭に放り出して後はどうなろうと知りませんでは済まなくなります。
一方で犯罪を犯しても善行を積んでも老後の結果に差が開かないのでは、道徳を守り日夜精進努力する人が激減するでしょう。
長年の努力の結果、幸福な家庭を築いている人と、そういう努力をしなかった人との間でどの程度まで格差縮小すべきかは難しい問題です。
身体能力低下にも個人のばらつきが大きいだけではなく、職業によって例えば特定分野の能力が落ちても発揮するべき能力に関係ない分野もあります.
知的職業者では走る速さや、歩行耐久時間低下はあまり職業能力低下に関係ない・・機材の進歩による補充性・・眼鏡の発達が老眼や視力低下による能力低下を防義、車のハンドルさばきに力がいらなくなると女性のトラック運転が可能になった・フォークリフトの発達で荷物の積み下ろしも機械化され女性が担当できるなどのほか、手先機能の一部が麻痺してもキーボードさえ打てれば文書表現に問題がないなど多様な補助手段が発達してきました。
パソコンの発達は・うろ覚え程度の知識さえあれば必要な時にググればいいのですから正確な知識の必要性をなくし記憶の代替・知識力の活用能力を代替しています。
このコラムを書くにあたって朧げな記憶程度で論を進めて、念のためにググれば有名人の正確な年齢や時期が出るなど・・。
有名な詩歌でも片言隻句を記憶していれば正確な詩文が検索できます。

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