高齢親の虐待2(任意後見制度利用の勧め)

後見制度は資産家が資産管理、処分能力がない時の例外として、禁治産制度の副産物的に生まれたものです。
管理処分権者制度は、後見に限らず、会社においては取締役等の管理処分機関、社団財団等では理事、個人法人共に破産したときの臨時管理処分権者である破産管財人が選任されるの同じでそれぞれ名称が違っているもののそのときの目的に応じた自分以外の法人や個人の財産管理処分権がそれそれ決まっています。
このようにそれぞれの制度設計の1要素でしかなかったのが、後見の役割が資産管理だけでなく介護その他看護関係に広がると元の資産管理処分制度設計を乗り越えたものになったことになります。
それでも大元は資産管理から始まっているので、任意後見制度の利用は事実上一定の資産があることが前提に思っている人が多いでしょうが、資産濃霧が法律上の要件ではないので無資産者でも公正証書作成費用さえあれば利用可能です。
後見費用が高いのでないか?と尻込みする人が多いでしょうが、親族後見の場合報酬自体放棄させれば無報酬ですみます。
私が申請する事件ではこれまで親族後見予定の場合(いずれも資産がある場合ですが)法的手続きをする都合上なってもらうだけだったので全て後見候補者の「報酬入りません」という上申書付きで申し立てていますが、のちに兄弟間で面倒を見たのに!という争い防止のためには、介護してもらう負担を考えて適正な金額(裁判所が決めてくれるのが原則)を決めておいた方が合理的です。
そうしておけば相続時に誰が面倒を多く見たという争いを防げます。
そうすれば介護など面倒見た分は適正報酬を受け取っているので遺産相続争いでは解決済みとなります。
親が養っている中高年の子供がいる場合、いきなり後見報酬のみでは生きていけない場合もあります。
後見が始まれば生活費として子供Aに毎月一定額支給するなど明記しておけば良いことでしょうが、これが制度上どう配慮してくれるかについは実務経験がまだないのでわかりませんが、実際必要になれば、その時点で裁判所の運用を調査してみれば分かるでしょう。
仮にその記載がその通りの効力がなくとも、書いておいて損はないということでしょう。
娘や息子が後見人ならば元気なうちに後見人指名しておいても置かなくとも、結果的に同じようですが、ここのテーマは密室化になりやすい介護家庭に公の目が入る利点です。
後見制度利用メリットは、
① 裁判所が年に1回財産管理のチェックをしてくれる・・預金通帳など提出が求められるのと、
② 年間必要額相当・・たとえば数百万・あるいは年金収入等振込入金で施設費用等に十分間にあうときには、その普通預金通帳だけの管理を後見人に委ねるのが普通です。
日常的出費に必要な額以上の資産は、信託財産(ただし株式など有価証券を扱わないようです)にして(信託財産化に応じないときには後見監督人を別に選任します)後見人が勝手に巨額払い戻しや処分できない仕組みにしています。
③ 介護関係の報告もあるので、後見報酬さえゼロまたは適正にしておけばほぼコストゼロで公のチェックが入る利点があります。
コスト問題ですが、社会に不適合を起こしている子供(と言ってもすでに5〜60台以上)を抱える親にとっては、中高年世代の娘や息子の生活費を出してやるのは良いが、自分が路頭に迷うほど浪費されては困るという親が普通でしょう。
こういう場合・・適正な後見費用支給を決めたり、生活費は支給してやりたいとすればそれを裁判所管理で実行してもらうのは合理的です。
単純に銀行や証券会社その他の手続きを娘や息子にに一任していると必要以上の支出あや売却をしているか不明朗になるのですが、それを裁判所がチェックしてくれるので安心です。を防げます。
裁判所ん費用は当初の申し立て印紙や郵便切手(裁判所から後見人への連絡コスト)など取るに足りないコストです。
毎月後見人に払う後見報酬は息子か娘を後見人に指定しておけば元々娘らの生活費援助資金の一部と考えればタダと同じです。(他人にお金が流出するわけではない)
ここでは、親世代が高齢化し次世代がしっかりしない場合、高齢化でいつか自分で管理し切れなくなったときの問題・家屋敷を売られたり、巨額資金を浪費されては困るジレンマの解決策を書いています。
一般論としては灰色段階の社会システム不備があると社会需要の溜まったマグマのはけ口としていろんな事例が起きる関係のように見えます。
児童虐待問題が火を噴く背景には、現在の子育て環境に問題が大きすぎる・・・人類は長い間大家族制プラス地域社会で大勢の目で育てて来たのに対して金愛社会化に比例して核家族化進み子育ての密室化が進んできたからではないでしょうか?
素人の直感にすぎませんが、補完作用として零歳児保育とか各種受け皿ができて来ましたが、原則と例外の違いで、時々どこか相談窓口があったり、預かってくれるという程度では追いつかないからではないか?と思います。

児童虐待と高齢親の虐待(尊属殺重罰規定違憲判決)

高齢者に対する成人子供世代の虐待問題は、封建道徳の遺物と言われ、戦後憲法違反判決になって刑法から削除された尊属殺人罪などの特別規定は実は恒例化した場合における家庭内の力関係逆転を見通した制度だったことになるのでしょうか。
因みに私が司法修習した時に所属した(指導を受けた)刑事部長〇〇さんがその一審判決を書いた裁判長でした。
尊属殺重罰規定違憲判決に関するウイキペデイアを引用します。

尊属殺重罰規定違憲判決(そんぞくさつじゅうばつきていいけんはんけつ)とは、1973年(昭和48年)4月4日に日本の最高裁判所が刑法第200条(尊属殺)を憲法14条(法の下の平等)に反し無効とした判決である。最高裁判所が法律を「違憲」と判断した最初の判例(法令違憲判決)である。
この裁判の対象となった事件は、1968年に栃木県矢板市で当時29歳の女性が、自身に対して近親姦を強いた当時53歳の実父を殺害した事件で、「栃木実父殺し事件[4]」「栃木実父殺害事件」などと呼ばれる。
一審の宇都宮地方裁判所は、刑法200条を違憲とし、刑法199条(殺人罪)を適用した上で、情状を考慮し過剰防衛であったとして刑罰を免除した。
二審の東京高等裁判所は、同条は合憲とし、その上で最大限の減刑を行い、かつ未決勾留期間の全てを算入して、懲役3年6月の実刑を言い渡した。
終審の最高裁判所大法廷は、従来の判例を変更し同条を違憲と判断した上で、刑法199条を適用し懲役2年6月、執行猶予3年を言い渡した。

被告人の弁護人を務めた大貫大八は、国選ではなく、無報酬(金銭の代わりにジャガイモを差し出した)の私選弁護人であった[5]。これは、国選では各審の度に弁護人が選任しなおされるため、弁護方針が一貫できないことを危惧したためであった。後に控訴審で大八が健康を害したため、[要検証ノート]息子の大貫正一に交代した[5]

上記によると昭和48年最判ですので、私の宇都宮地裁での実務修習時期と重なります。
大貫正一先生は前年7月からの弁護修習中に地元の中堅働き盛りの弁護士としてお世話になった人格の立派な先生でした。
時の人!敢然と違憲判決を書いた刑事部長判事は、当時まだ宇都宮地裁在席中でしたので、狭い(と言っても20坪前後?)裁判官室(部長と左右陪席2名の合計3名の部屋に修習生4名配属)で終日(刑事4ヶ月民事4ヶ月で部屋が変わりますが、隣室であり修習生同士の行き来があるし、当時地裁には裁判官が6人プラス所長の7しかいなかったのでお互い気楽に日常的に行き来がありました。)一緒にいたわけですが、もの静かで温厚な人柄だったくらいの記憶で何を習ったかとなると不肖の弟子で何も思い出せません。
ただ、思い出して見ると梅棹氏の「知的生産の技術」の読書を勧められた記憶があります。
以来無意識の内に梅棹氏の主張・業績には親近感を抱くようになっていたらしく、数十年後に機会があって大阪万博会場跡地にできている国立民族学博物館博に見学に行った動機の元にもなっていたことに今になって気がつきました。
それ以外に学恩の記憶ははっきりしないのですが、部長は登山愛好家でしたので、修習期間中の10月8日出発の1泊2日の奥日光(鬼怒沼)へのハイキングに連れて行っていただいた記憶は鮮明です。
メンバーは民刑6人の裁判官と修習生全員8名で、行きは裁判所の車で奥日光の金精峠まで送ってもらい、下車して奥日光の山に分け入り、夕方4時頃にはカニ湯とかいう山奥(今調べると奥鬼怒温泉郷)のランプしかない温泉のある山小屋風の温泉旅館に入り、野天風呂・今風の露天風呂の先祖みたいな温泉で・お月様だけ煌々と照らす温泉に浸かりました。
何しろ寒いので(午後4時頃宿に着いた時に温度計を見ると4度でしたが歩いているときは良かったのですが囲炉裏端は別としてジッとしているとどんどん寒くなるので温泉から出るとすぐせんべい布団にくるまり寒さに震えながら眠りました。
山は上の方から順番に紅葉していて、山裾にかけてグラデユエーション・・豪華な着物の裾模様のようで錦ってこういうものを言うのかな?と感嘆したものでしたし、鬼怒沼に登ると一面の草原が一面紅葉していて赤トンボのように焦げ茶から真っ赤になっている一面の景色には感激しました。
今になると謎ですが、帰りは裁判所主催旅行なのに何故か検察庁所有の?マイクロバスが上記温泉町に迎えに来てくれていて、五十里湖の方をぐるっと回って宇都宮に帰りました。
公共輸送機関を利用すると、2泊でもどうか?なという奥地の行程でしたが、奥地のギリギリまで車送迎があって効率が良かったことが今になるとわかります。
修習生相手の行事については、当時3庁(裁判検察弁護士会)共同作業という運用だったのかもしれません。
今から50年近くも前の記憶ですが、今になると日本国憲法下で初めての違憲判決が出て思想界で騒然としているちょっとした歴史の端っこに偶然立ち会っていたことになります。
話題を戻しますと直接の暴力だけでなく、高齢化が進み、親世代が介護・・要支援等で次第に弱い立場になっていく力関係変化に社会が意を用いない・対応遅れがこれからの問題です。
社会の支援がないままですと元農水次官のように自分が元気な内に家庭内が将来の地獄図絵になる芽を摘もうとしたくなる人が一定数出るでしょう。
江戸時代の武家の自裁精神に戻って元農水次官のように世間に迷惑かけないうちに自から手がけるか、金属バット事件やボーガンに利用事件だけで結構顕在化している各事例のように息子に殺傷され被害顕在化を待つか?中間をとって、精神病院での隔離を求めるか?戸塚ヨットスクールのようなグレーの合宿制度?に頼るかになります。
成人した子供世代の親世代虐待防止を図るという正面からの施策ではないですが、介護の社会化(密室化防止)が一般化され後見制度が充実透明化し、高齢者に対する虐待が、外部に漏れやすくなったのが一つのガス抜きですが、介護など頼まない家庭では(同居の娘が自分で面倒見ると称して)密室化・・悲惨化しますので、その前段階からの社会関与システム構築が重要でしょう。
社会システム整備を待ってられない期間においては、不肖の次世代を抱える親の自衛のためには、元気なうちに任意後見を決めておくのは一つの予防法です。
後見制度のチェック機能やコストについては明日簡略に説明します。

高齢化と食への欲求

高齢化するとどこへ行っても休憩時間が多くなり、ひいては食事時間が長くなります。
しかも量を食べられない分、美味しい良い食材を楽しみたいし、老い先も短いので京都などの遠距離では毎年行かないことから、同じお寺にはあと何回来られるかな?となります。
どうせならば、その時その時(一期一会と言いますが)に最高に美味しいものを楽しみたいと思うようになって久しい感じです。
「老いぬればさらぬ別れのありといへばいよいよ見まくほしき君かな」と古来言われ、鉄等の廃止や老舗店舗廃業で多くの人が集まるように、余命を知ると命が惜しくなるようです。
今後あまり食べられないと分かると食べものにこだわるようになるのでしょうか?
食事には環境も重要です。
若い頃には新幹線食堂車で飛び去っていく景色を横目で見ながらの食事が楽しみでしたし、船旅では遠ざかりつつある神戸港の夜景を見ながら、食事したのも記憶に残る風景です。
もっとも楽しかった記憶では35年近く前におさな子らと鹿児島の錦江湾を航行中の船(サンフラワー号)のレストランで昼食中にふと眼下海面を見るとイルカの群れが船の作る波に乗って並走しているの見た時の感動です。
10年ほど前には、信州清里のホテルレストランで夕食中に野生のタヌキがガラス張りのキワまで目をキラキラ光らせて寄ってきたのには感激しました。
写真に撮ったのを見ると目のキラキラがそのまま写っています。
レストランのマダム?看板娘らしい女性の説明によると、パン屑などやって「餌付け?」しているらしいです。
近隣日常的コースでは、自然林の散歩コースが整備されているなど総合力で気に入っているのは、佐倉市にある川村美術館のレストランです。
川村美術館は常設のレンブラントの絵など良いものもいっぱいありますが、現代アートは素人の私にはイマイチですが、食事環境につられて行く場所です。
三宅坂の国立劇場のレストランは設立時の昭和40年代の思想そのままで(一人前の値段で冷たいご飯が出るなど)で困っていますが、お箸を見ると公営の食堂でなくあちこちに出店しているらしい民間チェーン店の名を印刷しているのには驚きます。
幕間の限られた時間内に提供する難しさもあるでしょうが、閉鎖施設に入ると競争がないので百年一日のような運営になってしまうようです。
孝夫、玉三郎や、猿之助歌舞伎などの大フィーバー時代も遠い過去になり、大スターが出ないようになると食事等の周辺サービス次第で客足も変わるのではないでしょうか?
そういえば、幸四郎が白鵬を襲名したと正月記事に出ていましたが・・。
「いまどき裸像彫刻は時代遅れ」と昨日書きましたが、歌舞伎やお芝居には豪華な衣装が必要なように、食事環境等の付加価値も重要です。
ただし、歌舞伎・ミュージカルその他の劇場系は、(夜の部は翌日の仕事に触る・体力的にきついので)東京地裁午前の弁論後に妻と行くことが多いので、ちょうど休演日だったり演し物に合う時間帯がなくてこの数年ご無沙汰ですからもしかしてこの数年で変わっているかもしれません。
演し物・時間帯が合えば、特に日劇や宝塚の場合、日比谷松本楼3fで食事してから出かけるのがお気に入りコースです。
松本楼は3階窓ぎわまで立派な樹木が迫っていて都心の静寂を楽しめますし、お値段と内容も手頃です。
上野の場合、東京都美術館1階奥のレストランや東博東洋館1fのレストランはまあまあ気に入っています。
美術館では歩いてみるのに疲れるようになったので、例えば東博でいえば4〜5時間の滞在中、約1時間半かける食事時間のウエートは大きいのです。
この点歌舞伎座が新装したので食事がまともになるか?と(歌舞伎そのものは器が変わっても役者は同じなのは当然)期待していたのですが、新築後行ってみて当てが外れました。
昨年の運慶展でわかったことは、整理券方式にしてくれない限りあまり人気のある特別展は高齢者には無理がありそうです。
この点では千葉市美術館は割に良い企画が多いのですが、地方都市の良さで並ぶようなことがなく、地元(私の事務所から数10メートルの距離)でもありレストランも私の胃袋に適正で気に入っています。
話題を東博詣での報告に戻します。
3日朝から東博に行き、まずは戌年にちなんだ展示室から入りました。
応挙が杉戸に描いた子犬の絵がとても可愛く良かったし、その影響を受けたのか?家庭で大事にされている可愛い絵が多い中に風俗を描いた名画のなかに野良犬らしく自由に歩きまわっている犬の日常が書き込まれている絵が多いのに驚きました。
イギリスの映画などで見た限りでは、主人が帰ると立派な館から犬の群れが出迎えるシーンがありますが、どれも奴隷のような行動・狩猟用に訓練されているからでしょうか?日本では犬を使役する習慣がないのでどの絵も愛らしい姿や犬の自然な姿が多いのが特徴です。
犬の仕草が絵の端っこにちょっと書き込まれっている程度のシリーズ展示で菱川師宣などが出てくるのですから、東博はさすがです。
何を見ても品質の高さにはいつも感心していますが、贅沢な悩みですが(駄作のない高レベルの)展示の多さにはいつの間にか時間が過ぎてしまい疲れます。
東博では、今年正月明けには、仁和寺展がありますのでこれも楽しみにしていますが、多分並ぶほどのことはないでしょう。
約30年前に妙心寺に一泊したことがあって、翌朝地図をみると仁和寺が近いことに気が付いて、仁和寺まで歩いていくことなりましたが、徒然草の話題によく出るお寺ですので、細い路地を子供らと歩きながら、「あの辺が兼好法師のいた双ヶ丘方向」と説明しながら歩いて行って、仁和寺にたどり着いた良き思い出のお寺です。
(ただし、当時木造家屋中心でしたので住宅街の屋根の向こうに小山・衣笠山らしいもの?を見ながら歩いたか?記憶がはっきりしませんが・・)
京都の旅では、いく先々で1キロ前後何でもない住宅街を歩くのが楽しみです。
貴船神社からの帰りに岩倉駅で降りて実相院まで歩いた道筋、苔寺から松尾大社まで丘の裾野沿いに歩いた記憶、等持院から京福電車の駅までの道、南海電鉄の駅から、住吉大社裏口への道筋、それぞれ歩いた記憶は濃厚です。
生け花といっても身近な人が習っていた(当時同世代女性が習うしきたりでしたので)「古流」「草月」「池坊」など有名大手しか知らなかったので、仁和寺に行った時に初めて「御室の桜」「御室流」の存在を知ったことです。
仁和寺では立派なお座敷など巡っただけで、当然のことながら秘蔵の仏像など宝物類は拝観できていません。
今回は、仁和寺の秘仏その他お宝拝観すれば、神仏との結縁・チャンスが増えるのかな?が楽しみです。
日本人の信仰の基礎は、空気中に満ち満ちている「八百万の神」相手ですから、どこの御仏と(不空羂索観音)の糸(当時電磁波がなかったので糸に喩えただけ)がいくつ繋がっても、もつれてしまう心配はいりません。
結縁(今でいえばメーリングリスト?)は多ければ多いほど良い社会です。
人間関係も目前にいない人の悪口を言う関係はほぼ皆無の社会ですから「多々ますます弁ず」の関係です。
ただ人間関係は神仏のように一方的に都合の良い時に参拝すれば良いのではなく、メールが来ればすぐに返信するなど付き合いの義務が生じる・これを怠ると不義理になりますので高齢化すると付き合いをできるだけ減らしていくしかありません。
「来年から失礼します」と言う賀状が増えてきました。
年賀状というのは日頃疎遠になっている人に対する自分の近況報告を兼ねているので返事がなくともいいのですが・・。
生(現し身)の人間関係を減らしていく代わりに、動き回れる程度に元気なうちはこちらの一方的都合・気持ちだけで間に合う神仏との結縁を広げて行くことになりそうです。
耳が遠くなり視力も衰えた分、空気中に満ちている神威を聞く能力が増すとすれば、それも新たな楽しみですが・・・。
もしかしたら疎遠になっていた間に、いつの間にかあの世に旅立っていった人々の声が聞こえてくるようになるのかな?
あの世とこの世の交信をしているうちに、あの世の方が通じやすくなるときがくるのでしょうか?

少子高齢化と移民増の功罪

マスコミは日本への外資進出や外国人利用が少ないとしきりに宣伝していますが、優秀な人材活用してこそ意味があるのであって、下層労働者導入では平均値が下がるしゾンビ企業救済のために資本を入れても意味がありません。
今朝の日経新聞3pには選手強化に失敗し低迷しているイタリア名門サッカ−チーム「インテル」が中国資本を受入れることになったと報道されています。
買収側は、自分の抱えている中国チームとの交流を通じて中国チームのレベルアップやブランド(知名度)アップしたいと言うので合理的です。
被買収側は新たにはいる資金で選手強化が出来ると新聞が書いていますが、・・その資金は売り主=元の株主の懐に入るのであって(チームにははいりません)その株主はうまく売り逃げただけのことではないでしょうか?
シャープ買収で言えば株式相場の下落が止まって株主が助かり、元々貸していた銀行が回収出来た→ホンハイの保証で新規事業をするための融資に応じてくれる可能性が出たのと同じです。
シャープに資本がはいる安心感で人材確保出来るどころか人材流出が始まっているように新たなスポンサーの信用で選手強化出来るかは未知数ですが、後進国からの買収側は買収先企業のトップ技術層がいなくなっても中堅層の半分でも自陣営に囲い込めれば良い・・チ−ム運営のソフト吸収などのメリット・・技術格差があるのが普通ですからそれでも充分に元が取れます。
買収される方は中国チームから学ぶものはないので、優秀な選手から順に他所に引き抜かれて却って没落が早まるでしょう。
これを経験的に証明しているのが西欧の全般的惆落です。
アメリカの場合、国内資源が豊富で資源収入があるほか資源メジャーの利権収入で補充しているので資源関係では超巨額収入がありますので、平均化されると一人当たりGDPが上がり平均所得が上がっていて、(資源保有に関係ない多数労働者との内部格差が酷くなっています・・この矛盾・・誤摩化しの不満が吹き出しているのです)国別統計では分り難いだけではないでしょうか?
アメリカもアフリカから大量の奴隷輸入し・・その後もヒスパニックなどを主とした底辺労働力大量流入によって国力維持に努めて来た、移民流入の咎め・・結果的に国民平均レベルの低下を来たしています。
私が物心ついたときに学校で習ったときアメリカの人口は1億半ば程度の記憶ですが、今では約2倍になっています。
自然増で2倍になる訳がないので、この差は移民とその多産によると推測されます。
日本の少子高齢化進行が世界最速かのようなマスコミ報道ですが、元からいる人だけ見れば欧米の方が日本より早く進んでいると見るのが普通でしょう。
正確な統計が出れば、保育所さえ増やせば良いと言う意見の間違いが分って来ます。
保育所があっても豊かになれば子供を多く持ちたがらない生物本能がある・・これが正しいのですから、保育所を増やすことによって出産増加するのは底辺所帯への誘導策・・底辺労働者増加政策と言うべきです。
所得階層別の出産数や保育所利用者の所得分布を調査公表すべきです。
多産社会にするには国民に貧しい生活をさせる・生存の危機・苦難を味あわせるのが一番ですが、それを目的にするのはおかしいでしょう。
少子化を受入れて、一人当たり生産性を上げる努力こそが王道です。
移民を増やせあるいは国内の底辺層の多産誘導政策は、貧しく社会不適合の人を絶え間なく増やば、多産者が増えるだろうと言う期待政策です。
欧米は労働力不足を移民流入で誤摩化して来ただけのことですから、正確な報道をするためには3代以上、2代目1代目かの区別による人口構成の正確な統計による報道をする必要があります。
日本人は比較的高齢者でも健康な人が多いのは元々の日本人が多いからであって、アメリカ人もエリ−ト層は70歳になってもかくしゃくとしている点は同じです。
アメリカのエリートの家と日本の中間層の家と比較してアメリカはすごいと言う誤った報道が多かったのと同じで、比較対象を敢えて取り違えて虚偽報道しているに過ぎません。
大雑把な統計になると欧米ではしょっ中底辺層の流入があるので、少子高齢化の進行が緩和されて見えるだけです。
3代前から住んでいる人だけで、あるいは年収800万円以上の階層だけでの少子高齢化進行を見れば、日本と大差ないのではないでしょうか?
もしもそうとすれば、多産社会化を主張する意見は「年収を下げろ」と言う主張と結果が同じになると思います。

社会保険の赤字11(定義の重要性2)

虚偽・嘘つきが古代から世界中で何故忌み嫌われているかと言うと、あらゆる事柄は事実を知った上で判断し行動する方が(知らないで決めるよりは)間違いが少ないからです。
故意に噓をつくつもりだったかは別として(人の内心の意図まで判定出来ませんが)昨日書いたように言葉の定義をきっちり決めて話題にしないと結果的に相手の判断を誤らせる効果があります。
特に戦闘場面で言えば、敵がどの方面から攻めて来るか、何時ころに夜襲をしかけて来るかなど虚偽情報で逆の方を向いたり、敵の攻撃は明日の夜と思って眠り込んでいると大敗してしまいます。
戦闘では、情報の正確性が死活問題ですが、影響力に大小の差があるものの、経済行動判断であれ、明日の行楽予定であれ、明日の天候その他情報正確性の重要性は変わりません。
財務官僚やマスコミ・エコノミストが、何故赤字の定義をすり替えて宣伝するか?と言えば、自分だけがエリートのつもりで無知蒙昧な国民に事実を教えると間違ったた判断をするリスクが高い・・騙しておいた方が良いと言うおごった気持ちがあるからではないしょうか。
お母さんが子供に「内は貧しいから・・」と噓を言っても許されるような延長思考です。
子供は消費するだけで家計全体のプレーヤーではありませんが、国民は経済活動の主体です。
経済主体が誤った情報で行動すると社会全体の経済活動の指針が誤ってしまいます。
国家独占資本主義国ではなく、自由主義国においては庶民の自由闊達な発想重視ですから社会の活力は民間が担っています。
事実を知る必要性・情報の重要性は企業経営にとっては火を見るより明らかで、日々の売上増減など出来るだけリアルタイムに近く知りたい・・財務内容が不明朗では、経営判断を誤ることになるのが社会常識ではないでしょうか?
或る企業の経理マンが、自分勝手に会計用語を変えて、経営会議に報告した場合、会議参加者は従来用語の意味で理解するので、経営判断を誤るのは必然です。
相手に誤解させる目的で独自の用語を使用するのは「嘘つき」とどう違うのでしょうか?
政府やエコノミストは、まさか国を破綻させる目的で非合理な赤字論をやっているとは思えないので、社会(国民)のレベルが低いので間違った判断させた方が、結果正しいと言う自信があるのでしょう。
財政赤字の絶え間ない主張は、江戸時代・・吉宗以降重視されて来た質素倹約の精神・・最近では「勿体ない」精神を強調する報道もありますし・・子供に無駄遣いさせないために「内は貧しい」と教え込んでおくようなものです。
非合理な財政赤字論・・この程度の分りよい噓にもとずくムード主張を見抜けない国民がいるとしたら、自己判断能力が低いから、騙しておいた方が良いことの証明だと言う思考かも知れません。
国債相場・円相場などの指標を見ても、日本が破綻すると言う動きはない・・プロが騙されて問題にしていないから、実体経済に悪影響を及ぼしていない・・実害のない噓など放っておけば良いと言えます・・私だけが無駄な議論を書いているのかな?
赤字概念に戻りますと、公的機関の場合、帳簿の書き方を一般会計用語と違ったやり方にしているのであって、社会的用語での赤字ではありません。
(学校用地や公園用地を取得した支出の場合、時価相場が10年後に2〜3倍になっていても、資産評価しないで取得コストの赤字が累積しているだけです。)
世の中の人に普通に理解されている・・売上減少による業務収支赤字の場合にはすぐにも倒産危機が迫っている大変な事態です・・このイメージを借用して公的会計・・民間赤字とは全く意味の違う意味に使って増税の必要性可否の判断を狂わしているつもりです。
社会保険の赤字大宣伝も同様で、総合収支では資金不足になっている筈がない・・赤字のママだと医療機関への支払が出来ないので、税金の注入によって収支トントンになっている筈です。
総合収支のうち、保険料と保険給付の収支だけを取り出して見れば、保険原理を無視した政治決定で各種免除を濫発した分=当然不足になる関係にあります。
総合収支トントンのうちの政府負担分・収入を赤字と言うのですから、同義反復している誤摩化しです。
企業で言えば仕入れ部門やサービス部門・管理部門は原則赤字で、販売部門の黒字との総合収支で経営が成り立っています。
保険の場合、社会保障判断による免除や優遇措置分の対価がない分赤字になるのは当たり前ですから、税で負担すべきですから、この収入を赤字と言うのは詭弁です。

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