中村教授のノーベル賞受賞と、司法判断との関係を考えていきます。
ノーベル賞の存在意義をこの機会に考えてみると、画期的発明発見あるいは業績が人類の生活向上や文化・文明発達にいかに役立つものであっても、すぐに経済利益に結びつかないことを前提に、後世の人類の利益?福利に貢献すると認められる成果に対するご褒美(副賞としての賞金額は微々たるものでしょう)として存在意義があるのではないでしょうか?
この辺は人間国宝とか各地の顕彰碑等々も同じ思想によっているように思われます。
将来は平和貢献・・例えばある戦争を終結に導いた功績・・戦争勃発直前の緊張を平和裡に解決した経済価値が何兆円と算出できる時代が来るかもしれませんし、ある詩文が、人類の癒しに与える功績を現在価値に換算する公式が発明されるかもしれませんが、当面は経済価値を算出できないのが現実です。
対外戦での功績・領土拡張の功績やため池を作った場合など、今すぐに地域利益に貢献しないが、将来の年金的なプラス功績がある場合に年毎の地域収入増加に報いるために一定領地を分封して将来の褒賞を年金的に支払う仕組みに一定の合理性があったことを「中国軍に解放してほしい日本人がいるか? 1」Sep 15, 2019 12:00 amに書いたことがありますが、今は世襲制がタブーになっているので名誉を称えるしかないのが現状でしょう。
ノーベル賞や文化勲章受章は作家の場合、作品が受賞によって爆発的に売れて作家に大金が転がり込む副次効果程度でしょうか?
作家でない場合には一時的に、講演会のお呼びが増えるのかな?
ノーベル賞は経済的対価を得にくい業績に対する顕彰目的に存在意義がるとすれば、ノーベル賞受賞で中村教授が見返したつもりとすれば、筋違いであったことがわかります。
画期的商法で大儲けできた人はそれで十分であって、それ以上に顕彰する必要はないでしょう。
儲けられないから顕彰するのです。
人間国宝等の芸術面ではなく経済的発明の場合でも、古くはアダムスミスの国富論に始まり〜リカードやケインズ理論など経済学等の新理論亜g出ると世界経済運営に与える影響も大きいですが、これに対する価値の算定方法がない・大学教授職や名声程度しか対価がありません。
産業に直結しそうな化学発明も元はこのような対応だったのでしょうが、今は先物取引市場が発達していて目に見える商品先物(コメの先物取引は、すでに江戸時代に堂島で始まっています)だけでなく、発明や特殊新規商法があたった場合の新興企業の買収・・創業価値も一種の先物取引的直感力の値決めで上場する時代です。
これにファンドなど投資家(金を出すとなればシビアーです)が呼応するか横を向くかによって市場価値が決まっていくものです。
発明と関係ないかもしれませんが、いわゆるIPO?目的でソフトバンクGが今年1月に買収したばかりのウイーワークが上場延期に追い込まれたのは公開前の事前購入打診で思うような反応がなかったことによるものでしょう。
詳細不明ですが、プロの買収でも大勢の市場参加者(資金を実際に出す者)の評価と大幅な乖離があったことを示しています。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO49608050Q9A910C1000000/?n_cid=SPTMG002
IPOに向けて最大の懸案は公開価格だ。ウィーの主幹事が投資家への聞き取りをもとに条件決定時の想定時価総額を算定したところ、200億ドル程度にとどまる見通しとなった。ソフトバンクGが1月に出資した際に見積もった評価額は470億ドルだった。わずか8カ月で価値が半減したことになる。
市場では「ソフトバンクGが出資時に高い価格を払いすぎた」との見方もあった。
もっと言えば株式市場の相場自体が数ヶ月先あるいは数年〜10年先の企業業績見通しでその日の相場が決まっていく点で先物市場の一種と言えるでしょう。
古代の熟語「奇貨おくべし」も始皇帝の親「子楚」(のちの荘襄王)の将来性に目をつけた商人=のちの呂氏春秋で知られる呂不韋が言ったか思った気持ちの表現として残っています。
農家の青田買い同様でいつも先に先に目をつけた方が、うまく行けば利幅も大きい代わりにリスクも大きくなるものです。
絵描き等の人物評価はその道のプロであれば、その子や若者が将来ものになるかどうかすぐわかるでしょうが、化学・科学発明がどういう商品の基幹技術になり、それがどのような商品開発に繋がり大化けするかは、その他の分野別発明家の関わり方次第・・不確定要素が膨大です。
将来を現在価値に落とし込むのが市場評価とすれば、将来それを商品化しいろんな分野に使えるように工夫する人たちの功績も加わってのことです。
ノーベル賞の場合には、この不確定要素を捨象したうえで大元の原因になったことを高評価顕彰しているに過ぎません。
トランジスタの発明はソニーの商品化成功によって大化けしたのですが、その売り上げの大半は商品開発販売(そのためには膨大な工場や店舗投資や販売人員や広告宣伝費(商品デザインや広告宣伝の出来不出来によるのでデザイナーに帰する部分があるなど)に成功したソニーに帰するし、ソニー開発技術を踏み台にさらに新たな商品開発に成功した場合もその新商品開発者に売り上げの大半が帰するべきです。
発光ダイオード訴訟の一審判決は、こうした膨大な経路の寄与者の必須性を簡略化?して、現在結果は中村教授の発明がなければ存在しなかったことを理由に少なくとも二分の1の報酬を払うべきという論理だったようですが、これがなければ結果がなかったから2分の1という論理はどこかおかしいでしょう。
これがなければ結果がないというのは法学では、因果関係論では条件説と習いますが、落語のテーマだったか?「風が吹けば桶屋が儲かる」とかネズミの嫁入りの話に似て、一見論理的なようでいて、結論に無理のあるお話です。