野党離合集散3

ついでに国民民主幹事長の平野氏の主義主張を本日現在のウイキペデイアからの引用で見ておきます。

平野 博文(ひらの ひろふみ、1949年3月19日 – )は、日本の政治家。国民民主党所属の衆議院議員(7期)、国民民主党幹事長(第2代)、大阪府連代表。
内閣官房長官(第77代)、文部科学大臣(第16代)、衆議院安全保障委員長・国土交通委員長、民主党国会対策委員長(第17代)、民進党副代表、民進党国会対策委員長(第4代)、国民民主党総務会長(初代)、雄志会会長(初代)等を歴任した。

普天間基地移設問題において、沖縄県民の負担軽減のため、普天間飛行場に離着陸するヘリコプターの機数削減やヘリ部隊の沖縄県外への移転を挙げたほか、「極端な話」と前置きした上で、普天間飛行場周辺の住民移転(事実上の強制移住)も挙げた。2010年1月24日投開票の名護市長選挙で、辺野古への移設に反対する稲嶺進の当選を受け、「民意を斟酌しなければならない理由はない」と発言した。平野のこの発言に対し、民社国連立政権の一員であった社会民主党の照屋寛徳国会対策委員長は「けしからんどころか、ぶん殴りたい。政治家としての感覚を疑う」と平野を激しく非難した。しかし、平野は1月26日の記者会見でも「理解は求めなくてはいけないが、合意が取れないと物事を進められないものなのか。日本の安全保障にかかわってくる問題だ」と述べ、沖縄県民の同意の必要性はないとの認識を示した

以上見てきたように国民民主党の幹部は、自民党とほとんど同じ主張をしてきたことがわかります。
そこで与党との違いを出すために革新系の主張を表面化して何かと反対してきただけだったとも言えます。
國民と立憲・・左右それぞれ言いたいことを言える政党になると、与党との違いをどうやって出すかの問題にならざるを得ません。
主張が同じならば、国民民主党が左右から食われっぱなしになる運命で、党全体が消滅して行くしかないでしょう。
多くの議員をこういう立場に追い込んだ小池氏が、そのまま都知事を「のうのう」と続けている(のかな?)ことが、政治的に許されるかの(素人っぽい)疑問です。
小池氏は希望の党の代表を退き責任をとったことになり、都知事はその前から・党など組織の応援でなく自分一人の力・都民の支持で勝ち取ったものだから都民の支持がある限り都知事をやめる必要がないとなるのでしょう。
結局は次の都知事選までの間に「都知事選は国政にでるための踏み台に利用したのか?」という不信感・・落とした信用を回復できるかどうか、都政の実績次第になりそうです。
都民の信用が回復できなくて政治生命が終わっても、後になれば内部路線対立で二進も三進もいかない状態であった民進党を、左右と中間派に3分割した触媒の功績として残るでしょうか?
最近自民党幹事長の二階氏が来年に迫った都知事選で小池氏を応援するとの発言ニュースが流れましたが・・・。
希望の党惨敗以降も都民の小池氏に対する支持が底割れせずに持ちこたえている・次期も出馬すれば当選すると読んだからでしょうか?
自民党はもともと党公認でなくとも、当選した方を自民党に取り込むのが原則的方法で、これによって新陳代謝を進める装置になっていましたが・・。
(今回の福岡や島根県の分裂選挙でも、無所属立候補で勝った方が自民党入りしています。)
この場合、負けた方を公認決定し熾烈な選挙戦をしてきた地元県連主流派とのしこりが残るのが普通で小池氏の場合も似ていますが、都知事選勝利後地元都連との確執にとどまらず野党結成をしてしまった点が大違いです。
新党結成とは、昔でいえば反乱軍の将として旗幟鮮明にした意味合いですし、しかも従来の野党系の新党結成とは違い、保守新党の結成なので自民党支持層を侵食したい意欲満々でしたので、選挙協力すると自民党内支持基盤を荒らされる・・いわゆる骨肉の争いリスクがあり複雑です。
長年安倍総理と総裁の座を争ってきた反主流の雄、石破氏にとっても反安倍勢力の台頭は嬉しいような・・お株を奪われてし舞う心配など複雑な心境でしょう。
幹事長その他要職を歴任して安倍総理から優遇されてきたのに次期総理の椅子を獲得するために自ら無役を選んできたのですから、自分より人気のありそうな小池氏が総理の座を狙うなら彼女を担いで・功労者として党内で優遇されれば良いとは思っていないでしょう。
あるいは、もはや次の総理の芽がない以上は、意地でも楯突くことが生き甲斐だという不満の権化になってしまったのでしょうか?
https://www.sankei.com/politics/news/190318/plt1903180001-n1.html

政界徒然草】二階氏「小池都知事の再選支持」発言は本気か
2019.3.18 07:00

https://toyokeizai.net/articles/-/269677

二階氏の「小池知事支援宣言」にざわめく自民党
幹事長の独断専行を安倍官邸が静観する訳
2019/03/08 5:50
剛腕で鳴らす自民党の二階俊博幹事長が小池百合子東京都知事の再選を支援する意向を表明したことが、自民党内にざわめきを広げている。小池知事と激しく対立する同党都連は、突然の幹事長発言に怒り心頭で、党本部と都連の抗争にもつながりかねない状況だ。
ただ、旧民主党出身の細野豪志元環境相を二階派に入会させるなど、ここにきての二階氏の独断専行には、参院選後の党・内閣人事や政局運営をめぐる主導権争いも絡んでいるとみる向きも多い。様子見を決め込む安倍晋三首相も内心では困惑と苛立ちを隠せない。

総理が困惑し苛立ちを隠せないかな?
プロの政治はいつも日々難局との戦いであり、難局のたびに「困惑」などしているようではトップ政治家が勤まりません。
難局をどう打開するかに知恵を絞り、次と次、さらにその次の局面に向けて布石を打つのがプロであり、仮に苛立ちを示したとすればそれもパフォーマンスのひとつと見るべきです。
総理が難局にオロオロしているかのように解説するのは(素人レベルの推測?)間違いではないでしょうか?
そもそも小池氏を都知事候補として支持(推薦?公認?)するのは安倍氏にとってチャンスか難局かすらわかりません。
安倍総理にとっては任期満了で引退か任期延長が成り立つかも今の所不明ですし、小池氏を(次期総理の含みを持たせて?)取り込む選択もない 訳でもない・この伏線のためにか都知事選の当初から希望の党のフィーバー中にも自民党内で盛り上がる小池批判の正面に立たず官邸は静観の構えだったように記憶しています・・政治の世界は「禍福糾える縄」以上に複雑で、素人による推測の限度を超えているでしょう。

野党離合集散2

立憲が純化路線で行く限り、当面は国民民主内の左系と共産党を食い破って行くためには、選挙協力などない方がいいでしょうし、合流して変な主張をされるよりは、国民や共産党に選挙で競り勝って自前の議員を増やした方が党運営がスムースでしょう。
ただし、国民や共産の票を食い破っている間は勢いがいいでしょうが、純化路線はわかりよい代わりに非武装平和論支持者以外に支持が広がれない限界がありそうです。
ドイツ緑の党とかアメリカの茶会のように、特殊政党・・ニッチ政党で生きていく覚悟をするしかないのでしょうか?
国民政党化するためにウイングを広げると内部意見がまとまらず苦労した民主〜民進党の二の舞のリスクがあります。
インテリが幹部になる政党・・議論先行でなく、現実政党にならない限り左右どころか多数意見を合わせ持つ国民政党の維持は困難です。
19年4月7日の選挙・・千葉市の例では以下の通りです。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO43486270Y9A400C1L71000/

7日に投開票された千葉市議選(選挙区6、定数50)では、自民党が現有議席18を維持し、引き続き市議会最大勢力を保った。公明党は改選前の8議席を確保。それぞれ6議席と2議席だった国民民主党と立憲民主党は共に5人が当選し、市民ネットも改選前の2議席を死守した。現有7議席の維持を目指した共産党は美浜区で議席を失い、6議席にとどまった。
立憲が3議席増えたうち、国民と共産が各1議席を失ったようです。

国民民主は左から立憲に票を掘り崩され、党内保守系は自民党に切り崩される苦しい展開です。
立憲に食われない保守系議員はどうなるでしょうか?
民進党に党名改称以降も党勢が泥船化する一方・・党内左右対立でまとも統一した政策提言ができない・・結果的に党が一致できるのは政策論争に関係のない、揚げ足取り的政府批判しかできないのをどうするかに苦しんでいました。
観念論・形式正義を主張する左系を切り捨てて現実的政策提言できる政党への脱皮・結果的に保守2党論が生き残る道という方向性が17年総選挙前から出ていました。
その旗印として名乗りを上げたのが小池氏でした。
民主党内にあった保守系議員にとっては、単なる分党では自民党の焼き直し的で吸収されてしまう恐怖があり、自民党に並び立つ程度の規模・画期的イメージにしないと生き残れない危機感がありました。
泥船からの乗り換え船をどうするか?水面下の調整が進んだ?のが、自民党員でありながら党公認候補を敵に回して突如都知事選に出馬して大勝を収めた小池氏の国政への野望と結びつくことでもしかして「政権を競う政党」として発足可能な夢を追えそうな報道が過熱していました。
分党=ジリ貧の予定から突如今にも政権に手の届きそうな政党への変身可能性が取りざたされる日々が始まって、夢を抱いて小池氏の結党した「希望の党」に乗り換えた途端に肝心の小池氏人気が失速してしまったので小池氏にすがりついたら自民への対抗勢力となれる予定が雲散霧消し却って新党の存続が脅かされる結果になりました。
源平合戦で言えば、「この指とまれ!」と反平家機運を持つ武士をおびき出したところで、令旨を出した以仁王や源氏の棟梁が戦う前に敵方に降参したような状態で旗上げに呼応した各地武士が恥をかいたというか立場を失った現状です。
保守2党論に乗り替え損なった国民民主の保守系議員は、旗印を失って自民党議員に票を食われて行くしかないでしょうからジリ貧の展望です。
希望の党への合流窓口になっていた細野豪志氏が素早く自民党幹事長の派閥に入ったような報道されているのは、この象徴的変わり身の早さというべきでしょうか?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E9%87%8E%E8%B1%AA%E5%BF%97

細野 豪志(ほその ごうし、1971年8月21日 – )は、日本の政治家。衆議院議員(7期)
民主党幹事長(第13代)、自誓会会長、民進党代表代行、希望の党憲法調査会長などを歴任した。
9月27日、小池百合子東京都知事を代表とする新党「希望の党」設立会見に、結党メンバーとなる国会議員14人の一人として参加した[32][33][34][35][36]。また、「上(小池)からの命令」として民進党から希望の党への公認申請者や、旧民主党政権で三権の長(首相や衆参院議長)を務めた者の「排除」を主導した
志帥会入会後
2019年1月、無所属のまま自民党の派閥である二階派に客員会員として入会。将来的な自民党入党の意向も表明した[42]。
外交・安全保障
総合安全保障の観点から、エネルギー、海洋、宇宙などグローバルコモンズに注目し、2007年には海洋基本法、2008年には宇宙基本法の提出者となっている[55][56]。また、憲法解釈の変更による集団的自衛権の行使に賛成しており、前原誠司が主宰する防衛研究会に参加した[57
外国人参政権問題
永住外国人への地方選挙権付与については「どちらかといえば反対」として慎重な姿勢を示している[68]。その後、「民主党はこの問題について再検討すべき時期が来ている」と反対の姿勢を明確にしている[69]。
靖国神社
「時々靖国神社に慰霊に行く」と発言しており、A級戦犯については分祀した上で無宗教の国立追悼施設を新たに建立するのではなく靖国神社を慰霊施設として残すべきと主張している

彼の主義主張は上記の通りもともとほとんど自民党と同じです。

野党離合集散1

いわゆる55年体制下の社共両党はソ連や中国をバックにする政党として事実上?(というか国民多くの暗黙の認識)存在してきたので、ソ連崩壊後非武装平和論の公然たる主張は無理が出てきました。
国民支持を受けなくなった結果対応として、社会党のままでの党綱領改変は無理があったので社会党から解党的に大量脱退して(今回の民進党から希望の党への大量遺跡の前身)現実主義路線転換のために新党結集に動いたものです。
同時に選挙制度改正・・小選挙区化により1選挙区一人しか当選できないとなれば一人しか党公認で立候補出来ない⇨現役優先になる結果、新人出現の阻害要因になり優秀な新人が野党に流れる期待・・中選挙区の場合人材が政権党にばかり集まる⇨自民党長期政権可能な下地の破壊⇨政権交代可能にする構造改革政策でした。
野党が自民党公認漏れの新人の受け入れ皿となるには・保守系も受け入れ可能な政党への脱皮を図る必要がありました。
野党=非武装論一本では現実的政策論者を受け入れられないので小選挙区にした効果がない・・この変身過程の離合集散の結果、自民党出身者・・保守系もかなり取り込んだので現実政党らしくなったので国民も安心した結果、初めて自民党が下野して登場した細川政権は、もともと保守的地盤を持ち熊本県知事の経験のある細川氏が総理になったものですし、それを担いだ実力者が元自民党幹事長の小沢氏でした。
自社さきがけ等の連立を経て自社連立となり、自公連立に変わりついにリーマンショック後民主党政権に至ったものでした。
既存政党からの分離組みの初期時代を経て10〜15年を経ているので独自政権のように見える民主党政権でも、初代総理になったのは元自民党員であった鳩山氏であり、自民党創設当時頃吉田総理と争っていた鳩山元総理の孫?です。
現在の国民民主の共同代表は玉木氏は何と自民党の大平正芳元総理の娘婿でその地盤を継承しているイメージです。
玉木雄一郎氏に関する本日現在のウイキペデイアの記事からです

妻・恵理は首相・自民党総裁だった大平正芳の親戚であり、この縁で大平の孫娘である渡辺満子(元・日本テレビプロデューサー、元日本テレビ取締役専務執行役員・渡辺弘の妻)が玉木の公設秘書を務めている。また、地盤である現在の香川2区はかつての大平の地盤(中選挙区時代の香川2区)の一部を引き継いだ地区でもある[46]。

自民党でさえ一人しか公認できない小選挙区制になったので、野党の方も選挙協力で候補を一本化しないと小選挙区では完敗になりますので、共産党を除く野党が民主党に大同団結してついに政権獲得にまで進みましたが、政権担当して見ると選挙に勝つための政党結成だった結果、内部意見統一もできないし、実務能力がなく信用を落として終わりました。
その後政権取りのためだけの無理な大同団結の反省から、この数年で民主党が民進党になりさらに国民と立憲と無所属に3分裂した結果、それぞれの主張がスッキリしました。
ここに至る過程を振り返ると民主党は左右混合の現実政党を目指した結果、両翼の支持が混在しているので寄合所帯の矛盾を孕んで二進も三進もいかなくなって来たのが、民主党〜民進党への党名変更後の段階・・最大の弱みでした。
この民進党になった段階では保守と革新に純化・・分党するしかない状態に追い込まれていたのです。
健全野党の成長を待望していた国民が多かった(私の主観?)ので、希望の党はこの期待と野党の矛盾関係に手を突っ込み保守系を引き抜いて一挙に自民党に対抗できる現実的大政党を作ろうと目論んだものでした。
健全野党の出現を期待している国民は心情的に喝采していたと思います。
16年頃に民主党から民進党へ党名変更しても、支持率が低迷する一方で行き場を失って右往左往していた民進党議員は票を求めてすぐにも雪崩を打って希望の党へ大挙入党する勢いでした。
自民党からの野合批判(国民の期待は現実政党誕生であり、原理論者の合流を期待してはいない・核心をついたものです)に小池氏が反応して、もともと保守系大同団結を目指した結党であった以上は、非武装平和系「排除」は譲れない基本として排除発言に追い込まれました。
排除発言されて行き場を失って追い込まれたグループの受け皿として立憲民主党が結成されました。
立憲は結果的に・・反安保等旧社会党的主張へ回帰する純化集団中心の受け皿となり、スッキリした分、当面は旧民主党内でモヤモヤしていた反安保勢力の取り込みで一定のところまでは党勢拡大できるでしょう。
小選挙区制対応のための大合同・実質選挙協力体制でしたから、1選挙区で民主党から一人しか公認候補を立てられないので、ある選挙区では保守思想の候補者が公認されると、その選挙区に住む左翼系の人でも仕方なしに保守系思想の民主党候補に投票したり、逆に非武装系の候補者しかいない選挙区では、民主党内の保守系の人も左翼系の民主党に投票するしかないなど選挙区ごとで歪みが生じていました。
選挙協力・統一候補擁立とはそういうものです。
排除論理による左右分裂・純化路線とは・・各派が別の政党になり選挙協力がなくなったことになります。
立憲と国民民主そして無所属の3派に別れた各選挙区にそれぞれの派閥が独自候補を立てるようなもので、党員にすれば自分の支持派閥にそのまま投票できて気持ちがいいでしょう。
自分の選挙区では民主党内の保守系しかないので仕方なしに民主党の保守系に入れていたか共産党に投票していた場合、立憲が非武装論者を全選挙区で擁立してくれれば、喜んでその候補者に投票できるでしょうから、左翼系では当面共産党と民主党内の保守系議員の票を食う関係になりそうです。
とはいえ、非武装平和論(米国支配よりソ連支配の方が良いという主張を根底にした思想)はソ連崩壊後限界が来たので社会党が事実上解体せざるを得なかった現実があったのですから、(ソ連に変えて中国の支配下に入る方が良いという主張?)立憲民主党が今更歴史の歯車を元に戻すのは無理ではないでしょうか?
立憲民主の目標はニッチな非武装論者の取り込み専念段階では成功するでしょうが、一定率まで伸びれば壁にぶつかるしかなさそうです。
4月7日の統一地方選の結果を見ると立憲の市議が増えた分の主な供給源として、国民と共産党が落ちている傾向が見えます。
民進党の分裂劇は、左右混在の元民主〜民進党の左右純化への流れを表しているとすれば、立憲民主の党勢拡大は、元民主党支持者内の食い合い以上に伸びられない分を共産党支持者を食っているようです。
立憲民主結党以来共産党が、野党統一候補擁立・選挙協力に必死になっているように見えるのは、放置すると立憲民主に共産党支持層が侵蝕されていく危機感から,選挙協力という名の縄張りの取り決めを必要とする背景があるからでしょうか?

不満社会7(IT化と生き甲斐)

明治維新では産業構造の変化で三菱等新興財閥勃興等の成功者が知られていますが、これを支える中間層の需要が広がったので、社会全体では幸福感を感じた人の方が多かったでしょう。
学校教育では劣悪な労働環境(女工哀史など)が教えられ、その結果工場労働法ができたと教えられますが、(その通りでしょうが)元々の貧民層・小作関係や下男下女等最末端では朝目が覚めたときから働いていた人たちにとっては決まった時間だけ働けばいいし、主人の顔色を窺う必要もない工場労働は天国だったかもしれません。
私は池袋で底辺的職種に揉まれて青少年時代を過ごしたのですが、当時の雰囲気では大手工場等に勤める人たちは高嶺の花的存在でした。
個人商店は夜遅くまで開き、朝9時始まりの勤め人などは羨ましいばかり、週休などもありませんでした。
この点は中国の農民工が低賃金など問題にしないで続々と深セン特区の大規模工場に吸い込まれて行ったのと同じです。
明治維新の近代化では中間層の拡大を伴ったので社会全体では幸せを感じる人の方が多かった・元士族でも一定の能力のある人は新政府や、各県政府の役人にそのまま横滑りしていましたので、役立たずの不平士族の方が少なかったので不平氏族の反乱は(薩摩を除けば?)それぞれの地元でもそれほどの支持を受けませんでした。
(明治初期司法制度の歴史のコラムで、いまのように司法試験制度もなかったので、廃藩置県当時各藩の家老や奉行等の経験者が地方判事の給源になっていたことを紹介しました)
今回のIT革命では人口の多くを占める中間層不要化トレンド・・近代産業革命以降増加した職場の縮小・・揺り戻しですから、安定していた生活基盤を切り崩される中間層は膨大で不平層の方が多くなっているのが特徴です。
今後IT時代だと分かっていても消費場面ではスマホの操作能力などで適応できても、生産参加に適応できるほどの人材は少ないのが明らかです。
そもそもIT化が進めば進むほど中間管理職や労働者が不要になるシステムですから、IT開発に関与できる人の数は極小数になる・・それ以外はいらない社会になればほとんどの人は不幸になっていくしかないように見えます。
この流れを防げないとすれば、何に対して幸福感を持てるか不幸とは何かの問題になります。
仕事はさせられるのではなく「仕事すること自体が幸せ」というのが我が国の国民性でしたので、高齢化しても元気である限り何か「仕事」をする・周りに役立ちたい気風が今も続いています。
メデイアは高齢化→現役の負担増ばかり強調して世代間対立を煽っていますが、国民多くの関心は社会に貢献できていない・幸福感喪失をどうやって穴埋めしていくかに関心を持ってきました。
高齢になっても健康な人は何か仕事を見つけて(朝の小学生登校時見守り活動や草刈り等のボランテイアなど)働けば(町内会活動でもいい・・お金の問題でない人が多い)社会が豊かになりその人も幸せではないかという気風です。
「働く」という言葉自体が、お金目的の「労働」ではなくお祭りの準備でも家の周りの掃除でも、何かの役に立てれば幸せという意識を示しています。
西欧的価値観・労働=搾取という発想では、GDPがどうなるか?保険料を如何に負担させるかという方向の論議しか生まれないでしょうが、西欧的教養のない?庶民はもっと高次元で「お金よりは生きがい」を基準に考えていることがわかります。
私の場合で言えば、だいぶ前から収入面での期待感はゼロまたはマイナスですが、高齢化が進むのに比例して・・趣味のためにお金を使うのと同じような感覚で・・事務所経費負担マイナスに耐えられる限度で生き甲斐のために現役弁護士をやっている面が強くなっています。
このコラムは約20年続いていますが、はじめっから収入に100%関係しない意見ばかり書いていますので、コスト的には100%マイナスでしたが、何か自己表現したいからかな?書いているだけです。
これまでのメデイアの議論・関心は、年金赤字解消策・GDP低下に対する処方箋・70歳まで働かせることができないか?という関心が中心議論であったように見えます。
高齢化問題は、高齢化しただけで「めでたい」と終わりにせずに健康寿命の必要性が言われるようになったのは少しでも金銭負担させたい面もあるでしょうが、これと並行して精神面でも健康な状態・・「生きがいを持った高齢者になるようにすべきことがわかります。
高齢世代が増えてすることがなくて幸福感喪失をさせないようにどうするかの視点に立てば、若年無職者(各種障害者)も(失業保険や親の援助などで)お金さえあればいいのではなく、「満たされない自己実現意欲」をどうすべきかの点で共通課題であることがわかります。
最近始まった「こと消費」の流れは、受け身鑑賞、受け身の消費だけではなく自分の体を動かして何かしたい欲求に応える流れが表面化してきたと理解すべきでしょう。
人のために「役立つ喜び」を伴わない自己実現?例えばそば打ちの体験?程度で、(自己満足で持ち帰っても家族が喜ばない?)満足するしかないのでは多分続かない・虚しくなるでしょう。
精神病者に対する作業療法を一般人に広げる試みのような印象ですが・・。
とはいうものの、役立たない自己実現でいえば、各種スポーツ自体がすでに実用性のなくなった格闘や乗馬、射撃、剣道、レスリング等の格闘技〜走る早さを競い、泳いだり過酷レースなどすべて現実世界でほとんど何の役にも立たない不要な競争ばかりです。
パラリンピックはその最たるものでしょう。
日本でのお祭りや少年の部活等のスポーツへの誘導による不満発散による成功を書いてきましたが、お祭り準備等での役割を果たし大勢の観客に喝采を浴びる達成感がありますが、そば打ち家庭菜園程度で(むすめの家に持って行っても嫌がられることが多い)はそういう達成感がありません。
従来は精神病者や障害者あるいは社会不適合者・・その最たるものは失業者群ですので、政策失費の指標や競争落伍者としてこれの増減が重視されてきました。
病気になって仕事ができなくなると収入保障だけで終わりにせずに、病気を治して社会復帰を助ける医療行為が必要なように、失業者に対しても失業保険で生活保証するだけでなく職業訓練による能力底上げが重視されるようになっています。
健康体でないから失業したのではなく健康体で、しかも労働能力があっても失業したのは景気対策や景気変動によると思われている時代には、好景気をもたらすべき政治責任という社会認識でした。

国造と縣主2

 

元々我が国では源氏や平氏と言っても武士集団の棟梁として担がれる貴種でしかなく、自前の直轄領地・直轄軍は微々たるものでしたし、頼朝も義経も自前の軍を持っていませんし、足利政権も直属軍事力の少なさで参ってしまったのです。
直属軍事力の増強に努めた戦国大名でも自国領内を直接支配していたのではなく、国人層と言われる小豪族を通じての間接的支配でしかなかったのです。
上杉謙信の映画など見ても分るように、あるいは信長自身が尾張国内で頭角を現して行く様子でも分りますが、小豪族がその都度あちらについたりこちらについたりして(きっちりした主従関係がないのですから当たり前です)それぞれの閉鎖された国内の主導権争いが展開されて行きます。(離合集散)
戦国大名の能力は、物語を見ていると戦上手だけが(この方が面白いので)クローズアップされますが、実際にはその前提たる諸豪族の統合力・・多数派形成・人心収攬・政治力に多くがかかっていたのです。
この延長できたのが、最近まで採用されていた衆議院の中選挙区制と県単位の政治です。
県政は県知事の権力は総理と議会の関係に比較すると大きいのですが、それでも地元政治家の意見を無視しては何も進みません。
古代の国司が地元有力者の郡司達に実権を握られていくのと似ています。
小選挙区制になると政治的熟練・訓練が不要になって、熟練度よりはマスコミ受けが良いかどうかなどイメージ先行になって行きます。
一般に何々チルドレンと揶揄されるようになったのは、こうした未熟練政治家が輩出した現象を言い当てています。
戦国末になってくると一定地域内・国内統一が出来上がり、国境線にいる小豪族以外はまさか他所の國の大名についたり出来ませんから、一定の主従関係類似の安定関係になって行きます。
国境線付近以外の真ん中の小豪族が隣国大名と通じたりしたら、たちまち血祭りに上げられるだけですから、主家・・と言っても域内盟主・・覇者程度・・の関係滅亡を見越した時しか敵につくことはあり得ませんが、国境線の小豪族の場合、逆に先に攻めて来た方になびかないと全滅の憂き目にあってしまいます。
以前下克上について書いたことがありますが、本来の主従関係で家来が主君を裏切って討つなどと言うことは滅多になく、殆どは域内諸豪族間の力関係で不本意ながら主従類似の同盟軍にならざるを得なかった状態下で、敵方に寝返ると言うのが殆どです。
長篠の合戦の引き金になった長篠城は、三河衆の奥平だったかがこの論理で、一時武田方についていたのが信玄没後の落ち目を見て今度は徳川方に着いたことによって、勝頼から報復攻撃を受けたのが始まりです。
話を戻しますと、何十万石の領地を貰って赴任してもその何十万石が全部自分の収入ではなく、在地小豪族の収入の合計でしかないので、そこをうまくやって行かないと戦国大名と言えどもやって行けません。
合戦で勝って大名を滅ぼして、その地域が支配下に入っても、収入面で見ると、滅ぼした相手の直轄領地と一緒に滅んだ有力武将の領地だけが勝った方の支配地になるだけです。、その他の全地元豪族を追い出してしまうことは不可能です。
首をはねた有力武将の内部もいくつかの小豪族をつかねているだけですから、その直轄領地は僅かでしかありません。
12/27/04「農分離3(外様 ・戦国大名の場合)兼業農家の歴史1」以下のコラムで書いたことがありますが、小豪族は地元農業の主体(半農半士)でもあるので、それを根こそぎ追い出すことは不可能だったのです。
この理は、アメリカに負けた日本で、天皇権力がマッカーサーに取って代わられただけで、連合軍司令部は日本の官僚機構をそのまま使うしかなかったのと同様です。
むしろ占領地に残った元敵方の軍事力を(将棋の駒のように)自分に仕官させて有効利用して行くのが普通でした。
肥後の國の一部の領地を貰った佐々成政が、国人層との折り合いに失敗して失脚してしまった例がそうですし(加藤清正や細川家はうまくやりました)、土佐の大守として赴任した山内一豊が、長宗我部の遺臣・・結局は地方豪族・国人層の扱いに苦しんだのも同じです。
山内一豊が関ヶ原の功績で土佐23万石を貰っても、彼ら地元豪族の集合収入ですから、山内家自体の直接収入をどう計るかの悩みで最後まできたのです。
土佐の高知城へ行けば分りますが、23万石の大々名の天守閣と言っても内装はきゃしゃな造りで、(民家園並みです)如何に財政が苦しかったかが分るような印象です。
(天守閣にまで居住部分があるのは大したものだとも言えますが・・・)
現在の大手企業でもそうですが、内部に入ると一人が何百人何千人に直接号令するのではなく、一人が5〜6人に意思表示してこれを受けたものがそれぞれ更に5〜6人に伝えて行く・・・多層な意思伝達段階があって成り立っています。
号令一下形式ではなく重層的支配関係が我が国の民族的特徴です。
このように縣(アガタ)は、古代においても大和政権成立時に既にかなり服従度の高くなっていた地方豪族・地域を意味していた直轄支配地であるものの、中国のように中央集権的に直接支配をすることが出来ず、徳川家のように地元豪族に治めさせる必要があった地域ですから、中国の縣とは本質が違います。
支配構造の比較的強い地域を中国の制度に倣って縣・アガタと言い、支配下の豪族をアガタ主(中国の知事・・刺史と比べて「主」ですから地元定着性が強い)と解釈すれば、同時期に地域別にアガタヌシがいたり、服属したばかりで独立性の高い地域に国造がいたりした並立関係の理解が可能です。

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