韓国はどこへ行く?1(ろうそく集会)

ちなみに、朴前大統領弾劾に大きな役割を果たしたろうそく集会の原動力について、日本メデイアは特定人優遇に国民が怒った結果(財閥支配→超格差社会への爆発)と説明していますが、その程度のことであれだけのエネルギーが起きるはずがないと思います。
本当の国民不満・エネルギーの源は反日機運の到達点として、せっかく米国離れできそうという期待が裏切られたことでないかという私の揣摩憶測ですが、韓国民はそこまで露骨に主張できないし日本マスコミもそこまで踏み込んだ憶測記事すら書けないのではないでしょうか?
朝鮮族・韓国人としては慣れ親しんだ中国の冊封体制下で隷属することによってどんな酷い仕打ちを受けようとも何の不満もない・・せいぜいお慈悲を願う程度の気持ちで心の整理がつくように見えます。
韓国政府のサード配備決定に対する中国による酷い仕打ちにも一切不満が出ない・国内的にもメデイアが全く問題視していないようにみえます。
報復する中国側の報復措置を見ると相手が対等な独立国としての配慮・遠慮がなく、国内少数民族自治に対する弾圧を緩くしてやっている程度のイメージを受けます。
これが(江戸時代から根拠なく?)格下扱いしていた日本との関係では対等関係でも嫌・・まして下風に立つのは我慢ならないし、夷狄である欧米の下風に立つのも落ち着きが悪い関係のようです。
この辺の意識の違いが明治維新当時、日朝共同で欧米に対抗しようという日本の勧誘を「共同」対等の前提が気に入らない・・天皇の称号に対するケチをつけるようになった始まりです。
日本の近代化勧誘を断る理由として、李氏朝鮮は清朝の隷属下にあると自ら主張し「日本などの意見を聞いてられない」という挙に出ました。
これが征韓論・日朝関係犬猿の仲のようになり初めの始まりですが、以来朝鮮政府は徐々に日本に押されるようになると日本に対して清朝支配下にあることを誇示?するためと諸外国に対する自衛のためにか?に清朝軍閥駐留を請うたのか?清朝軍閥が駐留するようになりました。
時の経過で日本社会の方が進んでいるのを認めるしか無くなると、高宗の妻閔妃を軸とする開化政策を行いますが、反動の権化?大院君がクーデターを起こしたので、これを理由に属領保護を名目に清朝軍が進駐して高宗の実父大院君を天津に拉致します。
この辺の動きは、ウイキペデイアによると以下の通りです

壬午軍乱(じんごぐんらん) または 壬午事変(じんごじへん)は、1882年(明治15年)7月23日(旧暦では光緒8年=高宗19年6月9日)、興宣大院君らの煽動を受けて、朝鮮の首府漢城(現在のソウル)で起こった閔氏政権および日本に対する大規模な朝鮮人兵士の反乱。
・・・朝鮮国王高宗の王妃閔妃を中心とする閔氏政権は、開国後、日本の支援のもと開化政策を進めたが、財政出費がかさんで旧軍兵士への俸給が滞ったことが反乱のきっかけとなった。すなわち、閔氏政権は近代的軍隊として「別技軍」を新設し、日本人教官を招致して教練を開始したが、これに反発をつのらせた旧式軍隊が俸給の遅配・不正支給もあって暴動を起こし、それに民衆も加わって閔氏一族の屋敷や官庁、日本公使館を襲撃し、朝鮮政府高官、日本人軍事顧問、日本公使館員らを殺害したものである[1]。朝鮮王宮にも乱入したが、閔妃は王宮を脱出した[1]。反乱軍は閔氏政権を倒し、興宣大院君を担ぎ出して大院君政権が再び復活した。
反乱軍鎮圧に成功した清は、漢城府に清国兵を配置し、大院君を拉致して中国の天津に連行、その外交的優位のもとで朝鮮に圧力をかけ、閔氏政権を復活させた[1]
・・・朝鮮に袁世凱を派遣、袁が事実上の朝鮮国王代理として実権を掌握した[1]。こののち袁世凱は、3,000名の清国軍をひきつづき漢城に駐留させた[1]。この乱により、朝鮮は清国に対していっそう従属の度を強める一方、朝鮮における親日勢力は大きく後退した。

外国に行ってその国の国王の実父さえ遠慮会釈なく拉致して行っても中国がやることならば朝鮮人はなんらの民族的不満も言えない関係です。
現在香港では、中国政府批判をしていた書店主などが忽然と姿を消して、のちに中国国内で拘束されていたことが分かることがありますが、北朝鮮といい、こういうことをなんとも思わない国柄なのでしょう。
壬午軍乱を契機に清朝軍閥の常駐化し、一方で日本公使館が被害を受けたことで自国民保護のために日本軍駐留が始まり、半独立国化していくようになった事件です。
江戸時代に清朝の冊封下にあっても清朝軍が駐留するような直接的支配がなかったのに、西欧に押しまくられた清朝が弱体化した以後に逆に挑戦支配が強まったのは、朝鮮民族が国難を解決するのに自力でやらず外国勢力に頼る気持ちが強すぎたからではないでしょうか?
外国をうまく利用しているつもりで結果的に民族自立を失うようになって行ったように思われます。
今の北朝鮮は瀬戸際政策で自分に注意を引きつけては、外国を利用して騒ぎを大きくしているように見えるのはこのDNAによるのではないでしょうか?
こうして日清両国は朝鮮での影響力争いに入ったのが、日清戦争の遠因であり直接の係争点もあったので、日清戦争の講和条約冒頭に朝鮮の独立承認(清朝が属国として口を出す権利を封じる内容が最重要解決テーマとして明記されたものです。
https://ja.wikisource.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%96%A2%E6%9D%A1%E7%B4%84

通称: 日清講和条約、下関条約、馬関条約
調印: 1895年(明治28年)4月17日
大日本國皇帝陛下及大淸國皇帝陛下ハ兩國及其ノ臣民ニ平和ノ幸福ヲ囘復シ且將來紛議ノ端ヲ除クコトヲ欲シ媾和條約ヲ訂結スル爲メニ大日本國皇帝陛下ハ内閣總理大臣從二位勳一等伯爵伊藤博文外務大臣從二位勳一等子爵陸奧宗光ヲ大淸國皇帝陛下ハ太子太傅文華殿大學士北洋大臣直隸總督一等肅毅伯李鴻章二品頂戴前出使大臣李經方ヲ各其ノ全權大臣ニ任命セリ因テ各全權大臣ハ互ニ其ノ委任状ヲ示シ其ノ良好妥當ナルヲ認メ以テ左ノ諸條款ヲ協議決定セリ
第一條
淸國ハ朝鮮國ノ完全無缺ナル獨立自主ノ國タルコトヲ確認ス因テ右獨立自主ヲ損害スヘキ朝鮮國ヨリ淸國ニ對スル貢獻典禮等ハ將來全ク之ヲ廢止スヘシ

普通の国ならば朝鮮民族独立のために日本が戦ってくれて独立承認されたのをありがたがるはずですが、朝鮮は保護者を失って迷惑と言わんばかりに直ぐにロシアに頼りました。

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