各種反対運動と説明責任

「近代法の法理違反や、平和憲法違反とか、軍靴の音が聞こえる」などの主張は言いっ放しで主張には具体性がないとこのコラムでは批判してきましたが、今回も「裁判官の独立や三権分立にかかる問題」というお題目を唱えるだけで、どの行為が裁判官の独立にかかる問題なのかの主張すらありません。
ただし支援弁護士は具体的に書いているのに、昨日引用した発信者が勝手に省略したのかもしれませんが・・・。
「裁判官の独立や三権分立にかかる問題」との主張ですが、国会の調査は岡口裁判官の担当事件に対する調査ではないし、特定思想そのものへの批判でもない・具体的表現行為が現職裁判官の表現行為として許容範囲かどうかの調査のよう(上記ネット記事しか知らないので断定不能)ですから、個別裁判への圧力や干渉という問題から遠い印象です。
具体的事実関係とどういう関係があるのか、司法権への「憲法で許容されない政治圧力」というには積極的な説明がないと論理に飛躍があると思う人が多数ではないでしょうか?
上記ネット記事の限りでは、特定訴訟や具体的思想に圧力をかける目的でないように見えますが、これを前提にした場合、こういう主張グループは、「裁判官に対するいかなる批判も許されない」「それが憲法解釈として正しい」という主張を前提にしているような印象を与えます。
それでは憲法でなぜ弾劾制度が設置されているかの説明がつきません。
憲法の想定している弾劾制度の乱用というには、どの点が乱用かの主張説明しないでいきなり「政治圧力」という広い概念を持ち出して、裁判官の独立に関連づけて、国会の訴追委員会への呼び出し行為の内容の何が不当かの議論抜きに「呼び出し」だけを批判する支援集団呼びかけを発表している・・昨日引用記事を見る限り、「もしかして憲法上弾劾制度があるのを知らない集団がこんなにいるのかな?」と疑う人がいてもおかしくありません。
一般人でもその立場によって、意見発表すれば、刑事民事等の違法行為にならないネット炎上程度でも、内容の広がりによってはテレビ番組などから降板させられたりしています。
企業で言えば、社長発言は言うに及ばず、幹部どころか営業マンでさえも企業を背負って働いている以上は、顧客や世間に向かって所属企業に関する発言がどこまで許容される範囲かの試練にいつも晒されています。
休暇中であろうと勤務時間中であろうと所属組織に関連する発言か否かによって、発言の重みが違います。
この数日酔っ払った厚労省現職課長が韓国空港であばれた上で「韓国大嫌い」という趣旨の発言をしたことが、ネットニュースに出ています。
休暇中の個人旅行であったかどうか不明ですが、休暇旅行であろうと日本国の現職官僚発言としてニュースになるし社会への影響の大きさも違ってくる・・影響の大きさに比例して責任も大きくなるべきでしょう。
現職高裁判事という要職にあるものが、個別事件へのコメントを発表すればその影響力が一般人のTwitter発信(トランプ氏のツイッターでも知られる通り)とは桁違いに大きいのは当然です。
裁判官や官僚にも自己実現権があるという一般論で解決すべき問題でなく、同僚や友人間の個人的会話が録音されたものか?意図的な対外発表か等の具体的事実次第での責任を論じるべきは明らかです。
そもそも憲法で設けられた弾劾制度で弾劾事由の要件(特定違法行為限定など制限列挙)を厳しく定めていない意味からすれば、刑事犯罪や不法行為確定のような機械的事例しか対応できない制度設計とは到底思えません。
裁判官の言動がどの程度まで許容されるべきかの幅を決めるには、「国民の代表たる国会で良識に従って決めるべき」というのが憲法の精神でしょう。

憲法
第六十四条 国会は、罷免の訴追を受けた裁判官を裁判するため、両議院の議員で組織する弾劾裁判所を設ける。
○2 弾劾に関する事項は、法律でこれを定める。
第七十八条 裁判官は、裁判により、心身の故障のために職務を執ることができないと決定された場合を除いては、公の弾劾によらなければ罷免されない。裁判官の懲戒処分は、行政機関がこれを行ふことはできない。
昭和二十二年法律第百三十七号
裁判官弾劾法
第二条(弾劾による罷免の事由) 弾劾により裁判官を罷免するのは、左の場合とする。
一 職務上の義務に著しく違反し、又は職務を甚だしく怠つたとき。
二 その他職務の内外を問わず、裁判官としての威信を著しく失うべき非行があつたとき。

岡口判事支援弁護士らの主張は、表現の自由絶対論(刑事その他法令違反を除いた)・・・「何を言おうと憲法上の権利だ」から「自己実現を否定すべきでない」と言う意見を下敷きにしているかどうか不明ですが、表現の自由=自己実現論が現在の憲法学の通説であるとすれば、これを十分知っているはずの通説を正面から主張できないのは、国民の支持を得られない変な通説?であることを知っているからでしょうか。
何かあるとすぐに憲法違反に結びつけて主張する人たちや、憲法学者は、国民意識から遊離しいると言われる所以です。
遊離すればするほど象牙の塔?素人にはわからないという問答無用式の憲法学界が支配していくようになり、うっかり集団自衛権合憲を主張すると学界で孤立し、まともな発表の場を与えられないし、活動がしにくくなる・昔有名になった「白い巨塔」同様に・全国に張りぐらされた大学教授の推薦ステムの網から外される仕組みになっている印象です。
自己実現論紹介のために判例時報増刊号を紹介中ですが、その冒頭の論文を書いた毛利透氏のウイキペディアでみると以下の通りです。

東京大学では樋口陽一の指導を受ける。筑波大学時代には、ドイツのフランクフルト大学に留学し、インゲボルク・マウス教授に師事。
京都大学の佐藤幸治教授の定年退官に伴い、佐藤の強い推薦で京都大学に移った。

https://business.nikkei.com/atcl/report/15/120100058/050500004/

2016年5月17日
昨年、安保法案に多くの憲法学者が「違憲」の声を上げた。だが極めて少数だが、「合憲」と発言した者もいる。そのあと彼の身に何が起きたか。その主張についてじっくり聞いて見た。憲法学者の姿、2回目は九州の新進気鋭の学者を紹介する。

大学に「あんな奴を雇っていていいのか」と電話も掛かってきた。事務局は無視してくれた。
同業者にフェイスブックで「化け物」と書かれ、テレビ番組で「ネッシーを信じている人」と揶揄された。
「ふだん少数者の人権を守れって言っている人が、矛盾していないんですかねえ」と、九州大学法学部准教授の井上武史は苦笑する。

 

自己実現と社会関係6(岡口判事問題1)

素人の思いつきですが、自己実現という表現自体からその本籍は心理学あるいは精神医学療法?的には有用な概念のような印象を受けますが、対外発表は社会に影響することですから、自己実現行為という定義(内心動機)さえ付ければ放置して良いものではありません。
自己実現は表現行為に入るとは言え、対外関係の生じる表現行為では社会との関係を抜きに評価出来ませんし、ことが政治分野になると所属社会との折り合いが必要です。
社会との関係を論じる憲法・法の解釈と心理学とは違った側面からの考察が必要ではないでしょうか?
「自己実現」を称揚する学者や弁護士(私が心理学の精髄を理解した上での主張ではありませんが・・)らが「語感」だけの理解?で表現行為=自己実現と表層理解(飛びつき?)し、表現行為を優越的人権論にすり替えていた疑いがないのでしょうか。
芦部氏が米国留学中(1960年台?)に米国で流行になっていた人間性心理学の理解を日本の憲法解釈論に合成し、「自己実現・自己統治」と言う語呂の良さで(学会で深い議論経ずに?)一世を風靡しただけだった可能性(素人憶測ですが・・)があります。
心理学からの借用議論である自己実現=最高の人権と位置付けられると、どんなことを表現しよう(刑事民事の違法行為でないかぎり)と内容審査は許されない?・・内容如何によらずに「自己実現行為」であれば、批判すらも許されないようなイメージを広げます。
なんとなく精神医学で言われる「赤ちゃんの万能感」を大人になるまで引きずっているグループの好きそうなイメージです。
岡口裁判官の場外コメント発表が「矩を超えているか」否かは事件全体が具体的にわかりませんので、許容範囲か否かの○Xを安易に言えませんが、自己実現=表現の自由があるという一般論で「何を言っても良い」とイメージづけて主張するのは個人内面解析で完結する?心理学系と社会との折り合いを論じるべき法学系の違いを弁えない議論ではないでしょうか?
「表現して良い限度か否かの国会審査自体を許さない」イメージ主張が岡口判事のネットコメント擁護論として流布しているように見えます。
憲法論で批判論を封じ込めようとする・・自己実現行為は憲法で保障されているという論法で入り口でシャットアウトするではなく、(心理的には自己実現でも)自己責任で対外表現された以上、(過失漏洩か意図的発表かはどうかも重要指標でしょう→酒飲み話が録音されたばあいと恋に発表した場合の違いなどありますが)コメント内容の是非を誰もが遠慮なく議論できるようにすべきではないでしょうか?
岡口判事問題については以下のようです。
https://www.bengo4.com/c_23/n_9275/

岡口裁判官に国会の訴追委が出頭要請、今後どうなる? 過去には裁判官9人が「訴追」
国会の裁判官訴追委員会は、2月13日の委員会で、東京高裁の岡口基一裁判官を呼び出して審理することを決めた。岡口氏本人が、3月4日に訴追委から呼び出しを受けたことを明かしている。岡口氏は今後どうなるのだろうか。
岡口氏が自身のブログに掲載した内容によると、訴追委は今回、戒告処分の対象となった犬の所有権をめぐるツイッターへの投稿に加え、女子高生が殺害された事件をめぐる投稿についても調べる意向。
今回、岡口裁判官に対しては、最高裁が全員一致で戒告の結論を出している。最高裁の処分と訴追・弾劾の関係について、訴追委の事務局は「裁判所の処分と、訴追委員会の訴追の動きは、ともに独立しているもので、お互い影響を受けないし、規定もない」としており、弾劾裁判所事務局も同様の見解を示している。

https://www.bengo4.com/c_23/n_9298/

岡口氏の出頭要請「裁判官の表現の自由に重大な脅威」 弁護士有志が賛同者募る
2月25日22時半時点で、呼びかけ人は64人、賛同者は257人呼びかけの中心となっている島田弁護士や、アピールの賛同を求めるホームページによると
・・・裁判官の表現の自由への制約については、必要最小限の制約が許されるにすぎないとの見解を示した上で、訴追前の調査について「(岡口裁判官の)呼出を決定したこと自体、裁判官の表現の自由に重大な脅威を与えるものと危惧せざるをえない」と、問題視している。
島田弁護士は、「今回の問題では表現の自由が軽く見られている」と指摘。訴追請求があっても、出頭要請のないまま不訴追になるケースが多いことを念頭に、「出頭要請せずに不訴追にすべき事案と考える」「呼び出しまでするのは、政治的圧力を裁判官にかけることで、裁判官の独立や三権分立にかかる問題」としてる。

岡口判事支援弁護士らの
「呼び出しまでするのは、政治的圧力を裁判官にかけることで、」
と言う主張は法律家の文書としてはおかしな主張です。
「政治的圧力」とは何か?ですが、国会での野党の質問も選挙も当事者にとっては政治圧力そのものでしょうから、憲法を基準に色分けするならば、憲法の予定する政治圧力と許容しない政治圧力がありそうです。
アウトローの主張ならいざ知らず、弁護士の肩書で政治問題視している以上は憲法が想定している圧力を問題にする余地がありません。
その圧力の及ぼす弊害が「裁判官の独立や三権分立にかかる問題」というからには「憲法が(許容しない)違反」の「政治圧力」だと主張していると理解すべきでしょう。
憲法によって設置されている弾劾裁判手続き上の「呼び出し行為」が憲法違反の政治圧力というとすれば、よほどの事情説明がないと主張自体矛盾していませんか?
論理を一貫させるには、弾劾制度は憲法上の制度であることは争いがないが、その手続きのための呼び出し行為が、憲法違反の政治圧力というためには「呼び出し行為」が憲法違反というのか、手続きがあること自体違反でないが、今回の呼び出しは乱用(すなわち違法)だというのでしょうか?
しかし弾劾裁判をするには呼び出し行為が必須ですから、憲法は「呼びだし行為」を憲法が許容していることが明らかです。
民主国家においては、不利益処分を受ける対象者にはあらかじめ告知し、これに対する弁明チャンスを与える手続きが必須であることは周知の通りであって、この原理に則って弁明のチャンスを与えることが違法評価を受けるのは、よほどの例外事情があってこそ成り立つ主張です。
この具体的事情を主張しないであたかも弾劾の先行手続き開始自体を違憲と言わんかのような主張態度はおかしくないでしょうか?

自己実現と社会の関係5(判例時報増刊号)

「逆は必ずしも真ならず」という解説付きでなく、自己実現は崇高なもので最高に尊重されるべき人権という強調だけしている場合、どんなことを表現しよう(刑事民事の違法行為でないかぎり)とも内容審査は許されない?・・(内容如何によらずに「自己実現行為」であれば内容について何らの批判すらも許されないような誤ったイメージを広げる可能性が高くなります。
文化革命当時「造反有理」というスローガンが流行りましたが、以後自己実現であれば、どのような政治運動も許されるかのように振る舞う人が多くなっているように見えます。
精神医学で言うところの「赤ちゃんの万能感」状態が大人に引き継がれているようにも見えます。
私自身個人的には自己実現論・・心理学としてのマズロー理論はそれ自体には(人の内面心理構造としては)直感で共感するところ大(人は死ぬ瞬間まで自己実現に励む存在)ですが、それとは別に芦部教授が私の気にする社会関係論として無理がないかの批判に対してどういう反論をしてきたかも知りません。
また、心理学側面だけで見れば米国と違った国民性・国民レベルを前提にすると日本社会でこそ自己実現に努力する人が多そうで・イチローのようにあくまで求道者精神の発露・・・いつも真面目に自己実現にはげむ日本民族向けには妥当する理論ではないかと思います。
マズローの理論は米国社会をモデルにしているので、日本その他の社会に(日本の場合安全欲求度が高いという違いがあるので米国図式は)妥当しないという批判が強いようです。
私の理解では米国の民度では、求道精神的・・自己実現に邁進する人が逆に少ないので国民支持を得られなかったように思いますが、ここでは横道に逸れ過ぎるのでこれ以上深入りしません。
心理学用語としての自己実現論と憲法理論との関係に戻ります。
自己実現に価値を置く国民性だというかは別として、憲法学者が憲法の基本概念に心理学用語を取り入れるには、心理学→個人内面変化や生きがい・やる気を出させる等の心理側面概念と社会関係の規制のあり方・法概念との架橋をもっと素人にもスッキリ分かるように提示すべきでないかの疑問です。
普通の法学勉強者が理解できるように説明できない概念が広まると、図式的理解で満足している人が増えて行きます。
そうなると末端裾野(これが最大多数です)では本来の意味を外れた外延での利用が増えて誤解を招くリスクが起きてきます。
昨日紹介したように「逆は真ならず」の批判が起きるのは中核利用ではなく「外延」を目一杯広げて利用する法学関係者が多くなったからではないでしょうか。
芦部教授が憲法で保障される表現の自由と自己実現をイコールとして主張していたかを知らないので、(原典に当たっていないので)こういう疑問を書くのですが、芦部説の図式化による誤解が広がっているだけかの疑問で書いています。
ただし、昨日紹介したように学者が批判する以上は芦部説の内容と境界をきっちり研究した上での批判というべきでしょうが。
自己実現説を他の学者が「イコールではない」と批判している以上は、芦部説あるいは正当継承理論では、「自己実現=憲法で保障される表現の自由」と主張をしているとみるべきでしょうか?
Jul 12, 2018「表現の自由(自己実現・自己統治)とは2」を今見直してみると、同署13pには、「第4内容に基づく規制原則禁止に向けて」という節があります。
内容まで入る暇がありませんが、表現行為の内容チェックは許されないという主張のようです。
私も規制が必要という意見ではありませんが、政治運動する以上は政治責任をとるべき・批判対象になるべきという意見で書いていますので、結論自体に反対しているのではありません。
毛利氏論文は規制反対というだけで政治責任の否定を含まないとしても、「内容の是非を議論すべきでない」→無答責論的イメージ増殖に結びつきやすくはなっているでしょう。
私はこの臨時増刊号で表現の自由=自己実現論がいつの間にか主流になっているらしいのに気が付いて衝撃を受けてこのコラムで紹介してきたのですが、上記自己実現論に対する批判論もあるのにこれに反論もしない(ざっと見たので読み損ねているかもしれませんが・・)論文集です。
「すでに決まったことだ」という思考停止状態の学者グループの言いたい放題について、政治責任追求を受けそうな危機感をバネに自己実現論があるのさえ知らない我々世代向けに書いた本だったのでしょうか?
近年の集団自衛権であれ、共謀罪法案であれ反対運動のあり方・・内容議論に入らずに「近代法理違反」とか「平和憲法を守れ」「憲法違反を許すな!」など内容に踏み込むのを許さないかのような標語に頼る運動形態を何回も批判してきましたが、問答無用式議論がはびこるのは自己実現理論という高邁な?憲法論が下敷きにあるからかもしれません。
各種違憲論や反対論自体をおかしいというのではなく、法案の内容・どこが憲法違反かなど吟味する必要があるのではないか?というのがこうした主張に対する疑問です。
私のレベルが低いだけかもしれませんが、プロの弁護士相手に配布されてくる主張を見る限り、どの条文がどういう危険があるか・その危険性排除のために先進諸外国がどのような歯止め工夫をしているが、日本の法案にはこれが足りないのでこの修正が必要だなどの具体的主張を読んだ記憶がありません。
法律家の法案反対運動なのに内容議論を許さないイメージの押しつけばかりなので、不思議な人たちだと思っていましたが、自己実現論(の拡大解釈?)を下敷きにしているとすれば理解可能です。
自己実現であれば何でも許される思想は精神医学での定説を借用すれば「赤ちゃんは自分が世界・宇宙そのもの・全能」と思っているようなものですから、まともな議論・・まともな社会性のある議論にはなりません。
たまたま昨年から高裁判事のネット発信が問題視され、最高裁から懲戒処分(戒告)を受けただけでは済まずに、国会の訴追調査が始まっていると報道されています。
これに対し、裁判官も国民の一人として表現の自由(自己実現の権利がある)と擁護する意見が法律家の間で流布されているようですが、自己実現の一部かもしれないが「裁判官の発言として枠を超えていないかの吟味が必要」というのが国民大方の意見ではないしょうか。
自己実現であればなんでも許されるのではなく、それぞれの「社会的立場に応じて言って良いことと悪いことがある」というのが多くの国民の意見ではないでしょうか?
25日紹介した批判論・・表現の自由と自己実現とはイコールの関係ではないという批判を知らないのでしょうか?

自己実現と社会関係4(自己実現説批判)

以上は私がちょっとネットで漁ってわかった程度の思考レベルで自己実現論批判を書いているのはおこがましい次第ですが、(私が知らないだけで芦部教授がどういう理屈付けで心理学の思考を法学に架橋するのに成功しているのかすら(まだ文献を漁っていないので)実は不明です。
素人の無責任おしゃべりとしてお読みくだされば良いという程度です。
芦部説が一世を風靡して以降(現在の60歳代以降の中堅?若手)法律学徒では「自己実現」という(意味不明の)マジック的用語が(裸の王様のごとく)牢固として根付いてしまったように見えます。
「三つ子の魂百まで」と言われています。
司法試験と学者の関係では、この5〜60年では司法試験も合格できないレベルで内部昇格で学者になれるのか?という我々部外者常識が?行き渡り、まず司法試験合格が学者への登竜門になっているとすれば、司法試験受験勉強で染み付いた思考方式の影響力は強力です。
昨日紹介した部分を再引用をしますが、

「受験生の中には表現の自由に関する問題が出題されたときには、何が何でも答案のどこかにこれを書かなければならない、これを書かないと減点される、という強迫観念さえ持っている人がいる。」

表現の自由関連の問題が出た場合、芦部説に言及しないとならないほどマニュアル化しているようです。
マニュアル化と言えば小泉政権の司法改革時に言われていた意見では、
司法試験受験予備校が大盛況時代になっていて、受験予備校では深く考えるのではなくあらゆる問題を定式化した教え方が中心・・丸暗記中心で何の疑問も持たずに効率よく勉強したものが合格する仕組みになっている弊害が大きなテーマになっていて、これが「プロセス重視の法科大学院」制度創設・・必須化に繋がった経緯があります。
当時の修習生に対する批判として「実際の事件等の起案をさせるとどこに正解文献があるかの質問が来る・・自分で考えろと言っても自分で考え抜く勉強をしたことがないようだ」という便乗的?苦情も寄せられていました。
(小泉内閣時代の司法改革では・私はその頃日弁連の司法問題対策委員〜司法修習委員をしていてその渦中にいました)
高邁な論文を理解するために行間を読み?試行錯誤して理解してきた愚直な世代と違い、予備校→定式の丸暗記時代を経てきた世代(現在の60歳前後以降の中堅若手)にとっては、疑問を抱く前にまず「理解」しようと努力した人が大多数になっていることになりそうです。
ただし、そういう批判をしょっちゅう聞いていましたが、私自身の感想としては、昔からある「今の若者は・・・」式の批判に似ているなあ!と感じていました。
今になるといわゆるデジタル思考向きで実務家向き勉強法でないか?・・皆が「ああでもないこうでもない」と考え込む学者になる必要がないので合理的という意見の方が多いのではないでしょうか?
中高校生が与えられた数学の公式や物理の原理に疑問を持たず(・・難しいことは数学・物理学者に任せて)数式を解くのと同じで良いのではないでしょうか?
私の受験勉強頃にはまだ芦部氏は学者の一人でしかなく、彼の学説を知らないと合格できないような権威でもなかったので、自己実現論が脳内に浸透していないので深く知らない弱点もありますが、(その分自分の知っている学説に固執したい利害がない)自由な発想で批判できるとも言えます。
ただし、学者になるほどの人材が意味不明のまま物分かり良く理解したつもり(定式を記憶していた程度)の人ばかりではないでしょうが、批判論が表面に出にくいのは学会が東大閥に牛耳られているからか?または秀才とは疑問を持たないで素直に教えを吸収する人の謂いであるとすれば、意外に怪しい能力・・頭の硬い人の集まりかも分かりません。
Jul 12, 2018「表現の自由(自己実現・自己統治)とは2」で自己実現論を紹介しましたが、そのシリーズで紹介した判例時報特集号(平成29年11月3日発行)では、自己実現理論は自明の学説であるかのような書き方でこれに対する批判論に触れていない特集でした。
どう特集号の冒頭を飾る毛利透氏論文は芦部氏に心酔しているような部分も有ります・同氏は現在京大教授ですが、東大卒→助手を経ているようです。
私はこの特集号で初めてこういう憲法論を知り、しかもいつの間にか主流になっているらしいのに衝撃を受けて昨年からこのコラムで紹介してきたのですが、以下に紹介する批判論もあるのに反論することもしないで「すでに決まったことだ」という思考停止状態のママなのでしょうか?
もしかして自己実現説の学者グループが危機感を元に結集した論文集かもしれません。
とはいえ今はネット公開時代ですので、東大系に干される(発言の場を失う)のを恐れる人ばかりではなく、批判説がネットに出るようになってきたようです。
表現=自己実現という理解は逆からの=が成り立つか?「逆は真ならず」の原理が成り立つから間違っていると23日紹介した記事に書いていましたのでその一部を引用します。
3月23日引用の続きです。
http://nota.jp/group/kenpo/?20061016104219.html

自己実現と自己統治
表現の自由=自己実現?
イコールを数学的な意味で必要十分条件だとするならば、両者は決してイコールではない。表現の自由が自己実現の1つであり、それに含まれるというのは正しい。つまり表現の自由⇒自己実現というのは正しいが、その逆の自己実現⇒表現の自由というのは正しくない。
「自己、自己と二つ同じ言葉が並んでいるので語呂はいい。そして覚えやすい。しかし、その真義はと聞かれると何とも曖昧模糊としてつかみどころがないのだ。」
(私・稲垣流に言えば、心理学用語を深く理解せずに法律学に借用した?からこう言うことになるのではないかと思います)
「自己実現と自己統治は表現の自由の根拠として万能の議論であるどころか部分的にしか成り立たない議論である。」

さすがに学者はいいことをズバリ書いています。
23日のコラムで夜中に奇声発したりピアノ練習や発声法の練習をするのは自己実現行為であっても、社会との関係性を考慮しなければならない筈・心理学と違って法律学は社会との調整視点が必須であると書きました。
自己実現理論に対する批判論は、これを論理的に説明するものでしょう。
自己実現と表現の自由を=で結んではいけないのです。
自己実現行為でも周囲に迷惑をかけないようにする必要や公共の福祉の制限があるし、法による禁止がなくとも社会的許容範囲を逸脱してはないけないという含意です。

自己実現と社会の関係3

自己実現理論の本籍である心理学の解説を見ましょう。
ウイキペデイアによれば以下の通りです。

自己実現理論(英: Maslow’s hierarchy of needs)とは、アメリカの心理学者アブラハム・マズローが、「人間は自己実現に向かって絶えず成長する」と仮定し、人間の欲求を5段階の階層で理論化したものである。
自己実現論、(マズローの)欲求段階説、欲求5段階説、など、別の異なる呼称がある。
ピラミッド状の階層を成し、マズローが提唱した人間の基本的欲求を、高次の欲求(上)から並べる[1]。

    • 自己実現の欲求 (Self-actualization)
    • 承認(尊重)の欲求 (Esteem)
    • 社会的欲求 / 所属と愛の欲求 (Social needs / Love and belonging)
    • 安全の欲求 (Safety needs)
    • 生理的欲求 (Physiological needs)

以上4つの欲求がすべて満たされたとしても、人は自分に適していることをしていない限り、すぐに新しい不満が生じて落ち着かなくなってくる。
自分の持つ能力や可能性を最大限発揮し、具現化して自分がなりえるものにならなければならないという欲求。すべての行動の動機が、この欲求に帰結されるようになる。芸能界などを目指してアルバイト生活をする若者は、「社会要求」「承認の欲求」を飛び越えて自己実現を目指している。
1969年にスタニスラフ・グロフと共にトランスパーソナル学会を設立した[3]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/

人間性心理学(英語:humanistic psychology)とは、主体性・創造性・自己実現といった人間の肯定的側面を強調した心理学の潮流である。ヒューマニスティック心理学とも呼ばれる。
それまで支配的であった精神分析や行動主義との間に1960年代に生まれた第三の心理学とされる。
それまでの心理学では、行動の原因の動機として空腹などの単純な特定の欲求を満たすような欠乏動機(deficiency motivation)に重点を置いて満足してしまっていたが、マズローはそれだけでは説明できない人間のある種の成長への欲求を存在動機(being motivation)と呼び、より高次の価値を求める人間について研究しようとしたのである[2]。現在では、マズローの自己実現理論は高校の教科書にも記述されるほど広く知られるようになっている[2]。
提唱者であるアブラハム・マズローは、精神分析を第一勢力、行動主義を第二勢力、人間性心理学を第三勢力と位置づけた。人間性心理学は人間性回復運動の支柱ともなった。また後に、人間性心理学に続きトランスパーソナル心理学が登場する。

自己実現理論は米国で1960年頃から最高潮に達したようですが、すぐに下火になります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/アブラハム

マズローの着想は科学的な厳密さの欠如により多々批判されている。
ひとつはアメリカの経験論哲学者による、科学的に脆弱だというもの[3]。2006年には、Christina Hoff SommersとSally Satelが経験的実証の欠如により、マズローの着想は時代遅れであり「もはやアカデミックな心理学の世界では真面目に取り上げられてはいない」と断言した
5段階欲求という図式は、西洋的な価値判断またイデオロギーにバイアスがかかっているとして非難されている。多数の文化心理学者が、この概念を他の文化、社会と関連付けて考慮したところ、一般原理として採用することは到底できないと述べている

上記の通り米国では批判されてしまったようです。
(ただしその後米国でその系譜がどうなっているか、日本の心理学会でどうなっているかも私には不明です。)
心理学会の分野は別として、憲法論としての自己実現理論については上記批判論の最後の「文化、社会と関連付けて考慮したところ、一般原理として採用することは到底できない」という批判部分が重要ですが、これに対して日本では大した批判もないのかな?
心理学と法学との架橋理論づけがはっきりしないまま(「私には」という限定です)の法理論への流用なのにこれの批判すらほとんどない?ままのようです。
明日以降紹介する判例時報増刊号の論文を紹介するように、今も表現の自由=自己実現説が通説的地位を占めているように見えます。
23日に自己実現論を引用紹介した文書には、
「受験生の中には表現の自由に関する問題が出題されたときには、何が何でも答案のどこかにこれを書かなければならない、これを書かないと減点される、という強迫観念さえ持っている人がいる。」
というのですが、日本では司法試験の基本テキストになれば・・意味不明でも丸暗記してわかったような気持ちになって書かないと合格できなくなった(東大教授の権威が高すぎる?)ことが大きいのでしょう。

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