仏教を文字その他文化吸収目的の国家機関・・東大寺と各地の国分寺→明治以降の東大と各地国立大学の関係の相似形・・が主目的だったのを、本来の宗教(各人の煩悩等からの解脱)に変更したのが、最澄や空海であり、真言宗、天台宗祖の派生から、日蓮、浄土系民族宗教が発展して行くのです。
明治維新以降のキリスト教解禁も古代の仏教導入と同じ程度の位置付けでしょう。
排斥しない・・隣人として付き合いましょうという程度の位置付けです。
クリスマスを祝ったのちに大晦日〜元旦の初詣(神社仏閣どこへ行こうとも)何の矛盾も感じません。
七五三では神社に行きその翌日には近所の葬儀があればお寺に行くし、結婚式は神社でもキリスト教の教会式でも良い・要は神仏(超越的霊力を持つ存在)に祝福されればいいという考えです。
生命の根源に関わるときは神であろうと仏であろうとも超越的存在に頼りたいのが日本人の心です。
私の子供たちも近所にキリスト系の幼稚園があった時にはそこへ通わせましたが、私がキリスト教徒になった気持ちは一切ありませんし、3人目の子供も当時の自宅近く(約100メートル足らず)にあった幼稚園に通いましたが、何系だったか記憶すらしていません。
幼稚園もキリスト系でもお寺でも良い・その都度自宅近くて便利なのが第一選別基準です。
一神教のキリスト教やイスラム教徒がこういう社会に根付くには、「お寺に出入りする人は教会にくるな!」とは言えないので、自然に他宗教徒も受け入れるしかない・日本にいる限りいろんな神々の存在を受け入れるしかないのではないでしょうか?
明治以降の文明開化運動による欧米文化の大量流入や敗戦以降の米国文物大量流入もその一つでしょう。
明治以降の文物流入に対する受容モデルを表すためには、和魂洋才という熟語が知られています。
和魂洋才の受容方式が古代からあったのか?です。
和魂洋才とはテクニックを取り入れるだけで精神を取り入れるものではないという主張ですからそう言わねばならない圧倒的先進技術が入ったからこそ必要な主張だったでしょう。
そんなことが可能か?生活スタイルが変われば価値意識も変わるのではないか?
キリスト教の思想を深く理解しないと欧米の行動パターンや文物の理解を真にできないというのが戦後の風潮でした。
中国が開放し「文化度が上れば自然に欧米流儀に従うはず」という期待論調もこの延長論ですが、中国は簡単に政治スタイルを変えず逆行し始めたので欧米にとっては思惑が違ってこまっている状態です。
日本で和魂洋才の主張原型が始まったのは、その必要性が高まった時期・・いわゆる国学の発生の頃からでしょうか?
朱子学が浸透しすぎて画一理解の弊害・・やおよろずの価値観を基本とする大和心には馴染まない面が際立ってきたので、反動的に大和心を掘り起こす国学の発生につながったのではないでしょうか。
このように少しずつ日本の心に合うものだけ無意識のうちに入れていたのに対し、明朝崩壊後亡命学者等が大挙流入→儒学が「体系的」に導入され徳川幕府は昌平坂学問所設立し、(大学の頭」という役職まで置いて)徐々に日本思想界を席巻→統制作用を及ぼし始めました。
大學の頭に関するhttps://dictionary.goo.ne.jp/jn/132691/meaning/m0u/からの引用です
2 江戸時代、昌平坂学問所の長官。元禄4年(1691)林信篤(鳳岡)が任命され、以後代々林家が世襲。
こうなると談論風発や八百万の神的に、多様な意見を許す思考になれた日本民族にとっては、窮屈過ぎる不満が発生します。これが国学・大和心を見直そうという運動のエネルギーになったと思われます。
局面が違いますが、文武両道とうるさかった松平定信の政治に対して「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋ひしき」の狂歌で揶揄された違和感です。
教養人の政治は一面的になり過ぎてかえって国民を苦しめることが多いものです。
現在韓国の文政権が、庶民の生活水準底上げのために経済原理によらず強制的に最低賃金引き上げに踏み切りました。
一見人権尊重のようですが、このために零細企業が雇用を縮小し、廃業するようになって失業を増やして大混乱になっています。
頭でっかちな一方的な政治は、一面的な理に走り過ぎて多様な矛盾意見を包括できないからでしょう。
ちなみにエリート政治家松平定信の改革はほんの短期間・6年間で頓挫しています。
同じくエリート官僚・・水野の天保の改革はわずか2年で失脚でした。
これに対して享保の改革は2〜30年と息の長い改革・被支配層の支持を受けたので長かったのでしょう)だったのでこれが徳川政権260年を持たせた原動力です。
吉宗は、生まれつきの貴種として養育されず家臣の子供として育ってからお城に引き取られたので、世事に通じていた点が大きな違いだったのではないでしょうか。
もともと素質自体が実務向きであって、歌道などの風流なことには向いていなかったと言われますが、その分思い切った改革ができたようです。
思い切った改革が必要になった背景を見ておきます。
幕藩体制・・・家康〜秀忠〜家光の草創期を制度的にまとめたのが知恵伊豆こと松平信綱でした。
いわゆる知恵伊豆と言われ幕藩体制確立に功のある松平伊豆守信綱は物事は重箱の隅をほじくるような政治はいけない、緩やかな政治が肝要と述べていました。