第三者委員会〜検察審査会に話題が逸れましたが、7月2日まで書いてきた袴田事件再審手続きでの本田鑑定に戻ります。
本田教授が訴訟中にも関わらず鑑定データ廃棄してしまった行為が事実とすれば、学問の自由を守るために学者のモラルとして問題がないか学会の信用維持のために、相応の調査報告があってしかるべきでしょう。
当該学会や大学で判断→処分する能力がないならば、第三者委員会の出番ではないでしょうか?
袴田再審事件で鑑定意見を書いた本田教授の場合、小保方氏とは違い論文発表経験豊富な教授=若手の論文書き方指導の立場?である上に、刑事訴訟の正規鑑定・・たぶん鑑定証言もしているでしょう・・で実験記録や資料保存しないで鑑定書を提出しているとすれば(ミスか実験自体が虚偽か不明ですが)軽視できないモラル違反ではないでしょうか。いずれにせよ、彼がこれまで発表してきた研究実績の信用がどうなるか?彼の所属する学会で検証しないで放置・・知らぬ顔の半兵衛を決め込めるのでしょうか?
(小保方氏の場合博士論文では遡ってデータ捏造がないかの検証がされていました)
早稲田大学のようにせっかく不正を検証したのに、学位剥奪しない処分もありえますが、少なくとも本田教授の過去の論文が実際の実験に基づくかの検証をする必要があるように思いますが?
鑑定の見方は人によって違うでしょうが、訴訟の帰趨・・有罪か無罪か・本件は死刑事件ですから、生死の分かれ目が鑑定成果の信用性次第になっている重要資料であり、その信用性の有無が論点になっているのに、DNA検査記録や資料をその訴訟進行中に「廃棄して保存していない」とすれば致命的欠陥ですから、本田教授は本当に実験成果が得られたかの証明を出来るのか?どういう釈明をするのでしょうか?
高裁では本田教授が「係争中の鑑定資料を保存せず、かつ検査経過記録を廃棄した」かの説明をしない・説明責任を果たさなかったとすれば「鑑定を信用できないとされても仕方ない」という開き直りに徹したことになるのでしょうか?
発明発見の場合と違い、鑑定資料が微量すぎて一回の実験で使い切ることがありますが、その場合には実験結果を保障するためには相応の工夫があるべきでしょうしその旨の説明責任があります。
訴訟確定後何年も経過して書類整理の過程で破棄したならば別ですが、訴訟進行中・しかもその実験ではそういう鑑定結果が出るはずがないと別の鑑定人から批判されている最中に、資料や経過記録さえ廃棄しているとすれば何ために廃棄したのか?の疑いが生じるのが普通です。
それで(高裁で問題になる前の)「地裁決定前に廃棄していた」と言わざるを得なかったのでしょうか。
高裁が本田鑑定を信用しない・採用しない理由は小保方氏論文同様の捏造ではないかと言わんばかりの認定ですが、高裁認定が正しいかどうかは、最高裁で決着がつきます。
これまで、もしも東京高裁の鑑定に対する評価が正しいとした場合の意見を書いてきましたが、大手メデイアの報道があてにならないだけでなく・・理研の小保方氏に始まり大学教授という肩書きによる科学論文の信用性も(ほとんど誰も検証作業がされないと良いことに?)地に堕ちてきました。
企業連携の研究発表の場合には、続いて実用化実験が待っているので、実験をしていないのに実験したような架空論文発表して(一時的に株価急騰して)もすぐにバレてしまいますが、企業製品と関係ない分野・それが何の役に立つか不明の基礎実験発表では誰かが論文発表しても多くの科学者が「そうなの?」という程度で皆読み飛ばしていくだけでしょう。
論文の市場評価として引用数ランキングがよく言われますが、論文の前提になっている「こういう実験をしたら、こういう結果が出た」という実験そのものを再現実験しないで、本当ならば「すごい」と引用しているだけのことです。
本当に実験した結果かどうかは数十年たってから誰かが、その成果を利用しようとしたときにならないと分かりません。
数十年後に何かを研究開発する段階で、数十年前の先人の論文が検索に引っかかって、これを発展させれば自分の考えている新製品の開発に使えるかも?と「その論文で書いている実験してみたがどうもうまく行かない」・・自分の再現実験の仕方が悪いのかな??で挫折して発表者に問い合わせて論文に書いていないちょっとした触媒の必要性を教えてもらってもうまくいかないときも、「ありがとう」とお礼を言って終わりにして、(本当は怪しい発表?と胸に収めて)別の方法を考えるのがふつうでしょう。
自分の構想する新技術開発実現するのが先決ですから、正義感に燃えて?(例えばカナダや中南米の無名人の論文の場合・発表者が生きているかどうかも不明)「その論文捏造でないか?」と社会問題にする暇のある人は滅多にいないでしょう。
このようにすぐには再現実験をする人がいないのをいいことに学位論文に限らずその道の有名教授であっても・・実用に遠い論文の場合、発覚リスクが滅多にないので嘘八百の論文発表がまかり通っているということでしょうか?
小保方氏の場合には「実用性のない学者の論文ってそんなもんだ」という達観した低評価定着した方が・それが実態であれば社会全体にとって合理的なのか?もしれませんが、本田鑑定の場合には学者の信用性ばかりではなく、司法の信用性・人の生死決定に関わる実用に直結することです。
袴田再審開始手続きの鑑定は実用分野ですから、即時に検証手続きが始まることが予想されているにも拘わらず(検証妨害のために?)あらかじめ実験記録意一式を廃棄していたとすればその図太さに驚くばかりです。
実用に裏打ちされている企業製品の場合、画期的性能開発の虚偽宣伝しても(株式相場が一時急騰しても)その部品を組み込めばすぐバレる点で市場評価が確かです。
メデイアの信用低下は消費者(ネット発達によって独自に情報収集できるようになって)のレベルアップによって、すぐに批判される・市場評価にさらされるようになって始まったように、学問発表の評価も「どうせ一般人には分からない」という閉鎖性に守られてきたのが、民度アップによって批判に晒される・・文字通り「思想表現の自由市場」が始まったように見えます。
「実用に結びつく企業発表でない学者の独自発表など誰も検証しないので結局眉唾もので、ほとんど信用できない」という風潮が広がる方が健全かもしれません・(学問世界では常識になっているのか?)これが小保方氏擁護論・中部大学の武田教授主張の核です。
小中高校・一般ホワイトカラーに優越する地位を失って久しいように全入時代に入った大学の地盤沈下が進む一方だから、その現実を受け入れるか、地位低下を阻止したいならば、それぞれの分野で、何か問題が起きた時に(権限がはっきりしませんが)アメリカの特別検察官のような臨時任命の調査官・・第三者委員会の調査発表を必要とする時代が来ているように思われます。
大学は地位低下を阻止する気概さえないと言うべきなのでしょうか?
ただ日本人は、日本の裁判や検察のイメージ・清廉潔白で「神のお告げ」のように穢れのないもの・・彼らは局外中立で「絶対的に正しいことをする」と信じ込む傾向がありますが、国連特別調査官でもアメリカの特別検察官でも皆政治任用であって、(官僚も政権交代で多くが入れ替わる社会です)政治的に動く本質を持っていることに注意する必要があります。
国連特別報告者が特定の立場で不満分子の意見だけ選んで聞いて歩けば、日本の言論の自由度ランキングでは、中国批判をしていた書店主がたちまち拉致されてしまう香港以下の評価になるのは当然でしょうか?