公務員と民間との違い1

任命と民間就職の違いに戻ります。
現在政治でも、大臣就任要請を断るのは、岸田氏のように禅譲期待を前面に出して現政権に協力するが、今は禅譲に備えて体力・党務に注力したいなど、特別事情をうまく説明して円満にお断りしない限り原則として総理の座を争う意図と見られるので石破氏のように反主流転落・干される覚悟で閣外に出るのが普通です。
産業革新機構では理事に総辞職されて次の理事補充が出来ない状態らしいですが・・辞任する人たちはもっとマシな仕事があるという意思表示でしょう。
政治闘争から離れた官僚の場合、民間との人材獲得競争・・競合・市場競争があるので、結局は、待遇比較・仕事のやりがい次第となります。
古代以来民間職場の未発達な時代には最高権力者が最も良い生活ができる・・ひいてはその周辺もこれに準ずる良い生活ができる・・権力トップに近い順位ピラミッド型の社会が形成されていたので企業で言えば、どうせ何かの職務提供を受けるならば大手企業に就職した方が良いのと同じ発想で、政府が任命してくれれば従前官位との比較次第で喜んでお受けするものだったでしょう。
だから任命制度でなんら痛痒を感じなかったからでしょう。
今後民間との人材獲得競争になってくるときちんと歴史を振り返り修正すべきは修正していく必要があるでしょう。
戦後官尊民卑思想が薄れて来たせいか?国民主権意識の浸透のせいか?待遇も国家の主人である民間に劣る傾向が出てきました。
こうなると、市場原理を無視できなくなりますし、任命しても人材が応じないリスクが生じるでしょう。
公務員試験が遅く民間の採用の方が早いと優秀人材が高給で先取り囲い込みされてしまう問題が平成に入った頃から我々法曹界では話題になっていました。
政府は労働基準法でいう使用者(事業者)ではなさそうですが国民の方は就職先の一つとしか考えていない人が増えてきました。
政府は使用者でないという違いは、臣と民間・対等者間の労働契約との違いの歴史に行き着きそうです。
ここまで素人の思いつきを書いてきましたが、以下紹介する論文はその違いを書いているようですので一応一部紹介して起きます。
https://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2009/04/pdf/042-049.pdf

特集 : その裏にある歴史
なぜ国家公務員には労働基準法の適用がないのか あるいは最大判平・17・1・26 民集 59 巻 1 号 128 頁の射程 渡辺 賢 (大阪市立大学教授)

ちょっと読んで見る限り(時間がないので全部読めませんが)では戦後法制の変化を追って説明しているだけで戦前からの民間雇用と政府雇用の違いの歴史・・過去の法制・・精神構造の変化に関する説明がないように見えるのが残念です。
戦前思想を断ち切った法にした以上は、現行法の解釈だけで済むということでしょうが、ものごとには歴史があります。
労使であれ夫婦(離婚騒動)であれ親子(意見相違)であれ兄弟(相続争い)であれ、上司と部下(パワハラ)であれ全て内部関係は対立をはらんでいます。
なぜ公務員に労働法規が不要か?別立てにする必要があるかの実質的説明が欲しいものです。
もともと労使の自由契約に委ねると強い方の企業・使用者有利に偏りすぎて労働者の健康すら守れないので、最適基準を基準を守らせるために労働法分野が発達して来たものです。
政府官僚になれれば最高という意識・・公務員の勤務条件が最高であり到達すべき模範の時代には、民間労働基準の底上げなどの到達目標で良かったでしょうが、国民の方もお役人さま並みの待遇が最高の待遇ですから、それで良かったのです。
役人には昔から恩給制度があり、があり高齢化しても心配ないし・・これの民間版が年金制度でした。
以前どこかで書きましたが世襲制の家禄に変わるもので家禄に比べれば一代限りで条件低下です・民間従業員には昔から世襲制がありませんでした。
今は到達目標ではなくなって来ました。
教職員も憧れの聖職でなくなって久しいものがあります。
こうなってくると教職員の勤務時間が長すぎないか、官僚が深夜まで翌日の国会答弁資料作りに追われているのはおかしいという議論になってきます。
国家公務員法にも個別に書き込んだりするのではなく公民と民間労働者統一法にして国家公務員や地方公務員等に特有の例外が必要な分野、・・例えば警察官や消防あるいは自衛隊法などで、その法律ごとに書き込んでいく特別法形式にした方がスッキリする印象です。
その前に官僚.教師を労働者というのか、政府を使用者というのかすら決まっていないので、これらの統合概念創作の必要があるでしょう。
大規模寺院で修行僧は早朝から草むしりや掃除等に明け暮れるのですが皆無償で修行と名がつけば時間制限なくて良いのか・医師はどうなるか、神主さま初詣客のために寝ないで頑張っているようですが?
〇〇法人に就職している若手弁護士の働きぶりをみると労働者に限りなく近づいているイメージですが、労働法の適用がいらないのか?
労働とは労して働くことでしょうが、官僚や医師、弁護士、教師は労働なのか?まして賃労働なのかとなると難しい問題です。
労の意味は第一義的には「いわゆる骨の折れる体の動き」を基本としてそこから発展したもので頭脳活動との対比で成り立つ言語です。
人間の働きには知恵を使うのと労力を使うのが対照的にあり、その他中間的には「気働き」というものもあります。
いつの頃からか?医師であろうと弁護士、教職員学習塾、予備校の先生であろうと漫画を描く人であろうと頭脳活動か肉体活動かに関わらず、雇用(これ自体一定の色付のある単語ですが・・)される人を労働法で保護しようとするために?知と労の2種類共通語として「知的」「労働」という対立概念をくっつけた単語が一般化してきました。
被雇用者保護の必要性という意味では、オーバドクターも研究所の守衛も土工も共通性があることから生まれた熟語でしょうか?

官と臣2(公僕を兼ねる?1)

現憲法の公務員は国民全体に対する奉仕者ですが、一君万民思想下では臣民は天皇家への奉仕者ですから、天皇家と臣民とは(今風に言えば労使関係の)対立可能性を内包していたことになります。
これの危惧があって、日本では戦後も公務員の争議権を厳しく制限してきました。
フランスでは警官もデモする権利があり、裁判官のデモもあると学生時代に聞いて驚いたものです。

国家公務員法
(昭和二十二年法律第百二十号)

第九十八条 職員は、その職務を遂行するについて、法令に従い、且つ、上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない。
○2 職員は、政府が代表する使用者としての公衆に対して同盟罷業、怠業その他の争議行為をなし、又は政府の活動能率を低下させる怠業的行為をしてはならない。又、何人も、このような違法な行為を企て、又はその遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおつてはならない。
○3 職員で同盟罷業その他前項の規定に違反する行為をした者は、その行為の開始とともに、国に対し、法令に基いて保有する任命又は雇用上の権利をもつて、対抗することができない。
附 則
第十六条 労働組合法(昭和二十四年法律第百七十四号)、労働関係調整法(昭和二十一年法律第二十五号)、労働基準法(昭和二十二年法律第四十九号)、船員法(昭和二十二年法律第百号)、最低賃金法(昭和三十四年法律第百三十七号)、じん肺法(昭和三十五年法律第三十号)、労働安全衛生法(昭和四十七年法律第五十七号)及び船員災害防止活動の促進に関する法律(昭和四十二年法律第六十一号)並びにこれらの法律に基いて発せられる命令は、第二条の一般職に属する職員には、これを適用しない。

上記に対して地方公務員法は労働法原則適用を前提として、58条に労働法規の除外規定を置いているようです。

地方公務員法

(他の法律の適用除外等)
第五十八条 労働組合法(昭和二十四年法律第百七十四号)、労働関係調整法(昭和二十一年法律第二十五号)及び最低賃金法(昭和三十四年法律第百三十七号)並びにこれらに基く命令の規定は、職員に関して適用しない。
2号以下省略

日本で戦後臣民という法律用語が国民に変わり天皇の臣〜官から公務員という単語に変えても、もともと臣・官であった同じ人間が今日から公僕である公務員になったとしても意識が簡単に変わらない上に、変わらない意識を温存するために?国家公務員法や地方公務員法という一般労働者と別扱いする特別法を同時に作ったことになります。
幕末会津藩が、リスクが大きく割の悪い京都守護職を引き受けるのは損な役回りになるのが明白だったので家中では慎重論が強かったのですが、藩祖以来の将軍家との特別な関係重視・「本家の危急存亡のときに役に立たずにどうする!」「義」を重んじる論が大勢を制して、ついに京都出兵に応じて最後は賊軍の汚名を被ることになりました。
一般譜代大名や親藩と血の濃さが違うのだ!ということだったでしょう。
今でもこの種の浪花節的?美学・生き様は日本人の心打つものがあります。
豊臣秀吉死後着々と豊臣政権を蚕食していく徳川家康の策謀に豊臣恩顧の子飼い大名が次々となびいていく中で、身を挺して抵抗していく小身の石田三成の美学・・石田三成を最後まで応援した大谷刑部の友情の美学、大坂の陣で最後まで戦い切った真田幸村の義勇に心惹かれるのです。
根強い忠臣蔵人気は、徳川初期以降国学として支配力を持った朱子学普及による忠義の心によるのではなく、(大義名分として幕府の掲げる忠義の実行だと言うことになっていますが)本音はそれ以前からある日本民族に備わっている滅びゆくものへ「義を尽くす」ことに対する美学でしょう。
平家物語の最も心打つ場面・「木曽殿最後」の主従再会場面も同じですが、(朱子学などまだない時代)信頼で結ばれた「義」を重んじる滅びゆく美学です。
判官贔屓と言う熟語があるのは、彼が赫赫たる戦果を挙げたからではなく、(田舎育ちで複雑な貴族社会の駆け引きを知らない義経が老獪な後白河に手玉に取られてしまったことによるとしても)不幸な言いがかりで?滅びて行くことに対する国民の哀惜の情によります。
豊臣家恩顧の「義」をコケにして見え透いた利に従って率先して裏切った(福島正則を筆頭とする)有力大名が徳川体制確立後次々と改易されますが、家康がずるい・酷いというよりは、「こんな奴は用済みになれば切られて当然」という評価で国民は同情しません。
明治以降は憲法はどうであれ、民意重視ですから政権が短命で、安倍総理が7〜8年が史上最長らしいですから、現在政治家は子々孫々までの忠義立ては不可能でいつもその次を考えながら強いものにつき生き残る高度な政治力が必要です。
かといって、主と仰いだ総理が落ち目になると率先して裏切っているのではそう言う人間は次の政権でも、誰も信用してくれないので強い方につきたいものの過去の恩顧やしがらみを無視できません。
この辺の微妙な観点から徐々に軸足をズラしていくしたたかさが戦国時代以上に求められます。

臣民と人民の違い3(名目上の天皇大権)

明治政府(薩長土肥の政権)は倒幕の大義名分として尊王を掲げて成立した経緯上、表面上天皇大権というだけのことで実質は実務を行う内閣の決めたことを儀式挙行する役者でしかない・これを考究して戦前の憲法学では天皇は政府の機関に過ぎないという天皇機関説が通説になっていました。
天皇機関説についてはOctober 31, 2018「明治憲法下の天皇制・・天皇機関説」シリーズで紹介しましたのでご覧ください。
天皇機関説が事件になった本質は、
「学問の世界で何を言ってても勝手だがこれがマスコミで流布されるようになると放置できない」
表向きの王政復古と違う・天皇大権を担いでいるにすぎない「明治政権の本質」を右翼やマスコミが騒いだことにあるでしょう。
天皇はお飾りにすぎない・・あまり本当のことを言われるといわゆる「ミもフタもない」という暗黙知で納得していく日本社会の流儀に反するということでしょう。
右翼とマスコミが騒ぎ、当時の野党・政友会だったかが取り上げて政局にしたので、「そんなことはどうでも良いじゃないか!と権力側で放っておけなくなった事件です。
卑近な私の例で言えば、高齢化の結果?間違うといけないので事務所の若手弁護士にいつも「これでいいか?」と聞きながら仕事しているのですが、それでも、私の方が先生と言われるのが普通です。
子供らにパソコンの扱いで聞くことが多いのですが、それでも子供らは目上の人として遇してくれますし、普通の人より「ものわかりが悪く」なっているので出かけた先のあちこちで色々聞きますが、高齢者をバカにしないで懇切に教えてくれます。
こういう時にバカはバカと言っていいのだと「何でこんなこともわからないのだ」バカにした態度を誰もとりません。
知っていてもあからさまな態度を取らないのが大人の知恵です。
ゲチスバーグ演説のピープルを人民と翻訳していたからと言って、日本のように同胞意識の強固な民族では実質的にも名目上も民が主権者になった後は臣民でないばかりか、人民でもないので、国民と言うのが実態に合っているのではないでしょうか?
欧米は基本的に階級社会ですので、人民の人民による人民のための・・という演説は耳あたりの良いスローガンにすぎないので、今も人民は人民のままで取り残され本当の主権者に成り切っていないので格差社会が進むばかりです。
中国などでは共産党が政権を握った後、現在に至っても立場の互換性のある社会になっていないので、民を表す単語を必要としていないのでしょうか?
元人民である共産党が政権を取っても、今度は自分らが支配者の階級に居座り共産党員以外の人民に対して国家運営権を引き渡さないままですから、草莽から立ち上がり古代に漢帝国を起こした劉邦や同じく庶民から出て明帝国を建国した朱元璋ら庶民出身者が庶民に主権を引き渡さずに前王朝同様の地位についたのと同じです。
「王侯相なんぞ種あらんや!」と言うのが、秦朝滅亡時の大混乱時の大標語で、結果的に漢楚攻防(項羽と劉邦)で知られる最終決戦を制したのは項羽より家柄では庶民出身の劉邦でした。
明の朱元璋も貧農の子に生まれついに天下統一して明朝の太祖になっているし日本の秀吉も草莽の出身ですが、庶民に主権を引き渡さなかった点では似たようなものです。
古代から庶民の出で天下統一に掛け上がる人は一定数いるのですが、それをもって人民主権や国民主権を実現したとは言いません。
中国の共産党政権も政権を握るまでは庶民出身者グループですが、政権を握ると人民に政権を解放しないでそのグループ・共産党独裁で回していく・絶対王政時代との違いは個人が世襲していかないという点だけです。
北朝鮮に至っては将軍様の世襲になってすでに3代目ですから古代王朝交替となんの違いもありません。
こういう国ではまだ人民主権どころの次元ではないのです。
日本の場合は皇族と民とは交代する余地がないことが古代から現在も同じですが、その代わりに天皇家が政権を実際に握る親政体制は昨日見たように1200年の藤原氏の摂関政治開始から崩壊し、日米戦で敗戦で名目上も明治体制に終わりを告げたので(象徴的)一君万民思想そのままで国民主権国家・社会が実現したことになります。
これが定着したのは、天皇家の実質が約一千年以上に亘って実質的主権者でなかったのに、明治維新時に薩長が政権奪取の名分として天皇家の権威を利用していたことによるもので、天皇大権とは名ばかりで利用されていた(天皇機関説が法学会の常識であった)天皇が実質権力を行使することがなかったので、現憲法は名目と実質を合わせた・・実態に戻しただけのことだからです。
戦後も象徴的な「一君」が残っているものの、統治権のない国事行為をするだけの象徴天皇制化=儀式担当の技芸専門化?によって、主権は元の人民→衣替した国民にあることになったのです。
儀式には雅楽がつきものですが、雅楽とこれに従って舞踊する伎芸員がいますが、天皇家はその役者になった・・歌舞伎で言えばその主役・・団十郎の世襲制みたいでその家柄に生まれたことで歌舞伎役者の子が幼い時から芸を仕込まれるのと同じです。
庶民向けの芸能主役では格落ちが過ぎるとすれば、能の仕舞い演者に擬すれば相応でしょうか?
能に凝っていた綱吉が、自分自身仕舞いを演じて側近に見せていたので、仕舞いであれば貴人が演じてもそれほど違和感がありません。
そういえば格式の高い会議・・大阪でのG7サミットのアトラクションとして、能狂言が行われたのは、このあたりにあるのでしょうか?
欧米の「法の下の平等」とは、「神の前の平等」と習いますが、日本では天皇神格化あるいは別格化・・国民とは言わないのは、この面でも共通しています。
このコラムはじめ頃に皇族は国籍法に言う国「民」ではないことを紹介したことがありますが、国民の間では法の下の平等が貫徹しているのに民法(例えば婚姻の自由も職業選択の自由もないし戸籍制度の適用も無い)その他の国法の適用・原則として憲法中の基本的人権の適用がない点を矛盾という人もいますが、皇族は国「民」でない以上当たり前のことです。
(皇族は民法によらず、皇室典範で婚姻や祭祀承継〜職業選択権も別に決めています)

皇室典範
昭和二十二年法律第三号
皇室典範
第一章 皇位継承
第一条 皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。
第二条 皇位は、左の順序により、皇族に、これを伝える。
第九条 天皇及び皇族は、養子をすることができない。
第十条 立后及び皇族男子の婚姻は、皇室会議の議を経ることを要する。
第二十六条 天皇及び皇族の身分に関する事項は、これを皇統譜に登録する。

臣民と人民の違い2

臣民概念では、民から臣になる人もいるし臣が退官して民に戻る人もいます。
今で言えば官僚になる前は民ですし、官僚が退官するとまた民に戻ります。
これに対して人民という単語は、社会構成のなかで支配されている人々のことで、上記臣民で言えば「民」にあたる人を言うのですが、上記のような相互交流の余地がない階級区別を前提にしている観念です。
支配される存在だから人民というのであって、リンカーンのゲチスバーグ演説は支配者と被支配者の地位が交換される余地がなく支配されっぱなしだった人民・・・この仕組みが一般的だった時代に、リンカーンが

これまで支配されるだけのものと考えられてきた人民が政治も今後政治の主人公になれるしそうなるべき

という趣旨で演説したので、多くの期待を集めて歴史に残る名演説になったのでしょう。
これを一言で表現する熟語として人民主権.国民主権という標語が行き渡ったのですが、男女平等とか標語さえ唱えれば男女平等になるわけでないのが現実です。
個々人でいえば、東大合格とか甲子園優勝とかの標語を自室の壁に貼り付けてもその通りになるとは限りません。
多くはその実現が難しいからこその標語であることが多いのです。
ところで、企業が「工場労働者誰もが社長になる資格がある」と標語を工場に掲げて、幸いその通りに現場労働者から社長になった場合、その人はもはや労働者ではありません。
人民が現実に主権者になって支配されるばかりではなくなったのであれば「人民」という単語は今や過去の表現になっていることになります。
人民が主権者になったらもはや人民ではないので(青虫が羽化すれば青虫と言わないと同様)それに変わる新たな用語が必要なのに欧米ではまだそれが理念に止まり実現できていないので実現したのちの表現が生まれていないのでしょう。
日本の場合、朝廷は儀式等を主催する権威が残っていたものの藤原良房が自分の娘所生の道康親王を皇太子にするために恒貞皇太子の廃太子に成功した承和の変(842年)から良房を継いだ藤原基康による阿衡の紛議(887〜888年)・・これは即位した宇多天皇が前天皇の摂政であった基康に対して就任と同時に関白に任ずる詔勅を発したところその文言が気に入らないと職務放棄して朝廷を困らせたという(前代未聞)文字通りの紛議(今でいうサボタージュ)でした。
百官は藤原氏の権勢に恐れをなして、皆朝廷に参内できない状態だったのかな?
詔勅起案した官僚に責任を取らせるなど、権勢を見せつけたうえで事態収拾になったのですが、これによって天皇は藤原氏の言うがままにするしかない権勢を百官に広く見せつけたと言われます。
なんとなく始皇帝後を継いだ2代皇帝胡亥に対して、趙高が皇帝に優先する自己の権勢を誇示するために?あるいは自己に従わない高官をあぶり出すために、皇帝の眼前に鹿を引き出して、皇帝に向かって「珍しい馬を献上する・・」 といったので、皇帝が「鹿でないのか?」と聞き返すと趙高が「いやあれは馬です。そうだな!」と居並ぶ群臣に同意を求めて皇帝に恥をかかせるとともに、誰が自分の意見に反対するかをテストした故事・・バカの語源の一つの説として知られていますが・・。
皇帝の意見を支持した高官はその後全員処刑されたと言われます。
権勢を誇った君側の奸の代表として平家物語冒頭に出てくる第一人者ですから、尾ひれがつくのが普通・「この人ならこの程度のことをやりかねない」というのが事実に昇格している可能性の方が高いですが・・.
方広寺に秀頼が奉納した鐘の銘文「国家安康」「君臣豊楽」に家康が難癖つけたのは、家康(金地院崇伝?)の発案でなくこの阿衡の紛議の故事に倣ったのでしょうか?
家康の場合、文字を分割してのこじつけですので、文字通りの難癖ですが、阿衡事件は古典の解釈論争によるので一応平安貴族らしい高度なテクニックを利用したものです。
日本での天皇家は君主と言っても、上記の通り800年代末から始まった摂関政治から保元平治の乱を経て武家政権に移っていき政治主導権を完全に失ってからでも800年以上経過しているので、天皇家だけ権力を握る仕組みが摂関家に移り、武家政権になると政権を握れるのが公卿(朝臣)だけでもなくなりました。
武士とはもともと農民層から戦闘専門家に分化してきたグループのことで、江戸時代でも戦国大名系家臣団の多くは半農半士・一朝事あれば一族郎党引き連れて駆けつける仕組みが普通でしたので、日常生活は庶民そのものでしたし、民情に通じている・・実務能力の高い集団でした。
ただし徳川家旗本限定では、知行地が遠くしかも細分化されていたので、(例えば千石の旗本でも、50石〜70石等々(例外でしょうが 一つの集落の農地が数名の旗本の数石何升単位の小さな知行地に分かれていた例が文献にでています。)バラバラに房総半島に知行地がある場合代変わりに一回行くのも大変)ですので、結果的に今の都民同様になっていたので幕末戦闘力はほとんどなくなっていた実態をSep 11, 2016 12:00 am欧米覇権終焉の開始2と、12/28/04(2004年)「兵農分離4(兵の強弱と日常生活)(コサック騎兵)」前後で連載したことがあります。
日本社会はこのように庶民・現場力の高い集団内での権力交代が可能になってからでも約800年経過です。
庶民も能力さえあれば政権担当できる社会・互換性のある社会になっていたので日本社会は観念論に走らず時代即応した着実な進展変化を遂げてこられたことになります。
明治新政府は、王政復古を旗印にして成立した政権である関係上表面上だけ古色蒼然たる主張をしてきたものの、政権掌握後は時間をおかず現実的政策を果敢に打ち出して後醍醐天皇のような天皇親政を採用せず実務官僚機構を整備して、古色蒼然たる平安朝以来の公卿堂上人を華族として棚上げし、実務は江戸時代の下級武士層・実務官僚が実権を握る体制を築き上げました。
廃藩置県で藩知事に横滑りした元の大名は短期間に罷免されて、中央から派遣される実務官僚が知事に入れ替えられた経緯も08/04/05「法の改正と政体書」07/18/05「明治以降の裁判所の設置2(3治政治体制)」前後で何回か紹介しました。
こういう大変革途上にあって制定した明治憲法では、表向き天皇大権とか臣民とはいうものの(神棚に棚上げした一君と(明治初期から逐次始まった士族等の階級名称廃止政策・・四民平等の徹底化で)万民思想が徹底してきたのですから、内実は戦後の国民主権体制と変わりません。

臣民と人民の違い1

民衆・大衆と国民はどこかに違いがありそうです。
国民的英雄、国民体育大会など、国民葬などどこか国民代表的イメージですが、デモをしている民衆が5〜10万人いても一億国民代表とは言えないからでしょうか?
ゲテイスバーグ演説を信奉しているはずの米国ではすでに人民は支配される対象であるばかりではなく主権者になっているはずですが、そうはいってもそれは理念上のことであって事実としてはいわゆるエスタブリッシュメントと一般大衆の格差は広がる一方です。
男女平等といってもすぐにそうはならないのが現実社会です。
主権国家内には支配する側とされる側があるとしても、現在社会の理念では相互互換性があるので、例えば米国人の中には大統領や大統領側近や官僚も野党党首・党員も無関心な一般人も皆米国人です。
このように多様な分類可能であっても、それを統合する命名が米国人と言い日本人と言うのでしょう。
ただし、歴史的に日本人、韓国人、ドイツ人、フランスという用語には、人種名称とダブる利用が強かったので、いわゆる合衆国である米国人というだけでは人種特定に不向きなのでワザワザ何系米国人という紹介が今でも多い所以でしょう。
明治維新は、そもそも開国圧力とその反作用の攘夷論によって幕末騒乱の幕を開けた結果ですので、おのずから外国人の居留が進みます。
数日前に紹介した生麦事件は、英国政府関係者の被害ではなく横浜在住の商人かな?が川崎大師観光のために繰り出した女性を含む一行でした。
どこかで読んだ記憶ではこの当時外国人は2万人前後だったようですが、4〜5千万人口のうちわずか1〜2万でもそれまでのなんとなくの常識に基づく統治と違い、画一的法を制定するとなるとまず法適用の対象を決めることが先決問題になります。
そこで憲法以前に制定作業が進んでいた旧刑法や民法の草案作りで法の対象として外国人と日本人区別が必須になってきたと思われます。
13年成立、15年施行の旧刑法で国民という単語が使用されるようになっていたことを紹介しましたが、一回も施行されずに終わったいわゆるボワソナード民法内には人事編として日本人になる要件が記載されていたようです。
ただし同法では、国籍という単語ではなく日本人としての「分限」が決まるというな文言だったようで・・内容的には明治31〜2年の旧国籍法とほぼ同様に、男系出生と帰化の二本立ての基本要件は同じですが、・・まだ国籍という文言ができていなかったようです。
江戸時代の知行状を見ると加増土地の特定が「〇〇の庄の宮前何反歩」程度の特定に過ぎなかったことを紹介したことがありますが、明治に入っても人の把握も分限や分際が基本用語で明治憲法制定後付属法令・・不動産登記制度や戸籍関連制度の整備が進むにつれて、宮下、寺田、滝田、上田、橋本、橋爪とか川上等のアバウトな地名表示だけから地方制度整備により〇〇郡○村字何番地と細かく地番を付すように合理化が進んだことを明治の法整備シリーズで紹介してきました。
このように数字的表示の整備に合わせて人間の特定も住居地番特定と合わせて戸籍簿で管理できるようになってきたことにより、国内個々人は戸籍簿で管理し、外国人と日本人の区別は国籍法でけじめをつけたということになります。
ちなみにここ数年、長男長女次男等の区別表示が不要でないか等の動きが強まっているのも、記録進化の一環で今は両親名、生年月日の正確性が高くなった(適当な届け出だけでなく医師の出生証明添付など)も影響があるでしょう。
戸籍(当時家ごとの「籍」が整備されたので「戸籍」と言いますが)の整備が進むと国民が国家に登録されている籍=国家の籍があるかどうかで区分けする方がスッキリするので戸籍に対応するものとして国籍簿概念が登場して、明治31〜2年頃の現行民法制定施行と同時に「国籍法」が施行されて日本の姿を法的に整備する大枠が決まったように思われます。
家族関係の仕組み・家の制度は民法で決めるものですから(今も家族のあり方は民法所管です)民法が基本法で、戸籍法はそれを具体化する付属法ですが、国家所属者の登録は憲法から直接くるものですから、戸籍ではなく国籍として旧民法の分限ルールから切り離されて独立法になったものと思われます。
1800年代末頃には人種定義や民族定義では、外人との区別・厳密な特定不能というのが社会科学・特に法学分野で常識になっていたと思われ、結果的に国籍法ができて、日本国籍を有するものが日本人という定義(人種を正面にすえない定義)が生まれました。

旧国籍法
朕帝国議会ノ協賛ヲ経タル国籍法ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム 睦仁
明治三十二年三月十五日
内閣総理大臣侯爵山縣有朋 内務大臣侯爵西郷従道
法律第六十六号
国籍法
第一条 子ハ出生ノ時其父カ日本人ナルトキハ之ヲ日本人トス其出生前ニ死亡シタル父カ死亡ノ時日本人ナリシトキ亦同シ
中略

いわゆる血統主義・これは現行国籍法もそのまま踏襲していますが、これによれば人種と同じようですが、帰化を認めざるを得なかったことから、他人種の日本人が存在することになり、国籍と人種とはほんのわずかですが一致しなくなりました。
こうして日本人の定義が決まりましたが、明治憲法下の日本人は皇族と臣民の2種類でした。
このような社会意識が定着してきて皇族以外の総称として日本国の民という「国民」概念が普及しはじめたように思われます。

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