大政奉還と辞官納地4

大和朝廷成立時の地方豪族は、国造から郡司に横滑りしたときには、国の造から郡「司」になったので、この時点で独立の豪族ではなく朝廷の「司」の一人になったと言う意味ですから、版籍奉還後大名が知藩事に任命されたのと形式は同じでした。
廃藩置県で大名があっけなく失職させられたのに比べると、古代豪族は地元に何も迷惑をかけていなかった・そのときの実力者だったので、地域内の諸問題解決には派遣された国司は彼らに頼るしかないし、臨時的なつもりの郡司の地位を朝廷が奪えせなかった・・安泰だったどころか逆に地歩を固めて行く一方だったのとの違いです。
では,徳川家が大政を奉還し,将軍職も辞職しますがまだ諸候を率いる指導力を持っていた筈なのに何故これが消滅してしまったのでしょうか?
前回まで書いたように徳川家スタッフは本来の能力から言えば充分だったのに、薩長と岩倉によるクーデターにうまくやられてしまったと言うことでしょう。
倒幕の(密勅・・偽勅?)名分をなくさせるために先手を打って大政奉還し,それでも将軍である限り諸候への指揮命令権を持っていることから、これに異を唱えて軍事力を結集しつつあった薩長に対してこれまた先手で将軍職の辞職を申し出て薩長による武力行使を封じて行きます。
基本的には前回書いたように、京・大阪における徳川方の軍事力が弱体だったことによる譲歩しかなかったことによるものですが・・・。
アヘン戦争でのイギリスと清朝の戦いみたいで、数ばかり多くても勝負になりません。
こうして薩長(繰り返し書いていますが、薩摩藩・長州藩の呼称は明治の政体書以降のことで当時はこういう呼称はありませんでしたが、一般にあわせてここでは薩長とか薩摩藩邸と書いています)としては政治交渉では打つ手がなくなったところで、島津家の挑発に乗せられて鳥羽伏見の役が勃発するのです。
これも政治の一面ですから,結果から見れば政治手腕が薩長と岩倉派の方が1枚上だったとも言えますが,その基礎にある軍事力の差が大きな作用をもたらした筈です。
薩長側では戦端を開けば勝てると踏んでいたので、挑発を繰り替えしていたし、慶喜側としては負けそうなので譲歩に譲歩を重ねていたのですが、末端の武断派は軍事力の劣勢を分らないのか分ろうとしないのか、個人的に息巻いていれば気が済む無責任なやからです。
「近代兵器に頼るなどそんな弱気でどうする・・文句を言う奴は一刀両断にするまでだ」と叫んで喝采を浴びるような手合いです。
エセ豪傑がのさばると軍の近代化が進まないのは当然です。
ところで、25日に紹介した慶喜の上表分を読むと「反対ばかりしていて何を言いたいのだ諸候会議をやるから言いたいことがあれば出て来て言え」と言う態度がアリアリです。
実際この頃の倒幕派の主張は尊王攘夷・・現実離れしたことを言うばかりで「それなら外国とどう交際すりゃ良いのさ!」と言うことになります。
天皇主催の会議での議論で決着を付けないと,在野の反対ばかりでは危急存亡の時なのに前に進まないと言う焦りがあったでしょう。
上表分の一節を紹介します。
「朝権一途にいで申さず」とは、無責任な反対論ばかりで困ると言う意味でしょう。
これでは綱紀立ち難く・・示しがつかないと言うことです。
それで「朝廷ニ奉帰広ク天下之公議ヲ尽シ 聖断ヲ仰キ」・・聖断であれば反対する理由がないだろうと言うことで「同心協力共ニ」海外万国に伍して行こうとのべています。  
「朝権一途ニ出不申候而ハ綱紀難立候間従来之旧習ヲ改メ政権ヲ 朝廷ニ奉帰広ク天下之公議ヲ尽シ 聖断ヲ仰キ同心協力共ニ 皇国ヲ保護仕候得ハ必ス海外万国ト可並立候

しかし、薩長にとっては政治的意見の相違で反対していると言うよりは、今で言う政局・・権力闘争の勝利に目標があったのですから、慶喜の正義論だけでは学者の議論になります。
島津家は元々公武合体論で(天障院篤姫も送り込んでいるし)当初は諸候会議で決めて行く路線でしたが,慶喜が就任すると彼が京都での議論の主導権を握ってしまい、島津の意見が容れられないことが多くなって見切りを付けて行ったようです。
皮肉なことですが、将軍家が無能だから政権を任せられないと言うのではなく,有能な将軍に代わったことで、却って諸候会議が有力諸候である島津の意見で進まなくなったのが倒幕に方向転換した原因でした。
政治能力として有能と言えるかどうかは別の議論でしょうが、ともかく弁は立つし理論派でもあったでしょう。
むしろ先代の家茂くらいの方が、諸候(島津その他有力者)を立てながらやって行くので、幕府が長持ちしたかも知れません。
この段階では薩長としては理由があろうがなかろうが、ともかく徳川家をとつぶしてしまいたい・・何らかの口実を設けて戦端を開く・・その結果朝敵として殲滅してしまうことが究極の目的だったことになります。
この点は徳川家康が自分の生きているうちに、(国家安康の銘文などに)言いがかりでも何でも付けて大阪城を攻め滅ぼしてしまおうとしたのと同じです。

大政奉還と辞官納地3

大政奉還の上表に対して将軍辞職と領地返納命令(辞官納地)(12月9日のクーデター)で応じたのは言いがかりも良いところで、徳川恩顧の大名(会津・桑名くらいでしょうか)新選組が憤激したのは当然です。
道理に反しているので,三職会議のメンバーでは、岩倉と薩摩系(大久保と久光)だけの主張に過ぎず先ず山内容堂が異を唱えこれに後藤象二郎や越前や尾州であったかが同調して決着がつかず休憩を挟んで、軍事力を背景とする説得で休憩後に漸く辞官納地が決まったもののその内容は・まだ具体的ではありませんでした。
その後日を追ってクーデターに対する諸候の非難が高まって、結果的に慶喜側が巻き返して行き、クーデター効果が失いつつありました。
(辞官納地論もうやむやになりかけていました)そこで薩摩が挑発するべき非常手段として江戸での撹乱工作が行われます。
これに対して庄内藩が薩摩屋敷の焼き討ち実行して応えたのが伝わり洛中での軍事衝突を避けて大阪城に引き上げていた会津桑名や徳川家主戦論派が勢いを得て押し出して行った結果、(薩摩の挑発に負けたのです)鳥羽伏見の役が起きてしまいます。
どうせ戦うことになるならば、島津久光による3000の兵を率いての上洛段階で,これを阻止すべく軍兵を率いての上洛を朝廷名で禁じておけば良かったのです。
倒幕目的でのクーデター計画もある程度知られていたのですから,当時の朝廷内の公卿会議構成員はみんな左幕派でしたのでやる気になれば可能でした。
あるいは上洛して来ても、会津・桑名兵が御所の警備を死守していれば,ここでの大規模な戦闘をすれば,島津の方を長州同様(禁門の変)の朝敵にしてしまえば良かった筈です。
これを傍観していて,衝突を避けて大阪へ引き上げてから,押し出して行くのは戦略的に失敗だったことになります。(後講釈は誰でも出来ますが・・・)
平治の乱で義朝が清盛の上洛を阻止出来なかった故事と似ています。
幕府側は総力結集どころか、戦意盛んなのは会津と桑名の兵が主力でしたが,それでも薩長兵力に対して数では勝っていたらしいのですが,指揮系統のない状態であるばかりか近代装備化度・・兵力的に劣っていました。
戦端が開かれると待ってましたとばかりに慶喜朝敵論が文句なしに決まってしまいます。
以下朝敵として追討令が出た瞬間です。

慶喜追討令
「去る三日、麾下の者を引率し、剰前に御暇遣され候会・桑等を先鋒とし、闕下を犯し奉り候勢、現在彼より兵端を開き候上は慶喜反状明白、始終朝廷を欺き奉り候段、大逆無道、最早朝廷に於て御宥恕の道も絶え果て已むを得させられず追討仰付けられ候。兵端既に相開き候上は、速やかに賊徒御平治、万民塗炭の苦を救せられ度き叡慮に候間、今般仁和寺宮征討将軍に任ぜられ候に付ては、是迄偸安怠惰に打過ぎ或ひは両端を抱き候者は勿論、仮令賊徒に従ひ譜代臣下の者たりとも、悔悟憤発、国家の為尽忠の志これ有り候輩は、寛大の思召にて御採用在らせらるべく候。戦功により、此の行末徳川家の儀に付歎願の儀も候得ば、其の筋により御許容これ有るべく候。然るに此の御時節に至り、大義を弁えず賊徒と謀を通し、或ひは潜居致させ候者は、朝敵同様厳刑に処せらるべく候間、心得違これ無き様致すべく候事」

如何にも感情的な以下の文言は,むしろ薩長側が待ち受けていたことを言い表しています。
「現在彼より兵端を開き候上は慶喜反状明白、始終朝廷を欺き奉り候段、大逆無道、最早朝廷に於て御宥恕の道も絶え果て已むを得させられず追討仰付けられ候。」
薩長連合軍対幕府連合軍の戦力比が仮に5対15であっても、この挑発に乗ると朝敵になることから戦意その他で大きなマイナスになってしまいます。
せっかく政治的に勝ちかけていた時に下部で挑発に乗ってしまった・・、下部の暴走を止められなかったのが徳川側の失敗でした。
慶喜は京での会議で理路整然の意見を述べるには有能だったと思われるのですが、 三職会議に徳川一族の越前や尾張徳川家が入っていることや中立の芸州藩が入っていることなどを見ると、論理が先立って政治的多数派工作には不向きだった可能性があります。
上記のように相手に先手先手をとられて次第に後退して行く慶喜のやり方には徳川内部の武断派には理解不能・・譲り過ぎの印象があり、慶喜の信望が今一不足していたことが災いしたのでしょう。

大政奉還と辞官納地2(王政復古)

大政を奉還しても,「猶見込之儀モ有之候者」なおその先に見込みあるから心配するなと諸候群臣に前日に示したのは分りますが,同じ文書を天皇への上表にそのまま使ったのでは、天皇に対して失礼ですが、消し忘れだったのか意味不明です。
当時の「見込み」は(今は可能性に重心があるの)と違って、単に「この先、どうなるのか気になること・・」くらいの意味だったかも知れません。
その上で,二条城では群臣に対して「いささかの忌諱を憚らずに意見を述べよ」と言ったことになります。
諸候に示した文書では「候者=そうらわば」と仮定形になっているのに対して、天皇に対する上表分では「候得バ」と過去形(この場合の「バ」は「・・ので」という意味?)になっているのも気になります。
心配する向きが多かったので,諸候に意見を求めて欲しいといった内容になります。
確かにこの後朝廷は急いで諸候を京へ招集していますが、形勢・・様子見をするために殆どの大名が上京せず朝廷側で督促のために何回も文書を出している様子です。
11月半ばに島津が3000の兵を率いて上洛し,12月8日にようやく山内容堂が到着して、これを待って翌12月9日が岩倉らによるクーデターとなります。

慶應三年十二月八日
(実際の布告は12月9日(1868年1月3日)ですが、何故か底本では8日付らしいのです・・この日岩倉邸に集まった薩摩・土佐・安芸・尾張・越前各藩の重臣に示した原稿が出回っているからでしょうか?
・・繰り返しますが,このコラムは私の独自の研究ではなく,ウイキペディアなどからの引用文プラス想像です。
 復古大號令布告

德川内府從前御委任ノ大政返上將軍職辭退之兩條今般斷然被
聞召候抑癸丑以來未曾有之國難
先帝頻年被惱
宸襟候御次第衆庶之所知候依之被決
叡慮
王政復古國威挽囘之御基被爲立候間自今攝關幕府等廢絶即今先假ニ總裁議定參與ノ三職ヲ被置萬機可被爲行諸事神武創業ノ始ニ原ツキ縉紳武辯堂上地下ノ無別至當ノ公議ヲ竭シ天下ト休戚ヲ同ク可被遊
叡念ニ付各勉勵舊來驕惰ノ汚習ヲ洗ヒ盡忠報國ノ誠ヲ以可致奉 公候事

一 内覽 勅問御人數國事御用掛議奏武家傳奏守護職所司代總テ被廢絶候事
一 三職人體(姓名略ス)
一 太政官始追々可被爲興候間其旨可心得候事
一 朝廷禮式追々御改正可被爲在候ヘ共先攝籙門流ノ儀被止候事
一 舊弊御一洗ニ付言語ノ道被洞開候間見込ノ向ハ不拘貴賤無忌憚可致獻言且人材登庸第一ノ御急務ニ候故心當ノ仁有之候ハ早々可有言上候事
一 近年物價格別騰貴如何トモ不可爲勢富者ハ其富ヲ累ネ貧者ハ益窘急ニ至候趣畢竟政令不正ヨリ所致民ハ王者ノ大寶百時御一新ノ折柄旁被惱
宸衷候智謀遠識救弊ノ策有之候者無誰彼可申出候事
一 和宮御方先年關東ヘ降嫁被爲在候得共其後將軍薨去且
先帝攘夷成功ノ
叡望ヨリ被爲許候處始終奸吏ノ詐謀ニ出無御詮ノ上ハ旁一日モ早ク御還京被爲促度近日御迎公卿被差立候事
 右之通御確定以一紙被仰出候事

12月9日佐幕派の占める御前会議終了により公卿が退出した後で、午後にはこれを決行して御所の9門を薩摩を中心とする兵が固めてしまいます。
これによって幕府も幕府寄りの摂関家・上級公卿の役職も全部廃止してしまい政府機関が3職(これが次の政体書で太政官制度になって行くのです)だけになるクーデターでした。
12月9日夕刻からの最初の三職・小御所会議での辞官納地論は社長を辞めるならその給与ももらえなくなるのは当然と言う論理になるのでしょうか?
しかし幕府の仕事に関しては家禄の外に役料制度があり(足高の制)役職に耐えられずに辞職した場合その役料を失うのは分りますが、先祖伝来の領地経営権まで失う謂われがないので、大政奉還と領地返納命令とは論理的に結びつきません。
社長の給与や社宅は返すとしても自宅や先祖伝来の農地・山林まで取り上げられる理由はありません。
国家全体の大政をする能力がない・指導力がない(謙遜の表現に過ぎません)ので覇者の地位を下りると言うだけで、自分の領地経営能力がないと言うものではありません。
経団連会長職をやめることと自分の会社が国家に没収されることとは関係がないことです。
ただ、朝廷(倒幕側)としては大政を奉還されても直轄領がないのでは裏付ける経済が成り立たないので、円満解決では慶喜の思惑通りに諸候会議を天皇の名で主宰するだけで、最大軍事力のある徳川家の意見が重きをなすことになってしまいます。
それでは薩長にとっては、今まで通りでしかない(これが慶喜の思惑でした)ので、ここで道理に反しても徳川家に喧嘩を売って勝負に出た・・徳川領の没収しかなかったとも言えます。
没収が成功すると薩長プラス旧徳川領の税収が新政権の経済基盤になるからです。

大政奉還と辞官納地1

大名があえなく失職してしまった流れを見ると、大政奉還後に諸候会議の議長にでもなれると思っていたら直ぐに領地返納命令→朝敵になってしまった徳川慶喜に似ています。
大名の場合巨額の借金を踏み倒していた以上は、(経営能力がないと言うことです)現在の政治感覚から言っても経営責任を取るのは当然だったと思われますが、徳川家の場合どうでしょうか?
慶喜の場合、大政奉還の理由として以下に紹介する通り「・・・政刑当ヲ失フコト不少(少なからず)今日之形勢ニ至候モ畢竟薄徳之所致不堪慚懼候・・」と自ら、政権担当能力ないことを披瀝しているのですから、政権担当出来ないならばその裏づけたる領地も返納しろと言われたのは一応の理が通っています。
以下は、07/18/05「明治以降の裁判所の設置1(大政奉還)」で紹介したところですが、もう一度大政奉還時の原文を紹介しておきましょう。
大政奉還の上表文
○十月十四日 徳川慶喜奏聞
臣慶喜謹而皇国時運之沿革ヲ考候ニ昔 王綱紐ヲ解キ相家権ヲ執リ保平之乱政権武門ニ移テヨリ祖宗ニ至リ更ニ 寵眷ヲ蒙リ二百余年子孫相承臣其職ヲ奉スト雖モ政刑当ヲ失フコト不少今日之形勢ニ至候モ畢竟薄徳之所致不堪慚懼候况ンヤ当今外国之交際日ニ盛ナルニヨリ愈 朝権一途ニ出不申候而ハ綱紀難立候間従来之旧習ヲ改メ政権ヲ 朝廷ニ奉帰広ク天下之公議ヲ尽シ 聖断ヲ仰キ同心協力共ニ 皇国ヲ保護仕候得ハ必ス海外万国ト可並立候臣慶喜国家ニ所尽是ニ不過ト奉存候乍去猶見込之儀モ有之候得ハ可申聞旨諸侯ヘ相達置候依之此段謹而奏聞仕候 以上詢


祖宗以來御委任厚御依賴被爲在候得共、方今宇内之形勢ヲ考察シ、建白ノ旨趣尤ニ被思食候間、被 聞食候、尚天下ト共ニ同心盡力ヲ致シ、 皇國ヲ維持シ、可奉安 宸襟 御沙汰候事

上表分最後の「乍去(さりながら)猶見込之儀モ有之候得ハ可申聞旨諸侯ヘ相達置候依之此段謹而奏聞仕候」の文意は(前後の事情勉強不足のため)不明ですので、ここで自己流の推測で書いておきます。
「見込みの儀もこれあり候えば」・・何の見込みと言うのでしょうか?
まさか,奉還してもどうせ朝廷には運営能力などないからその後徳川家に運営を頼むしかないと言う見込みでしょうか?
上表文提出の前日、二条城に諸候またはその代人としての重臣を集めて、この上表分の下書きを披露していますが・・。
上表の前日二条城で諸候に示した下書きの最後は、以下の通りになっています。

十月十三日慶喜諸藩ニ示ス書
「我 皇國時運ノ沿革ヲ觀ルニ(以下上表分とそっくり同じです)・・・乍去、猶見込之儀モ有之候者、聊忌諱ヲ不憚可申聞候。」

同日老中副書

今般上意之趣ハ、當今宇内之形勢ヲ御洞察被遊候處、外國交通之道盛ニ開ニ至リ、御政權二途ニ相分候而者 皇國之御綱紀難相立ニ付、永久之治安ヲ被爲計候遠大之御深慮ヨリ被 仰出候儀ニ而、誠以奉感佩候、殊ニ從前之御過失ヲ御一身ニ御引受、御薄德ヲ被爲表、御政權ヲ 朝廷ヘ御歸被遊御文言等、臣子之身分ヨリ奉伺候得者、何共以奉恐入、涕泣之至候、就而者、此上益以御武備御充實相成不申候而者、決而不相成儀ニ付、各ニ於テ聊氣弛無之、前文之御趣意相貫、御武備相張候樣、一際奮發忠勤、精々可被申合候

老中副書は第二次世界大戦敗戦時の「耐え難きを耐え・・」と似たようない言い回しで,「殊ニ從前之御過失ヲ御一身ニ御引受、御薄德ヲ被爲表、・・・何共以奉恐入、涕泣之至候」と感激した上で、この上は、一致団結して諸候はいよいよ武備を怠らず忠勤に励むようにと言う内容です。

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