米軍占領政治に戻りますと、ソ連や中共に占領されずに良かった・・比較的良かったというだけで、アメリカは謝らなくて済むかは別です。
比喩的に言えば同じ強盗に入られたならあの人でよかったという程度のことで、家族を殺された人が皆殺しに遭わないでよかったと言って、犯人に感謝したり謝ってもらわないままで、納得出来るかと言うことです。
以下、日本側の粘り勝ちで実際には布告されないで終わった幻の布告1〜3号の内容をウイキペデイアからの引用で紹介しておきます。
「布告原文は「マッカーサーの名において」発せられ、「日本國民ニ告グ」で始まり、概ね以下のような内容であった[8]。
布告第一号:立法・行政・司法の三権は、いずれもマッカーサーの権力の管理下に置かれ、管理制限が解かれるまでの間は、日本国の公用語を英語とする。
布告第二号:日本の司法権はGHQに属し、降伏文書条項およびGHQからの布告および指令に反した者は軍事裁判にかけられ、死刑またはその他の罪に処せられる。
布告第三号:日本円を廃し、B円と呼ばれる軍票を日本国の法定通貨とする。
マーシャルはさらに布告第三号に関してB円の現物を鈴木に見せ、すでに3億円分のB円を占領各部隊に配布してあることを伝えた[9]。布告を日本国民に知らせるためのポスターも約10万枚用意してあった[10]。直接的な軍政で日本を統治することが明白な布告であったが、実はこの布告自体が8月7日に最終決定された「ブラックリスト作戦」案と内容を異にするものであった[11]。
布告を突きつけられた鈴木は、マーシャルに布告に反対する旨告げるとすぐさま東京に向かい、政府に事の次第を報告する[9]。東久邇宮内閣は鈴木からの報告により緊急閣議を開き、外務官僚で終戦連絡中央事務局長官の岡崎勝男を横浜に急行させ、命を受けた岡崎はホテル・ニューグランドにいたマーシャルと会談を行った[9]。岡崎とマーシャルの深夜の会談の結果、とりあえず9月3日午前10時の布告公表は差し止めとなった[9]。続いて内閣から重光葵外務大臣が総司令部に赴き、マッカーサーとの交渉に臨むこととなった[9]。
当初計画では布告が発表されて30分後にあたる9月3日午前10時半、重光とマッカーサーの対談が始まる[9]。重光は、布告は「天皇制の維持と政府を認めている」ポツダム宣言に反し、国民も政府を信頼していることを切り出したうえで、布告に関して日本は認めがたく、行政上の問題が生じても政府がタッチできないので混乱が巻き起こるだろうから、布告は受け入れがたいと主張[9]。これに対してマッカーサーは、日本は敗戦国ゆえに課せられた義務は必ず遂行するべきであり、自分もそれを期待している[13]と説いた一方で、日本を破壊したり国民を奴隷にすることは考えておらず、布告は日本政府から発してもよいと述べ、要は政府次第であると返答した[10]。ここで参謀長のリチャード・サザランド陸軍少将が重光の意図をマッカーサーに伝え、布告を「日本政府に対する総司令部命令」を変えるよう進言した[10]。はたして布告は総司令部命令に差し替えられ、同時に布告中止の総司令官命令も発せられて軍政の施行は中止となった[10]、はずであった。」
敗戦に乗じて・・混乱すれば、これを口実に軍政を布けるので米政府の慫慂もあった可能性もありましたが・・違法行為を全国で働いて日本人を挑発したのは朝鮮人ばかりでした。
あちこちでの暴虐ぶりが今や明るみに出ていますが、当時の日本人は眉をひそめるだけで実力抵抗を一際しませんでしたので、米軍の付け入る隙がありませんでした。
これに対して、日本から「奴隷」解放された筈の朝鮮半島では、終戦前にアメリカ本国の作った予定どおりに軍政用の布告が施行されています。
マッカーサーは日本人と朝鮮人民度の違いを直ぐに理解したからではないでしょうか?
なお、GHQの軍令が日本では施行されずに日本による奴隷的植民地支配から解放する予定だった朝鮮では施行された詳細については、August 28, 2013「米軍占領政策1(虎の威を借る狐4)」で引用・紹介した朝鮮人学者から見た論文に詳細が書かれていますので、参照して下さい。