検非違使庁に関する本日現在のウイキペデイアの記述からです。
平安時代の弘仁7年(816年)が初見で、その頃に設置されたと考えられている。当時の朝廷は、桓武天皇による軍団の廃止以来、軍事力を事実上放棄していたが、その結果として、治安が悪化したために、軍事・警察の組織として検非違使を創設することになった。
司法を担当していた刑部省、警察、監察を担当していた弾正台、都に関わる行政、治安、司法を統括していた京職等の他の官庁の職掌を段々と奪うようになり、検非違使は大きな権力を振るうようになった。
官位相当は無い。五位から昇殿が許され殿上人となるため、武士の出世の目安となっていた。
平安時代後期には刑事事件に関する職権行使のために律令とはちがった性質の「庁例」(使庁の流例ともいわれた慣習法)を適用するようになった。
庁例(ちょうれい)とは、平安時代後期に検非違使庁が刑事事件に関する職権行使のために適用した慣習法としての刑事法。「使庁之例」あるいは「使庁之流例」とも称された。
検非違使の活動は原則律令格式に基づくとされていたが、犯罪捜査・犯人逮捕・裁判実施・刑罰執行の迅速化のために検非違使庁の別当が別当宣を出すことで律令法に基づく法的手続を省略することが出来た。検非違使庁別当は参議・中納言級の公卿から天皇が直接任命したために、その別当宣の効力は勅旨に準じ、律令格式を改廃する法的効果があると信じられた。こうした権威を背景にして、検非違使は時には律令格式を無視した手続処理を行うようになり、それを「先例」として事実上の法体系を形成していった。これが庁例である。
庁例に関するウイキペデイアの記事からです
庁例は律令法に比べて簡潔・敏速・実際に優れているが、三審制の原則が無視されて一審によって処断された。
事実上律令制形骸化→日本独自の慣習法が生まれてきた始まりと言えるでしょうか?
源平などの武士が担当していたことから、ドーテルテ大統領になってからのフィリッピンの現場射殺のように現場処分・・相当荒いことをやっていたに見えます。
江戸時代の火付盗賊改方に関するウイキペデイアの記事からです。
明暦の大火以後、放火犯に加えて盗賊が江戸に多く現れたため、幕府はそれら凶悪犯を取り締まる専任の役所を設けることにし、「盗賊改」を1665年(寛文5年)に設置。その後「火付改」を1683年(天和3年)に設けた。一方の治安機関たる町奉行が役方(文官)であるのに対し、火付盗賊改方は番方(武官)である。
この理由として、殊に江戸前期における盗賊が武装盗賊団であることが多く、それらが抵抗を行った場合に非武装の町奉行では手に負えなかった[1]。また捜査撹乱を狙って犯行後に家屋に火を放ち逃走する手口も横行したことから、これらを武力制圧することの出来る、現代でいう警察軍として設置されたものである。
上記のように適正手続の整備された平和な社会に乗じて犯罪が過激化すると、例外的に武装警察組織・現場制圧部門がどこの世界でも必要になることがわかります。
保険制度が完備すると乱診乱療の弊害が起き、生活保護の不正受給が起きるように何事も悪用が起きるものです。
国際社会で言えば、パックスアメリカーナの支配する社会が完備し、武力行使が制限されるようになるとこれをいいことにして(平和な国では取り締まりが甘いし、刑罰が軽くなる一方なので)却って粗暴な武力行使を誘発するようになります。
フィリッピンの現場射殺命令やメキシコ国境の壁建設不法入国者の強制送還等の新たな制度構築の動きは、この反動ともいうべきでしょうか?
何事もその社会状況に応じた制度が必要であって、その社会の実態を無視してある制度が良いと強制する間違っていますし、社会の変化に応じた制度変更を何でも反対するのは間違いです。
断固たる取り締まり実施の問題点は、要は民主主義を守るための規制か私益・独裁政権維持の為の思想統制目的かの違いですが・・。
共謀罪反対論の吹聴する「家族のちょっとした会話が共謀罪の対象になったり、飲み屋での会話が共謀罪の共謀認定されたり、通信傍受されるような運用」はあり得ないと書きましたが、法制度がどういう効果を持つかは、末端の(現行犯逮捕や裁判所の令状発布のなど)運用次第になるように思われます。
世界の制度研究したという学者の講演の批判を18年10月7〜8日に書きましたが、法というものは運用する仕組みの実態とセットで研究発表しないと法制度の意味がわかりません。
フランスでは刑事制度運用に対する信用があるから昨日紹介したような法制度ができたのでしょう。
思想によるレッテル貼りに戻りますと、手続のちょっとした違いだけで「軍国主義国家」かどうかの区別が出来るのでしょうか?
「軍国主義」と言う表現からして手続の違いではなく「主義」・・思想を裁く意味合いが強いとみるのが普通でしょう。
思想を裁き出したらその基準は何もありません・・厳密な議論をする学説でさえ「ある学派に属する」と言うだけではその範囲不明・・学者によっていろいろなハバがあるのが普通です・・まして政治行動を持って、特定の色付けするのは無理です。
投票基準として候補者の思想傾向が何色かどう言う人柄かを個人的に判定して投票するのは正確でなくとも相応の意味がありますが、権力的不利益処分基準・・占領して良いかどうか・・個人で言えば他人の家を占拠し、家人を支配下に置き従わなければ殺していも良いと言う権利の基準に占拠される人の主義主張を持ち出す(居住者が野蛮人・軍国主義者なら何をしても良い)のでは危険過ぎます。
文字どおり専制政治になります。
アメリカは、戦時中には病院船や学童引き揚げ船を撃沈し、一般人の住む市街を集中爆撃し、最後には原爆投下するなどした挙げ句に戦闘終了後には本来終結するとすぐに相互に引き上げルールを守らずに、長期にわたる占領政治をしてきました。
主権尊重・・戦争勝敗に拘らず主権を侵害出来ないなど400年も前から国際的に決まっている戦争のルールに全面的に反してきました。
そこには「勝てば人間を牛馬のように使役しても良いとするアメリカの奴隷使役の経験・思想があり、その思想の適用として日本を永久にアメリカに隷属させてしまう目的だったことが垣間見えます。
タマタマ、ギャング同士の仲間割れ・・朝鮮戦争が起きたので日本が助かっただけの話です。
日本のポツダム宣言受諾直後の占領政治は、・・奴隷国家化・・降伏したインデイアンに対するような処遇を想定していたとしか理解出来ない占領政治のやり方でした。
非人間行為を平然と出来る・・考えるアメリカ人とは何者か?の関心で16年8月25日「キリスト教国の対異教徒意識」以降書いてきました。
西欧では1648年のウエストファアーリア条約以降漸く「喧嘩に勝ってもやっては行けない限界がある」ことを支配層間の協議で「理性的に?」理解したものの、未だに心底納得していない・・本音では、異教徒は動物と同じ扱いで良いとする基礎原理思想「正戦論」の精神にまだ浸っている状態であることが分ります。
そのためには相手に仕返しされる心配がないと分れば、直ぐに理性のタガが外れてしまうレベルと言うべきでしょう。
報復力こそが最大の抑止力・・報復力のないものに対しては、虫けらのごとくどんな非人道的人体実験も可能とする思想を前提にするのが報復力の維持・・相互に核兵器を持つことが戦争抑止力になると言う平和思想論です。
北朝鮮もイランもこの論理で頑張っています。