脅威増大と軍事同盟の必要性2

米国の尻込み傾向が顕著になったので、中国としては実力行使してしまえば大丈夫という安心感を持ち、・・傲慢な態度が顕著になって南シナ海を自国領海と言い張って実力での囲い込みを始めた原因のように見えます。
中国の脅威が目前に迫ると少なくとも最大限の応援をしてもらえるようにしておく必要がある・日本も憲法の範囲内で少しは米国に協力する姿勢を示す必要があるとなって、周辺事態限定協力の誠意を示そうとなって今回の安保関連法議論がおきたものです。
圧倒的兵力差があるときには、米国が小指を動かす程度の負担で周辺国を制圧できたので、片務的・睨みを利かせてくれるだけでも良かったのですが、現在中国の侵攻に米国がまともに参戦すると米本国への核攻撃さえ招き兼ねません。
相互核攻撃までエスカレートしなくとも中国が米空母撃沈能力を持つようになると、米軍本格参戦に対するハードルが中国軍能力向上に比例して日々高くなって行くのは当然です。
このハードルを下げるには日頃協力度アップとの比例関係にあるし、高度兵器供給関係構築も重要です。
いわゆる安保法案の議論は、日本の国防をどうすべきかについて国民が一番心配しているのですから、そのことについて近い将来を見据えて、日本はどうあるべきかの与野党の議論こそが必要だった思われます。
「平和を守れ」というお題目を唱えるばかりでは議論になりません。
国会は参考人に国民世論が反対しているかを聞くための場ではありません。
どの程度米国に協力すべきかの議論の場に意見陳述のために出てきた人が、平和を守れとか、反対理由として国民過半数反対とか国民に対する説明が足りないとかヒトのせいにしているのでは議論になりません。
与野党対決していることを前提により良い意見があるかを聞くのが参考人意見陳述です。
野党の反対意見をおうむ返し的に主張するだけでは、与野党双方の気づかなかった着眼点を教えてもらうことになりません。
奥田氏意見は野党論の新たな論拠提示でなく、すでに知られた野党の主張根拠の繰り返しでしかないので、こうなったら採決で結論を決めるしかないでしょう。
安保法案はどうやって国防すべきかの方法論ですが、左翼系野党は方法論段階でまだ自衛権否定を基礎に置いた理念論(中国と仲良くすれば済むことだ)を繰り返すだけです。
民主国家とは言え目的が違う組織集団といくら話し合っても目指す方向が違うのでは、時間をかけて説明しても反対したい目的が変わる訳がないので一定の議論を尽くせば国民の意思→選挙結果→多数決で決めるべきです。
合理的議論を受けつけない野党の姿勢が60年安保以来続いているので、国会審議は内容ではなく何時間の審議時間を確保したか、野党推薦者の意見を聞くという形式基準重視になってしまい、審議終了後は強行採決反対というおきまりの主張と不信任決議連発の時間稼ぎが常態化していました。
ただし国民大多数反対無視という虚勢が通じなくなったこの4〜5年では、不信任決議を出すと、じゃ国民の信を問いましょう→選挙になるのが怖くて?不信任決議を出せない状態が続いています。
奥田氏は

「今、これだけ不安や反対の声が広がり、説明不足が叫ばれる中での採決は・・・」

と言うのですが、国民過半数が本当に反対しているならば、与党に(選挙で負けていいんですか!と温情をかけずに、ズバリ選挙に持ち込めば良いことです。
こういう主張自体が、国民には賛成の方が多いと自白しているようなものでしょう。
「私、私たちこそがこの国の当事者、つまり主権者であること」という自己紹介から始まった意見陳述ですが、政治家は主権者の意見を聞くべきということと、主権者一人あるいは少数者のいうとおりすべきこととは同じではありません。
主権者の一人だから・というのは、当然すぎて意見がその意見が正当である根拠理由になっていませんので、ここで、自分、自分らは主権者であることの強調は、自分らの意見の具体的理由の合理性の有無を横に置いて、「まず尊重すべき」と印象付けたいように読めます。
もともと反対論の根拠を説明する気持ちがないことを予告するような陳述の始まりです。
結果的に一定の時間論議を尽くしても奥田氏のように過去「70年間の平和の誓い」を守れ式の意見に固執しているグループと、過去70年間とは違った新たな環境でどうするかの対応を決めたいグループとは議論の前提がかみ合っていないママでは議論をするのは不毛です。
奥田氏発言全文という記事を読み返しても安保法案に反対してその代わりどうやって平和を守るかの意見が見当たりません。
せいぜい過去70年間平和の誓いを守れと言う程度です。
ただし7月27日紹介した産経記事では

《対話と協調に基づく平和的な外交・安全保障政策を求めます》《北東アジアの協調的安全保障体制の構築へ向けてイニシアティブを発揮するべき》《中国は政治体制こそ日本と大きく異なるものの、重要な経済的パートナーであり、いたずらに緊張関係を煽るべきではありません》」

産経記事ではどこで発言したのか?(出典を書いてあったはずですが記憶がはっきりしません)不明ですが「中国と仲良くすれば良い」と言うような主張と日本が「いたずらに緊張関係を煽るべきではありません》」という言い方は日本に責任があるという主張です。
日本になぜ責任があるか根拠不明のまま結論が出てくる感じです。

脅威増大と軍事同盟の必要性1

本来日本が経済大国になった頃からは、普通の能力相応(7対3の国力ならば7対3の分担)の相互的な同盟関係になるべきだったでしょう。
このため日米はパートナーシップで・・という表現がその頃から増えてきたようになった記憶でしたが、当時は日本にとって中ソの脅威は実感のない脅威論でした。
むしろ国際的人気のないベトナム戦争の出撃基地(トンキン湾空爆は沖縄からの発着機で実施?補修等の兵站拠点は当然)になっているという面で、日本が貸しを作っている関係が続いていてたので国内の迷惑施設論も一応の実質がありました。
当時は中国の脅威が迫っていなかったし、ソ連の表向きの発表と違い国力レベルの低さが知られていた上に、何と言ってもソ連の正面は欧州であって日本は裏側(いわゆる搦め手)である上に、間に広大なシベリアがあるので、日本にとって危機感が乏しかったことによります。
明治以降のロシアの脅威論は、満州〜朝鮮半島にロシアが触手を伸ばしつつあり、(日清戦争で保護者であった清朝との関係が断ち切られ、李氏朝鮮が独立して大韓民国宣言後、初代皇帝がロシア公館へ逃げ込んだ例を見てもロシアの影響力の浸透ぶりは分かるでしょう)勢力圏にした場合日本にとって直接競り合う関係になるからでした。
戦後は、日露戦争の敗北でせっかく付き上げてきた満州の権益を日本に奪われた遺恨を晴らすために、日本敗戦のどさくさにつけ込んで日ソ不可侵条約を突如破棄するとともに、大挙して満州になだれ込み領土野心を満足させました。
(日本はロシアとの平和条約締結の障害としていつも北方領土返還が解決しないと無理と言いますが、本音はロシアが満州で行った暴虐行為プラスシベリヤ抑留を許せない気持ちが強いのが真の原因です。)
火事場泥棒的に満州地域をせっかく支配下に置いたのに、中国が満州地域を勢力下に置いて国家樹立してしまったので、日本はロシア南下の脅威が軽減されることになりました。
さらに中ソ対立が起きるといよいよ、日本の中ソに対する危機感がいよいよ薄らいだことになります。
しかも中国はロシアの脅威に取って代わるほどの国力がなかったので余計安心仕切っていた状態が続きました。
米国もその安心感で中国を支援してきたものです。
ところが米国の支援を受けた中国が急速に経済力をつけてくると中国は自信を持って米国への挑戦者に名乗りを上げることになったのがこの約10年間と言えます。
今や自国保守に汲々とするどころか周辺に打って出る勢になってきました。
中国が領土野心を持つようになったので、日本にとってはロシアが満州や朝鮮半島支配する場合より危険性が増したことになります。
戦後米国の核の傘の下でぬくぬくと安保ただ乗りしてきた日本が初めて自国防衛の必要性に迫られるようになったのです。
一方で米国にとっては死命を制する決着は核弾頭時代に入っているので、自国防衛のためには、情報収集基地はあった方が良いとしても戦闘力としての前線基地不要の時代に入っています。
むしろ敵基地に近接した前線基地は人的リスクが大きく、マイナスの方が多くなるので、自国兵の駐屯をできるだけ減らして行きたい関係です。
韓国駐留兵をどんどん減らしているのはこの一環ですし、将来的にはグアムの線まで引いてしまう戦略・・日本列島内基地すら維持する必要性がなくなって行くでしょう。
こうなると日本にとり、自国安全を図るために自前の兵力で一定程度まで守る必要性の増大と、応援してくれる同盟が必要な状態となったので、いつまでも安保タダ乗りは許されなくなっています。
普通に考えれば、タダ乗りしている限り米国にリスクが殆どない程度の応援しかしてくれないのでないか・・タダ乗りでなくとも中露相手の時には、米国自身核攻撃受けるリスクあるので、協力できる限度も限られるでしょう。
米国が日本の応援で米国軍自体が尖閣諸島攻防戦に直接出撃した場合、中国が米国からの核の反撃を受けるリスクを覚悟してでも米国を核攻撃すると脅せるか?という心配です。
中国も米国の核反撃が怖いので米国の投入してくる兵器レベルに合わせた反撃で我慢するしかない・・結局は通常兵器・通常戦の優劣で勝負がつくと思われますが、それにしても他国の戦争で瀬戸際状態に米国が引きずり込まれるリスク・・覚悟までしてくれるかは予断を許しません。
何回も紹介していますが、スエズ運河の国有化宣言に頭にきた英仏連合軍がスエズ進駐した時にソ連に大陸間弾道弾をお見舞いすると脅迫されたことがありました。
この時同盟国の米国が「こちらはソ連に核弾頭をお見舞いする」と言い返してくれず、英仏は涙をのんで・大恥掻いて撤退した歴史があります。
米ソのこれまでの介入事例では、米ソがいずれか先に戦力投入現場には米ソいずれも直接軍事投入しない不文律が守られてきました。
直接戦闘に発展するの防ぐ知恵でした。
核弾頭保有の超大国同士では、直接戦闘に参加しないという不文律(核抑止力)があるとした場合、中国の日本攻撃が始まると米国は背後で情報提供、武器供給や作戦指導程度の応援しか出来ないことになるのでしょうか?
最近では、ロシアが数年前にウクライナに侵攻してクリミヤ半島を切り取り、さらにウクライナ本土東部に侵攻作戦を実行し実効支配しても、欧米諸国は経済制裁や停戦斡旋する程度です。
中国が、香港での一国二制度の約束違反があっても外野で騒ぐ程度しかできないのと同じでしょうか?

United States of Americaとは軍事連合体?

国連と翻訳している組織も、元はと言えば対日独伊戦争のために組織した連合国という意味の流用です。
国連に関するウイキペデイアの記事です。

国際連合(こくさいれんごう、(英語: United Nations)
英語表記の「United Nations」は、第二次世界大戦中の枢軸国に対して連合国が自陣営を指す言葉として使用していたものが継続使用されたものであるが、日本語においては戦時中の連合国と区別して「国際連合」と呼ばれる。

StatesをNationsと言い換えているだけですが、StatesとNationsの違いですが、https://www.eigo-love.jp/country-state-nation-land/の解説が素人的にはわかり良い解説です。

「国」を意味する名詞の中で最も一般的なのはcountryです。countryは幅広く使うことができますが、例えば“I live in a different part of the country to my parents.”(私は両親とは違う地方に住んでいる)のように、土地、つまり「国土」に重点を置くニュアンスをもっています。landはcountryと同様「国」、「国土」という意味で使われる単語ですが、countryよりも一般的ではなく、使われる頻度は高くありません。
nationはcountryとは異なり、国土よりも国民に重点を置く単語です。
nationはその国家が共通の文化や言語を共有する国民からなっていることを含意しており、定冠詞theをつけて“the nation”とすると「国民」を意味します。stateは政治的に組織され、一定の領土を有している人々の集団としての「国家」を意味します。stateは、“EU member states”(EU加盟国)、“the welfare state”(福祉国家)など、主に政治的な文脈で多く使われます。

私の理解で言い換えれば、countryは〇〇地域とか〇〇地方のことであり、nationは日本で言えばお国の訛りというか県民性あるいは江戸時代までの国別気質・・今で言えば民族国家を基礎にした概念であり、国連創設時の民族独立の理念にもあっているでしょう。
stateは民族性や県民性のような実質的一体性を含まない行政的線引き・・首都圏や大阪圏のようになってくると、行政による県境・区割り線引きがほとんど意味をなさない・・今回新型コロナ蔓延によるの緊急事態対象が東京都の隣接県に及んだ現状にあっています。
アメリカの州は、まさにこれに当たるでしょう。
アメリカの州の成立過程を知りませんが、日本ほど古くなくとも多くの国を基準にしても民族的同一性を育むほどの期間がなかった点は確かでしょう。
日本列島で諸国分国制度を制定した律令制制定前には、縄文の昔から考えれば各地集落群落には1万年以上の歴史があり、地域別の地形や気候風土を元に育まれた習慣等の歴史をバックに、分国したものと思われます。
だからこそ日本列島を68ヶ国に区分けした時に、北アメリカの地図やアフリカの地図のように国境が地図上の1直線で区切られず、複雑な地形になっているのは、当時の民族?各地生活習慣価値観の相違があることを理解していたからこそでしょう。
同時に各地の風土記の提出を求めたのは地域別に棲み分けるに足る気候風土や生活習慣や考え方の違いを中央政府として知る必要があったからでしょう。
日本列島で定住が進んだ(主に縄文人)・・長くは万年近く、短くとも数千年の長い間狭い日本列島で各地に棲み分けて来たのには相応の気候風土の違いがあり、それに応じた生き方を身につけていた・・その知恵を生かせる定住が有利だったからでしょう。
縄文時代に関するウイキペデイアの解説です。

縄文時代(じょうもんじだい)は、日本列島における時代区分の一つであり、世界史では中石器時代ないしは、新石器時代に相当する時代である。旧石器時代と縄文時代の違いは、土器と弓矢の発明、定住化と竪穴式住居の普及、貝塚の形成などが挙げられる。
始期と終期については多くの議論があるが、まず始期に関しては一般的に16,000±100年前と考えられている[1][* 1]。終期は概ね約3,000年前 とされる(諸説あり)。

上記の通り定住化していたことは三内丸山遺跡からも知られているところですから、これが水害等によって近距離移住があっても大多数は一定の地域内移動であったとすれば、律令制で68カ国に分国したのが紀元後約七百年ですから、そのころの定着していた気質・行動パターン(田植えや稲刈りの時期あるいは何々漁開始・解禁の掟・時期も同じ程度の行動様式を前提に分国統治対象にしたものと思われます。
米国の場合、伝説的説明・メイフラワー号が1620年ですから、独立戦争までわずか2百年足らずであり、しかも北米各地は英仏だけでなくオランダ、スペインなどいろんな国からの移民で成立している上に、気候風土も日本のような多様性がないのでわずか二百年足らずで地域に根ざした民族特性・価値観が成立するには時間が少な過ぎます。
集団生活とは、西洋式闘争が真っ先に来ると思い込んでいるのかな?日本の考古学者は砦のような柵で囲んだ集落をイメージした模型を作って展示していますが、私の素人理解では縄文文化での定住集落形成は、闘争目的で形成されたものではなく協同作業目的で形成されてきたものです。
集団内秩序も気配りというか集団意思形成・・みんなですり合わせていく作業が重要で、卓越したリーダーシップを求める必要のない社会です。
これに対して日本とポリネシア系、東南アジアの民族を除けば、まず敵と抗争するための集団性が強く戦い取っていくための性質が強いように見えます。
いわばギャング山賊海賊集団が大きくなったようなものでしょうか?
この典型的イギリス系移民は、集団利益を守り、拡張するための集団・移住先ごとのコミュニティを形成し、周辺移民集団コミュニティとのテリトリー・・水平的縄張り争いと並行して先住民の生活圏への侵蝕等の闘争に主眼を置いて発達してきたのではないでしょうか?
移民同士の縄ばり争いが終盤に入ると、先住民に対する、民族浄化に邁進し始めます。このような発展過程を経た北米移民間では、地域集団ごとの民族気質など育つ暇もなかったというべきでしょう。

軍事政権批判論?(ミャンマーの場合)2

欧米の軍政批判〜人道主義論をうがった見方・悪意で見れば、英米はようやくトロイの馬のごとく仕立てたスーチー氏の政権獲得に成功したものの、したたかなビルマ人の能力が上回っていた・・・欧米の評価の高いスーチー政権に看板だけ与えて、経済制裁を免れた上で、直ちに欧米傀儡(獅子身中の虫)のロヒンギャ潰しに動いたと見るべきでしょう。
あるいは民族間紛争棚上げ目的で、ロヒンギャ駆逐に一致団結しているかのように見えます。
ロヒンギャだけなぜ、国民一致の標的になったかの疑問ですが彼らが英国の分断政策に乗ってしまったことが大きな原因のように見えます。
昨日見た「移民国家」という説明を読むと(全部引用していませんが)いろんな部族が次々とやって来た点ではロヒンギャも同じですが、最後にやって来た新参であるにもかかわらず・・逆に新参で最も弱い立場であるからこそ、挽回のために世界の強国英国の後ろ盾を利用して先住既得権益者を追い払う逆転を狙った点が嫌われたのでしょう。
どの部族も武装解除に応じないままの停戦協定というのですから、各部族はそれなりの怨恨の歴史があって相容れない関係でしょうが、それでもビルマ領域内・一種の世界内での土着民族内に争いという共通項を持っているのでしょう。
日本は古代から列島内を一つの「天下」と見て来たし・・列島外からの侵略には一致して戦ってきました。
ギリシャ都市国家は「いざとなれば一致団結して戦う」この精神の母体をヘレネス信仰?と言ったかな?特別なことのように高校歴史で習いましたが、今考えればどこの地域でも地域内紛争と外敵の関係は同じでしょう。
スーチー氏政権獲得(16年)とほぼ同時にロヒンギャ襲撃が過激化したのは偶然の一致ではないでしょう。
一橋慶喜が京都で総裁職だったかについていた時に、旗揚げした(というより地元水戸で主流派に追い落とされたので集団逃亡したような経緯ですが)水戸天狗党が彼を頼って各地転戦しながら京に向かったのですが、北陸に至った時に肝心の慶喜が討伐軍のトップについてしまい、結果的に天狗党の大方が処刑されたことがあります。
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/9201

2017年3月30日
スーチー政権発足から1年、早くも難局にさしかかる政権運営
藤川大樹 (東京新聞記者)

ミャンマーで昨年春、アウンサンスーチー率いる国民民主連盟(NLD)の新政権が誕生した。半世紀にわたり国軍の強い影響下にあった同国で、選挙による民主勢力への政権交代は歴史的な快挙だった。あれから、間もなく1年。国民の熱狂は次第に冷めつつある。国際社会も、西部ヤカイン(ラカイン)州の少数派イスラム教徒ロヒンギャに対する人権侵害疑惑に厳しい視線を向けている。実務能力を欠く新政権に、国軍は早くも見切りをつけたとみられ、アウンサンスーチーの政権運営は難局に差しかかっている

欧米はスーチー氏に、ロヒンギャ問題の解決を求めているもののスーチー氏もこれには応じられない状態です。
国連調査団さえ入国国拒否せざるを得ないのが、スーチー政権の現状です。
https://jp.reuters.com/article/myanmar-rohingya-nobelpeaceprize-idJPL3N1VL094

2018年8月30日 / 09:59
スー・チー氏のノーベル平和賞剥奪ない=委員会事務局長
スタバンゲル(ノルウェー) 29日 ロイター] – ノーベル平和賞の受賞者を選定するノルウェー・ノーベル委員会は29日、ミャンマー軍がロヒンギャ族に対して大量殺りくを行っているとの国連報告を踏まえても、政府を指導するアウン・サン・スー・チー国家顧問のノーベル平和賞剥奪はないと表明した。
アウン・サン・スー・チー氏は民主化運動により1991年にノーベル平和賞を受賞したが、ラカイン州における軍の弾圧に反論していないと批判されている。

鎌倉幕府が都から源氏の将軍を歴代迎え入れていたのと同じ構図です。
欧米諸国はアウンサンスーチーを鳴り物り入りで応援していた手前、どうして良いかわからないようです。

軍事政権批判論?(ミャンマーの場合)1

10数年以上前から、ミャンマーの軍政だけ欧米が目の敵にするのはおかしいという意見を書いてきましたが、アラカン族にとっては、ビルマに征服されてから、イギリスに支配されイギリス支配から免れるためにビルマ全体の日本軍に協力に参加し、日本敗退後はビルマのイギリスからの独立運動に協力してきた苦難の歴史(独立戦争は日本敗戦後のことですから、日本の戦後より短いのです)が、つい最近のことでしょう。
ビルマ全体がイギリスからの独立戦争を戦い抜いた歴史・軍事政権とはそういうことです。
欧米にとっては自分たちに歯向かったビルマの軍政が許せないでしょうが、国民にとっては軍こそは欧米支配から独立の旗印・象徴ですから軍の威信は絶大と思われます。
ビルマ独立直後の政治を見ると、中国の辛亥革命後の軍閥の乱立混乱状態の小型版の中から、平野部を抑えたネ・ウインがクー・デ・ターによって政権掌握したものですが、いわば蒋介石が軍閥の抗争から一頭地を抜いて南京の国民政府を仕切るようになったのと本質的違いがなさそうです。
フランス革命もジャコバン独裁からナポレオン帝政へ・ロシア革命も結局は選挙無視のクーデターによるものであり、韓国も混乱回避のために軍事政権が続いた結果の民主化ですし、戦乱を統一するには最終的に武力によるしかないのは、どこの国でも同じです。
乱世平定後民心が安定してから文治政治に移行するものであって、まだ国内が固まらないうちから文治政治では国が治りません。
イギリスに抵抗した腹いせのように、これを民主政治破壊の軍事政権と定義づけて国際批判・経済制裁するのは、(10年以上前にアメリカは中南米や韓国軍事政権を容認していたのに、ビルマだけ許せないのは独立戦争に対する欧米の腹いせ」だと書いたことがあります。)無理筋でしょう。
英米の支援を受けたアウンサンスーチー氏の反軍政・民主化運動に対抗するのは、ビルマ軍としては独立戦争の継続みたいに受け止めていたでしょう。
アラカン人は本音では、ビルマ中央からの独立を希望しているのかも知れませんが、(このために政府はアラカン人の対ロヒンギャ強硬論を無視出来ない関係です)内部不満/敵対勢力一掃の方が先という戦略で、ビルマとともに日本軍に協力し、ビルマ全体の独立戦争に協力してきたようです。
ロヒンギャは日英戦争では英軍側についていた関係もあり、日本敗戦後すぐに始まったビルマの対英独立戦争でも明白に英国側で戦わないまでも、積極的にビルマ独立に協力しなかったと思われます。
しかも何十年にもわたる英米主導の対ビルマ経済制裁下で、スーチー氏の運動を応援していたロヒンギャは、侵略軍の手先のように国民意識にすりこまれてしまったように見えます。
長年のスーチー氏の反政府運動をロヒンギャが支持してきたことにより、アラカン人のみならず、その他相争う少数民族全体(ミャンマーの少数民族はなんと百三十五もあると言うのですが、「ロヒンギャを許せない」と言う点では一致している様子)がロヒンギャだけは容認できない・・仇敵関係になってしまったように見えます。
ロヒンギャとしいては、頼みのスーチー氏がようやく政権を得たので、その庇護を期待したのでしょうが、ビルマ全体の敵としての位置づけが確立してしまったロヒンギャをスーチーが保護できません。
スーチー政権は(欧米の傀儡でなく)民主化運動の成果である以上、国民大方の意向を無視できないのは当然です。
民族和解の精神はその他部族との和解には、使えてもロヒンギャ問題解決には使えないのです。
民族和解に向けた会議で「ロヒンギャだけは別」という方向で会議が進んでいるのでしょう。
下記の通り、少数民族との停戦合意が成立したのですが、ロヒンギャだけは別扱いのようです。
https://thepage.jp/detail/20150603-00000013-wordleaf?page=2
によれば、ミャンマーは移民国家であり、部族間の戦争は移民同士の争いに集約されるようです。

ロヒンギャ漂流問題 ミャンマー少数民族の対立と迫害の歴史
2015.06.05 16:25
3月末にミャンマー政府と16の少数民族との間で停戦合意草案が調印されました。しかし、5月下旬に入り、イスラム系少数民族ロヒンギャの数千人規模の難民が同国沖を漂流したり、ロヒンギャらとみられる大量の遺体が見つかったりするなど、いまだ根強い少数民族問題が垣間見えます。
実は「移民による多民族国家」
ミャンマー(ビルマ)はアメリカ合衆国やカナダと同じく、「移民による多民族国家」です。
人口約5100万人の60~70%を占めるビルマ人のほか、シャン、カレン、アラカン(ラカイン)、モンなど130を超える少数民族で構成されています。少数民族の多くは、インド、バングラデシュ、中国、ラオス、タイとの国境付近に暮らしています。
人口2位のシャンは推定350~400万人、3位のカレンも推定300万人で、けっして「少数」ではありません。
この規模の独立国は世界にたくさんあります。世界の1/4の国(約50か国)が人口300万未満です。つまりミャンマーは、独立国家を持っていても不思議ではない複数の「少数民族」を抱える多民族国家なのです。
紀元前から住んでいたのは、モン人やピュー人と考えられています。現在、この地を支配しているビルマ人は先住民ではありません。
ビルマ人は、9~10世紀に大陸から南下してきた広義の移民(移住者)なのです。
11世紀、ビルマ人は最初の統一王朝(バガン王朝)を建国し、この地に仏教を根づかせました。少し遅れて、北方からシャンやカレンなどの民族も移住してきました。ほかの多くの少数民族も、中国から南下してきた移民です。
その後は、シャンが勢力を強めたり、モンがビルマ人の王朝を倒したりと、移民の対立・紛争の時代が続きました。
現在の領域にほぼ固まったのは、イギリスの植民地になった19世紀半ば以降です。ビルマは英国領インドの一部となり、南アジア系民族(ベンガル人ほか)が入植してきました。
肌色・容姿が日本人に近いビルマ人は、南アジア系の人々を「カラー」(外来者の意も含む)と呼び、快く思っていません。あまり声高に語られませんが、「ビルマ人vs.カラー」という火種も残っているようです。
イギリスの家芸の民族分断統治によって、「ビルマ人vs.少数民族」という対立構造もしっかり強化されました。
第二次大戦後の1948年、ビルマは連邦国家としてイギリスから独立しましたが、直後、南東部の少数民族カレンが武装蜂起したのです。
1962年にネ・ウィン政権が誕生し、ビルマは社会主義路線に進みました。1988年、民主化運動の激化で後任のサン・ユは退陣したものの、国軍がクーデタで全権を掌握。国際社会の批判を浴びながら、長らく軍政が続きました。
その間も、カレンだけでなく、カチン、シャン、カレンニー(カヤン)などの少数民族による独立・反政府運動は止まりませんでした。
国際社会の眼は、「軍事独裁政権vs.国民民主連盟(アウンサンスーチー率いるNLD)」という“ビルマ人内の民主化問題”にしか向けられませんでした。スーチーの軟禁状態がいつ解かれるのか。解放されると、いつ軍事政権と和解するのか、真の民主化は進むのか。ヤンゴンのビルマ人に聞くと、カレンやカチンなど少数民族の問題は「よそごと」という声が返ってくるようですが、国際社会にとっても同様だったのです。

私の推測ですが、もしかしてアラカン族支配地内の少数民族という位置付けで見れば、ビルマ国内の大手少数民族間の協調優先の為に各部族内のさらなる少数民族問題を他の部族はタブー視して口出ししない(アラカン族の独立運動を封じるために国軍がロヒンギャ迫害に協力するのもその一つです)「国際」協調路園があるのかもしれません。
15年3月の16部族間停戦合意後、ロヒンギャ迫害がいきなり激しくなったのはその流れとも読めます。
ミャンマー周辺国がこぞってロヒンギャに冷淡なのは、国家規模での協調に影響がある・・「お互い内政不干渉が大人の知恵」という立場でしょうか?
ミャンマーの部族一覧のウイキペデイアからです。

ミャンマーの民族の一覧である。
ミャンマーでは、大きく8つの部族、全体で135に及ぶ民族が存在する。そして、それぞれの部族は、それぞれの州そして文化を持っている。

上記の通り大手部族内にいくつものさらなる少数部族を抱えているのですが、大手部族内部の抗争に外部の部族が口を挟んでいたら収拾がつかないでしょう。

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