明日はクリスマス・イヴなので、例年の習慣に従って日頃の連載は休んで今日明日の特番です。
今年の年末は、22日の土曜日から23日の天皇誕生日(平成天皇の来春ご退位によって天皇誕生日はこれが最後です)24日は振替休日で3連休となりました。
平成天皇最後の記憶に残るプレゼントになり、良き巡り合わせでした。
私は、12月7日に日弁連の委員会出席の帰り午後3時頃に東京駅前のKITTEという旧中央郵便局を残した高層ビル1階にあるコーヒー店で都内に住む末の娘と待ち合わせてコーヒーを楽しんだことから、偶然東京大学(当時は工部大学校)草創期の旧研究室の備品?らしきものの展示室が目に入り、そこへ入るとレトロな雰囲気と明治初期に研究用に集めた色々な品々の素晴らしさ!窓外に目をやると東京駅前広場を取り囲む高層ビル街の電気のきらめきが一気に気に入りました。
気に入った勢いでこの連休初日・22日に、妻ともう一人の娘の三人で、銀ブラならぬ、丸の内ブラを楽しみながら、KITTEに再び行くことになりました。
日暮れを目指して自宅を出て、まずは旧GHQのあった明治生命ビルの見学をして、日暮れどきの丸の内のイルミネーションを楽しみながら目的のKITTEへ行くコースで楽しんできました。
気候は雨模様でしたが、いきなり寒くなった1週間ほど前の気候にくらべて穏やかな日でしたので、しっとりした空気の中で気持ちよく散策できました。
東京駅前の広場では、多くの人もくつろいだ様子でイルミネーションや高層ビルの夜景を楽しんでいて、見ているだけで平和な社会を実感できて良い雰囲気でした。
私にとっては、旧GHQ本部跡の明治生命ビルの見学は、10年ほど前に妻と一緒に行ったことがありましたし、両方とも2回目でしたが、(今回は各所の説明がデジタル化されていて)2回目の方がよりよく理解できた印象です。
GHQ執務場所跡の方は10年ほど前に行った時と見学者は同じ程度マバラでしたが、KITTEの方は12月7日に行ったウイークデーと違い3連休中初日であったこともあって、しかも中央吹き抜けのクリスマスツリーの大人気のせいか?人出が多く、その余波か?東大博物館?もかなりの人出になっていました。
(12月7日は館内に見学者が4〜5人程度しかいなかったのですが・・)
見ていると、明治初期に欧米の模倣で大学というものを創設しものの、(藩校その他の文系教育の経験があっても)理系学問所としての経験のない日本では、何から手をつけて良いのかわからず手当たり次第に多方面の標本等を集めていたような印象を受けました。
展示品はそれぞれは精巧なもので感心しましたが、今のように理学、工学、電気、化学、鉱石学・民俗学や生物学その他理科系分業の進まない状態で、民俗学的資料に至るまで(アフリカや南米のお面まで)幅広く研究材料を集めていたイメージで、草創期の大学は大変な状態であったことがわかります。
明治生命ビルでは、GHQ接収時には、明治生命ご自慢のせっかくの文化的内装を嫌って?緑いろのペンキを塗りたくられていたので、昭和31年にGHQから返還されると明治生命はすぐに旧に復する工事をした経緯も説明されていました。
ペンキで塗りたくった行為は、庶民ではなく最高司令官の執務場所を仕切る側近の文化レベル・・・日常接している最高司令官の文化レベルを表すのでしょうが(・・幕末ペリー来日時同様に?)他国文化というものを理解できないのが、アメリカの文化レベルというべきでしょうか。
マッカーサーは単なる軍人としてではなく、日本占領統治を委ねられた以上は、幕僚には経済や軍事、法律、宗教や伝統文化関連等の専門家がいたのでしょうが、良い建物だからこそ司令部執務用に接収しておきながら、室内をペンキで塗りたくる神経が異常です。
一般的に言えば現地文化の理解力・基礎教養の低さを表すとも言えるし、逆に征服者の傲慢さを見せつけるためにあえて行った地元文化無視の示威行為だったとも言えます。
この辺は、セブン・イヤーズ・イン・チベットという映画・・中国軍圧迫に抵抗していたダライ・ラマ14世が最後にチベット脱出を敢行したときの映画を見たことがあり、そのとき強烈に残っている印象をもとに書いているのですが、日本撤退後中国軍の圧迫に恐れをなしたチベット側が、中国使節を迎えるために今で言えば式典用に王族等が歩く通路に絨毯を敷き詰める場所に、絨毯の代わりに人民・・チベット族最高技術者を駆り集めたのでしょうが、丹精込めて足元にチベット仏教の精神模様らしきものを描く場面があって、その直後に到着した中国軍人がせっかく丹精込めて作り上げた足元の文様をあえて中国高官が蹴散らしながら、いばり散らして傲慢に宮殿(寺院?)に入っていく状況を活写していました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/セブン・イヤーズ・
『セブン・イヤーズ・イン・チベット』(Seven Years in Tibet)は、1997年のアメリカ映画。ジャン=ジャック・アノー監督作品。
アイガー初登頂で知られるオーストリアの登山家ハインリヒ・ハラーの自伝の映画化。彼がチベットで過ごした7年間、彼と若きダライ・ラマとの交流を描く。
映画に対する中国の反応など
『セブン・イヤーズ・イン・チベット』の公開後、中華人民共和国政府は、映画の中で中国人民解放軍の士官が意図的に無礼で傲慢な人物として描かれている、また中国人民解放軍兵士がチベット人に対し虐殺したかのような演出がされたとして強く非難した。このため『セブン・イヤーズ・イン・チベット』は中国で上映禁止となった(言論統制)。また、映画の監督および主演者のブラッド・ピット及びデヴィッド・シューリスは中華人民共和国支配地域への立ち入りを無期限で禁止されたが、ブラッド・ピットは2016年11月に出演作の宣伝のため中国を訪問している[3]。
以上によると約20年前に見たことになります。
映画を見たときに「中国って怖い国だな!という印象づけを受けた映像でしたが、(中国が政敵を倒すと何十マン人も穴埋めしたり、生け捕りした敵将に対して捉えた親の肉を切り刻んで食べせるなど、人とは思えない残虐行為の歴史を想起する仕組みでした。
これは米国的価値観による中国批判ではなく、支配者になり優位に立ち被征服民を牛馬や犬猫のごとき扱いをするには、「相手の文化を全面無視にする」ことから始めた方が良いという米国の価値感が背景にあったのかもしれません。
ただし、中国が映画を批判しているようですが、現在ではウイグル族100万人以上を監禁しては拷問などを続けているという批判をうけています。