貨幣経済化と扶養義務2(明治民法3)

 

家庭内の権限集中のテーマ意識から、リーダーシップに話題が移ってしまいしましたが、2010-12-7「貨幣経済化と扶養義務1」の続きに戻ります。
権限・財力の集中が起きて来たから、扶養義務の観念が必要になったと言う問題意識のテーマです。
上記コラム出した例で言えば、収穫したトマトや野菜をその場で・家庭内消費する限り問題ないのですが、農業社会でも貨幣経済化・・・これを市場に出して換金するようになると、1家族の中で貨幣収入(あるいは外に働きに出られる人)のあるヒトと貨幣収入のないヒトが分化して来ますので、特定人がお金を握る代わり「扶養義務」を法で規定して行く必要が出て来ます。
貨幣経済化の進展がさしあたり外で働きに出られる男性の地位を高めた点については、Published on: Sep 3, 2010 「家庭外労働と男女格差」のテーマでのブログで書きました。
貨幣経済化の進展が経済力を戸主に集中するようになって行ったことが、我が国明治民法(明治31年)747条で戸主の扶養義務が法の世界に登場し、規定されるようになった経済社会的背景だったと思われます。
明治維新以降地租改正を基礎として急速に農村にも貨幣経済化の波が押し寄せたことについては、09/03/09「地租改正6(地券)」や秩父事件に関連して09/11/09「農地の商品化と一揆の消滅2」前後のコラムで連載しました。
ここで明治民法(戦前までの制度)の戸主とはどんな権限・義務を持っていたのか条文を紹介してお置きましょう。
民法第四編(民法旧規定、明治31年法律第9号)
(戦後の改正前の規定)
  第二章 戸主及ヒ家族
 第一節 総則
 第七百三十二条 戸主ノ親族ニシテ其家ニ在ル者及ヒ其配偶者ハ之ヲ家族トス
 2 戸主ノ変更アリタル場合ニ於テハ旧戸主及ヒ其家族ハ新戸主ノ家族トス
 第七百三十三条 子ハ父ノ家ニ入ル
 2 父ノ知レサル子ハ母ノ家ニ入ル
 3 父母共ニ知レサル子ハ一家ヲ創立ス
 第七百四十七条 戸主ハ其家族ニ対シテ扶養ノ義務ヲ負フ

貨幣経済化と扶養義務1

話がそれましたが、12月1日に書き始めていた婚姻中の費用を誰が出す・負担すべきかのテーマに戻ります。
もともと同じ屋根の下で共同生活する限りおのずから経済・生計は一体になりやすいのですが、これに加えて小規模の農業収入を中心とする社会では、家族が力を合わせて一緒に働いた家族協働の成果・収入については成果を得るために参加したみんなのものであって特定人に帰属しにくい性質を持っています。
縄文時代にドングリをみんなで拾うのが最も原始的イメージですが、これが現在のトマトや大根の収穫でも、あるいはモンゴル族がチーズを作り皮をなめしても、それを家庭・・・一族内消費・自給自足するための収穫である限り似たようなもの・・特定人が成果を一手に握る関係になりにくいのです。
自給自足を基本とする社会では、結果的に対等に働ける大人同士である限り同居親族の扶養義務(誰が誰を扶養し扶養される・・主体・客体)と言う観念が不要・・・家族内は原始的共産社会の縮図だったでしょう。
親子の扶養義務は自分だけ腹一杯食べた残りを分け与える「扶助の義務」ではなく、「生活保持の義務」=一椀の粥も分け合う関係と表現されますが、そこにはエンゲルスの言う原始共産社会の原形が残されています。
このような生活形態では誰が扶養し誰が扶養されると言う主客の関係は、病気等特殊事態を除けば原則として存在しないと言えます。
言うならば誰か一人あるいは特定人が外から稼いでくる社会構造にない限り、扶養する人とされる人と言う分化は起こりえないのです。
ついでに書きますと、原始社会にまで遡らなくとも、近代国家成立以前には経済的には近代的所有権の観念が発達していなかったのです。
日本の江戸時代における土地所有関係をちょっと想像しても良いでしょうが、領主とその知行を得た家臣そのまた下に農民が耕す3重構造が基本ですが、誰が土地所有者だったかはっきりしていませんでした。
都市住民もお上から拝領する屋敷地と行っても所有権がある訳でもなくいつでも屋敷替えを命じられる関係でした。
しかもその対象に対する権利義務関係も不明瞭でした・・土地所有者といえども封建的義務が錯綜していて、今でも田舎の集落内の土地とを買うといろんな地域的義務がついてくる不明瞭な関係なので、よそ者が買いたがらない理由になっています。
対象がはっきりしていなかっただけではなく、これを所有するべき主体となる個人・人間の方でも自他の区別の境界が明確ではありませんでした。
対象に対する識別がはっきりしてこそ、これに比例して自分自身に対する観察・認識も細かくなると言えるかも知れません。
母親と乳児の関係を想像すれば分りますが、そこには主客の対立がなく心理的には渾然一体です。
赤ちゃんに至っては、自分と外界の区別もなく、全能の能力者の意識であることは心理学者ののべるところです。
主体的人格の確立(自他の区別)は、対象物に関する錯綜した関係を所有権とそれ以外とする観念の進歩・確立に比例したでしょう。
ひいてはいろんな分野で主客の峻別(これが近代思想の特徴ですが・・・・)観念はあまり明確ではなかったように思われます。

貨幣経済化と高齢者の地位上昇

  

9月23〜24日の隠居制度の続きですが、現行条文(民法自体は明治の法律ですが戦後の条文改正)では隠居制度がなくなって、死ぬまで自分の財産は自分で管理・処分(・・住んでいる家や預金は死ぬまで自分たち夫婦のもので息子が口出し出来ません・・)出来るので、親の立場は経済的には格段に強くなりました。
農業の場合、名義だけお父さんのままでも毎年のフローの農業収入自体は実際には息子夫婦が牛耳るようになるのが普通ですから、親の地立場が強くなったのは、隠居制度の廃止だけではなく、老後の生活手段の中心が家産・家業のウエートが下がり過去にためた預貯金・貨幣価値の把握になったことによるでしょう。
農業に限らず、自営業の場合、隠居と言うよりは経営権の交代をするのが普通ですので、取締役として一定の給与を確保しておかない限り親夫婦が無収入となる点は同じです。
結局は消費目的の貨幣だけを潤沢に持っている方が、老後は有利になると言えます。
今は貯蓄はほどほどでも年金制度が充実して来ているので、自宅のある老夫婦は年金だけでゆとりのある生活が出来、子供世代に経済的に頼る必要がありません。
老親の介護をしなければならない子供世代の負担緩和ばかり強調されていて、介護の社会化は彼等の介護負担を緩和するためのように思われていますが、親世代からすれば「今の子供は当てにならないから・・」と言うのが普通です。
当てにならないのではなく、当てにしないで生きる方が自立出来て有利だからです。
戦後民法改正で上記の通り親の経済的立場は強化されましたが、最後に面倒見てもらうようになると(妻に看てもらえるお父さんは最後まで幸せですが妻の方は)弱い立場になる点は変わりません。
子供夫婦に世話されると悲惨なことになるリスクが高いので、もしかしたら親世代が現役引退後も自宅売却処分の自由や年金・・自分のお金を持ったことによって金で解決する方が得だと言う視点・・親世代が最後までフリーハンドを保てるように介護の社会化が始まったものかも知れません。
釣った魚に餌をやらないと言いますが、サービスはすべからくその都度お金・対価を払う方が大事にされるものです。
2010-4-27−1「妻のサービス1」以降でサービス業者のサービスと家庭サービスの比較を書きましたが、(最近では2010-9-19「家庭サービスと外注」にその続きを書きました)対価関係が直截的であればある程サービスが良くなるのはどの分野でも同じです。
どこかで書いたと思いますが、1年分前払い、10年分前払い・・あるいは一生分前払いをしても、有り難く思ってくれるのはそのときだけです。
一生分の食費以上の何千万円もこの家を建てるときに出してやっているから、ただで連れて行けと言うよりは、食事や映画、旅行に行く都度ポケットからお金を出してやった方が大事にされるのは当然です。

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