健全財政論10(貨幣価値の維持4)

我が国の場合、・・長期間の国際収支黒字による累積金が半端ではない・・世界最大の債権国で金あまりで大変ですが、それだけではなく生産工場の海外展開加速状況→国内生産力慢性過剰状態ですから、国内工場新設等の資金需要が弱い・・資金需要のないところで日銀がどうあがいても金利も物価も上がりません。
大手企業の今年の投資水準が高い低いと報道されますが、それは各企業の国外投資を含めた報道ですので国内だけでみないと国内景気がどうなるかという関心には余り意味のない報道です。
国外投資が進むと企業が円をドル等に換金して外国で使うのでドル買い→円安要因になってその方面では意味がある程度です。
国際収支黒字の多過ぎる国では、・・ゼロ金利にしても借り手(国内設備増強用需要がない・・全くないという意味ではなく増強する企業・業種もありますが、需要縮小する企業の方が多い傾向という意味です)が少ないので、銀行は国債や自治体債を買うか、資金需要のあるよその国で貸すしかない状態に陥っています。
お金・貨幣も輸出商品として考えれば、日本の銀行は世界1安い仕入れ価格で輸出出来るのですから、国際競争上もっとも有利な状況になっているのですが、銀行では、大蔵省の顔色をうかがういわゆるモフ坦ばかりが出世して来たことを以前書きましたが、長い間本来の商売をして来なかったので他流試合する能力がありません。
円高は強い円を武器に儲けるべきチャンスがあるのに儲けられない弱い銀行を抱えていることで我が国では円高に対する悲鳴なばかりが聞こえて来る結果になっています。
(日本の銀行は海外で運用能力がないので、せっかくのチャンスを生かせず外国人投資家がこの運び屋的運用で儲けています)
円キャリー取引で外国人投資家が借りてくれる意外にはどうして良いか分らないので、残った使い道のない資金が国債に流入していて国債相場が上がる・・金利低下する一方になっています。
以前どこかに書きましたが、どこかの国で高金利にしてインフレを押さえ込もうとしても、日本から低金利で借りて自国内に資金を持ち込んで貸せば利ざやを稼げるので、(円キャリー取引)資本自由化が進んで来ると国内金融引き締めは尻抜けになります。
内需拡大予算を組むと新興国の安い製品がドンドン輸入されて国内産業育成になり難いのと同じ傾向があります。
このように1国閉鎖経済で成立していた時代の中央銀行の金利政策や紙幣発行量の調節は、今や機能不全に陥っていますから、いろんな場面で存在意義がなくなっているというのが私の従来からの意見です。
また閉鎖社会での需給だけを前提とする経済理論(貨幣量とインフレ等の関係)は、根底から作り直す必要があるという意見も書いてきました。
中央銀行と行政府の役割分担思想に戻ります。
国債と紙幣の違いの連載でも書きましたが、政府が自分で好きなように紙幣発行出来なくなった代わりに国債を発行出来るようになりました。
(ユーロ諸国・ギリシャ、スペインも紙幣発行権がないものの国債を発行出来るから問題が大きくなったとも言えます)
政府が税収による資金不足に対して、江戸時代の悪改鋳のように紙幣増発で誤摩化すよりは、国債発行でけじめを付けた方が合理的・・国民に対して透明性があります。
マスコミやエコノミストの多くが提唱する現在のインフレ期待論(デフレ脱却)は、言わば江戸時代の政府が貨幣改鋳で貨幣価値を薄めて、手元不如意を誤摩化していたのと同じ結果を企図(自然に貨幣価値の下落が起きないかなあと期待)していることになります。
そんなことならば直截的に貨幣価値を何割か薄める紙幣増発を提言すれば良いようなものですが、紙幣増発によるインフレ・物価上昇は貨幣価値維持を至上命題とする官僚のDNAが許さないからインフレ目標などと回りくどい言い方をしているに過ぎません。
以前紹介しましたが、インフレ期待論とは、仮に物価が5割上がって貨幣価値が5割下がれば、現在の1000兆円の国債の償還実質負担が5割減ることを期待した議論です。
(債権者にとっては債券の目減り・評価減です)
イキナリ5割の物価上昇は無理でも年1割ずつでも上がれば、債務者にとってはその割合ずつ償還負担が軽くなります。
何のことない、貨幣価値を1割ずつ下げる計画ですから、そんなことなら江戸時代の悪政同様に始めっから、素直に1割ずつ紙幣発行量を増やして行けば良いとなる道理です。

健全財政論6(中央銀行の存在意義1)

我が国で言えば、大恐慌から高度成長期ころまでは国民は生活水準向上・・量的消費に飢えている時代でしたので、お金さえあれば三種の神器・・次々と提供される家電製品等を買いたい・作れば量が売れる状態でした。
ところが、今では飽食の時代ですので給与が2倍になっても嬉しくてビールや牛乳やアイスクリームを今までの2倍消費する人は滅多にいません。
(余程貧しい人だけでしょう)
量が満たされれば消費の方向性が質に転化する・・レベルアップして行くことになります・・従来型産業が国内では飽和状態になって行くので、成長が止まり不景気だと大騒ぎになりますが、国民のレベルアップに合わせて国内産業も業種転換あるいは磨きをかけて行くしかないのに、この転換に遅れを取っている嘆きと言うべきです。
この辺の意見(消費が高級化すれば供給サイドに関与するべき国民・労働者のレベルアップの必要性・・これは遅れて発達するので当初ブランド品輸入が席巻するのは当然ですが、この適応問題は別の機会に書きます。
話題を戻しますと紙幣を仮に10倍増にしても大方の国民はその殆どを預貯金するだけでこれまでの2倍、3倍もビールを飲むことはないでしょうし、仮にこれまで思うように飲めなかった国民の何%かがビールを2〜3倍飲むだけです。
車でもテレビでもビールでもスマホでも売れるならばいくらでも増産出来るので、仮に2倍売れたとしても車やテレビ、パソコンの値段が2倍になることはありません。
昨年テレビが無茶苦茶に売れましたが、値段は上がらず販売競争激化のために実質値段が下がっているのが現状です。
日銀がいくら金利下げや紙幣の量的緩和をしても、暖衣飽食(ものの行き渡った先進国)の国民は金利が下がったくらいでは買い物出動しないし、生産力超過の現在、仮に売れ行きが伸びても在庫品の減少が進み、休止中の設備が動き出す程度で物価が上がることはないことをこれまでのコラムで何回も書いてきました。
加えて現在は1国閉鎖社会と違って、国内で供給が足りなかったり値上がりすればすかさず輸入品が押し寄せて来るので、供給不足による物価上昇があり得ない構造になっています。
我が国では長期にわたる国際収支黒字の累積で資金余剰が際立っているので、金利をいくら下げても借り手・・健全な資金需要が起きません。
赤字で資金繰りに困っている企業は少しでも下がったら有り難いでしょうが、トヨタ等世界企業は(内部留保が厚く手元資金が余剰気味です)金利の上下によって新規工場建設等を決めるパターンではなく新規投資戦略が先にあってその戦略次第で資金需要が起きる仕組みです。
個人は個人で多くの国民はお金を使い切れなくて1500兆円も個人が預貯金している状態で、飽食の金融版になっていますので借りてくれるマトモな客がいない(借りに来るのは貸したら焦げ付く人ばかり)銀行は0、何%の国債を買うしかない状態です。(商品を仕入れても売れない状態)
日銀が世界最低の金利にしても投資用に借りに来る企業の需要がなく、外国人投資家が日本の銀行で借り入れて円キャリー取引に使うくらいで、(日本の銀行は世界最低金利で仕入れられるので、国際貸し出し競争に有利となって、日本の銀行はこれで潤っています)言わば国内銀行救済・国際競争上銀行に対する補助金的効果になっている程度です。
このように今や中央銀行が貨幣政策・金利政策で経済を動かすことは不可能な時代が来ているのに、未だに政府は自分で行うべき財政政策を怠って日銀の金利調節や量的緩和に頼っていますが、言わば日銀の存在は無駄な存在であるばかりかむしろマイナスです。
(私は以前から、こう言う実態を紹介して現在社会では日銀不要になっていると書いています)
この現象はここ20年来の日本だけの現象ではなく、グローバル化以降先進国ではどこでも現れ始めて来たと言えます。
恐慌以降何十年も前から金利や量的緩和は刺激効果があることが分っているのに、今でも経済学者の集まりであるIMFでは、(バカの一つ覚えのように)アジア危機・ギリシャその他何かあると緊縮経済の実行を迫るのが常です。
確かに野放図に赤字財政を繰り返すのは困りものですが、緊縮強制一点張りでは智恵が足りない印象が拭えません。
これまた繰り返し書いていますが、学者というのは過去の経験を大学等で勉強をして修得する能力の高い人材・・秀才が多く、これに反比例して現実に進行している実態に新機軸で対応する応用能力が低いことによるのでしょう。
大恐慌あるいは不景気対策としては緊急避難的に気付薬的に麻薬使用・・紙幣大量発行も許されるというのが、実務から生まれた経験的智恵です。
実際日本では大恐慌の際にこの方式でデフレ脱却に先に成功していて、これを真似して大規模にやったのがアメリカのニューデイール政策だったと言われています。
大恐慌時に戻りますと、兌換制度が停止ないし廃止されてしまうと貨幣・紙幣の信用維持をどうするかとなって来ますが、官僚個人の「貨幣価値を守る」と言う気概に頼るのでは無理が出てきます。
そこで中央銀行の独立性等の制度的保障でこれを守って行くことになったことを、07年1月16日「不換紙幣と中央銀行の独立性1」以下のコラムや08年1月17日の「国債と非兌換紙幣の違い」で紹介しました。

健全財政論5(貨幣価値の維持3)

国際経済化が進んだ明治以降でみれば、貨幣価値の維持は自国の紙幣が海外との貿易に使えるための保障が必要ですので、これを担保する制度が金兌換制度でした。
世界経済は金1オンスに対して1円と定めていて、ドルも1オンス1ドルであれば等価ですし、2円で1オンスであれば1ドル=2円となりますから交換率は簡単です。
金の裏付けの範囲しか紙幣発行出来ないことで結果的に国内通貨でも無制限発行に対する歯止めの役割を果たしていました。
各大名家で発行していた藩札は、徳川家の発行する貨幣との両替を前提にしていましたから、明治以降の国際的金兌換紙幣制度の国内版みたいなものだったことになります。(・・領内で紙幣のように流通していたかどうかによりますが、流通の程度によっては今の地方債に似ていたかも知れませんが、ここでは深入りしません・・藩札についてはMarch 25, 2012税の歴史6(商業税3)のコラムで少し書きました。)
ところが第一次世界大戦後の昭和大恐慌の進展で、金兌換制度維持が困難になって来た結果、世界各国で次々と金兌換制の廃止・停止が続きます。
要するに緊縮一本槍・・国内生産力内での均衡経済・・貨幣発行抑制政策ばかりでは、スパイラル状に経済悪化が進行するときにはどうにもならないことが実態経済で証明されます。
逆から言えば貨幣発行増はインフレ・物価上昇になるばかりでなく、経済活性化効果もあることが実践的に分って来つつあったと言えるでしょう。
何事も両刃の剣・表裏の効果があると言われますが、貨幣発行が始まってから明治時代までは、実物経済よりも貨幣発行量が多すぎると物価が上昇・・国民生活破壊の害・マイナスばかりが気になる歴史でしたが、経済を活性化するカンフル剤の役割もあることが分って来ます。
ただ、薬も使い方を誤れば毒になるたとえのとおり、その処方は難しく、ずさんな使い方をするとギリシャ危機のようになります。
ここで貨幣量と物価の関係をみておきますと、産業革命効果が浸透するまでの約1世紀間は第一次産品中心経済で、生産量に限界があったので、生産力に関係なく紙幣を増刷すると物価が上がる関係でした。
こう言う時代に何のために政府が増刷したがるかと言えば、政府が収入以上にお金を使いたいというモラルハザードがその動機でした。
だからこそ経済官僚が、命を賭けてでも紙幣増刷・悪改鋳に反対する歴史になっていたし、悪性インフレに対抗して大塩平八郎が兵を挙げるほどになっていたのです。
他方で産業革命効果が浸透して来ると、景気波動による余剰生産力が不景気の原因になって来ると、紙幣増刷は政府がもっとお金を使いたいという邪悪な動機(これがなくなった訳ではないですが・・)ばかりではなく、国内需要喚起によって、過剰生産力の受け皿になる・・景気下支えまたは景気刺激策になることが分って来ます。
昔は、国民は常に飢えていたので、お金さえ2倍あれば喜んで牛乳など週1回飲むのを2回にし、卵も週1回を2回食べるなど消費が収入に比例して伸びましたが、他方で消費品の中心は大根や人参・卵など1次産品中心の社会でしたから、これらは2倍売れるからと言ってイキナリ生産を2倍に出来ないので、紙幣量=消費量増加に比例して物価が上がりました。
この場合生産増に比例しない貨幣大量発行は弊害だけが大きくなりますが、産業革命浸透以降の不景気は過剰生産力によるものですから、生産力超過状態・不景気下で消費が伸びれば在庫調整になるし、足りなければいくらでも増産出来ますから、インフレになる弊害がなく・・程度を超えれば金利高め誘導でブレーキをかけられます・・経済活性化効果が期待されます。
しかも消費が伸びること=民生がその分豊かになるメリットもあります。
このように貨幣調節は貨幣価値維持目的であったそれまでの発行増抑制一点張りの片面的政策要請(単純なもの)から、発行増による積極的効果・・両面の効果を期待出来る複雑な関係になったので、中央銀行の役割が強化された・・黄金時代が到来したと言えます。
その代わり実物経済・生産力と貨幣の量のバランスが均衡しているかどうかだけ注意していて、均衡を破れば、君主の命令でも断固反対する硬骨漢であれば良かった時代からみれば、前向き判断も必要になって難しくなりました。
消費が増えれば民生が豊かになることは確かだとしても、際限なく紙幣発行を増やして行くと対外的に赤字累積になり最後はギリシャのような危機になり兼ねません。
国内生産力と均衡しない紙幣発行増は不足分の輸入増大に結びつくので、国内生産力以上に内需拡大しても輸入が増えるばかりで国内景気はそれ以上に上向かないので、景気対策としての意味がなくなります。
また国内生産力範囲内でも原材料の多くを海外からの輸入に頼っている場合、国内消費を推進すると原材料等の輸入増になって対外的赤字が膨らんでしまいます。
(最近の例で言えば火力発電所増設によって、発電能力に余力があってもドンドン電気を使うと貿易赤字になる場合を考えれば分りよいでしょう)
国債発行の限度額の問題として書いているように、結局は国際収支均衡の範囲(単年度収支だけではなく累積の視点の重要です)を超えて消費を煽ってはいけないということに帰します。
国際収支均衡の範囲を一家の家計で言えば、一家構成員総収入範囲内(過去の蓄積があれば1年〜短期間限りの赤字は許されます)の生活を守るのが健全なのと同じです。
このように大恐慌以降の貨幣政策は発行量抑制さえしていれば良い単線思考ではなく、複雑な国際競争力(我が国だけ金利を上げると国内企業は競争上不利になります)その他経済構造を理解して積極的に操作する必要のある時代に突入して来ました。
こうなると裁判官のような役割ではなく、行政官の役割になりますので政府から独立した中央銀行の存在意義が問われるようになります。
(存在意義を問うているのは当面私だけですが・・・最近ではJuly 18, 2012「国債相場2(金利決定)」その他でぱらぱら書いています)

健全財政論4(貨幣価値の維持2)

江戸時代に入って自前で貨幣鋳造するようになると借金しなくとも、徳川家に限っては国内的には現在の基軸通貨アメリカドルのように(貨幣でも金の含有比率を変えれば)いくらでも貨幣を造れるようになりました。
(ご存知のように古くは和同開珎などがありますが、実際には戦国時代までは日本では一般的に流通する自前貨幣をもっていませんでした・・永楽銭などを輸入して流通させていたのです)
その代わり「悪貨は良貨を駆逐する」原理で、江戸時代でも貨幣の改鋳は内容を薄めると直ぐに物価上昇・国民生活悪化の原因になってしまうので慎重に行われていました。
元禄時代に金の含有量を減らして悪改鋳をしていたのを、儒家であり理論家である新井白石が良貨に改鋳しなおしたものとして有名です。
新井白石の理論は誠に清廉潔白で正しいのですが、幕府財政赤字を貨幣改鋳で誤摩化せなくなった分だけ財政は逼迫してしまうので、8月8日に書いたように次に登場する吉宗の享保の改革(政府収入増加・米の増産政策)に連なったのです。
行政府・王様は昔からどこの国でも軍事・景気対策その他支出をより多くしたい傾向がありますが、政府の自制心だけに頼っていたのでは、紙幣・貨幣大量発行によって物価上昇ひいては経済(経世済民=国民生活)が破滅的になりかねません。
そこで、君主・首長の意向に反してでも命がけで、貨幣の悪改鋳を阻止するくらいの気概(武士の魂みたいなもの?)が経済官僚には求められて来た歴史があります。
実際徳川政権内では勘定奉行系はエリートの集まりで、彼らは役人中の役人、武士中の武士という気概があったと思われます。
ちなみに8月9日に紹介した大塩平八郎は、大阪町奉行所与力ですが、彼は陽明学の私塾を開いていてその経世済民の主義主張の赴く所その勢いで決起になったと思われます。
当時(1837年5月1日(天保8年3月27日)既に、主人のために(君主の命令が正しいことであろうがあるまいが)どんなことであれ盲目的に突進して君主のために命を落とすことが武士の美学ではなくなっていて、君主に逆らっても自分が正義と思うところに命を掛けることこそ武士の本懐という思想が成立していたことになります。
大塩平八郎の乱は彼一人が起こしたのではなく当然多くの門弟が賛同して命をかけて参加して起こしたものですから、大したものです。
正義のために命を落とす・・その正義とは何か、国民生活を守ること・・経世済民に変化していたことが分ります。
歴史上いろんな乱を通観してみると、古代の壬申の乱に始まって最後の不平士族の乱・西南の役までありますが、大塩平八郎の乱を除けば私の知る限り自分1党の権力欲のためや私利私欲のための乱が全部です。
これに対して大塩平八郎は、窮民を救うために自分の地位を捨て子供まで参加させて立ち上がったのですから偉大です。
(何回も紹介していますが、忠臣蔵はお家再興・自分たちの求職活動の失敗から決起したものですし、西郷隆盛には私欲がなかったとしても彼を担いだ運動体そのものは不平士族の集まり・・政治をどうしたいと言う政治理念を持たないままの暴発ですから、(熊本城を仮に落とせたとしてもその先何をしたかったか分りません。)結果的に私欲反乱軍となるでしょう)
貨幣制度が始まるとその発行量の調節が経済(国民生活)に及ぼす威力が甚大なものであることを、どこの国でも知るようになります。
その結果、貨幣発行量を決める官僚はその使命の重大さにおののくとともに、おろそかな運用は出来ないと言う使命感が醸成されて来るのは当然です。
洋の東西を問わず昔から貨幣価値を守ることが経済官僚の使命であるとする思想が強くなったのはこうした結果でしょう。
死刑判決を書く裁判官がいい加減な判断を出来ないのと同様に、素人でも裁判員になるとその精神的重みが大変だというのも同じ精神構造です。
近代の経済学においても「貨幣発行調節は慎重(当時は経済刺激策を知りませんので量の拡大は危険という片面的意識だけです)」にと言う精神は、当然の使命として経済官僚に受け継がれて来たものです。

健全財政論3(貨幣価値の維持1)

対外負債としてみれば税でも国債でも同じ効果であっても、借金・・国債となると税収とは違い、返すまでは債権者の意向を無視出来ないところが、権力者とその取り巻きの立場ではまるで違います。
国民主権国家になって政府と国民は理念上は一体化していると言っても、現実に権力行使する側に立つ官僚の意識が多分旧来(近代国家以前)の意識から切り替えが進んでいないのでしょう。
権力の威を借りて権威を保持することを本質とする官僚には、お金の使い道に一々国民の顔色・市場相場を窺わねばならない国債と一旦徴収すれば事実上自由に使える・・箇所付けで権威を振りかざせる税とでは大違いになるのでしょう。
ちなみに、官僚と公務員の違いですが、漢字が違うように元々の成り立ちが違います。
公務員・公僕観念は、国民主権国家成立後の(・・我が国で言えば戦後漸く生まれた)観念ですが、官僚は国民主権成立前から、君主や独裁者等の権力者に直接付き従ってその主人のために忠勤に励む側近・・直臣・お目見え以上の従者の謂いです。
彼らの権限の源泉は、主人の権限・威令に由来し、これに比例するので、仕える相手が君主から総理や大臣に変わっても旧来の意識が変わらないしまた従来の権限を手放したくないのは当然です。
租税法律主義が市民革命の結果決まり、支出については予算制度が出来て予算は国会の議決が必要となっても、ともかく実質的決定権限・官僚がさじ加減する権限を手放さない(ホンの一部に族議員が口はさめる程度)でこれまでやってきました。
対外的デフォルトの危険性に関しては、国債と税収の違いは、国民国家においてはこれまで繰り返し書いて来たように親が息子に生活費を強制的に入れさせる(税収)か借りた(国債)ことにしておくかの違いでしかありません。
親が死ねば息子は親の債務を相続しますが、同時に債権者でもあります。
上記次第で国民主権国家においては、政府が国債で資金源を得ようと税で得ようと国内資金に頼る限り対国外的立場は同じことであるばかりか、国民が政府の主人・オーナーになったのですから、国民からの借金があっても沽券にかかわることもありません。
(オーナー企業の場合、会社の資金需要に対してオーナー個人から増資として追加出資するか会社が借り入れにするかの違いですから、社員にとっては気にしないのが普通です)
国家財政資金が不足しているときにその財源を増税によるか国債によるかは対外経済的には同じですが、国内的には借りていると国民に頭が上がらないのを官僚が嫌がっていると思われますが、民主国家としてはむしろ国民の意向に従うのは良いことではないかと思いますが・・。
この意味で・民意次第である寄付や国債は民主的だと何回も書いていますし、事実上自由に使いたい官僚にとっては(国民こそオーナーとする意識に切り替えの進まない官僚に問題がありますが・・)逆の立場ですから面白くない資金源です。
増税と国債発行のどちらが、景気対策として優れているかの問題とすれば8月5日に書いたように増税よりは国債増発の方が内需拡大効果が大きいことは誰の目にも明らかです。
景気マイナス効果を無視して、ここでマスコミが何故増税路線を推進しようとしているかの疑問です。
景気を冷やしてでも増税しなければならない根拠について、合理的論拠を説明しないで前提事実・ブラックボックス化しているので、推測・憶測するしかありません。
憶測に頼るとすれば官僚の時代(8月7日に書いたように一種の智恵)遅れ(今や世界大企業でも社債等借金で投資している時代です)の財政健全化信仰に、マスコミが迎合しているのではないかと一応推測出来ます。
財政健全化路線の信仰が官僚精神にしみ込んで宗教(合理的検証不要と思い込むように)のようになっているのは、何故でしょうか?
1つには8月8日冒頭に書いたように被支配者から借金していたのでは、権力の威厳・沽券にかかわるという歴史が長く・官僚にはこの意識が骨の髄までしみ込んでいる(国民主権国家に切り替わっているのに)官僚は国民の公僕としての意識切り替えが遅れていることが大きいでしょう。
2つめには、この亜流ですが、税は法律で1回決めればその後何十年でも自動的に徴収出来る・・毎回国民の信を問う必要がない便利なものという観念もあるでしょう。
3つめの要因ですが、国民生活の維持安定のために経済官僚が貨幣価値の維持にも気を配るようになったことが上げられます。
江戸時代に入って、武士が刀槍を振り回す戦闘集団から経済官僚へ脱皮して行く過程で「経世済民」・・国民の生活安定を図ることこそが、自分で見いだした存在意義・・モラールの源泉になったからです。
武士は君命に命を投げ出しても従う関係ですが、元々は古代から続くムラ社会・・血族共同体を守るための自衛組織として発展して来た歴史があります。
君命に従うのもこの郷土防衛に合理的だからであって、元々は支配下領民は自分の一族という意識が濃厚です。
戦時が終わって平和時にると本来守るべきは領民の生活であって君命に従うのはその手段に過ぎなかった本質が現れたと言えます。
天満与力大塩平八郎の決起は、武・・支配地獲得のための戦闘ではなく、国民生活を守るという名分になっていたことを想起しても良いでしょう。
彼は主君のために命を惜しまなかったのではなく、経済=経世済民の実現のために命をかけて主君に反逆したのです。

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