江戸時代に入って自前で貨幣鋳造するようになると借金しなくとも、徳川家に限っては国内的には現在の基軸通貨アメリカドルのように(貨幣でも金の含有比率を変えれば)いくらでも貨幣を造れるようになりました。
(ご存知のように古くは和同開珎などがありますが、実際には戦国時代までは日本では一般的に流通する自前貨幣をもっていませんでした・・永楽銭などを輸入して流通させていたのです)
その代わり「悪貨は良貨を駆逐する」原理で、江戸時代でも貨幣の改鋳は内容を薄めると直ぐに物価上昇・国民生活悪化の原因になってしまうので慎重に行われていました。
元禄時代に金の含有量を減らして悪改鋳をしていたのを、儒家であり理論家である新井白石が良貨に改鋳しなおしたものとして有名です。
新井白石の理論は誠に清廉潔白で正しいのですが、幕府財政赤字を貨幣改鋳で誤摩化せなくなった分だけ財政は逼迫してしまうので、8月8日に書いたように次に登場する吉宗の享保の改革(政府収入増加・米の増産政策)に連なったのです。
行政府・王様は昔からどこの国でも軍事・景気対策その他支出をより多くしたい傾向がありますが、政府の自制心だけに頼っていたのでは、紙幣・貨幣大量発行によって物価上昇ひいては経済(経世済民=国民生活)が破滅的になりかねません。
そこで、君主・首長の意向に反してでも命がけで、貨幣の悪改鋳を阻止するくらいの気概(武士の魂みたいなもの?)が経済官僚には求められて来た歴史があります。
実際徳川政権内では勘定奉行系はエリートの集まりで、彼らは役人中の役人、武士中の武士という気概があったと思われます。
ちなみに8月9日に紹介した大塩平八郎は、大阪町奉行所与力ですが、彼は陽明学の私塾を開いていてその経世済民の主義主張の赴く所その勢いで決起になったと思われます。
当時(1837年5月1日(天保8年3月27日)既に、主人のために(君主の命令が正しいことであろうがあるまいが)どんなことであれ盲目的に突進して君主のために命を落とすことが武士の美学ではなくなっていて、君主に逆らっても自分が正義と思うところに命を掛けることこそ武士の本懐という思想が成立していたことになります。
大塩平八郎の乱は彼一人が起こしたのではなく当然多くの門弟が賛同して命をかけて参加して起こしたものですから、大したものです。
正義のために命を落とす・・その正義とは何か、国民生活を守ること・・経世済民に変化していたことが分ります。
歴史上いろんな乱を通観してみると、古代の壬申の乱に始まって最後の不平士族の乱・西南の役までありますが、大塩平八郎の乱を除けば私の知る限り自分1党の権力欲のためや私利私欲のための乱が全部です。
これに対して大塩平八郎は、窮民を救うために自分の地位を捨て子供まで参加させて立ち上がったのですから偉大です。
(何回も紹介していますが、忠臣蔵はお家再興・自分たちの求職活動の失敗から決起したものですし、西郷隆盛には私欲がなかったとしても彼を担いだ運動体そのものは不平士族の集まり・・政治をどうしたいと言う政治理念を持たないままの暴発ですから、(熊本城を仮に落とせたとしてもその先何をしたかったか分りません。)結果的に私欲反乱軍となるでしょう)
貨幣制度が始まるとその発行量の調節が経済(国民生活)に及ぼす威力が甚大なものであることを、どこの国でも知るようになります。
その結果、貨幣発行量を決める官僚はその使命の重大さにおののくとともに、おろそかな運用は出来ないと言う使命感が醸成されて来るのは当然です。
洋の東西を問わず昔から貨幣価値を守ることが経済官僚の使命であるとする思想が強くなったのはこうした結果でしょう。
死刑判決を書く裁判官がいい加減な判断を出来ないのと同様に、素人でも裁判員になるとその精神的重みが大変だというのも同じ精神構造です。
近代の経済学においても「貨幣発行調節は慎重(当時は経済刺激策を知りませんので量の拡大は危険という片面的意識だけです)」にと言う精神は、当然の使命として経済官僚に受け継がれて来たものです。