豪族連合体日本の官と臣2

鎌倉〜足利政権同様に徳川幕藩体制も多数の旧豊臣家家臣団やその他大名の協力があってこそ出来上がったもので連合政権の本質があったのですが、徳川家の一強体制確立により連合政権の本質が隠され、表向き主君と臣下の関係化していましたが、(ほとんどんどの大名・・島津でさえ公式には、徳川の旧制松平姓にされていました)幕末黒船来航や北辺の海防に適切対応できない幕府の脆弱性が露呈すると一挙に連合政権の本質が噴出しました。
外様大名を中心に独自の異国対応論が噴出するようになり、幕府はその発言者の一人に過ぎない関係に陥りました。
本来幕藩体制下においては、大老〜老中〜若年寄り〜勘定奉行等の各種奉行による重役会議で議論すべきことでこの役職に関係ない一般大名が大名というだけで特別な決定参加権がない仕組みでしたが、国家の大変革時に当たって幕府機構内では処理しきれないことが明白になると、対応策に関する議論が無関係なはずの有力諸侯間の協議に移って行ったのは、大元に連合政権の本質があったからです。
有力諸侯の協議が行われるようになっても江戸城中で行うのではなく京都で行うようになり、政争の舞台が京都に移ったこと自体が象徴しているように、京都での政争では徳川家が一方的な主催者の地位を降りていたことを象徴しています
京都での協議結果が帰趨を決するようになると、幕府は老中に一任できず幕府のエース一橋慶喜を派遣して対応に当たりますが、彼の役割は諸侯会議に対する徳川家代表的なものでしかなく、上段之間から一方的に命令裁可するような関係では無くなっていました。
彼はその後将軍職に就任するのですが、すでにその時点では本質は変わらなかったイメージです。
一橋慶喜は将軍家の血筋を背景にしたお坊ちゃん秀才でしかないのに対し諸侯会議メンバーは政治駆け引きの猛者揃いですから、徳川家の威光低下に比例し発言力が低下する一方になり最後に決着したのが、薩長の武力を背景にした小御所会議だったのでしょう。
一橋慶喜は優秀の誉れ高かったのですが、何となく秀吉政権の三成のように実務官僚的能力は高かったでしょうが、育ちが良すぎて?政治能力が低かったイメージです。
乱世に活躍し政権樹立に功績のあった豪族や大名家と政権樹立後実務処理に必要な人材は違うのはどこの国でも時代でも同じです。
官制というのは安定期に政権運営に維持に必要な実務官僚に必要な格式・・企業でいえば職制のことでしょう。
事務官僚の職域が多くなるにつれて、任命官僚も増えてくるので天皇がいちいち親任出来なくなった・その分を認証官にしたのではないでしょうか?
明治になって法治国家の体制を整えるためには、各地に裁判官、検察官などの配置が必要ですので官名を持つものがいきなり増えました。
イギリス法では裁判所をキングズベンチクイーンベンチと習いますが・・生殺与奪の権=裁判権こそが、最高権力者が保持すべきという原理の表明です。
戦前の裁判も天皇の名において処罰する仕組みでした。

大日本帝国憲法
第57条司法権ハ天皇ノ名ニ於テ法律ニ依リ裁判所之ヲ行フ

地方の裁判官であろうと上司の代理で判決を宣告するのではなく、天皇の名において国家意思の表示するとなれば官を名乗らせるしかなかったからでしょう。
ちなみにここで言う裁判所とは、法学用語では官署としての裁判所ではなく、受訴裁判所・・裁判を担当する(裁判所を構成するのは事案によって3名のこともあれば1名のこともありますが)裁判官のことです。
法廷で日常「裁判所はこう考えますが・・・」とか「裁判所としては〇〇についてをもう少し主張をお願いしたい・・〇〇を提出していただきいのですが・・」と言う発言は「〇〇地方裁判所」という建物のある官署をいうのではなく、その担当裁判官(合議事件の場合合議体)の意見という意味です。
例えばある地方裁判所に民事部が5部あって、その中に裁判体が10数個ある場合、その一つ一つが裁判所であり、一つの判決や証人採用決定や却下、次回期日決定ごとに、地裁全部の裁判官が集まって合議して決めるのは無理があることがわかるでしょう。
裁判官一人の担当する裁判では、その一人の裁判官が決めればそれが〇〇地裁の判決であり決定であり命令としての効力が生じます。
豪族代表でなくとも朝廷内で何かの職務を持つ中で一定の職域以上に補職できる枠を官位で決めるようになって、(中国では官位と補職関係は厳格だったようですが、我が国はアバウトだったようです・・例えば三位以上でないと殿上人になれないなど)こういう合理化の結果官位制度が生まれたと思われますが、官位をいただけるのは当初天皇の直接任命職だけだった可能性がありますが、次第に人数が増えてきたので直接任命は一定の官位までとなり、例えば三位までになり4位以下は認証するだけの官となって行ったのかも知れません。
千葉市の場合、法律上議会承認を要する委員の場合、担当局長や秘書室長などの立会いで、市長から直接辞令書が交付される1種の儀式が行われますが、議会経由しない委員任命の場合、辞令書が第1回委員会の机上に置かれているだけで市長からの直接任命式はありません。
官名授与対象がインフレ現象で?増えすぎたので認証官という制度が生まれ、明治以降地裁裁判官等がどんどん増えていくと膨大になるので認証式すら必要のない官が生じるようになったのかもしれません。

豪族連合体日本の官と臣1

ついでに「事務員」という場合の意味を考えてみますと、経団連や〇〇協会の会員企業の代表者の会議体構成員と、業界団体で雇用されている事務局員とは出身母体が違い文字通り格が違います。
事務局が肥大化し官僚機構化・専門化してきて事務局見解が事実上幅を利かすことがあっても、あくまで「過去の議事録ではこういう議論が行われています」と紹介するだけであって会員の会議自体に口を挟む余地がありません。
裁判所や検察庁も事務官と裁判官や検察官とは確然たる区別があり事務局トップの事務局長になっても、平の裁判官・検察官よりも格式が低く、一般的に敬語で接するのが原則です。
ただし最高裁では事務総長だけでなく中間管理職まで裁判官を補職する事になっているので、事務部門事実上優位の逆転現象をなくすようにしています。
日弁連では事務総長・事務次長までは弁護士からの政治?任用です。
朝廷は豪族連合ですから合議体構成員になれるのは会員である豪族代表者・貴族のみであり、事務部門はその補助業務でしかありません。
国民主権国家に変身した戦後憲法においては、国民の選挙による洗礼を受けた政治家のみが政治決定できる各省大臣となり、あるいは政治的決断で決めていくのが不都合な分野では逆に民意の洗礼を受けないままで、すなわち政治的独立性を保持できるような工夫をした特別な資格による裁判官と検察官等の中間的な専門職を官といい、それ以外は事務局員でしかないという区分けをしたようです。
雇用面で言えば各省大臣任命により大臣の指揮監督を受けるものは官ではないが、次官のみは内閣の関与を受けるようにして「官」名に合わせたようです。
ちなみに最高裁判事は内閣が任命しますが、政治的思惑で任命すると中立性に問題が生じるので、実質は最高裁内で決めた推薦によって形式上内閣の任命する運用になっています。
その代わり国民審査を受けることにして間接的に民意を担保しています。

憲法

第七十九条 最高裁判所は、その長たる裁判官及び法律の定める員数のその他の裁判官でこれを構成し、その長たる裁判官以外の裁判官は、内閣でこれを任命する。
最高裁判所の裁判官の任命は、その任命後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際国民の審査に付し、その後十年を経過した後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際更に審査に付し、その後も同様とする。
第八十条 下級裁判所の裁判官は、最高裁判所の指名した者の名簿によつて、内閣でこれを任命する。その裁判官は、任期を十年とし、再任されることができる。但し、法律の定める年齢に達した時には退官する。

因みに官(天皇の直接の部下)を任命するのは天皇の権能そのものでしょうが、親任官と認証制度の始まりを以下の通り(あくまで根拠ない想像ですが、)想像して見ました。
大和朝廷の始まりは中国や中東〜欧州のように専制的権力を持つ仕組みではなく周辺豪族・漢書にいういわゆる「百余国」間でヘゲモニーで勝ち残った程度の覇者でしかなかったと思われます。
大和朝廷草創期とその前については神話レベルしか記録がないので、紀元前約1世紀頃の文字記録では上記の通り日本列島には「百余国」があったとしか分かりませんが、朝廷秩序の亜流である武家政権秩序が大崩壊した戦国時代をその再現として想定してみます。
ただし以下の記述は学問的意見に基づくのではなく、素人の私の直感想像によるものです。
戦国大名草創期から、織豊政権を経て徳川政権樹立〜幕末期までを見ても日本ではいつも豪族の連合体的性質を維持してきました。
例えば上杉謙信や織田信長の例で見ると、まずそれぞれの一族内闘争を勝ち抜き、(現在での地方制度で言えば1〜2郡程度の地域支配権確立後)尾張や越後国内での諸豪族の支持集めに勝ってヘゲモニー争いを勝ち抜いていき(スポーツで言えば県大会)国内統一に成功すると今度は周辺隣国への侵略開始していき、戦国時代後期には数カ国レベルの支配者・地域大国が全国規模で発生して最後の全国大会・制覇になります。
このように初期戦国大名は、地元豪族・国人層の支持取り付けによってなりたっているので(今の代議士が地元後援会支持でなりたっているのと同様)いつも気を使う存在です。
戦国大名=戦闘集団である以上戦闘状態では指揮命令が必須ですが、日常業務的には連合体・業界団体のような関係です。
この様にしてあちこちで地域大国が出現し最後に信長の天下が、始まるかに見えた時にも、家康の支持その他国内諸大名とのやりとりがあって権力を維持できていたし、光秀は天下諸大名の支持取り付けに失敗したので三日天下に終わったものです。
後継の秀吉政権も最大のカウンター勢力家康との小牧長久手の戦いで、決定的勝利を収めることができず、朝日姫を人質として送ることでようやく出仕して貰えるようになったものです。
このように日本では権力者はいつも配下に入った武将への気配りを欠かせない状態で幕末まで来ました。
有力武将上がりの連合体で政権ができるので運営参加権者は同業者組合の役員会や総会は事業主の集まりのように豪族代表でしょうが、事務を担当するのは事務局です。
朝廷あるいは織豊政権・徳川将軍家でも実務処理作業が増えてくるので、内部事務官僚が必要になり事務官僚に相応の職務=権限付与が必要になります。
豊臣政権では家康や前田利家などの大老の他に実務官僚.五奉行などの官僚組織が出来上がり、そこで頭角を現した実務官僚の石田三成らと、戦国時代を生き抜いた武断派との確執が起きました。
しかし秀吉以後乱世の兆しが起きると豪族連合の本質が表面化し、三成ら事務官僚の影響力は背景に退くので本来のプレーヤーではなくなったのです。
三成がそのまま引き下がれば家康による豊臣政権乗っ取りはスムースだったでしょうが、それでは政権の名分がなく鎌倉幕府の北条執権家みたいな黒子役しかできないので、むしろ決戦による政権交代を求めるために必要な標的として家康が三成を匿い、三成の旗揚げを誘導してので関ヶ原の決戦に引きずり込めたのですが、その点は話題がそれるのでこの程度にします。

徳川体制も連合政権の本質があったのですが、徳川家の一強体制下で連合の本質が隠され、一見主君と臣下の関係貸していましたが、黒船来航に適切対応できない幕府の脆弱性が露呈すると一挙に外様大名を中心に対応論が噴出するようになり、幕府はその発言者の一人に過ぎない関係に陥りました。
本来幕藩体制下においては、大老〜老中〜若年寄り〜勘定奉行等の各種奉行による重役会議で議論すべきことでこの役職に関係ない一般大名が大名というだけで特別な決定権がない仕組みでしたが、国家の大変革時に当たって幕府機構内では処理しきれないことが明白になると、無関係なはずの有力諸侯間の協議に移って行きました。
有力諸侯の協議江戸城中で行うのではなく京都で行うようになり、清掃の舞台が京都の映ったこと自体が象徴しているように、京都での協議結果が帰趨を決するようになると幕府もこれを無視できず一橋慶喜を派遣して対応に当たりますが、彼の役割は諸侯会議に対する徳川家代表的なもので上段之間から一方的に命令裁可するような関係では無くなっていました。
彼はその後将軍職に就任するのですが、すでにその時点では本質は変わらなかったイメージです。
一橋慶喜は将軍家の血筋を背景にしたお坊ちゃん秀才でしかないのに対し諸侯会議メンバーは政治駆け引きの猛者揃いですから、徳川家の威光低下に比例し発言力が低下する一方になり最後に決着したのが、薩長の武力を背景にした小御所会議だったのでしょう。

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