上皇の生活費を内廷費に加える疑問2

皇太子になると東宮御所として住む場所も違うし行楽等のお出かけ単位も別々、お付きの職員も違うのが古来からのしきたりですから、これを天皇家と同一世帯とは昔から言わなかったでしょう。
古代からそれぞれ生活費拠出者の妻の実家が違う以上は、別世帯感覚だったのではないでしょうか?
内廷費に天皇家と成人した皇太子一家あるいは天皇家と上皇家の家計を一緒にした内廷費を決めて「後は自分たちで決めて下さい」というやり方は、生活保護で言えば、親世代夫婦と子供世代夫婦が別に生活しているのに「一括支給するのであとは自分たちで分配して下さい」と言うのと似ています。
内廷費がここ20年ほど変化ないようですが、民間人同様高齢化で3世代世帯時代になっている・・このため長期にわたる高齢化世帯の生活費問題・・年金持続性が社会問題になっている・・天皇家でも高齢化による負担増は同じです。
約20年で急速に変化した高齢社会問題化が進む中で、過去20年間以上も同額据え置き・・しかも上皇一家も内廷費に組み込まれるのであれば、実質減額ではないでしょうか?
http://news.livedoor.com/article/detail/12666674/

天皇陛下の「譲位」で浮上 「皇室の予算と財産」の問題
2017年2月13日 12時0分
...
山下氏は、皇室をめぐる一連のカネの問題について「戦後70 年間、状況が変わっても、法律の見直しをおこなわなかったことが一因」と語る。
皇室の未来を見据えた法の大改正が、今こそ必要なのだ。<皇室費の内訳をザックリ解説!>
【内廷費】3億2400万円
天皇・皇后両陛下、皇太子ご一家の日常費用。年間額が定められている。「’96年度より同額で、8100万円ずつ年4回支払われます。用途の3分の1は、内廷職員の人件費

一例を挙げれば、天皇家の場合、お出かけになると入場料(美術館1800円の場合)は無償でも入場料以上の身分相応のお下賜金を(相手にとっては接遇のための人件費、警備・入場規制その他莫大なコストがかかります)支出する必要があり、一般人の交際費と比較になりません。
一般人が結婚式に招待されて会費徴収がなくとも会費相当額以上のお祝い金を包むのと同じです。
上記記事は天皇家・皇室経費に対して批判的論調でこの機会に見直すべきという論旨です。しかし、この20年間・物価は上がらなかったにしても高齢化・/人生と100年時代に入りつつある現在、違った角度からの見直しが必要と思います。
一般家庭を例にイメージ的に表現すると、残されたお婆ちゃま、お爺様が息子や娘夫婦と同居して8畳間程度の隠居部屋で日向ぼっこしているイメージの生活・・ちょっとした手元小遣いがあれば足りる想定・これが国民年金支給が月額6〜7万円の制度設計でした。
ところが長寿化の進展で定年後の寿命が延びたことで、80歳前後まで夫婦揃っているのが普通になってくると定年後次世代と同居する人が少数になり親世代と次世代の生活費一体化が崩壊して、大多数では世帯が別になってきました。
そうなると一軒の家の中で隠居部屋だけ維持するのと違い、生活費が二重に必要となり収入源が国民年金しかない高齢者の貧困を引き起こすようになっています。
もともと電気ガス水道や、家の維持あるいは家賃等生活費全部を年金で賄うようになっていなかったからです。
長寿化→年金支給期間の長期化による掛け金と支給額のバランスが悪くなっています。
例えば年金支給期間を10年間平均で想定していて掛け金を設定していた場合に、長寿化により受給期間が20年間に増えると論理的には支給額を半額にしないと収支があわず大幅赤字になります・・金利動向その他の修正要素がありますが以上は単純化意見です。
長寿化や想定外低金利等により年金収支が赤字化し、国庫負担が増える一方になっている状態では毎月支給額を増やすどころではないことから、受給開始年齢の引き上げや元気な人には働いていただき生活費の補充(自助努力)をしてもらうしかない状態に陥っているのが高齢化問題でしょう。
ここで内廷費が高齢化に対応していないのではないかの疑問に戻ります。
従来の内廷費制度は高齢社会が始まりつつあってもまだ少数派時代・・壮年期の天皇夫妻と成人前の宮様の核家族と、残された皇太后お一人がひっそり過ごされる標準パターンを前提としていたように見える点です。
昭和天皇が崩御されて初めて次世代天皇が即位したことが象徴するように、天皇即位後は、皇太后の細々とした生活費だけを前提にしていました。
これがれっきとした上皇御所となると公務員だけも昨日紹介したとおり65人も必要になる規模です。
これに比例して天皇家とは別の活発な行幸啓などの私的費用負担が増えるはずです。
皇室も高齢化の波は同じで、核家族プラス数年の余命を生きながらえる皇太后の細々とした生活費負担程度(旧来の大宮御所と上皇御所の違いです)とは違い、今や、天皇一家と上皇一家という民間で一般化している2世帯住宅・2世帯の生活様式になっています。
上記引用記事によれば内廷費の
「用途の3分の1は、内廷職員の人件費」
というのですからなおさら上皇御所となると大変です。
内廷費によって生活する消費単位(上皇になってもその生活費が内廷費に含まれるとなれば)が、(昔のように核家族プラスおばあさんが日向ぼっこしているだけの時代と違い)2倍近くなっている点を考慮すると20年以上前のまま、内廷費が同額据え置きのままでは実質大幅減額になっているのではないか?という視点での感想で書いてきました。
そのような視点での議論をした上で、もともと内廷費が高額すぎたという結論があるならば別ですが、そういう議論がないまま同額据え置きはおかしくないか?という疑問です。

仙洞御所経費と核家族化1

秋篠宮様が批判する皇位継承関連予算案を見ておきましょう。
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/kunaicho/pdf/yosangaiyo-h31.pdf

平成31年度歳出予算
政府案の概要について
平成30年12月
宮 内 庁
皇位継承における皇室費での儀式関係経費の概要について

を見ると(引用すると長すぎるので要約です・正確には上記に入って確認お願いします)

① 大嘗祭関連 前回規模(平成天皇即位)で行うと(・消費税率変更(3%→8%→10%(来年10月)・物価の上昇・人件費の著しい増加や材料費の高騰)で約25億円の出費になるので、参列者を1千人から700人へ減らしたり(招待すると宿泊費・パーテイ等の関連コストが巨大)して規模を縮小し、茅葺きから板葺きにする・参殿の屋根材を茅葺きにするなど資材のレベルダウンを図り、18億6000万に絞った
②大饗の儀 ・前回1000人→700人、回数3回→2回、等々で平成31年度231百万円→前回347百万円)
③ その他経費

等々が出ています。
上記の通り大嘗祭の経費は日経新聞報道時点では(平成天皇即位)前例通りに行うと30億円もかかる予定だったとしか外部には不明だったでしょうが、内部的にはコスト削減のために規模縮小や資材変更など細かく準備を積み上げていたことがわかります。
このあとで紹介する退位関連経費が増えた分が、平成になったとき(昭和天皇は先に崩御されているので退位後の住空間整備などが不要でした)とは違う・・増えたのでそれを合わせると35億くらいかかるようです。
退位後の上皇の御所の造営や公務員の増加など戦国時代の皇室の経済力・平成天皇天皇退位関連経費を見ておきましょう。
戦国時代にはそれほど豪華でなくとも、仙洞御所と内裏双方を維持(建築費だけではなく相応の侍従等の役人も必須で維持費がかかります。)するのは無理があったので、生前譲位が何代も行われていなかったらしいのです。
もはや院政(これまで紹介してきた八条院領の経済的バックによったのです)で睨みを利かすどころではありません。
戦国時代では天皇家の生活費すらままならない・儀式に必要な衣冠束帯の用意さえできない困窮状態で天皇家(内裏)と院の御所との二重経費負担に耐えられなかったのです。
正親町天皇天皇譲位問題では、信長が仙洞御所造営費用の出費に協力的でなかったので譲位できなかったと言われています。
正親町天皇に関するウイキペデイア引用です。

信長が譲位に反対したとする説
・・・前述のように当時は仙洞御所が無く、天皇・信長のどちらかが譲位を希望したとしても、「退位後の生活場所」という現実的な問題から何らかの形式で仙洞御所を用意できない限りは譲位は困難であった(後年の正親町天皇の譲位においては、それに先立って豊臣秀吉が仙洞御所を造営している)。
だが、譲位に関する諸儀式や退位後の上皇の御所の造営などにかかる莫大な経費を捻出できる唯一の権力者である信長が、譲位に同意しなかったからとするのが妥当とされている(戦国時代に在位した3代の天皇が全て譲位をすることなく崩御しているのは、譲位のための費用が朝廷になかったからである)。

仙洞御所を新規に造営すれば(その後のお付きの方々も必要になるし)大金がかかるのは容易に想像がつくでしょう。
古くは天皇が退位すると里内裏に引っ込みそこを仙洞御所といっていたようですが、中宮の実家(公卿)自体も荘園が消滅して経済力がなくなっていたからでしょう。
退位しても落ち着くべき里内裏のような屋敷もない以上、退位=新規造営費用が必要な時代が来たのです。
平成天皇が生前退位すると古代からの慣例によれば、美智子皇后のご実家が里内裏を提供することになるのですが、正田家もそこまでの財力がない(相続税がきつくて巨額資産承継は無理でしょう)あってもそういう時代ではないということでしょうか?
日清製粉をネット検索しても創業家の正田家が大株主として上位に出てきません。
仙洞御所造営→維持費(お側に仕えるものを含めて)を長期間を民間人が抱えるなど今の時代無理でしょう。
平安末期に院政が猛威を振るえたのは藤原氏の荘園収入に対抗できる八条院領などの独自荘園確保がなったからでないか?というのが独自根拠のない妄説です。
そういえば藤原氏の権勢を確かなものにした光明皇后のよっていた紫微中台の予算が、朝廷(娘の孝謙天皇)を凌駕していたとどこかで読んだ記憶です。
何事も経済的裏打ちが基礎になります。
平成天皇が生前退位すると退位後の別のお住まい・仙洞御所が必要・・現天皇退位後は当面一時的に旧高松宮邸を事前改造してそこへ移り、その間に今の東宮御所を改造してから仙洞御所としてお移りになる予定のようですが、その間の倉庫建築等々玉突き移転の工事費が以下の通り約17億円程度かかるようですし、崩御後の即位と違って退位後の御所付きの各種公務員の張り付きが必要です。
https://docs.google.com/document/d/1B_k-2lcstvNhZWWRqkWpEo0Evf1mJlU7NLjlDEZOEak/edit#

宮内庁によると、来年度(30年度)、天皇陛下の退位に向けた準備として必要な経費は35億6000万円で、内訳は、両陛下が仮住まいされる高輪皇族邸の改修工事や御所、東宮御所、秋篠宮邸の工事の設計など住まいの関係に17億3000万円、
今後の儀式に必要な装束や物品の調達などに16億5300万円、などとなっている。””
今年度は35億、来年度は19億円、生前退位に伴う費用が計上され、来年の5月の即位を迎えます。
・・・引退する上皇、上皇后のお世話をする「上皇職」に65人もの宮内庁の職員を配置することです。

天皇象徴性の定着と無答責3(連署制1)

そもそも古代からの詔書、院宣や綸旨には、天皇の署名がなくお聞きした内容を役目によって書き止める形式が主流です。
貴人のお顔や声を直接お聞きするなど「畏れ多い」・・・御前にまかり出る資格のある高位の公卿でも御簾で隔てられた拝謁が原則だったイメージの文書版です。
この結果証書であれ、綸言であれ署名がなく聞き取った関連部署長官(蔵人頭など)の署名で行う形式でした。
明治憲法から御名御璽が必須の制度になっていますが、世上言われてきた天皇神格化の正反対の方向です。
多分中国歴代王朝の形式を真似たのでしょう。
中国では、専制君主ですごいように思われますが、皇帝が何から何まで親裁・自分で威厳のある大きな印(玉で作った持ちにくい巨大な印)を押していたので終日押印作業に追われて肩がぱんぱんであったと言われますが、江戸時代中期以降に役立たずになっていた観念的儒者がこれを理想としていたからです。
(中国皇帝の場合事実上流れ作業的押印に追われるので皇帝お気に入りの高官処刑の決済文書が紛れ込むことがあったようです)
この結果、現天皇陛下の年間署名数は膨大です。
https://diamond.jp/articles/-/112777?page=4

2017.1.4
天皇陛下の1年、知られざる膨大な仕事量
週刊ダイヤモンド2016年9月17日号特集「日本人なら知っておきたい皇室」より
・・・・陛下は昨年、約1000件の上奏書類を決裁されたというが、注意すべきは、例えば1回のご執務で処理される、数百人分の功績調書を含んだ叙勲関係の書類が、まとめて「1件」とカウントされていたりすることだ。
しかも、決裁を翌日以降に遅らせると政治への介入(一例を挙げると、「法律の公布」を1日遅らせると、法律の発効に関する手続きを天皇の都合で1日ずらしたことになり、立法権への介入=憲法41条の国会単独立法の原則などに抵触)となるので、体調が悪くても、ご執務を簡単に休むわけにはいかない。
御用邸で静養中や地方訪問中であっても、火・金曜にぶつかると、内閣官房の職員が午後、新幹線や飛行機で書類を東京から持参し、御用邸やホテルの部屋で決裁していただいている。執務は週2回なので、年間約100回になる。

日本ではこんなバカなことを古代からやっていません。
詔書等に関するウイキペデイアの記事からです。

・・詔書は重要事項の宣告に用いられた。天皇は署名せず、草案に日付を書き(御画日)、成案に可の字を書いた(御画可)。また、公卿(大臣・大中納言・参議)全員の署名を要した。詔書は天皇と公卿全員の意見の一致が必要であり手続きが煩雑であるため、改元など儀式的な事項にのみ用いられるようになった。

ウイキペデイアによる宣旨についての記事です

天皇の命令・意向(勅旨)が太政官において太政官符・太政官牒などとして文書化される際、文書作成を行う弁官局の史が口頭で命令・意向を受ける。このとき、弁官史は、命令・意向の内容を忘れないために自らのメモを作成した。このメモが、当事者へ発給されるようになり、文書として様式化していき宣旨となった。文書には、弁官・史などの署名しか記されなかったが、天皇の意を反映した文書として認識され、取り扱われた。

足利時代の「観応の擾乱」の本を読むと施行状等の署名者が誰かが重視されたとあります。
施行状だったか?に誰が署名しているかでその信用力・・・この人が署名しているなら実効性が高いという信用で武士が動いたのです・・を有難がる実務があったということです。
日本社会では古代から、高貴なお方は自ら文書を発しない慣習があるようですし、高貴でなくとも今では知事、市長、社長、理事長等の名義で役人や文書係が代わって大量文書発行することが多いので、(生命保険証書などに社長の印が押されていますが、多分全部社長等が自分で署名や押印をしていないでしょう)公文書を発するには相応の順序(副署しないまでも内部的に稟議決裁文書を保管しておくなど)を踏むようになっているのもこの結果でしょうか?
一つには御璽であれ、市長公印であれ社長印であれ、各種公印は天皇や、市長、知事、社長がいつも携帯していない・保管者が別人である実態があります。
社長等の印の他に社長等が直筆署名すれば真実性担保できるようですが、膨大な文書発行が日常化している実務では、全件社長等が、署名するのは無理があります。
保管者が乱用しないように社長や市長印を押すには、相応の手続きを踏んだ形式(稟議書とそこへ至る各種会議議事録)を残すのが必須(いざとなれば印保管者による冒用か?の検証容易)であり合理的です。
江戸時代には将軍家に対面すること自体「畏れ多い」ほどの貴人ではないですが、それでも公式文書は老中奉書で布告していました。
江戸時代の老中奉書は 幕府文書で天皇家の詔勅や綸旨や院宣とは違いますが、以下の通りです。

老中奉書(ろうじゅうほうしょ)は、日本の文書形式。江戸時代において江戸幕府老中が将軍の命を奉じて発給する伝達文書で、奉書加判は老中の主要な職務であった。
老中が連名で発給する連署奉書と、単独で発給する奉書がある。前者の例としては大名や遠国奉行への命令伝達、後者の例としては将軍家への進物の受け取り確認等があげられる。寛文4年(1664年)4月1日に制度が改定され、小事については老中一判の奉書となった。

江戸期の老中制度になると明治憲法下の内閣とほぼ同様老中の合議であり、老中首座は同格者の筆頭でしかなかった点は明治憲法下の内閣同様ですが、閣議を経た文書は連署形式でした。
ちなみに現在幕閣とか、閣老、閣議というのは、後の内閣制度を老中に当てはめていっているようで当時から幕府とか閣老とかいう名称があったものではないようです。
秋篠宮様記者会見に戻ります。
自分の意見が通らない不満=自分の意見を重視すべきという論建ては、皇室が政治責任を負う体制への変革を主張することにつながり、天皇制維持には危険な主張です。
政治責任を負ってでも政治活動したいならば、皇籍離脱してから私人として行うべきでしょう。
こういう人が後嗣では(一世代約30年後に天皇になると?)皇室の永続性に疑問符がつきます。
この発言に呼応して早速市民団体?が12月中に(宗教行事への公費出費が違憲という)違憲訴訟提起すると発表したようです。
https://www.ootapaper.com/entry/2018/12/02/160930″

秋篠宮さまの誕生日と同じ30日に、市民団体が大嘗祭違憲訴訟を起こすと一斉に報道

あたかも事前に示し合わせたかのような発言とメデイア発表のタイミングに驚きます。
憲法上、予算案・・内廷費で賄うべきか内廷費としてどの程度の出費を認めるべきかは内閣の高度な判断に委ね最終的には国会議決・政治家総体の判断を経て実現する仕組みですから、秋篠宮様公式発言は高度な政治判断・・内閣の助言承認や国会審議に影響を与えようとしているように見えます。

天皇象徴性の定着と無答責2

象徴天皇制と天皇制存続可能性について見ておくと、優秀な政治家でも一定年数経過すると社会の意識変化についていけなくなり、(長期安定政権で知られるドイツのメルケルもロシアのプーチンも流石に支持率が下がってきて政治生命が終わりに近づいた印象です)政権交代があるのですが、最終決定権を天皇家が持つようになると決定に対する政治責任が発生します。
優秀な政治家でも毎回うまく行く訳ではない(世論動向吸収巧者メルケル氏は難民急増に関する世論を読み違えた)ので、一定期間経過による政権交代の宿命が天皇制の寿命を縮めます。
発言力・最終決定権がない前提でこそ「天皇の無答責」で一貫してきたのです。
天皇家が主導権を発揮した承久の乱の後鳥羽上皇その他の上皇や、正中の変〜元弘の乱では後醍醐天皇が廃位されて島流しになっています・・。
このように具体的政治決定の主役になると、政治責任を取らないではすみません。
後水尾天皇の紫衣事件は、天皇の裁量で行ったから政治問題に発展したのです。
昨日紹介した通り、天皇家は応仁の乱以降経済力を失い即位の礼でさえ、有力大名の寄進がないとできない状態→寄進してくれる限度=儀式諸費用決定権がない状態になっていたのですから、儀式が華美すぎるかどうか(を決めるのは信長等の費用出し手です)の批判を受けない仕組みになっていたのです。
毛利氏や信長などが費用負担するようになって以来、天皇家は儀式担当(俳優のように担当するだけで、規模コストを決めるのは時の出資者・政権担当者)化していていろんな政治決定権がないからこそ天皇家の無答責が一般化し連綿とつづいてきたのです。
ちなみに戦国時代の天皇の実態について当時来日した西洋人記述は以下の通りです。
正親町天皇に関するウイキペデイア引用です。

イエズス会の宣教師は、日本には正親町天皇と織田信長の2人の統治者がいると報告書に記述した[7]。フランシスコ・ザビエルの後任である布教責任者のコスメ・デ・トーレスは、1570年(元亀元年)に、日本の権権分離を以下のように報告している[8]。
日本の世俗国家は、ふたつの権威、すなわちふたりの貴人首長によって分かたれている。ひとりは栄誉の授与にあたり、他は権威・行政・司法に関与する。どちらの貴人も〈みやこ〉に住んでいる。栄誉に関わる貴人は〈おう〉と呼ばれ、その職は世襲である。民びとは彼を偶像のひとつとしてあがめ、崇拝の対象としている。

当時から天皇は象徴であり政治決定権を持っていなかったのです。
敗戦時の東京裁判では実質決定権がなかったと言う理由で、天皇が被告にならなかったのもその事例です。
1月23日に、貨幣改鋳した奉行と新井白石の論争を書きましたが、明治維新は江戸時代に入って朱子学が浸透し実態よりも観念を重視する新井白石などの秀才が幅を利かす時期がありました。
実利重視の吉宗の登場によって、朱子学者は実務の反撃を受けて挫折してしまった不満をかこっていたことの裏返しの時代になって、専制君主が正しい・今の体制は間違っているという観念論によっていたように見えます。
結果、朱子学は具体政治になんら有用な機能を果たせずに空理空論を弄んでいただけですから、幕末動乱期にまともな役割を果たせていません。
幕末動乱期から明治にかけて世界情勢に適応できたのは、朱子学とは系列の違う各種文芸の発達(ジャポニズムとして西洋に逆影響を与えるなど)や適塾や、和算や天文学など実用学問の素養でした。
同様に幕藩体制批判の急先鋒・水戸学は御三家の中では冷や飯食い的不遇・今の野党評論家のように、何かと現体制を批判したいグループ同様でしたから、待望の幕藩体制が倒壊してみると明治政府からお声がかからないで終わりました。
むしろ賊軍であった旧幕臣の方が新政府で活躍しています。
水戸家では体制批判に特化していて実務能力がなく役に立つ人材がいなかったからでしょう。
水戸家出身の最後の将軍徳川慶喜も批判論は得意だったでしょうが、書生論でしかなかったのでいざ将軍になると、もみくちゃにされて終わりました。
学者とは数代前に時代に合わず変わってしまった社会体制を理想として、現在の体制を批判することを職業としている人のことでないか?とも言えそうです。
維新政府は、中国の専制支配体制を理想化して日本の国情無視の儒学者らの観念論による「尊皇攘夷論」に乗っていたために(薩長は倒幕大義名分として利用していただけですが、)攘夷論に気を使って「王政復古」を旗印にしていた関係もあって、当初二官八省制から始めたことを07/18/05「王政復古と3職」前後で官制の変化(廃藩置県等の地方制度も含め)として時系列で紹介したことがあります。
二官八省制度はあまりにも実務向きではないのでどんどん改組していき最後の総仕上げで明治憲法体制になったものです。
政府は王政復古の旗印を無くせないので、明治憲法の天皇制は実務決定は政治家が担当するが文書上は天皇の名において行うという分業を目指したように見えます。
明治憲法では天皇大権として、「これでもか足りないか!」と言うように書けるだけ精一杯書いた印象で羅列していますが、要は当時想定できる政府の権能を描いたものでしょう。
実際の運用では主任大臣の副署を要求するしかなかったのですし、天皇大権を羅列すればするほどすべての分野で形骸化して行く運命です。

明治憲法
第55条国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス
2 凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス

明治憲法でも主任大臣の連署が必要でした・・これが現憲法では主任大臣から内閣に変わっただけです。
(内閣制度が憲法制定前にありましたが、明治憲法上の制度になっていなかったからです)
この場合の副署は天皇自らの署名を求めるのは「畏れ多い」という古代からの「憚り」によるのではなく、実務政府の副署・・承認がないと効果がない江戸時代の禁中ご法度の継承・・逆の意味合いでしょう。
どういう有能な人でもすべての分野で実態にあった裁可する能力があるはずもないので、結果的に天皇の名においての権限乱用に結びつくようになります。
天皇の名を乱用するのを防ぐために、戦後の現憲法では実態に合わせて天皇大権の文言を全部削除して「象徴天皇」を明記し、国事行為のみを内閣の助言と承認で行うと明記しました。
これが上記引用した戦国時代に日本に来た西洋人の観察にも合致していたからです。
実質決定権がない状態に合わせた・・新憲法で象徴性を明記したので戦後初めて象徴天皇になったかのように誤解するムードが流布していますが、儀式専門になったのは上記イエズス会代表文書引用のとおりおよそ500年の歴史があるのです。

天皇象徴性の定着と無答責1

秋篠宮様の記者会見内容です
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO38317800Z21C18A1000000/

秋篠宮さま、大嘗祭の国費支出に疑問 2018/11/30 0:13
大嘗祭の国費負担に異例の疑義「長官は聞く耳持たず」
新天皇となる皇太子さまが即位後初めて国民の安寧や五穀豊穣(ほうじょう)を祈る大嘗祭に公費が充てられることについて、秋篠宮さまは「宗教色が強いものを国費で賄うことが適当かどうか」と異例の言及。大嘗祭を前回と同規模で行った場合、30億円近い支出が見込まれることが背景にあるとみられる。宮内庁の山本信一郎長官に意見を述べても「聞く耳を持たなかった」と批判された。

秋篠宮様は国事行為の内容切り分けについて、自分の意見が通らなかった不満のようです。
たまたま国民負担を減らす方向?の意見なので国民支持を得られると思って公表したのかも知れませんが、都合によって国民世論に訴えるような政治活動をしていると象徴性を覆してしまい、皇室のありよう自体が問題になってきます。
宗教儀式だから内廷費で賄うべきと言っても内廷費自体国民が負担する国税によるので・次年度は退位関連行事が多いことを理由に内廷費を増額するか宮廷費を増額するかの次年度予算項目の仕分けの不満でしかなさそうです。
・・結果的にどの規模の大嘗祭を国民が納得(予算案が通過)するかの経済・お金の問題です。
信長が出費した時代でも、どの程度まで天皇家のため支出するかの具体的出費が信長の判断にとって重要な要素だったはずです。
今では、この出費規模をどの程度まで許容すべきかは、国民の代表たる国会が承認するかどうかの問題でしょう。
皇室の一員として皇室行事のために「こんなにお金がかかるのは国民に申し訳ない」という謙虚な姿勢を示すのは合理的ですが、国会で決めるべきこと・内閣提出予算案の閣議決定まで進んだ政治判断を「聞く耳を持たなかった」と公式批判するのは行きすぎではないでしょうか?
宮様の発言はお金のかかりすぎに対する謙虚な姿勢を示したものであったと引き取って日経新聞は「30億円近い支出が見込まれることが背景にあるとみられる。」と解釈したのでしょうか。
ところが、この後で退位関連予算案を紹介するように天皇退位関連出費予算案をみると先例通りだと人件費や資材物価上昇あるいは消費税アップ(当時3%が今8%)等で30億前後になるようですが、政府予算案の説明によると、規模縮小や利用資材のレベルダウン(低級品に変える)によって18億円程度に縮小する予算になっているようです。
30億円を超えるのは、生前退位の結果仙洞御所新設が必要になりその造営や玉突き的転居費用や即位の礼関連費用があるのであって、大嘗祭だけの予算だけではありません。
国事行為の範囲についての高度な判断が、のちに違憲であったと最終確定した時に内閣が国民に対して責任を負うことになっているのですから、その範囲を決める判断は政治責任を負う内閣に委ねるべきでしょう。
まして予算は国会で審議されて決まるべき性質のものですから予算を通した国会全体の責任です。

憲法
第七条 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。

国事行為についてのウイキペデイアの解説です。

儀式を行うこと(第7条第10号)
本条の「儀式」は天皇が主宰して行う国家的性格を持つ儀式をいう[16]。これに対しては他人が主宰する儀式への参列もこれに含むとする反対説もある。
本条の儀式としては即位の礼(皇室典範第24条)、大喪の礼(皇室典範第25条)、新年祝賀の儀などの国家的儀式等が挙げられ、日本国憲法第20条第3項に基づき宗教的色彩は排除されるとともに[16]、費用は公金である宮廷費から支出されている[16]。
一方、元始祭や皇霊祭など皇室の私事で行われるものは純然たる私的行為であり、皇室の信仰方法に基づいて行われても憲法上の疑義は生じず[4]、費用も御手元金である内廷費で賄われている[4]。
天皇の退位等に関する皇室典範特例法に基づく退位の儀式や立皇嗣の礼も国事行為として位置づけられる[17]。

上記によれば、同じ国家予算の中で内廷費で実施するか宮廷費で実施するかの予算項目の問題です。
国民にとっては実額が重要ではないでしょうか?
象徴天皇制と天皇制存続可能性について見ておくと、優秀な政治家でも一定年数経過すると社会の意識変化についていけなくなり、(長期安定政権で知られるドイツのメメルケルもロシアのプーチンも流石に支持率が下がってきて政治生命が終わりに近づいた印象です)政権交代があるのですが、最終決定権を天皇家が持つようになると決定に対する政治責任が発生します。
毎回うまく行く訳ではないので一定期間経過による政権交代の宿命が天皇制の寿命を縮めます。
発言力・最終決定権がない前提でこそ「天皇の無答責」で一貫してきたのです。
天皇家が主導権を発揮した承久の変の後鳥羽上皇その他の上皇や、正中の変〜元弘の乱では後醍醐天皇が廃位されて島流しになっています・・。
このように具体的政治決定に参加している以上は、政治責任を取らないではすみません。
昨日紹介した通り、天皇家は応仁の乱以降経済力を失い即位の礼でさえ、有力大名の寄進がないとできない状態→儀式諸費用決定権さえがない状態になっていたのですから、儀式が華美すぎるかどうかの批判を受けない仕組みになっていたのです。
天皇家は儀式担当化して以来、政治能力がないからこそ天皇家の無答責が一般化したのです。
敗戦時の東京裁判では実質決定権がなかったと言う理由で天皇が被告にならなかったのもその事例です。
実質決定権がない状態を・・新憲法では明記したので戦後初めて象徴天皇になったかのように誤解するムードが流布していますが、儀式専門になったのは、およそ500年の歴史があるのです。
秋篠宮様の自分の意見が通らない不満=自分の意見を重視すべきという論建ては、皇室が政治責任を負う体制への変革を主張することにつながり、天皇制維持には極めて危険な主張です。
個人が政治責任を負ってでも政治活動したいならば、皇籍離脱してから私人として行うべきでしょう。
秋篠宮様が批判する皇位継承関連予算案(最終的には国会議決・政治家総体の判断を経て実現するものです)を見ておきましょう。
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/kunaicho/pdf/yosangaiyo-h31.pdf

平成31年度歳出予算
政府案の概要について
皇位継承における皇室費での儀式関係経費の概要について
を見ると(引用すると長すぎるので要約です・正確には上記に入って確認お願いします)
① 大嘗祭関連 前回規模(平成天皇即位)で行うと(・消費税率変更(3%→8%→10%(来年10月)・物価の上昇・人件費の著しい増加や材料費の高騰)で約25億円の出費になるので、参列者を1千人から700人へ減らしたり(招待すると宿泊費・パーテイ等の関連コストが巨大)して規模を縮小し、茅葺きから板葺きにする・参殿の屋根材を茅葺きにするなど資材のレベルダウンを図り、18億6000万に絞った
②大饗の儀 ・前回1000人→700人、回数3回→2回、等々で平成31年度231百万円→前回347百万円)
③ その他経費

等々が出ています。
上記の通り大嘗祭の経費は日経報道のように30億円もかかる予定ではありません。
このあとで紹介する退位関連経費が増えた分が平成になったときとは違う・・増えたのです。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC