メデイア界では識見を有するかの根拠もない若手タレントがズバリ歯切れよくいう事(多くはメデイアの振り付けに従って)そのものを目的にしたバラエテイ番組などが数10年前からかな?はやるようになっています。
メデイア界では「たかじんのそこまで言って委員会」「〇〇ズバっ!」という番組が続いていましたが、論旨明快を通り越してさらに露骨に一歩踏み出すのが喜ばれる時代がきていたのです。
いずれも内容のない思いつき的意見をテレビ局の振り付けどおりに話すパターンですが、こんな底の浅い番組のどこが面白いのか不思議ですが、この程度のことですごい頭の良い人と感心する人が多いからでしょうか?
今朝7月2日の日経新聞5p下欄の週刊誌広告・週刊文春には木村花さんテラスハウス、母が衝撃の告白「スタッフの指示通りにしただけなのになぜ娘がパッシングを受け死ななければならなかったのでしょうか?」という文字ですが、こんなことを文春が取り上げなくとも常識ではないでしょうか?
文春のインパクト・成功の秘訣はほぼ常識となっている虚構を何かのきっかけをつかんで衝撃的に暴くことかもしれませんが・・。
ネット発達によって特定問題について大手メデイアの選別を経ないで一定専門家が自分の考えや言葉できっちり解説するユーチューバーが出てきましたが、これはこれで偏りがあるというか一人で最後まで話す以上は一定の偏りがあるのは当然ですし、それが面白いのですからテレビのように一方的垂れ流しで選択権のない報道と違いネットの場合、自分で多様なユーチューバーを選んで聞き比べれば良いことです。
近代社会が理想とする積極的発言する社会は教養のある市民社会(相応の識見)を前提に、言いたい意見をモゴモゴ言わないではっきり主張することを前提にしていたと思われます。
大衆社会化が進み、冷静な議論より感情的反応によって即時⭕️❌反応するのに長けた人が発言力を持つようになると論理的裏付けに基づく冷静な議論が不可能になってきます。
ネット・スマホというツールによって思ったままアケスケにいう社会になった・底辺にまで表現拡散権を広げた結果、ネット炎上が多発するようになったのがその象徴でしょう。
市民革命によって生まれた落ち着いた議論のできる「市民」(新興産業の経営者・ブルジョワジー)による合理的な討論によってより良い意見を生み出していくことを前提にした19世紀社会の理想である憲法・・近代法の原理で行なっている矛盾が今回のコロナ禍で先送り仕切れない巨大な矛盾として立ち上がってきたと見るべきでしょう。
先進国では、何ごとも我慢する必要がないとして権利として主張し論争の種にすることが進んだ姿(意識高い系?)として褒めそやし持ち上げすぎたことによる弊害ではないでしょうか?
何となくモヤモヤしたさ社会に対する不満のはけ口を求める空気があって、それに迎合して根拠なく単純言語で言い切ってしまう。
生活保護基準を月額20万円に引き上げる!最低賃金を二千円に引き上げる、奨学金の支払い義務を全部チャラにするなど言い切ったが方が勝ちみたいな風潮が広がります。
いわゆるバラマキ型ですが、あらゆる分野に都合の良いことを言っても具体的対立関係がないので対象になったグループは喜ぶだけです。
高校大学保育園無償も出産者に一律50万円支給も芸術家支援「アパート家賃半額支給、消費税ゼロにします」「障害者支援」もお互い二択・・対立関係ではありません。
良いことづくめでトータル国家運営では矛盾ですが、個々の受益者にとっては(高校性の親と大学生の親の対立もなく、目先敵対関係が起きないので、自分の子どもの学費を無料にしてくれるなら投票しようかとなります。
対外政策その他従来型争点で公約をすると不利益を受ける対立が必ずある関係→対立グループの離反を招きますが、上記のような消費者向け口当たりの良いバラマキ主張は敵がありませんし、バラマキの言いたい放題です。
大規模政党になるには国家経営ビジョンを示す必要がありますが、さしあたり2〜4人程度の当選を目指すなら国家ビジョンまで必要がないでしょう。
良識のある人に限らず納税している人から見れば、その資金は誰が負担するの?という疑問に行き着きますが、非課税層を増やすとポピュリストの宣伝にまともに乗る人が増える関係になりそうです。
いわゆるポピュリストが登場し易い社会になってきたのが、大手メデイアやネット発達による結果です。
小泉元総理の次男?小泉進次郎氏が、デビュー直後から気の利いた発言でメデイア界の寵児になっていましたが、環境大臣に就任して責任ある立場になると、これまで連発していた気の利いた発言が内容実質に基づかないものだった(当たり前?)・メッキが剥がれてしまったイメージになりました。
メデイア受けのする発言は、バラエテイー番組のタレント的素養・・・振り付けどおり発言する能力があればできることが判明したことになります。
メデイアというのはそういう視聴者(底辺層は富士の裾野のように最大多数です)をターゲットにして情感に訴える報道をしてきたということです。
政治家もこの巨大層を重要票田とみなし始めたのです。
戦後からネット開始まではこの巨大層の支持を得るのは大手メデイアの誘導が威力を発揮していましたが、ネットの威力が高まると大手メデイアが意図する方向ばかりに政治誘導できなくなりました。
そのエポックになったのが朝日毎日を中心とする慰安婦報道に対する反撃だったでしょうか?