東博詣で・イベント参加の興奮

東博には今年は今上天皇陛下の即位の礼のハイライト・高御座が展示されているようですので、例年より混んでいるかもしれません。
今日は都合により東博詣でを見送ることになりそうでしたが、急転短時間でも東博に出かけることにしました。
せっかく年初に東博に行く以上は、年初に東博に行く以上は、高御座の見学もしたいものですが、この気持ちは一世一代のイベントの一端に加わりたい意識があるからのようです。
大嘗宮解体前に皇居三の丸だったかで公開していたので約25万人が見物に押しかけたようですが、大嘗宮や高御座自体に芸術性があって人気があるのではなく、1世一代の行事に自分も参加している気分になれるのが楽しいのでしょう。
この辺の気分は高御座を拝観しての結果次第ですが・・・。
オリンピックの入場券が人気なのも、時代の興奮に参加することに生きがい?を見出すからでしょう。
もともとスポーツ観戦に全く関心のない私でも前回の東京オリンピックの時に信濃町の都立体育館だったかに体操競技を見に行きました。
その時の経験では体育館のあちこちでいろんな競技が同時進行で進んでいて誰がどういう記録か全く意味不明で時間が経過した記憶です。
当時すでにテレビが発達していたので、あとでテレビを見たら選手のアップがあってテレビで見る方が躍動的でした。
友人に誘われて後楽園球場のプロ野球の試合を見にいった時も同様で、テレビで見るのと違い球が見えないほど早いし解説もないので空振りかヒットかもまるで不明・・バッターが走り内外野手の動作で気がつく程度でスポーツ観戦は当時以来どうも苦手です。
私程度の人間は、大概の催し物を見ても盛りあがる雰囲気に参加し共有するのがいいのかな?程度の関心です。
そんな程度ですので、今年は歳も歳なのであまり長時間並ぶのはキツイので、高御座公開中としても列が長すぎるようだと高御座の方はパスして常設展を見て帰る予定です。
常設展といってもさすが東博ですのでいいものがいっぱい揃っていて、いつ行っても、目の保養というか名品揃いなので、ありがたいことです。
博物館や美術館のない時代には、高貴なお方のお屋敷の奥に飾られて、そこへ訪問できる人だけが目にすることができた美術品を、庶民がそれもお蔵からの出し入れや保存管理の手間暇なしに、電車に乗って出かけるだけの手間・体力で解説文つきで鑑賞できる良き時代です。
国全体が豊かだからこそ、この種の施設があちこちにできて維持できるのでしょう。
ありがたいことです。
東博に行ってきましたが、着いてみると約50分待ちの行列でしたのでパスして国宝室へ直行し東博ご自慢の所蔵国宝等伯の松林図屏風を参観してや日本画・横山大観の無我を鑑賞するために一階の日本画の展示室へ向かいました。
エレベータを降りると、高御座と同時天覧の装束や館などの展示室に出たので、その中を通り抜けていくのか?とおもって歩いて行くと行き止まりになっていて出られないのでぐるっと回ってエレベーター前に戻ったので、改めて係員に聞くと売店の中を通り抜けるとのことでした。
結果的に期せずして儀式用の装束や太刀・ノボリなどの付属品を拝観してしまいました。
お天気がよくポカポカ陽気で、常設展示室の方も普段の2倍くらいの人出でした。

東博詣で

今年の正月も、我が家の主な外出行事は東博に詣でることになっていて、東博御自慢の長谷川等伯その他の名品を鑑賞するのを楽しみにしています。
東博玄関・正面階段踊り場に大規模な生け花が飾られているのを見るのも楽しみの一つです。
私の青年時代には女性が生け花を習うのが一般的な時代で、その後一般化した郊外の文化住宅の玄関の下駄箱の上に(客間の床の間に生ける代わりに)生け花を飾っているのが普通の時代でした。
最近は、親しい友人宅を訪問することがなくなった上に、(親戚だって滅多に家に上がりこまないでしょう)近所の人が来ても玄関ドアを半開き程度しか開かないで応対する人が増えて、家の中に他人が足を踏み入れることが滅多になくなったせいか?生け花を家庭で生ける習慣がなくなってしまった印象です。
この失われた美意識の遺物展示?になっているのが、お正月だけデパートや美術館玄関に飾られるスケールの大きな生け花というべきでしょうか?
遺物とすれば、東博で正月だけ展示するのは理にかなっています。
この4〜5年以上は、日頃から遠くへ旅行する気持ちがなくなり休日ごとに千葉市美術館を初め、都内あちこちの博物館や美術館(映画も含めて)巡りが主な日課になってきました。
東博だけでも2ヶ月に1回くらいのペースになっている(昨年の縄文展は気に入って2回も行きました)印象です。
ウイークデーでも東京地裁や日弁連に出かけるときには少しの時間を利用して近くの(私の学生時代の名称)元日比谷図書館・今は〇〇文化会館?ホールまたは「センター?とかいうらしいですが、新名称はなかなか身につきませんが、三角形の形が特徴ですのですぐに記憶が蘇ります・・ただし内装は近代化されています)の展示を見るのを楽しみにしています。
そこは江戸の歴史に特化しているし、小さくて短時間で済むのがメリットです。
さらに時間があればちょっと立ち読み程度の本(元は図書館ですから当然ですが・・)も充実しています。
昨年は日比谷公園に行くたびに、日比谷交差点近く日生劇場に隣接するところで建築中だった東京ミッドタウン日比谷の工事中高層ビルが立ち上がる姿を楽しみしていましたが、昨年ついに竣工しました。
日比谷公園では季節ごとに変化する公園内の樹木を見るのも楽しみの一つです。
東京はあちこちで大規模開発が進み、どこもかしこも、大成功?したのか人の群れです。
4〜5年前までは、午前10時の弁論の時には、妻と一緒出かけて、弁論後に三宅坂の国立劇場へ向かって(11時半開場)歌舞伎を見たり、日比谷松本楼で早めに昼食を終えて、日生劇場(午後1時開場)などで観劇するコースでしたが、この4〜5年では日比谷公園から帝国ホテルの脇を通って銀座に出てその辺で娘と待ち合わせるのが定番コースになっています。
(昨年12月初旬には東京駅前のKITTEで待ち合わせましたが)
元気だと思っているうちに、仕事で霞ヶ関に出る回数が次第に減っていき、その内に東京駅〜日比谷界隈が想い出の地になっていくのでしょうか?
若い頃には、「今日できないことを明日以降にはもっとよくできるようになる」成長軌道でしたが、成長の峠を越えた後は・・・昨日までできたことができなくなる・・能力低下・・行動半径が縮小していくのを悟っていく・今日も今年も「無事でよかった」程度の過程に入ります。
すべての経験が徐々に再現不能になって行き、記憶の彼方に押しやるしかないのは寂しいことですが、これが高齢化の現実です。
京都奈良の名刹観光も出来なくなりそうですが、その代わり最近寺宝国宝類が頻繁に東京の博物館にお出ましになって・・いわゆる出開帳の現代版が多く、京都や奈良まで出かけなくとも秘宝の類を東京で観られるようになったのは、ありがたいことです。
この数年だけでも、仁和寺や、興福寺、春日大社展など参観しても拝観できそうもない内陣の様子まで再現してくれるのでありがたい上に、自分が幼い子供らと初めて参観した時の想い出に連なるなどありがたいことです。
仁和寺展では、系列寺院の秘宝まで出展してくれていたのもあり難いことです。
今年も東博では東寺の仏様の展覧が予定されているなど、楽しみです。
東寺の場合、金堂だったか名称を忘れましたが、お堂内に配置されていた堂々たる体躯の仏様群をもう一度拝観できるのは楽しみです。
この10年ばかりどこの美術館でも企画展が流行状態ですので、日本全国どころか、世界の名品の企画展が東京で開催されるようになってきた結果、東京まで出かける気になれば大概のものがお寺にあるかのように展示される時代です・・・このようなことが毎月のように見られるようになっているのがあり難いことです。
この結果、「どこそこの美術館に行かないとこの彫刻や絵画が見られない」ということがなくなりました。
作夏東博で開催された縄文展で言えば、あちこちの市町村教育委員会が保管している縄文時代の発掘品(国宝等)が一堂に会して展覧されました。
それだけではなく、興福寺展では内陣の柱を設営をし、国立新美術館での東山魁夷展では、正倉院の襖絵がその部屋の模型まで設営してその場の雰囲気を再現するような工夫のもとで展覧されるようになりました。
地元で近いのでしょっちゅう行ってる暦博(千葉県佐倉市)でも同様で、
例えば2018年3月6日(火)~5月6日(日)の企画展示「世界の眼でみる古墳文化」でも行って見ると古墳の復元があって、(大分前なので具体的に思い出せませんが、)洞窟様に作られた室内に入ると(ライトアップ・薄あかりがついたり消えたりしして)天井絵や文字が復元されていました。
ドーム型の天井の絵文字などを平板な紙上に再現するのは無理があるのでその工夫です。
地球儀を写真にとるのが無理なのと同じです。
そういえば平成の興福寺金堂復元工事の機会に、天平の昔には描かれていたという法相柱を復活したことが知られていますが、東博で開催された興福寺展覧会でも内陣全体の復元が行われていましたが、内陣の周囲の柱も復元展示していて復活した日本画の写しを貼り付けて?法相柱を復元していました。
現地に行ってもお堂の外から、薄暗いお堂内の御本尊らしきものを拝むだけしかできないのに東博で開帳してくれるおかげで、復元された内陣の隅々まで身近に歩き回って国宝等の仏像を拝観できてありがたいことです。
旅行先でちょこっと見る程度では、企画展のようには至れりつくせりの歴史背景などの説明がありません。
高齢化で遠距離旅行が面倒になっても、都内に出かける気持ち・体力さえ残っていれば、結構楽しめる時代になってありがたいことです。

ギリシャ彫刻と日本彫刻(高村光太郎の苦しみ)

日本の絵画の場合、美しい女性も皆着物を着ている・上村松園の描く女性も浮世絵の女性も源氏物語絵巻の女性、飛鳥の高松塚古墳の女性像も当時の理想的装いで描かれている・・時代・社会性を持っています。
高僧や偉人の絵画や彫刻の場合なおさらです。
ミケランジェロのダビデの像(1504年公開)に先立つ運慶の仁王様(1200年代)はほぼ裸ですが、仁王様を金剛力士像というように、ダビデ像よりも社会的宗教的役割がはっきりしています。
古代ギリシャでは時代を超越した理想の人間像を求めたと言えばそれまですが、なぜ古代ギリシャ(ミロのヴィーナスは最後のヘレニズム様式と言われているらしいですが)でそこまで突き抜けられたのかが不思議です。
日本でも真似して?(これはすごいことだと発奮したのでしょうか?)明治以降裸体彫刻や洋画では裸体画が行われていますが、今ひとつ国民意識に定着しない様子です。
今も国民・民族意識は「綺麗に装うものであって・・」その競争に明け暮れています・・頭でギリシャ彫刻を理解したくらいで変わりません。
この結果、明治維新以降彫刻家にとっては、大変な時代が来ています。
それまでのように仏師は仏像を彫っていれば良かった時代ではなくなったので、高村光太郎は、江戸時代からの仏師である父光雲に反抗して見たのでしょうが、高村光太郎展を見た記憶では、結局は十和田湖畔に智恵子像を完成した(大したものですが・・)程度で、その他は(千葉市美術館の企画展では良いものが出品されなかっただけか?)手首や小鳥の彫刻などに逃げていた(素人の乱暴な感想ですが・・)印象を受けました。
以下は光太郎の詩集「道程」です。

僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る  ああ、自然よ父よ僕を一人立ちさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ 常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため  この遠い道程のため

高村光太郎の苦悩は、日本彫刻界の苦悩でもあったでしょう。
あらたな彫刻へ踏み出すのは大変だったと思いますし、素人が口幅ったいことを言っては失礼ですが、今の日本彫刻界もまだまだどうして良いか分からない状態でしょうか。
明治に入って西洋列強に期していくためには、文化でも負けられない・・従来の花鳥風月では芸術と言えないと言う運動が起こり、絵画界でも同じく「洋画」に取り組んだもののすぐにフェノロサと岡倉天心のおかげで「日本画」と言うジャンルが生まれたので、画家の多くが日本画に回帰できて精神世界では大いに助かっているように見えます。
http://artscape.jp/artword/index.php/によると以下の通りです。

日本美術院は、1898年、東京美術学校を辞職した岡倉天心(覚三)を中心に、同じく美校を辞職した橋本雅邦、横山大観、菱田春草、下村観山ら26名によって、在野の美術団体として結成された。
後に経営難となって、1906年に茨城県の五浦に日本画の研究所を移し、対外的な活動をほぼ休止した。天心はアメリカと行き来しながら、この地で海を臨む場所に六角堂を建て、大観、春草らは貧しさに耐えながら研鑽したといわれる。13年の天心の死去を機に、翌14年に大観、観山が中心となって再興日本美術院を結成した。再興院展では、洋画部(20年まで)、彫刻部(61年まで)も設けられた。

この産みの苦しみが東博で今展覧されている横山大観の「無我」でしょうし、同時に展示されていた洋画の青木繁の日本武尊でしょう。
再興美術院では、日本画部門では大観や観山・春草などの英才が多数が出たのでいち早く国民の支持を受けましたが、その他部門ではイマイチで現在に至っています。
大観の今に至る影響力の大きさは明治維新当時の日本を覆った・漱石の神経衰弱に象徴される明治日本の精神界の葛藤を救った功績です。
古代に仏教導入・律令制導入後、和風文化・政治風土との軋轢に苦しんだ時代が終わり、平安時代には空海によって和風文化に適した日本的仏教が創始され、大陸文化.政治制度を吸収した上での各種和風文化が花開いて源氏物語や大和絵が起こり彫刻界では鎌倉時代に運慶のような傑物が出たように、彫刻界でも、欧米の精神を取り込んだ和風の彫刻様式を確立してほしいものです。
ただし我が国では、彫刻はもともと塑像や木造が主流であって金属や石を削る彫刻に馴染みがない・・せいぜい路傍のお地蔵様や狛犬→忠犬ハチ公が対象になる程度です。
絵画のように自宅に飾る習慣がない(書院造が発達したのちも・・・・生活空間の置物は彫刻でなく陶磁器でした(この陶磁器も今風の生活にそぐわなくなくなっています)ことが、大衆(市場での買い手が育たない)支持を得難い大きな違いでしょうか?
お寺の代わりに大きなビルが増えても、・・ホテルやデパート等正面には生花系の華やかなオブジェが食い込んでいますが、彫刻には目が行かない様子です。
この数十年の流れを見ると公園や広場のオブジェとしての意味しか(実用性?が)ないように思うのですが?
北村西望や平櫛田中の作品(例えば鏡獅子は古典題材・「意味」に戻って傑作を残しましたが、国立劇場にあるのでしょっちゅう見られます)は大好きですが、やはり意味があってこそ良いように見えるし家庭向きではありませんし一般ビル向きでもありません。
私の好みから一般化できるとはおもえませんが、私の場合意味(由緒来歴)を重視する傾向があるように思われます。
歴史建造物や歌枕を多くの人が愛するのは、そこに「意味」を見るからです。
各地の美術館で企画展が大流行しているのもその一環ですが、もしも日本人の多くが意味を求めているとしたら、意味不明の裸像を見てもピントこないし、需要に結びつかないでしょう。
高尚な芸術であっても評論家が褒めれてくれたり、美術館お買い上げだけでいいのではなく、市場の支持がないと健全な発達ができません。
裸体彫刻の時代は西欧や地中海世界でもギリシャ〜ローマで終わって以降は「意味の時代」に入っているのであって、ルネッサンス運動で一時的に(過去の遺物が)息を吹き返しただけ・「過去は過去」・だったのかもしれません。
せっかくルーブルで名品多数を鑑賞したのですが、記憶に残るのは、花より団子・・食べ物のことです。
いつも食べ物の思い出ですが、(オルセー美術館ではレストランがあって久しぶりにまともな食事ができて感激した記憶ですが・・・)ルーブルの思い出は、食事環境が(パンくらいしかなく)粗末だったことです。
隣に居合わせた若くてごつい人の太い腕と肩口しか見えなかったので、男の人と思って気楽にちょっと話しかけて見ると、ドイツから来た女性と知って驚いた記憶です。
ドイツ人にとっては気にならない食事内容でしょうが・・・。
食事といえば、ロンドンでも食事はひどいものでしたが、若かったこともあり気になりませんでした。
逆に大英博物館では美味しいオレンジジュースを毎日飲めたのが良い思い出に残っています。
まずい固いパンが紅茶に合うのも知りました。
パリでは高級レストランを探す能力もなく、街中のレストラン(飛び入り)で半端にいろんな食事をしたので、却って不味かった記憶・レベルの低さばかりが記憶に残っている感じです。
しかし大衆向けレストランのレベルが低いのでは、文化の底が知れています。
貧窮の極みである北朝鮮でさえも、最高級レストランでは日本同様のレベルを維持できているのでしょう。
文化度とは大衆レベル・表通りだけではなく、裏道の整備レベルこそ民度の基礎です。
日本は万葉の昔から大衆が文化を支えてきた強みがあります。
大衆を家畜のように支配する律令制が上滑りで終わって、これを利用した我が国古来の民族一体関係を生かした政治が鎌倉以来始まったように、洋風そのままの彫刻〜洋画には日本の心・大衆の支持がないので無理があります。
この数年近代立憲主義の主張が盛んですが、明治以降導入した欧米の皮相な思想は150年経過で次第に日本文化思想に融合(和魂洋才の完成)されてきた結果に対する焦りでしょうか?

東博詣で(結縁2)

今日は上野の東京博物館に行って、国宝その他の名品を楽しんでくる予定です。
今年は横山大観の「無我」と青木繁のヤマトタケルが出るようです。
「無我」については、2014年の再興100年記念の院展で見て以来です。
昨年は、お正月の等伯展に続いて2〜3月頃に春日大社展を見た他、何回行ったか忘れましたが、その中でも記憶に残るのは秋の運慶展でした。
大変良かったので、2回目に行くと列が1回目よりも長かったので中に入れるころには疲れ切ってしまいそうで特別展を敬遠して常設展だけで帰ってきました。
https://www.asahi.com/articles/ASKCT45G2KCTPLZU001.html

写真・図版

東京・上野の東京国立博物館で開かれていた特別展「運慶」(東京国立博物館、興福寺、朝日新聞社、テレビ朝日主催)が26日、閉幕した。現存31体とされる天才仏師・運慶の作品のうち22体が集結し、9月26日から55日間の入場者は60万439人を数えた。

整理券を配ってくれれば、1時間待ちでも2時間待ちでもその間に常設展を見たり食事したりして体力温存して予定10数分前に行けばいいので便利ですが、今の所そういう簡単なサービスをする気持ちがないらしいのが残念です。
昔ミロのビーナスが、西洋美術館に来た時に何時間か並んでみた記憶がありますが、当時は疲れた記憶は全くなく、5月のきらめく直射日光の下で長時間立っていて暑かった記憶だけです。
あれは昭和30年代のことですから、50年以上も前のことです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%AD%E3%81%AE%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%82%B9によると以下の通りです。

ミロのヴィーナスは、1820年4月8日に小作農であったヨルゴス・ケントロタス(Yorgos Kentrotas)によってオスマン帝国統治下のエーゲ海にあるミロス島で発見された。彼は最初、官吏に見つからぬようにヴィーナス像を隠していたが、トルコ人の官吏に発見され没収された。
フランス海軍提督ジュール・デュモン・デュルヴィルは、この像を見て価値を認め、フランス大使に頼みこんでトルコ政府から買い上げた。これは修復された後にルイ18世に献上された。ルイ18世はこれをルーヴル美術館に寄付し、現在でもそこで管理されている。
・・ルーヴルを出て海外へ渡ったことはただ1度、1964年4月~6月、日本の東京都(国立西洋美術館)および京都府(京都市美術館)で行われた特別展示のみである。この際、日本への輸送時に一部破損が生じ、展示までに急遽修復されている。

いつのことか忘れていたので検索してみると、すぐにデータが出てくるのでありがたいことです・これによると今から約54年前に並んだことになります。
仏のルーブル美術館には2〜30年前に家族で行って(広すぎて疲れましたが)ヴィーナスと再会しました。
ヴィーナス像を見ると日本の彫刻や焼き物(土偶など)とは対象がまるで違います。
多島海の古代ギリシャも多神教の社会と聞いていますが、日本の「やおよろずの神々」の意味は、動物は言うに及ばず一木一草にも神宿る意味ですが、ギリシャ神話の場合擬人化した神々のストーリーからなっている点が違います。
ギリシャ彫刻は神々の彫刻から始まったと言われ、それが人間像になるのは自然だとしても、なぜ社会性を捨象した具象的な人間美を追求するようになっていったのか?の疑問です。

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