くにと国

 いきなり聞いたこともないような「村」が出現したのと同様に、地方行政区分で似たような新規出現例は「県」です。
明治までは国の次の小さな単位として郡(こおり)があったのですが、明治政府はいくつかの国を合わせて1つの縣にしました。
千葉県の例で言えば、上総、下総(の大部分)と安房の3カ国が1つの千葉県ですし、駿河と遠江と伊豆の3か国が静岡県ですし、薩摩と大隅の2カ国が鹿児島県です。
このような例が全国にいくらでもあります。
そもそも古代に制定した国制度は、その当時における地域ごとの豪族の勢力範囲で決めたのか、あるいは1種の風土・地理的共通性で括ったものかが(私には)分りません。
ただし、陸奥の国などは、言うならばその他の地方と言う程度の括りだったでしょうが・・・。
郡(こおり)が各地豪族の支配区域であり、くにはそれよりも広い地理的共通性だったように推測されます。
明治時代に、それまでのいくつかの莊を合わせて村を作ったのと似たような発想で大和朝廷も国家制度創設の時に人工的な「国」を作ったのでしょうか?
大和朝廷の作った国の制度は行政組織としての実態に合わなかったので名前だけのこって直ぐに消滅し、実態に裏付けられた郡司さんにとって代わられて行きますが、気候風土などある程度の一体性のある地域を倭人は「くに」と読んでいたので、クニの一体感は明治まで残って来たのです。
この「くに」に何故國の漢字を当てたかです。
律令制を導入した時に、中国の制度を機械的にまねをして大和朝廷支配下の地域ごとの地名の肩書きとして、便宜、一定の気候的一体性のある地域ごとに中間的な中国風の国名の肩書きをつけてみたのかな?と思われますが、そうでもないでしょう。
むしろ中国の古い制度を十分研究して、直轄地以外を「国」と命名するのが妥当とする意識があったからです。
国司の仕事は租庸調を中央に納めるのが主な仕事だったことを想起すると中国の外地・朝貢国の扱いと同じです。
律令制導入時には唐の時代に入っていてその前の群雄割拠・5胡16国時代は終わっています。
唐時代には国内統治・・地方制度には州を使っていたようですから、律令制から直ちに分国制導入にはならなかった筈です。
国とは中国では、皇帝の支配地の中で一族を各地の王として分国統治された地域・諸候の封土の意味として、あるいは外地・・朝貢する服属者を国と一般的に漢の時代から使われていたような私の記憶です。
その他は直轄領土として官僚を派遣する州や郡縣制だったのです。
(私のこれまでの知識によるので、学問的正確性はありません・・)
周時代に、その親族などを各地に封土する例が生まれてきますが、(このためにこれを封建制の始まりと言う人もいますが・・正確には今でもはっきりしないようです)この時代には April 25, 2011「むらと邑」のコラムで書いたように邑と称していて、国とは言わなかった筈です。
これを後世、太公望の封ぜられた斉の国とか周公旦の封ぜられた魯の国などといろんな本で我が国では書いていますが、当時は邑を賜ったに過ぎず、その地域を国と称していないのです。
春秋戦国時代に入ると領主間の戦いが起きてきますので、結果的に各地に封ぜられた領域の独立性が高まって来ます。
それでも、いわゆる覇者といえども、斉の桓公(bc667)、晋の文公などと「公」しか名乗っていなかったのです。
王が一人しかおらず、その他の諸候は「公」でしかない時代には、その領域がいかに独立性が高かろうとも国とは称していません。
戦国乱世になって実力主義が浸透して来て、周王室の権威が問題にならなくなってくると、各地領主の自立・・何々「公」から何々「王」への名称変更も起きてきます。(信長が朝廷や将軍家を問題にしていなかったのと同じ傾向です)
諸候が王を自称するようになるのは大分時代が下ってbc334年魏の惠王が名乗ったのが最初でそれまで周の王室だけが王を名乗っていました。
各諸候が王を名乗った頃から自分の領域を邑ではなく国と称するようになっていたかの関心です。
この辺は史記の原文を読まないとよく分らないのですが、今のところ原文に当たっている暇がないので、ペンデイングにしておきます。
(このコラムは何回も書いているように研究書ではなく、これまでのおぼろげな知識に基づいて思いつきで書いているだけです)
これまでのうろ覚えの記憶では、地名に「國」とズバリ書いたものを見た記憶がないのですが・・・。
タマタマ春秋左氏伝の原文付き解説書が自宅にある・・子供が持っていたので、借りて読んでみましたところ、あちこちに自分の「国」と言う言い回しの漢字が出てきます。
正式な国名表記ではないものの、その頃には既に国と国の戦いを意識する文章になっているのです。
日本で言えば「我が何々家」のため・我が軍と言うべきところを、国の大事のような表現している原文が結構あります。
ただし、この左氏伝自体誰が何時書いたかの論争があって、1説によると漢を簒奪した新の王莽に仕えた儒者の劉歆だとも言います。
この時代になると半独立国や外地の服属者を国と言う常識が出来上がっていた可能性もありますので、春秋時代のことを書いた書物だからと言って、春秋時代からあった言い回しだったとは限りません。
漢時代の言い回しが一杯入っているから後世の偽作だろうと言う説も出るくらいです。
いずれにせよこの書物でも「魯国」とはっきり書いた部分は今のところ見つかりません。
魯氏春秋と言うのが正式書物名で、魯国春秋(魯国の歴史)とは言わなかったのです。
国名を正式な地名表記に使うようになったのは漢になって、王族を封じた頃からでしょうか?
そのころでも、直接支配地域外の朝貢国・外様を国と言うのが、一般的な例でした。
高句麗好太王の碑では、漢の倭の奴の国王とあり、魏志倭人伝では、既に日本列島内で割拠している地域を◯◯国、△の国と列挙されていますが、この記事があってもこの当時我が列島でヤマタイ「国」いき国、まつら国などと名乗っていたことにはなりません。
我が国の新聞でニューヨーク市や州と書き、ダウンタウンを下町と翻訳して書いてあるからと言って、その新聞発行時にニューヨークがステートやシティと言わずに日本同様に「市」や下町と言う漢字を使っていたことにならないのと同じです。
当時の魏・・中国では地方割拠地域名を国と表現していた(三国志の時代です)から、自分の国の制度・呼び方・・上記の通り直轄領地以外の服属国を国と言いましたので、これに合わせて日本列島内の各豪族の支配地域名を・・国と記載していたに過ぎないと思われます。
ですから魏志倭人伝に「◯◯国」と書いているからと言って我が国でその頃から・・各地域を国と言っていたことにはなりません。

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