袴田再審取消決定と本田鑑定1

ここで、メデイアの高裁決定批判に対する私の批判ついでに、静岡地裁再審決定で採用された本田鑑定に関する郷原氏指摘の問題点を具体的に見ておきたいと思います。
ただし、高裁決定に至った詳細根拠が示されている部分をそのまま引用すると膨大になるので省略しますが、関心のある方はご自分で上記引用先にお入りください。
メデイアが「市民感覚」などという意味根拠不明概念で決めつけるのがよくないのと同様に科学分野でも「大学教授による鑑定」「細胞選択的抽出法」という難しい題名だけで素人をケムに巻くのではなく、その論理の合理的説明をする責任がある点をこの機会に書きたいと思います。
権威者の弟子らが「立派な研究だ」と言えば誰も鑑定の非論理性を指摘できない・・「こんなことも分からないないのか!と発表者の弟子にバカにされる批判覚悟で質問しなければならないのは度胸がいります・・「裸の王様」を「王様は裸だ」と誰も言えないような社会で良いのでしょうか?
という関心です。
以下高裁決定に関する郷原氏の解説です。
6月17日までと同じ引用先です。
http://agora-web.jp/archives/2033195.htmlによると以下の通りです。

袴田事件再審開始の根拠とされた“本田鑑定”と「STAP細胞」との共通性
2018年06月14日 15:00
郷原 信郎

高裁決定を読む限り、その根拠となった本田克也筑波大学教授のDNA鑑定(以下、「本田鑑定」)が、凡そ科学的鑑定と評価できない杜撰なものであり、それを根拠に再審開始を決定した静岡地裁の判断も、全く合理性を欠いており、再審開始決定が取り消されるのは当然としか言いようがない。
今回の高裁決定を担当した大島隆明裁判長は、菊池直子殺人未遂幇助事件での無罪判決、横浜事件での再審開始決定などの、いくつかの著名事件も含め、公正・中立な裁判で高く評価されてきた裁判官である。
高裁決定は、本田鑑定の手法の科学的根拠の希薄さ、非合理性を厳しく指摘しているが、それを読む限り、過去に、多少なりと「科学」に関わった人間にとって(私は一応「理学部出身」である。)、本田鑑定が「科学的鑑定」とは到底言い難いものであることは明白だ。
・・・・・このような本田鑑定の「チャート図」についての疑問を踏まえれば、果たして鑑定資料に付着した血液中に含まれていたDNAを抽出したものなのかどうか疑問に思うのが当然である。
即時抗告審では、鑑定の手法の信頼性の有無を確認するための事実取調べとして、本田鑑定の「再現実験」を行おうとしたが、結局、弁護人の協力が得られず断念したとのことだ。
確立された科学的手法ではない鑑定であれば、鑑定の経過やデータ・資料が確実に記録されていることや、再現性が確認されていることが、鑑定の信用性を立証するために不可欠と考えられるが、本田鑑定は、データ・資料が保存されておらず、再現実験による確認もできなかった。このような鑑定に客観的な証拠価値を認めることができないのは当然である。
本田氏のDNA鑑定は、「細胞選択的抽出法」によって、「50年前に衣類に付着した血痕から、DNAが抽出できた」というもので、もし、それが科学的手法として確立されれば、大昔の事件についてもDNA鑑定で犯人性の有無について決定的な証拠を得ることを可能にするもので、刑事司法の世界に大きなインパクトを与える画期的なものである。
本田鑑定で「細胞選択的抽出法」によって「DNAが抽出できた」というのであれば、その抽出の事実を客観的に明らかにするデータが提示される必要がある。
ところが、本田氏は、鑑定の資料の「チャート図」の元となるデータや、実験ノートの提出の求めに対し、血液型DNAや予備実験に関するデータ等は、地裁決定の前の時点で、「見当たらない」又は「削除した」と回答しており、その他のデータや実験ノートについても、高裁での証人尋問の際に、「すべて消去した」と証言したというのである。
そこで、STAP細胞問題と同様に、裁判所が弁護側に「客観的な再現」を再三にわたって求めたが、結局、再現ができず、「細胞選択的抽出法」によるDNAの抽出について、客観的に裏付けがないまま審理が終わった。

「STAP細胞」問題との類似性
袴田事件で静岡地裁の再審開始決定が出たのとちょうど同時期、社会の注目を集めていたのが「STAP細胞」をめぐる問題であった。2014年1月末に、理化学研究所の小保方晴子氏、笹井芳樹氏らが、STAP細胞を発見したとして、論文2本を世界的な学術雑誌ネイチャー(1月30日付)に発表し、生物学の常識をくつがえす大発見とされ、若い女性研究者の小保方氏は、「リケジョの星」などと世の中に大々的に報じられた。
が、論文発表直後から、様々な疑義や不正の疑いが指摘されていた。
4月1日には、理化学研究所が、STAP細胞論文に関して画像の切り貼り(改竄)やねつ造などの不正があったことを公表した。その際、研究の過程の裏付けとなる実験ノートについては、3年で2冊しか残されておらず、小保方氏が残したノートには、日付すら記載されておらず、実験ノートの要件を充たしていなかったことも明らかにされた。
理化学研究所では、STAP現象の検証チームを立ち上げ、小保方氏を除外した形で検証が行われ、論文に報じられていた方法でのSTAP現象の再現が試みられるとともに、7月からは、それとは別に小保方氏にも単独での検証実験を実施させた。
しかし、結局、STAP細胞の出現を確認することはできず、同年12月、理化学研究所は、検証チーム・小保方氏のいずれもSTAP現象を再現できなかったとして、実験打ち切りを発表した(検証が行われている最中の8月4日、世界的な科学者として将来を期待されていた笹井氏は自殺した。)
袴田事件で静岡地裁の再審開始決定が出されたのが2014年3月27日、理化学研究所が、小保方氏らの不正を公表したのが、その5日後だった。
小保方氏自身も再現実験に取り組まざるを得なくなり、結果「再現できず」で終わったことで、科学的には「STAP細胞生成」の事実は否定されるに至った。
それと同様に、本田鑑定で「細胞選択的抽出法」によって「DNAが抽出できた」というのであれば、その抽出の事実を客観的に明らかにするデータが提示される必要がある。
ところが、本田氏は、鑑定の資料の「チャート図」の元となるデータや、実験ノートの提出の求めに対し、血液型DNAや予備実験に関するデータ等は、地裁決定の前の時点で、「見当たらない」又は「削除した」と回答しており、その他のデータや実験ノートについても、高裁での証人尋問の際に、「すべて消去した」と証言したというのである。そこで、STAP細胞問題と同様に、裁判所が弁護側に「客観的な再現」を再三にわたって求めたが、結局、再現ができず、「細胞選択的抽出法」によるDNAの抽出について、客観的に裏付けがないまま審理が終わった。

袴田再審高裁決定6と報道

1年足らず前のことですが・・・町内会で野良猫繁殖防止のために有志グループが捕獲して避妊手術をする運動に自治会から避妊手術費の一部助成するかどうかが議論になった時に、「そもそも動物だからと言って避妊強制が許されない」という(人道的?)意見が出たことがあります。
その後避妊手術済みの猫(何匹もいます)に対しては、有志グループが責任を持って近所の公園で餌をやり、糞の始末もすることになっているので、猫らも可愛がられているのが分かったのか、(もともと4〜5匹が自由に出入りして気ままに昼寝していましたが・・以前に増して)気楽そうに我が家の庭に出入りしています。
晩秋、落ち葉の季節に私が掃き集めている落ち葉がある程度集まると(朝日が当たって暖かいらしく)落ち葉の上にお座りしてチリトリでゴミ袋に取るまで私の掃除を見ていることが増えました。
平成の初めから、ゴールデンレトリバーを飼っていましたが、そのころ、庭で芝生の草むしりをしていると、傍にいる犬が芝生以外の草を選んでくわえて一緒になって引き抜く真似ごとをしていたのを微笑ましく見ていたものです。
野良猫でも毎日庭に出入りし、私の庭仕事を見ていると「近所付き合いみたいなもの?)何か役に立たないと行けないかな?と思うようになるようです。
主義主張に戻りますと、特定立場の主張をしたいならば「社会の公器?」としての役割を降りて、特定思想集団としての意見発表するのは自由です。
古くから無政府主義者がいますし、(・・政府がなくてどうやって秩序を維持するのか不明・・刑事罰などを当然否定するのかな?・・・その代わり自分の生命・権利は自分で守れ→強い者勝ちを理想とするのかな)アメリカでもモルモン教徒やベジタリアン、中絶反対、ドイツの緑の党など極端な主張をする集団がいろいろありますが、それぞれ自己の主張が正しいと思うならば堂々と自己の主張立場を明らかにして論争すべきです。
朝日新聞は、今になると表向きの立場とは違って実質的な自己主張・.依って立つ立場がはっきりして来たように見えますが、(主張がはっきりしてくるとこれに対するコア支持者しか購読しなくなるのでしょう)それでも表向きは、中立であるかのように装ってごまかそうとするので「ズルイ」と批判されるようになったと思われます。
「証拠の有る無しに関わらず刑事処罰を全てなくすべき」という社是ならば、そう主張すればいいことですが、袴田再審開始取り消しの高裁決定に対しては、高裁裁判の途中経過の具体的論評を省略して如何にも「結果が不当である」かのようなイメージ表現で裁判制度の信用を貶そうとしているのはずるいやり方です。
すなわち郷原氏の6月20日引用の朝日新聞の意見は
「この決定に至るまでの経緯は、一般の市民感覚からすると理解しがたいことばかりだ。」
と意味不明の「市民感覚」を持ちだして批判しています。
訴訟経過を批判したいならば「市民感覚」という意味不明の決め付け」ではなく、具体的事実経過を示して「ここが納得できない」と具体的批判根拠を指摘すべきでしょう。
朝日新聞は「自分はエリートだ・・庶民相手に訴訟経過の不当性など説明しても庶民にわかる筈がない・.結論だけ示せばよい・・革新系政党のスローガン政治「ダメなものはダメ!」とか「少なくとも県外へ!」などと同じ発想ですが、朝日も同じエリート思想によっているのかもしれません。
あるいはまともな論評能力がないので、このような根拠のない主張に逃げているのでしょうか?
高裁決定書を理解できないならば、決定要旨そのまま報道すればいいのですが、肝心の決定要旨をそのまま引用をしない・・詳しくは有料記事で・.というスタイルで、無料記事は「市民感覚」よる批判ばかりです。
慰安婦問題も同様で、「強制か否かに関わらず売春制度自体が許せない」「あるいは世界の売春婦はよいが、日本の売春婦だけ批判したいのだ」というならば、そういう政治立場を明らかにした上で主張すれば良いことです。
軍の連行があった→性奴隷かのように(フィクションに過ぎない吉田調書が出ると報道機関として必須の事実裏付を取らずにあたかも事実かのように大規模報道していたのは、中立の報道機関の行為とは思えません。
「朝日ともあろう会社がまさか裏を取らずに大規模報道しないだろう」という信用が慰安婦騒動の「ことの始まり」でした。
静岡地裁の袴田再審開始決定に関しては、朝日新聞の慰安婦報道同様に科学者に対する信用を利用してずさんな?実験論拠?を提出して異様な鑑定意見を出したところ、地裁では大学教授の肩書きを信用して?実験経過を厳重チェックせず・・・・地裁段階で検察による緻密な反論がなかったのか?あったのにこれを軽視した結果か不明ですが、(全記録を見れば明らかでしょうが、私は記録を見ていないので不明です)その鑑定を採用してしまった所に端を発している点では似た展開です。
メデイアに限らず先人の信用を悪用(まさか「実験していないのにした」という「虚偽報告をしないだろう」という信用)した研究成果を装った科学分野の発表の罪深さ・各種分野で先人の築いた信用利用による検査偽装.会計偽装等が横行しているのが最近の風潮です。
いろんな分野で商品品質の逐一検査するのでは、社会が回っていきませんので一定資格者による自主検査を信用して公的検査省略が普通です。
この信用を悪用する事例・・今朝の日経朝刊13p他にも新事例・・日立化成検査不正や三菱モルガンの国債相場操縦などが出ています・各種分野で目立つようになってきました。
この機会にメデイアに限らず、科学者の世界でも先人の築いた信用利用に・教授等の名の知られた人が発表する以上相応の実験を本当にしたものと信じる習慣を利用して「根拠を欠いた発表」が横行している現実について、紹介しておきたいと思います。
この点は三越の長年の信用を悪用した三越(板倉社長)事件や、だいぶ前の姉歯事件の建築設計の偽装事件、近年では横浜のマンションの傾き事件、免震ゴムの品質偽装事件、神戸製鋼や富士重工などの工業製品の検査偽装などと根っこは多分同じでしょう。
会計分野ではエンロン事件以降、直近では東芝問題等々会計処理の問題性は周知の通りですが、一応監査法人等が存在します。
我々弁護士会でも懲戒システムが完備しています。
弁護士の信用を利用した方が裁判所も仕事がスムースなので、破産再生等では弁護士申し立て事件では、調査簡略化してしていますが、弁護士がその信用を悪用して不正をすると弁護士全体の信用に関係する・・システム運営上大変なことになり、相応の懲戒を受けます。
公共放送で公正性を担保するために放送倫理委員会があるようですが、新聞にはそういう仕組みがないどころか「表現の自由」は、「人権の中の人権」という宗教論のような主張が憲法学界で根強いことから、報道に対するあらゆる批判がタブー視されてきました。
その是正は「言論の自由市場」によるというのですが、テレビ、ラジオ、出版界は大手寡占市場ですから、(自費出版ができる以外は)実は本当の「自由市場」がなかったのにごまかしていたのです。
メデイア界全体で同じような不正虚偽報道または虚偽報道まがいの紛らわしい報道をしても同業者が等しくやっている限り、競争原理が働きません。
平成に入ってから、ネットによる情報発信が可能になったので、情報発信独占にあぐらを掻いていた大手メデイアの情報支配・独占が崩れてきました。
今回高裁で否定された鑑定意見の問題点・高裁の指摘がある程度事実とすれば、大学教授が権威に胡座をかいて不正な研究発表をしていても、大学の教授会やその教授の属している専門学会の自浄作用に委ねて置いて良いかの疑問が出てきました。

袴田再審事件5(メデイア対応4)

「事実」とは「迷走」という意味不明な主張ではなく、高裁決定過程に現れた訴訟での論争経過を分析紹介した上で、この経過自体についてどう評価するかは、文字通り受け手が判断すべきことです。
なんら経過事実も示さずに市民に代わって「迷走」評価を下すのは僭越すぎます。
迷走の原因が、弁護側提出証拠・本田鑑定の合理的裏付け記録の提出を弁護側が渋り続けたことに原因があるとしたら、本田鑑定の論理が記録裏付けなくとも公知の論理なのかどうかの吟味が必須です。
袴田再審事件は郷原氏の意見をちょっと見た印象から書き始めたのですが、どんどん具体的に書くようになると、誰かが都合よくまとめたかもしれない決定内容をもとにして意見を書いているのでは(私自身)不安になってきましたので、この辺で遅ればせながら「高裁決定要旨」を引用しておきます。
要約では読解力や関心の方向の違いでメデイアによる編集誤差がありうるでしょうが、最近の裁判所はニュース性のある事件では裁判所の作成した要旨を配布していますので、意見としてではなく「決定要旨」と銘打って掲載している以上は自分好みに「 要約」したものではなく高裁配布資料そのままの引用と信じるしかないので、・・客観性がある前提(信用できないと思う方は独自検索お願いします)で以下書いていきます。
一字一句修正のない正確な決定文は、判例時報等に印刷物として出てくるまで部外者は入手できません。
ちなみに、日経朝日毎日等の大手を検索してみると、決定要旨は有料会員しか入れない仕組みですので引用できません。
大手メデイアは自社の意見を報道したいが、自社意見の前提になる事実開示のハードル(これを職業にしている人は別としてネットに出ている要旨の正確性比較のためだけに有料会員になる一般読者は滅多にいない)を高くしているのでしょうか?
不当決定と主張する弁護側の方で、不当という集会を開いて報道機関に公開し、これを報道機関がこぞって大規模報道している以上は、不当とされている決定要旨と決定全文をネットや新聞等で公開すべきではないでしょうか?
弁護側で国民に決定全文を見られるとまずいから公開しない判断とすれば、「不当決定」という主張自体眉唾になります。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2018061100992&g=socによる高裁決定要旨です。

確定判決で犯行時の着衣と認められた半袖シャツと袴田さんのDNA型が一致しないとする鑑定で用いられた手法は、基礎となる科学的原理の信頼性が十分ではなく、複数の専門家から科学技術として確立した手法ではなく原理に関しても疑問があるとの意見が出されていた。
それにもかかわらず、地裁決定は十分な検証ができない資料を根拠としてその証拠価値を高く評価しており、慎重さを欠いている。
また、一般的に実用化されている抽出法ではなく研究途上の段階である上、使用された試薬「レクチン」はDNA型鑑定に必要な白血球を選択する作用がなく、DNA分解酵素を含んでいることも明らかになった。
手法の科学的原理や有用性に深刻な疑問が存在しており、鑑定を信用できるとした静岡地裁決定は不合理で是認できない。
地裁決定は、半袖シャツなど確定判決で犯行時の着衣と認定された衣類5点の発見から近い時期に撮影された写真を基に、衣類や血痕の色合いと類似した衣類をみそに漬ける再現実験の結果を比較し、衣類が長期間みその中に入れられていたことをうかがわせるものではないと判断した。
しかし、写真は劣化や撮影の露光の問題、当時の技術水準などにより、衣類5点の色合いが正確に表現されたものではないことは明らかで、大まかな色合いの傾向を把握するにも不適当な資料と言わざるを得ない。衣類5点が見つかったみそタンク内のみそと実験で使われたみその色が異なっていたことからも、地裁の判断は不合理だ。
よって、鑑定結果やみそに漬ける再現実験の報告書の証拠価値は低く、袴田さんに無罪を言い渡すべき明らかな証拠に当たるとは言えない。
このほか、第2次再審請求審で提出された新証拠には、確定判決で認定された犯人性に合理的な疑いを生じさせるような証拠価値のあるものは存在しない。
地裁が再審開始とともに決定した刑の執行停止を職権で取り消すかどうかは、事案の重大性や有罪を言い渡された人の生活状況、心身の状況などを踏まえた身柄拘束の必要性、上訴の見込みの有無などを考慮に入れた合理的な裁量権に委ねられている。
袴田さんに対し、確定判決で死刑が言い渡されていることを踏まえても、現在の年齢や生活状況、健康状態などに照らせば再審開始決定を取り消したことにより逃走の恐れが高まるなどして、刑の執行が困難になるような危険性は乏しいと判断される。特別抗告における抗告理由の制限などを考慮しても、再審請求棄却の決定が確定する前に刑の執行停止を取り消すのが相当であるとまでは言い難い。
従って、職権を発動して直ちに死刑と拘置の執行停止を取り消すことはしない。(2018/06/11-19:55)
上記だけ読めば(要旨なので詳細は決定書自体を見る必要があります)メデイアが上記決定について合理的な批判能力がなく、(地裁段階で50年以上前の資料ではDNA 鑑定不能として他の鑑定人は鑑定辞退していた状況らしいです)非合理な感情的批判しかできない「窮地にある」ことがわかります。
「味噌漬けにして実験してみたら一目瞭然の色の差が出ているのに高裁は無視している」と感情的意見がネットに出ているので参考のために紹介します。
http://president.jp/articles/-/25430
「袴田事件」再審棄却は明らかに間違いだ
「5点の衣類」を捏造したのは誰か
高裁決定が出る前の応援主張ならば想像力で書くのも自由ですが、高裁決定批判の題名で書く以上は、決定で否定されたことを繰り返しても意味がありません。
そういう主張を十分してきたのに対して高裁で50年前の写真機やフィルムの性能と今の写真技術は違うから今の写真で比較しても無理があると否定されたのですから、「高裁の否定論拠のここがおかしい」と言ってこそ合理的批判になりますが、一切触れないで従来主張の繰り返しのようです。
最後は、
「・・・いずれにせよ、いたずらに延期せず、潔く、一刻も早く再審を認めるべきである。」
というのですが、「いずれにせよ・・・再審を認めるべき」という願望だけの批判論です。
高裁決定要旨を読めば弁護側の主張に対して丁寧に検証されていることがわかりますが、こういう事実関係をメデイアが(有料登録すれば見えるようですが・・こういうのって公開になるのでしょうか)全く伝えていません。
巷の応援団の主張の是非も含めて訴訟ではさらに掘り下げる議論が戦わされてきたことを公開記事にしないのはメデイア界が理解できないかしたくないからです。
(弁護側は一方の立場である以上何か言わねばならないので、合理的反論できない「腹いせ」に「不当決定」と感情表現しかできないのは理解可能ですが、(それでも本来感情表現は紳士のすることではありません)メデイアが一方に肩入れしない中立の立場であれば、批判する内容がなければ高裁決定の通り淡々と報道すれば足りるのであって「窮地に陥る」必要がありません。
高裁決定要旨は上記の通りで全文公開してもわずかな文字数です。
不当決定糾弾集会の模様を延々と動画編集報道する人件費等のコストに比べれば、高裁でもらった決定要旨引用するだけの瞬時の手間暇で足りて、動画作成に比べればコストはホンの0、00何%の以下のコストでしょうが、この程度のコストを惜しんで有料にする意図が不明朗です。

袴田再審事件4(メデイア対応3)

日経社説は地裁〜高裁で(同じ証拠が見る人が変わる)と正反対に変わるのでは、司法の信頼が揺らぐと主張しますが、同じ付着した血痕でも、事件直後頃には実用化されていなかったより精密なDNA 鑑定によって結論が180度変わったときにはメデイア界こぞって賞賛していたとすれば、高裁でDNA鑑定の鑑定手法が問題になり鑑定結果が否定された時だけ「同一証拠で180度度変わるのが何故「司法の信頼を揺るがす」と主張できるのか不明です。
社説では1審で無罪方向になったときには気付かなかった鑑定の正確性の疑問点が新たに問題になっていたことを故意に伏せている感じです。
犯人性否定根拠になった鑑定が科学的根拠に基づかなければ1審の鑑定を根拠にした結論が否定されるのは当たり前であって、当たり前のことを決定したら何故司法の信頼が揺らぐのか意味不明です。
再審開始決定をメデイア界がこぞって歓迎したことの「かっこ悪さ」を隠す意味があるのでしょうか?
朝日新聞が主張する根拠なき「市民感覚」同様の意識が日経でも背後で作用しているのでしょうか?
刑事制度は被害者にも人権があることを前提に人権被害を最小化するためにを加害者を処罰する制度ですが、メデイアの言う「市民感覚」とは刑事制度が被告人の人権だけに焦点を当てるようなイメージを受けます。
加害者でないのに処罰されるのも人権問題ですが、そのために厳密な手続きを経て加害行為が認定される仕組みになっているのであって、被告人の人権強調の結果、その手続きに乗せることを否定することを目的にした人権擁護活動になると本末転倒です。
地裁と高裁で判断を分けたの「おお括りに言えば付着した血痕」ですが、訴訟での最重要証拠は「鑑定書」という証拠の信用性です。
正確にいうならば、「鑑定書の評価で結論が別れた」というべきでしょうが、地裁はそこにメスを入れていなかったような印象です。
高裁決定書自体に争点整理で書いているはずですから、日経社説を起案する人物が高卒程度以上の国語力あればこの点を誤解する余地がないにも拘らず、これを端折って「同一証拠」と暗に付着物をイメージさせているのは、朝日ほど露骨ではないものの一定方向への世論誘導意図が感じられます。
ただ日経のために有利に考えると「政治意図はそれほど強くない」・この後でメデイア界の人材が各分野の掘り下げ能力アップ・国民レベルアップについて行けてないのではないかの視点で少し書きますが、特定方向へ国民を誘導する報道姿勢が国民意識とずれてきたことと事実認識(掘り下げ)能力の欠如とが相まって事実に反する表現が目立つようになった原因と思われます。
掘り下げ能力不足により事実を正確に把握できない結果、不正確な事実を報道しているのは、意図的虚偽ではないとしても、事実を正確に報道していない結果は虚偽報道と同じです。
まして日頃主張している一定方向ばかり、
(各種人権・・表現の自由があっても名誉棄損はX、通行の自由があっても交通法規違反はX、生きる権利と相手を殺しても良い権利とは違いますが.・・本件でいえば殺人犯人かどうかの事実認定が先決問題ですが、人権保障ばかり情緒的に訴えて肝心の「犯人かどうかの判断を基準を緩めろ」という意見・・バランス論を取らない)
不正確報道を繰り返していると、意図的・故意的不正確報道メデイアの疑いを持たれるようになります。
日経新聞社説を見ると引用した朝日のように「市民感覚」などで切り捨てないで事実関係を書こうとしているように見えますが、結局は「同じ証拠(には違いないですが)で・・」という大雑把な主張で本当の争点をぼかしているのは、本田鑑定が合理的鑑定経過によるかどうかという掘り下げレベルの違いで結論が違っていることを理解できていないからでしょうか?
仮に「同じ証拠」の主張が正しいとしても上級審で違う評価がありえて、覆ることがあるからこそ、上訴制度があるのですから、違う評価が出たことそのものを批判するのでは三審制の原理を無視した暴論(改正論?)ですが、他方で「無罪方向なら間違っていてもいいじゃないか!」というようなイメージ強調があるので、結果的に朝日同様の一方への肩入れ姿勢が顕著です。
今はネット社会で半年待たなくとも詳細経緯がそのままネット報道される時代になっているのに、袴田再審事件の報道を見ると朝日新聞社内(他のメデイアも)ではまだ事実無視の・・情緒や思い込みだけのアナウンスで世論を誘導してきた成功体験で生きてきた人材が幅を利かしている状態が浮き彫りです。
朝日新聞の読者がこのような事実無根の断定的意見を喜んで受け入れているから、こういう表層的記事が続いているのでしょう。
そういえば、私自身若い頃には洗脳されていた結果か知りませんが、朝日新聞を購読していましたが、昭和61年始めに転居した機会に日経新聞に切り替えました。
その頃はまだ政治意見の相違まで気がつきませんでしたが、朝日新聞の記事はどの分野でも政治であれ社会・文化評論であれ、事実を掘り下げたかっちりした記事がない・・ムード中心記事に飽き足らなくなって日経新聞に切り替えた・「日経の方が同じテーマや結論でも論旨がカッチリしていていいぞ!」と若手弁護士に話していたことを思い出しました。
今になると(日経の方がちょっとマシですが)こんな乗り換え推奨をすると、反朝日・反左翼か?と色目で見られる時代ですが、当時(1980年代)はまだ慰安婦騒動もなく牧歌的時代でした。
朝日の読者離れは、思想レベルによるだけでなく論理レベルでも30年前から客が逃げつつあったのです。
これが思想レベルで批判を受けるようになると、化学成果(小保方騒動)でいえば、結果発表だけではなく、実験経過の合理性まで説明しない(データ廃棄したのでは)と合理的成果と受け止められなくなったのと同じ問題で、「市民感覚で理解しがたい」というには「こう言う事実」に対する「市民感覚でこうだ」と言う論拠まで示さないと普通レベルの人は物足りなくなる時代です。
高裁では、鑑定経過の信用性が重要問題になっているのに、何年も資料提出を出し渋っていた挙句に、最後に、「一審判決前に廃棄した」という回答になったとすれば、(鑑定経過が争点になってから慌てて廃棄したのではないかとの疑いが濃厚と思うのが普通です。
それを明らかにするために高裁決定でわざわざ「一審段階で廃棄していたとの回答があった」と(多分)記録化したのでしょう。
ただし上記は17日に紹介引用した郷原氏の本田鑑定に対する高裁事件推移の要約主張(のちに紹介)によるもので、決定書自体を私は読んでいません。
多分決定自体にはそこまで書かないので、弁論調書とうの進行記録にでているたぐいと思われます。
本当に廃棄していたとしても一審の決定も出ない内に決定の決め手になる新証拠である鑑定資料や分析記録を廃棄してしまう鑑定人がいるだろうか?再現実験にも協力しないような鑑定に合理性があるだろうか?くらいは常識人であれば「市民感覚」でわかることです。
メデイア関係者は根拠なく視聴者をバカにしている傾向が見られますが、実は市民レベルが上がってメデイア関係者を追い越しているのに気がついていないのではないでしょうか。

袴田事件3(メデイア・日経新聞2)

日経社説にたいする批判の続きです。
1審の判断に対して不服のある方が上訴して上級審の判断を仰ぐ仕組みも合理的であって、1審限りで終わりにすべきとは思えません。
社説最後の文脈からすると「元被告の方に不利な時だけ上訴権を認めて検察には認めるな!というようなニュアンスが感じられますが、中国や西欧の抑圧社会を前提にした権力に抑圧される被害者が被告人という図式的理解しているのでしょうか?
日本の刑事裁判の実情で、権力による庶民抑圧の刑事事件が何%あるでしょうか?
99、99%普通の市民が被害者になった事件が一般的刑事事件になっているのです。
権力者による庶民抑圧の刑事事件ではなく、ちょっとしたことで暴力を振るったり相手の人権を無視した(交通事故だって多くは)粗暴な人による人権被害が中心です。
犯罪には被害者がいるのであって、検察は公益・被害者の代弁者である立場を無視した意見です。
人権の多くはその行使の仕方によっては他の人権を侵害することになる(表現自由と名誉毀損の関係や道路交通法など)ので、この世の中には多種多様な法律があるのですが、そのほとんど全部が、人権と人権の衝突時における調整のためにあると言っても過言ではありません。
調整ルールは第一次的には、民事法で処理されますが悪質すぎる場合には刑事罰で調整し悪質な人権侵害を起こさないようにしているのです。
民事は個々人が自分で訴訟するしかないのですが、刑事になると殺されている場合もあり、人身売買その他暴力系被害者の多くはで自分で反撃できないことから公益を代表する検察官が処罰を求める仕組みです。
今千葉県でベトナム人の小学生が殺された事件が審理を終結したばかりですが、検察官の背後には被害者の親が必死に見守っている姿があって心打たれます。
加害者不明のことが多くてもこのように刑事事件には間違いなく被害者がいるのです。
事実の有無をきっちり調べた上の無罪ならばいいですが、確定判決まで行った以上は、これを取り消すには、証拠が捏造であれ何であれ、「無罪にさえなればいい」という一方的人権論は大間違いです。
社説を個別に見ていきますと
第一に
「死刑か無実かという正反対の結論」と刺激的に書いていますが、再審手続きは死刑になった場合だけではないので、このようなイメージから入る主張は冷静な議論であるべき社説の格式を落としています。
本件再審手続き申し立ては犯人性の有無が争点ですから、白と黒・二択しかありえないのは、被告人がその争い型を選択した結果です。
たまたま袴田再審事件は、死刑判決に対する無罪主張の再審申し立てだから、有罪か無罪→死刑か無罪かになるだけのことです。

刑事訴訟法
第四百三十五条 再審の請求は、左の場合において、有罪の言渡をした確定判決に対して、その言渡を受けた者の利益のために、これをすることができる
1〜5略
六 有罪の言渡を受けた者に対して無罪若しくは免訴を言い渡し、刑の言渡を受けた者に対して刑の免除を言い渡し、又は原判決において認めた罪より軽い罪を認めるべき明らかな証拠をあらたに発見したとき。

上記の通り「原判決において認めた罪より軽い罪を認めるべき明らかな証拠をあらたに発見したとき」という理由で申立した場合には、中間的結論がありうるでしょうがその選択権は被告人が握っているのであって、被告人が「無罪になる証拠が見つかった」という申立てをしたから白か黒の二択になっているだけで制度の欠陥ではありません。
法制度通り解釈すれば、確定判決を取り消すべき新たな証拠が「あったかなかったか」の二択でしかないことは仕方がないことです。
第二に内容を見ておきますと、
「同じ証拠から死刑か無実かという正反対の結論が導かれるようでは司法の信頼をゆるがしかねない。」
というのですが、実は同じ証拠によって別の判断になったのではありません。
「シャツに不着した血痕」という証拠は共通ですが、1.2審で新たな証拠かどうか争われたのは、「シャツに不着した血痕」の有無ではなく、50年前の血痕をDNA鑑定できるかどうかだったのです。
鑑定意見の合理性(科学発見新技術開発のルールに合致しているか)が争点であってその点に関して1〜2審で結論・評価を異にしたらなぜ司法の信頼を失うか不思議です。
証拠を合理的に検討する視点を無視して同じ証拠を見る人によって違うのはおかしいというのですが、「見る視点の違い」と言ってもボヤ〜っと見た結果の違いではなく、DNA分析根拠を明らかにするべく努力したものの鑑定人がこれに協力しなかった結果を踏まえて信用性否定を判定しているのです。
「同じ証拠」と言っても証拠のナイフを直感的に見て、えいやっと結果を決めるのではなく、今の時代ではそのナイフに付着した血痕がだれの血痕かという鑑定の基礎になったデータの違いで両鑑定の優劣を決める時代です。
証拠という意味の時代的違いを言えば、昔は犯行現場近くに落ちていたナイフに血痕があれば目視で血痕さえあればその先の事実究明がなく裁判官がどう判断するかだけだったのですが、その後血痕があっても動物の血液か人間の血液かが分かるようになり、血液型の違い、さらにはDNA鑑定と微細化する一方です。
比喩的に言えば、100倍の顕微鏡で見ている時には、甲乙丙誰の血液かの区別がつかなかったのに、10万倍の倍率で見れば甲乙丙の違いがわかるようになったということです。
こういう場合、「同じ血痕で判断が異なるのはおかしい」とはいえません。
一方が10倍の倍率で論理チェックしたが、他方が100倍の倍率で論理を掘り下げて見直したら鑑定資料のずさんさがわかり鑑定が信用できないとなったとすればどちらの信用性が高いか明らかです。
地裁で動物の血液を被害者の血液と認定していたのを高裁でより精度の高い検査をしたら動物の血液と認定しても「同じ証拠で意見が分かれる」のではありません・・この場合に同じ証拠と言えるのは、同じ血液検査を利用した場合です。
目撃証言でアジア人というだけで犯人を決めるよりは、現場録音をチェックして何語を話していたかによってアジア系の何国人であるかを絞り込み、さらには防犯カメラ等に映った身長や体格着衣(同じ背広を着ていてもどう言う色柄かなど)等で絞り込むなどしていくのが合理的です。
何事も上位概念で決めるよりはさらに下位の細かな分類を利用した方が正確に決まっています。
日経社説は「同じ証拠」といいますが、上記のように地裁と高裁では評価対象が違うようです。
高祭は鑑定手法の合理性を問題視していてその再現実験のための鑑定資料や鑑定時の記録提出を求めたのに鑑定人がこれに応じなかったというのですが、地裁は頭から鑑定意見を信じてしまったような書きぶりです。
これでは地裁は鑑定結果を見ただけで判断し、高裁は鑑定結果よりは結論を見出した鑑定過程の合理性の有無を判断したのですから、地裁と高裁が同じ証拠を見て判断したと言えないでしょう。
袴田再審事件では同一資料をどのように分析するかによって結論が変わるからこそ、一審以来鑑定をして来たのです。

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