話題が変わりますが、平穏な日本社会では、犬の世界でさえも高度化されてきて公園等で犬種が違ってもワンワン吠合うのを見かけることがなくなりました・・犬だって吠えるのを恥ずかしく思う時代です。
犬が人間社会のあり様を反映しているとすれば、これは日本の人間社会で大声で怒鳴りあう時代が過ぎて久しいことを表しています。
朝鮮系は日本人とは「人種傾向が違うからどうにもならない」という人もいますが、日本に長く住んでいると朝鮮人であろうと中国人であろうとベトナム人であろうと日本人的生き方に犬同様に?馴染んでいくのではないでしょうか?
私が知っている限りの在日は、皆紳士的ですから世の中の動きについていけない少数者が自己の社会的不適合正当化のために、在日の民族上の特殊性を強調しているのではないでしょうか?
日本人にも社会不適合者が一定率いますが、この場合には「小数民族だから・・・」という逃げ道がないので、「なんでも反対」か?の「拗ね者評価される」ので、合理的対処が可能です。
「日本文化に馴染んでもらって皆なで仲良くしよう」というと、これを同化・排除政策と言って厳しく拒絶するのが、8月1日紹介した学者の主張です。
韓東賢氏の論文引用文を再掲します。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/eds/96/0/96_109/_pdf/-char/ja
①仮に戦後の日本がヤングのいう意味での包摂型社会だったとしても,その基調は同化と結合ではなく,「排除/同化」――排除と同化の二者択一を迫るもの――であった。
②2000年代には,このような「排除/同化」の基調を引き継ぎながら,にもかかわらず,「多文化主義へのバックラッシュ」としての排除を露骨化,先鋭化させた排除型社会になった。
③そのような「排除/同化」,また2000年代以降の排除の露骨化,先鋭化において,朝鮮学校の処遇はつねにその先鞭,象徴だった。
韓東賢氏の論文は「排除/同化」と批判しますが、どの集団に入ってもその社会や組織・企業文化に馴染んで行かないとその企業等で出世できないどころか、・・悪くすると企業や組織から浮き上がり結果的に居づらくなるのは事実です。
ただこういう流れを「排除」という他力的強制力を発揮するドギツイ言語で表現するのが正しいかは別問題です。
企業その他組織で、ある人が日常的マナーに劣るから・人付き合いが悪いから・・といって強制的「排除」・・すなわち除名や解雇、仲間はずれをしていません。
ですから、仲間付き合いがうまくいかないで何となく浮き上がっているのと「排除」されるのとはまるで違います。
「排除」とは、仲間入りしたい人を「排除」してしまう外部的力です。
自分から、小・中学生がお昼休みに本を読みたくてドッジボールなどの仲間に入らないのを排除されたとは言いません。
繰り返しお誘いを断っているとそのうち「一緒にやろう」と声がかからなくなっても、排除されたとは言いません。
これを革新系では「排除される」というどぎつい・過剰表現する日常が見られます。
辛氏の亡命に関する表現だったかのコラムで少し前に書きましたが、言葉の意味を少しずつずらして行き、実態を表す当初の言葉とほぼ大方違う意味にすり替えて行く言葉だましの一例です。
都知事小池氏はジャーナリズムに本籍がある結果、相手を批判するためにこうした過剰表現になれていたのでしょうか?
昨年夏の総選挙直前の希望の党と、民進党との事実上合体に際して、慣れ親しんだ過剰表現「排除」を自分の行為の説明に不用意に使ってしまい、結果的に墓穴(希望の党失速のきっかけ)を掘ってしまったのが記憶に新しいところです。
韓東賢氏の論文は同化しないと「排除される」と日本の政策を否定していますが、どこの世界でも仲間と同じようにして行くほうが楽だから進んで同化していくのです。
子供の頃を思い出すと、空いている時間に自分のやりたいことがあっても、友達から遊ぼうと誘いがあれば友達に付き合うのはこうした知恵です。
造反有理というスローガンが文化大革命当時流行ったことがありますが、朝鮮族ではこういう屁理屈をありがたがって現実社会で気持ちよく生きるのを拒む・・いつも社会を斜めに見る習慣で生きている人がエリートとして大事にされるとすれば、半永久的に不幸です。
朝鮮系との間で半永久的に罵り合う社会になるのでは困ったものです。
これでは、種が違っても喧嘩しない犬族以下になります。
ヘイト法ができたのを機会にお互い冷静・・きちんとした議論をして行く関係・・要はお互いのことをあまり気にしない関係になって行くのが妥当です。
ただし、うがった見方によれば、日本の戦後復興妨害のためになんでも反対して、時間をかけさせて新たな分野への挑戦実行を5〜10年遅らせる・・その間に韓国が日本の政治経済等の方向性を先取りして素早く動くという二人三脚・・影の勢力だったという見方もあります。
国会の牛歩戦術に象徴されるようになんでも最後まで反対し最後は強行採決を目指す・・1日でも10日でも、法案通過を先伸ばしする戦術でした。
社会党や野党の動きは、時間をかけて議論してより良い法案に練り上げるのではなくどこまで行ってもアラ探しに終始していて最後は決裂するしかないのが見え見えの時間稼ぎだったのが、99%といっても良い過去の評価ではないでしょうか。
こういう先伸ばし、どんな国策も妨害することが主目的の集団とは一定のところで議論を打ち切れるルールを制定しないと民主主義のルールが成り立ちません。
9月9日全米オープンで日本の大坂なおみさんが優勝した試合経過を見ていましたが、これまでの王者であった、米選手が自分の負けを認めたくないためにか?試合開始後審判への抗議を演出して審判を罵っている場面が放映されましたが、セリーナの口を極めた罵り(英語はわかりませんが、その表情口調により明らかで・・同時に流れていたテロップにはDESPUTE〇〇の文字が出ていましたから、アメリカの報道陣にも常軌を逸した抗議という印象があったたのでしょう・・によって何かのペナルテイーを宣告され、それに彼女がまた口を極めて罵り抗議する・・彼女支持の群衆のブーイングを呼ぶ・彼女の思う壺にはまったかのような大騒動展開の結果、セリーナが狙っていた?展開通りになりましたが、日本の大阪選手がこの大騒動に動揺せず冷静に試合を運び勝利を決めました。
セリーナが試合開始直後にこれは叶わないと思ったならば、潔よく負ければいいのでに(日本の囲碁戦では投了仕組みがあります)不当な審判の所為で感情的になり、実力を出せずに負けたという印象操作狙いのように受け取った人が多いでしょう。
サッカーと違い本来紳士のスポーツで観客レベルが一応高いはずですが、セリーナの汚い狙いに応じてなんの非もない20歳になったばかりの小娘である大阪選手の健闘・優勝を讃えるよりは、観衆が大阪選手を非難する大ブーイングに終始したのには驚きました。
上記のようにメデイアの報道姿勢は、セリーナの抗議をdesputeという文字表示をしていた点で、客観的でしたが・・。
大阪選手はせっかく優勝したのに大ブーイングに驚いて子供らしく「泣きぬれていました」が、一々言い返さない、日本人らしい良い対応です。
女性の涙ほど強いものはありません。
垣間見えるアメリカの民度が世界中に拡散されたでしょうが、これではアメリカが国際大会を主催する能力がないのではないかの疑問が起きます。
アメリカの国際的地位は道義ではなく腕力しかよって立つ基盤がなかった・・覇道そのものを体現しているような印象で、腕力(経済力)が衰えると世界の覇者の地位をすぐに維持できなくなる理由がわかります。