韓国の慰安婦像は反日政治プロパガンダ道具そのものと私は思っていますが、それを特定集団が牛耳る団体が芸術品と銘打てば、その「制作費等を日本政府が費用を出すべき 」と言える根拠が意味不明というのが多くの国民の声ではないでしょうか?
私個人意見と国民の声と一致するかは不明ですが、それを決めるのが自由市場ではないでしょうか?
補助金が必要・自由市場で買い手が出ないということは市場評価が低いからではないでしょうか?
現在のように教育界、学会、芸術諸団体の主流派でその集団意見を牽引している支配勢力が、後世のために公費買い取り、あるいは補助対象を決めるということは、結局現在主流派に認められている作品となりますから、主流派の考える作品を市場がさっぱり評価しない思想や作品に過ぎない・・そういう組織は外部批判を無視しているうちに自浄作用が衰え独りよがりになっている傾向がありそうです。
主流派作品が市場で評価されない場合、謙虚な反省が必要です。
自由市場で生き残れないが民族の伝承すべき伝統芸能の場合でも、急激に動員客数が減ってくると補助規模縮小して一定数だけ絶滅危惧種的保存するなどの判断(これもどれだけどの規模で保存すべきか=予算をつけるかを芸術家が決めるのではなく政治判断.民意です)が必要になってきます。
伝統工芸品製作者の継承問題同様で、産業として保護するのではなく継承者保存育成等の分野です。
現代美術界の場合、やはり現在人が自由市場で受け入れない芸術?はそもそもまだ現代美術の仲間入りできていないと見るべきではないでしょうか?
芸術家の卵育成期間超過後まだ未熟な人材を転進させるか、もう少し面倒見るかは身内が考えることではないでしょうか?
〇〇界主流が公認する芸術や主張を社会が認めない→逆切れした場合、より一層独善思想に凝り固まる・・旧社会党が教条主義政党化して行った軌跡ですが、中には社会が認めない不満を暴発する・・テロ等に走る集団と不自由展のようにリベンジ行動に走る柔弱集団に分かれるのでしょうか。
愛知トリエンナーレ展擁護者も批判者もゴッホの例を出すのは、主流派が認めている優秀作品なのに国民が受け入れないのは自由市場構成員・国民の無知蒙昧によるので、市場(消費者)に任せられない・・国民教育の必要があるので公費補助すべきと言う意味が含まれているとすれば「倒錯していますが)論理一貫です。
左翼系団体内では疑問の余地ない正当な意見なのに、国民が認めないのは国民レベルが低いからだ・国連委員会お墨付をもらって、国内街宣活動という動きが盛んでしたが、その一種でしょうか?
「不自由展」とは、何が不自由か?ですが、各種運動家が例外なく出してくる十八番(おはこ)の「自由市場論」を唱えながら(誰も購入してくれないだけでなく、発表の場さえ拒否され食べていけないので)発表の場と制作費補助を与えてやってくれ(与えろ!)という最後のあがきでしょうか?
しかし自由市場論とはそのような状態に追い込まれるものは、市場から退場すべきが基本原理であり、食えないものを援助する必要はありません。
ラーメン屋であれ寿司屋であれ、材料費を買えなければ廃業すれば良いことで国費で支える必要がありません。
必要なのは適正収入を得られる職業(正業)に導く職業訓練分野です。
そこでゴッホの例を出すのでしょうが、これまで書いているように現在成功者が将来自分らより高評価を受ける対象評価審査するのは自己矛盾・・破綻論理です。
将来評価を現在主流派がするのは論理的に無理だし、現在競争力ないものは退場すべき論に対抗できません。
愛知トリエンナーレのように国民が受け入れないだけでなく発表の場もなくなりそうだという危機感から公費で制作補助すべきだ・その対象を決めるのは自分達だという意見は、エリートと国民の格差・自由市場論を心底本音では馬鹿にしていないと成り立たない論理のように見えますが・・・。
もしかして、自由市場でさっぱり評価されず(作品が売れない、音楽でいえば演奏会切符がほとんど売れないような)クリエーターばかりが組織内侵蝕して主流派になっているのでしょうか?
そうであれば理解可能ですが、売れっ子作家や売れっ子ライブ等のプロが仲間内で売れない作家の制作費を公費で行うための救済選考会のようにも見えます。
売れっ子が忸怩たる思いでいるならば、自腹を切って〇〇会で後進育成のための基金積み立てすれば良いように見えますが・・。
あるいはスポンサーを募って〇〇賞のような賞を作れば良いことで公費を求める必要がないでしょう。
入賞内容が低ければスポンサーがすぐ辞退してしまうでしょうが、そこに審査の質に対する自由市場が働きます。
彼らが自分の創作活動が低劣で後世に残らないと自覚していて、芥川賞候補にもならないような作家の方が実はすごい・・院展などに入賞さえできない低評価の絵が、いま自分たち審査員の眼力が低いだけで、将来ゴッホのように高評価受けるはずと心から思っているとすれば喜劇的仕組みです。
自由市場論のまやかし性を愛知トリエンナーレ展を事例にして書いてきましたが、
自由市場論とは何かの解明こそ、プロ思想家が挑戦してじっくり解明すべきテーマではないでしょうか?
「平和を守れ」という決まり切った思想?発表などしている暇があれば、「ちゃんと本業に励んでくれよ!」と国民が不満を抱いているのではないでしょうか?
そういう怠慢系学者が一流大学教授であり続ける・それを守っているのは大学自治という障壁です。