司法権の限界17(異議手続改正の必要性1・行政不服審査法改正)

ところで運転手が急病でイキナリ意識不明になってバスなど暴走すると危険なので自動制御装置の導入が検討されています。
仮処分手続は本格的立証でなく疎明で足りるし、本案手続と違って簡単軽易な手続で決定が出されるのに逆に効力がすぐに出てしまって、多数法律家が見て明白におかしいテロ的乱用の場合でもすぐに効力停止出来ない難点・自動制御装置がない点をどうするかです。
異議申し立ての制度は、仮処分が簡便な手続で効力が出る代わりに重厚な高裁への上訴ではなく、同一組織内で簡便に不服を受け付けて迅速修正出来るようにしたものですが、異議手続があると却って、異議審が終わるまで高裁へ上訴したくても出来ない・・結果的に間違った仮処分がでも長く維持される仕組みになっているのが背理です。
異議審では仮処分の取り消し・・即時効の発効停止を求めることが出来ますが、仮処分決定をした同じ合議体がこの異議を審理する仕組みですので、同じ人間が突然考えが変わって仮処分の効力停止を命じることが滅多にありませんので,この制度はお飾りになっています。
表向き上訴する手間を省かせると言う制度設計ですが、実際には異議手続があるのは安直簡便な決定効果を長びかせるためにあるようなシステムになっています。
「異議」と言う手続は、民事執行手続あるいは各種行政処分に対する不満がある場合行政訴訟をする前に簡易即決するために処分庁の内部手続として法定されています。
政府にすれば「裁判するのは大変だろう」からと言う親心で?、(若い者が間違っている場合に)上司に文句を言うチャンスを先に与えてやると言う仕組みですが、結果的に裁判するチャンスを先延ばしする制度になっています。
大津地裁の仮処分決定で異議審を経過しないと高裁に出せない・・高裁に移行し全く別の観点からの判断を得るまで長期間かかってしまうリスクが浮き彫りにされました。
従来行政不服申し立てでは、特定決定(処分)に関してその所属の上司に異議申し立ててみて再審理の結果、当初処分が正しいとして異議が退けられてから初めて上級庁に審査請求出来る異議前置主義でした。
同じ行政庁に異議を出しても多くが(行政庁では上司の決裁を受けて処分するのが普通ですから上司の知るところとなっても)異議を出しても退けられる運命ですから、無駄な制度だと思っていましたが、こういう苦情が多かったらしく直截(第三者機関に)審査請求出来る制度が16年の4月から施行されました。
「行政不服審査法
(平成二十六年六月十三日法律第六十八号)
 行政不服審査法 (昭和三十七年法律第百六十号)の全部を改正する。
処分についての審査請求)
第二条  行政庁の処分に不服がある者は、第四条及び第五条第二項の定めるところにより、審査請求をすることができる。
千葉県総務部政策法務課政策法務班中庁舎7F
不服申立ての手続を審査請求に一元化
【図2】
現行は上級行政庁がない場合は処分庁に「異議申立て」をするが、「異議申立て」をなくし「審査請求」に一元化。」
上記は千葉県情報からの引用です。
(総務省http://www.gov-online.go.jp/useful/article/201605/1.htmlには詳細説明がありますが簡潔引用には向かないので、千葉県の解説の引用にしましたので、詳細を知りたい方は上記総務省にはいってください。)
改正法の審査請求の場合には異議と違って第三者委員による審査になる点も公正と言うか当たり前(これまで内部の同じ行政官が審査していた点を改めたのです)の制度設計です。
タマタマ昨年4月から「異議制度」の不都合が改正されたのですが、このコラム原稿を書いた昨年3月時点では、まだ施行されていない事前情報として引用したものです・・今ではネット検索で現行法として出て来る筈です。
行政に限らず司法手続においても異議などの半端な中2階を整理して行くべきです。
ところで一般の個人間の争い・・軽い仮処分仮差し押えの場合には、原則として単独判事(補)の職分です。
しかも、裁判は独立性保障のために、他の裁判官に相談せずに単独で決定するのが原則ですから、軽率な間違いがあり得ると言う前提で、大げさな高裁提訴よりは、同じ裁判所内の熟達したしかも3人による見直しチャンスを与える・・早期是正チャンスを与えると言う制度設計です。
例えば宇都宮地裁の決定に不服な人が、常に東京高裁まで出掛けて行って上訴するのは大変な手間ひまですしコストも大変です。
特に法制度が出来た明治大正時代の交通事情を想定すれば、先ず内部上司で見直しをしてやる・恩恵的制度設計もあながち不当な制度だったとは言えないでしょう。 
宇都宮の事件を例にすると今でも数十万〜百万円程度の個人係争事件では、手間ひまと弁護士費用を掛けて東京高裁に出掛けるのは大変なコストですから債務者保護のために役立っている面もあります。
でも債務者保護のためならば上訴するか、異議を出すかの選択制にすれば良いことです。
単独裁判官が仮処分決定した場合には、異議が出てから単独判事より20年くらい年長者の裁判長を交えた合議体で新たに審理し直すのは意味があります・・これが異議手続の存在意義ですが、原発のように大きな事件では初めから合議体で審理するのが原則です。
一般仮処分は債務者の意見を聞かない一方的資料による決定が原則ですから、債務者の意見や証拠提出される異議審では同じ裁判官でもこんな証拠があるならば・・と決定変更の可能性があります。
ところが、原発決定等断行仮処分では債務者(電力会社)に対して期日呼び出しをして相互審問あるいは口頭弁論を開くのが原則です。
事実上本案訴訟(今は本案訴訟でも複雑な事件では準備手続に入るのが普通)とほぼ(証人調べはないものの)同じ手続が行なわれて「これ以上双方が出す主張や証拠がないですね」となってから決定するのが一般的運用です。

行政文書の事前避難

空襲による焼失の場合、100km離れたところにバックアアップしておいても、その翌日にはそこも爆撃を受けることがあり得るので(広島の帰りに長崎に原爆を落としたように)離れていれば良いとは言えませんが、自然災害の場合は距離が決め手であることは間違いがないでしょう。
しかも空襲の場合、じゅうたん爆撃に遭ったとは言っても、書類関係は端っこが焦げるくらいで意外に全体まで燃えないものです。
それに被災者はその土地に居残る率が高いので、いろんな人の持っている書類の持ち寄りによって復元がかなり出来ます。
行政文書は役所にあるだけではなく、6月27日に戸籍簿の復元で書いたように(中には戸籍謄本を取り寄せて自分で持っていた人もいますし)複数以上の関係者が持っていることが多いこともあります。
設計図書で言えば、工事関係者がそれぞれ自分に関係する部門の設計図を持っていますので、それを持ち寄れば何とかなります。
学籍簿で言えば、空襲が終わった後で生徒が三々五々学校に戻ってくれば、全員の名簿の復元は簡単です。
今回の津波や放射能被害による避難では、根こそぎ流されてしまう外に原発避難の場合も、ムラや町中誰一人いなくなる避難ですから、みんな散りジリに避難すると、関係者の連絡を取るのさえ不自由な状態になっています。
原発避難地域では、未だにあるいはこの先どの程度の期間経過すれば被害把握が出来るのかさえ予測不明なくらい、被害実態が調査出来ない状態になったままです。
前もって何の準備もなかったので、(戸籍事務は法務局に速やかに送るようになっていますが、それ以外の本来日々活用すべき市町村作成公文書はすべて)行政文書の消失・水浸し等による・復元にこれから頭を悩ませることになる筈です。
建物や構築物等の物損被害額は直ぐに計算出来ますが、行政文書消失による被害は目に見えた損害額にはなりませんが、じわじわと効いて来て、事務作業が滞ることになるのでその経済損失は甚大なものになる筈です。
各個人が取るもの取りあえず緊急避難して身の回り品が何もなくて困っているのと同様に、みんなのお世話をするべき自治体自身も避難に際しての事前準備がなかったので、膨大な行政文書・・住民登録データに始まる分野ごとに必要なデータを海の藻くずにしてしまったりして持ち出せないままになっています。
(死亡者数や被害実態の把握・避難住民の詳細把握が進まないのも、各種データ根こそぎ消失の結果でしょう)
危険手当としての交付金をもらうときから、避難準備の議論が日頃から進んでいれば、データの避難・バックアップをどうするかにも当然検討が進んでいたでしょう。
これは住み慣れた地元を離れられないと言う生身の人間・・心情相手とは違い、合理的に検討し、お金さえ出せば直ぐに実行出来た分野です。
(山間僻地への資料移送保管の費用は、9000億の巨額交付金との比較からすれば費用のうちに入らないわずかな額です。)
美術品や生き物と違って、紙記録は積み上げておいてもそれ程痛まないし、市町村の情報記録は5年間の保存期間が殆どで、永久保存の不要なものが大半ですから、大した保管コストがかかりません。
永久あるいは長期保存文書・紙記録の場合、20年や30年放置しておいて少しは痛んでも(津波に流されてしまうよりはマシです)イザとなれば何とか使えるでしょう。
現在生きている・・・毎日のように動いている情報が失われると、今後2〜3年の仕事が困難になるリスク・損害が大きいのですから、保管技術の面は(私にはよく分らないのですが・・)とにかく移転しておくメリットは大きかった筈です。

末端行政組織の整備(区制1)

寄留者を管理するための明治初期頃の末端行政組織がどのようなものであったかですが、村役人制度は定住者の多い地方では機能していましたが、住所まで行かないで不安定な生活をしている人の多い都会地では彼らよそ者を担当する組織がどうなっていたかです。
3月6日に引用して紹介した説明では明治2年に東京だけの戸籍整備実施にあたって市中の旧名主制をやめて入札制(今の投票制?)で年寄り・50区制を採用したと書かれていましたが、これによるとその以前から名主制が存在していたことが分ります。
明治2年の戸籍整備は脱藩浪人等不安定居住者の把握を目的で始まったとすれば、名主から発展した年寄りらは、戸籍編成時に寄留者も同時に記録するようになって行ったことになります。
そうとすれば、定住まで行かない人の現況把握にはお寺や神社の協力を必要としていなかったことになります。
ところで、3月5日に紹介した神社にお札を貰いに行くように命じた明治4年の太政官布告322では「戸長」を通じて(戸長の証書を持って)お札を貰いに行くことになっています。
この布告自体で既に戸長の人民管理が神社へのお参りに先行していることが分ります。
戸長とは何かですが、これは法的には、明治5年の太政官布告17号で、従来の莊屋、名主の制度を改めて、戸長にした結果生まれた名称であることが、この太政官布告で分ります。
法令全書のコピーがネットで見られるのですが、写真しか載っていないのでコピー出来ないので、明治5年分の法令全書から莊屋等から戸長に名称変更された布告を手写しで載せておきます。
第117号(4月9日)
「1 莊屋名主年寄等都テ相癈止戸長副戸長ト改称シ是迄取扱來リ候事務ハ勿論土地人民ニ関係ノ事件ハ一切為取扱候様可致事
 1 大莊屋ト称シ候類モ相癈止可申事
 1  以下省略

(漢文では「都テ」は「すべて」と読むことを09/15/09「都市から都会へ」のコラムで説明しております。)
上記のとおり、明治5年4月からそれまでの莊屋名主等はなくなって戸長副戸長制度が出来たのですから、明治4年には戸長の呼称がなかったかのように見えます。
莊屋名主等から戸長への名称変更の布告前の明治4年の布告の中に既に「戸長」が出てくるのは、その頃には戸長と言うものが(全国一律ではないまでもあちこちに)事実上出来ていたからでしょう。
すなわち明治4年の壬申戸籍布告の時に同時に従来の小さな村(10戸前後?)を7〜8ケ村集めて一つの区として、区ごとに戸籍編成をして行ったようですから、このときから同時に区制が行われていたことになります。
この区長を戸長と言うようになっていたのです。
区は地域の区割りのことですし、その長=区長を戸=居住の単位・・普通は建物を現す戸長と何故言ったのか今のところ私には不明です。
上記の通り従来のムラや町の集落とは別に、明治4年当時から区制が行われつつあり、莊屋名主に変わって戸長が既に一般化していたので、明治4年の太政官布告第322では戸長の証明書添付が義務づけられるようになったのかもしれません。
小さな自然発生的集落では、国家としての中央政権の施策を貫徹出来ないので、施策実行に適した人工的な区割り・区制を施行し始めていたのですが、太政官布告と言う統一的布告によらずに実施していた結果一般化していた戸長と言う呼称を明治5年4月に初めて上記太政官布告で明らかにし、国家規模の法的根拠を与えたに過ぎないと言えます。
但し、明治5年4月の布告では単に莊屋等を戸長と呼ぶと公認しただけでその前提たる区制と町村制の関係を明らかにしておらず、混乱が生じていたようです。
これは以下に書いて行くように元々、区制は、今で言うプロジェクトチームのようなもので当初は目的別にいろいろ区を作っていたようですから、まだカッチリした地方行政組織の構想が出来ていなかったので、戸長の名称だけ全国統一にしたものの地方行政組織制度まではまだ布告出来なかったことによるように思えます。
同じ年の明治5年の11月には旧来(江戸時代の)の郡町村制を廃止して大区小区制がしかれ、大区の長が戸長となり小区の長が副戸長になりましたが、地方によってはいろいろだったようです。
後に学区制も紹介しますが、小学校も従来のムラごとに作ったのでは経済的に維持出来ないし構成員も少なすぎるので、もっと広域化して・・500戸単位くらいで一つの学区を作ったようですから、この頃は近代化に追いついていない小規模な従来の単位をいろんな制度ごとに「区」と言うものを作って行った時代でした。
学区制を定めた学制(明治五年八月三日文部省布達第十三)は明治5年8月ですから、着々と「区」を基準にして政策を実現して行く思想を基礎にして実践が始まりつつあったのです。

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