共謀概念の蓄積(練馬事件)3

共謀共同正犯理論が出て来た頃にも、反対論者は「近代刑法の理念→実行行為した場合に限り罰する理念」に違反すると言うのが主たる理由で大論争していたと記憶しています。
私の学生時代にはこの論争真っ盛りのころで、共謀共同正犯推進論者の先生が熱弁をふるって講義していたのを懐かしく思い出すだけで、詳しい内容は覚えていません。
先生が折角頑張っていても私のような凡学生にとっては、そんな程度の理解でしたが、先生は若者に熱意を伝えれば良いのです。
近代刑法の精神に反するかどうかは別として、親分が殺人行為を末端組員に命令して殺人行為をさせた場合、親分が実行行為に全く関与しなくとも、命令した親分の方が悪いに決まっています。
これを実際に殺人行為をした末端組員よりも重く処罰出来ないとすれば、近代刑法の精神が間違っているか、近代刑法の精神の解釈がおかしいことになるでしょう。
また個人責任主義に反すると言っても、近代法が家族一族連帯責任主義から個人責任主義に転換したのは、一族どころか中韓の歴史で知られているようにいわゆる九族に及ぶ責任追及のやり方は非合理ですし、果てしない報復合戦になるからです。
この学習から戦争に勝っても負けた相手を非難しないとする、智恵が西洋で生まれていたのですが、(明治維新でも同じです)第二次大戦に限ってアメリカはこの智恵を放棄してナチスが悪いとか日本の軍国主義が悪いと一方的な価値観を押し付けたことが戦後秩序が不安定化している原因です。
犯罪に何の関係を持っていなくても、一族や九族を処罰する前近代思想の復活ではなく、実際に犯罪行為を「共謀」した主犯格だけ処罰するためのものですから、共謀罪は近代法の個人責任主義精神に反するのではなく、逆に合理化したと評価すべきです。
日本を除く先進民主主義国では近代刑法の精神に反すると言う議論・・反対論もなく共謀罪がすんなり制定成立しているのですから、「近代刑法の精神」を我が国の学者が間違って理解して来たのかも知れません。
殺人行為等を実行した末端組員よりも命令した親分を重く処罰しないと社会秩序が保てませんから、「近代刑法の精神に反する」と言う形式的反対論は実務の世界では次第に力を失って行きました。
その結果以下に紹介する最高裁(大法廷)判例で決着ががつき、(いまでも反対している学者がいると思いますが・・)以来実務ではこれを批判する人は皆無と言ってもいい状態で、事例集積が進んでいます。
半世紀以上にわたる共謀概念の絞り込みを下地にして今度は殺人行為等実行前でも、命令したことや計画が分って証拠があれば、実際に犯罪被害が起きる前に検挙して被害発生を未然に抑止しようとするのが共謀罪新設の目的です。
サリン事件や自爆テロ等の実行あるまで、計画が分っても検挙出来ないで見ているしかないのでは間に合わないと言う現在的理由です。
今回、共謀罪新設に対する「近代刑法の精神に反する」と言う主張は、昭和33年最高裁大法廷判決で決着し半世紀以上にわたって実務界でも受入れられて来た決着済みの論争を蒸し返しているような気がします。
ここで念のために共謀共同正犯に関する指導的最高裁(大法廷)判例を紹介しておきます。
以下はウイキペデイアからの引用です。

練馬事件(最高裁1958年(昭和33年)5月28日大法廷判決)
「共謀共同正犯が成立するためには、2人以上の者が、特定の犯罪を行うため、共同意思の下に一体となって互に他人の行為を利用し、各自の意思を実行に移すことを内容とする謀議をなし、よって犯罪を実行した事実が認められなければならない。
他人の行為をいわば自己の手段として犯罪を行ったという意味において、その間刑責の成立に差異が生じると解すべき理由はない。」

この練馬事件に発する判例理論は次のように整理できる。 まず、共同正犯の成立要件は次のとおりである。
共謀
共謀に基づく実行行為
そして、一部の者しか実行行為に出なかった場合が共謀共同正犯であり、その成否には共謀の成否が決定的に重要となる。
ここでいう共謀の内容は、①犯罪を共同して遂行する合意(これのみを「共謀」と呼ぶ用語法もある。)と②正犯意思(自己の犯罪として行う意思)に分けることが可能である。謀議行為は特に①の認定のための重要な間接事実ではあるが、必ずしもその認定が必要なわけではない。①に関しては、犯罪事実の相互認識だとか意思の連絡といった表現もなされるが、これらの関係は必ずしも明らかではない。
狭義の共犯との区別のために特に重要なのは②である(したがって、正犯と共犯の区別における判例の立場は主観説であると評されることが多い。)が、その間接事実としては、実行行為者との関係、動機、意欲、具体的加担行為ないし役割、犯跡隠蔽行為、分け前分与その他の事情が考慮されており、結論において実質的客観説との違いはないとも言われる。なお、近時は正犯意思という言葉(ないしそれに類する言葉)を使わずに説明する裁判例も登場しており、今後の動向が注目される。

スワット事件(最高裁第一小法廷2003年(平成15年)5月1日決定) – 共謀には黙示的意思連絡があれば足りると認めた。
ドラム缶不法投棄事件(最高裁第三小法廷2007年(平成19年)11月14日決定) – 未必の故意による共謀共同正犯を認めた。

共謀概念の蓄積(進化)2

日本に比べてこんなにも幅広いあやふやな概念しかない諸外国で、既に刑事法制化して運用処罰していること自体驚きですが、これらの国は制定後の運用の中で絞って行けば良いと言う思想でさしたる懸念・反対運動もなく法制定しているのではないでしょうか?
(いつも書くことですが、このブログは暇つぶしに書いているだけですから、反対論者が諸外国の条文や運用状況を紹介してくれないと実際の条文や弊害が分かりません・そこまで調べる時間もないので条約の文言を見て驚いている印象で書いているだけです)
米英独仏等の先進民主主義国を含む世界中の多くの国で(条約に署名しながら、国内法を制定しないで10年以上も抵抗しているのは、ごく少数です)日本よりアヤフヤな定義のママで制定運用しているとした場合(上記のとおり私の個人印象です)、世界一厳密に共謀概念を絞り込む実績のある日本に限って共謀法の濫用逮捕を懸念しているのは実態にあっていません。
この道の素人の弁護士にとっては先進国の共謀法はこう言う弊害が起きている・あるいは、日本の法案よりも緻密で乱用の危険が少ないなどの比較論が欲しいところです。
実際には法案を作ることに反対しているのでは、こうしたきちんとした意見を主張するチャンス・・法案作成作業参加の道を自ら閉ざしてしまい・比較論議が出来なくなっているのかも知れません。
秘密保護法の問題で、世界中の先進国で制定運用している秘密保護(スパイ処罰関係)法でどう言う問題が生じているか、日本の条文と先進国の条文とどのように違うかなどの比較議論が全くないまま、「危険だ危険だ」と主張するのでは外野にはよく分らないで困ると今年の3月11日「特定秘密保護法9(実定法の比較2)」前後で書いてきました。
共謀法の議論にもこれが言えます。
諸外国で弊害が生じてはいないが、日本の予定している条文が諸外国より緩いから危険と言うような比較議論があってこそ、国民は健全な判断が出来ます。
こうした比較議論が一切なく、「近代刑法の精神に反する」と言うだけでは国民・・少なくとも海外の条文(を紹介してくれないと)にうとい私は困ってしまいます。
「分らないならば意見を言うな」と言うのも1つの意見ですが、専門家は一般人相手に自己主張の正当性を主張している以上は一般素人(少なくとも市井の弁護士が日常知識で理解出来る程度)の合理的疑問に答えるべきではないでしょうか?
私にはバックに利害関係のある集団がないので、合理的なデータさえ示されて合理的納得さえできれば賛否どちらでもいいのですが、比較論が一切紹介されないままで「危険だ」と言われてもそのまま賛同することが出来ません。
このままでは法案賛否どちらが正しいかさえ分らないままにおかれて、フラストレーション状態におかれていることになります。
文化人は、いつも欧米のやり方や国連決議がどうだと論拠にするのが好きなグループですが、(監視社会・・防犯カメラに関してはドイツではこうだとかイギリスではこう言う規制があると細かな実態を報告しています・・)秘密保護法や共謀罪に限って欧米の運用状態について一切出さない・・マスコミも一切報道しない・・一般国民が知るチャンスがないままにおかれて、ただ危険だと言う宣伝だけ刷り込まれてしまう状態です。
弁護士業務・・特定の立場が先に決まっていて裁判で主張するときには、クライアントに有利な証拠だけ出して、有利な判例学説だけ引用することがあります。
これは相手にも弁護士がついていることを前提にゲームのように相互に有利な主張や証拠を出し合う対等者間の争いを前提にしているからです。
弁論主義と言って、一方当事者の主張していない主張(例えば時効になっているとか)を裁判所が職権で認定判断することはルール違反になっています。
具体的事件弁護ではそれで良いのですが、法案に対する公的意見については、朝日新聞や日弁連は、特定グループ利害の代弁者ではありません。
国民全般の利益のために主張する立場・・国民は世界中に出向いて事実調べやデータ収集能力がないのですから、中立が要請されている機関が、特定グループに有利不利の判断で合理的判断に必須の世界中の状況に関するデータを取捨選択して国民に提示している疑いをもたれると公的発言力が低下してしまう危険があります。

共謀概念の蓄積1

共謀罪の対象が全ての犯罪ではなく一定の凶悪犯だけとすれば、悪事共謀の事実が証拠で認定出来てもこの段階で処罰すべきか放置すべきかは、政治が決めるべきことです。
法律論としてみれば、この段階で処罰したり、検挙して犯罪実行を抑止することが何故人権侵害になるのでしょうか?
逮捕裁判するには厳密に絞られた共謀の事実(あてはめ)と確かな証拠がいるのは自明ですから、反対論者は確かなあてはめと証拠があっても処罰べきではない・・人権侵害のリスクがあると言う矛盾した論理で反対していることになります。
この程度のことは事実と証拠があっても処罰すべきではないという政治論を法律論の如く主張していることになります。
特定犯罪の共謀の事実があってそれを裏付ける「証拠があっても駄目だ」と一生懸命に反対している勢力はもしかして、どう言う人や集団の利益擁護をするために頑張っているのでしょうか?
恨みを晴らすためや保険金殺人のために自分に代わって殺人をしてくれる人をネットで募集するような個人もいます。
大した考えもなく何となく誘拐犯をネット募った結果、初対面同士でグループになって誘拐・殺人行為をしたグループが数年前にいました。
今回の北大生が簡単にテロ組織「イスラム国」に参加しようとしたことのハシリみたいな事件でした。
個人であっても、ネットで公開募集して犯行計画を進めている場合に、(証拠があっても)これを事前検挙抑止出来ないのでは社会が危険過ぎます。
(危険過ぎるかどうか、この程度ならば放置しておいて誘拐・殺人等の実行行為を待って処罰すべきかどうかは、国民・政治の判断事項であって法律家が専門的な意見を持っている訳ではありません)
法律家が懸念すべきは、共謀概念の曖昧さによる恣意的な検挙の危険性防止…思想信条の自由・・・内心仕返しをしたいとかいろんな妄想段階・ちょっとした冗談や世間話まで処罰されるのでは困りますので、この辺の心配を訴えるのは当然です。
法律家としては、共謀事実の定義・境界の緻密な議論と証拠論が重要です。
内心の妄想の域を超えて 具体的な計画を立て第3者を交えて計画するようになれば放置すべきではない・・共謀罪処罰対象の共謀とすべきでしょう。
要は、どの程度の意思の連絡があれば(冗談に相づちを打った程度ではなく)共謀があったと認定すべきかの学説判例の集積による分野です。
この辺は、わが国では、諸外国と違い昭和30年代から共謀共同正犯理論が学説判例上発達して来たことを無視すべきではないでしょう。
この集積の結果、共謀概念の成立要件についてかなり精密に事例が集積されていますので、諸外国よりも共謀の限界事例集積が進んでいる・・言わば共謀定義に関する先進国です。
(高齢化やデフレ現象が諸外国より早く進んでいるのと似ています)
10月22日に紹介した条約では「相談することを犯罪とする」とあるように「相談」となっていて、我が国の法律用語である「共謀」となっていないのは、我々法律家が見れば驚くような幅広い概念です。
諸外国では、日本のように50〜60年以上(後に紹介する最高裁判決が昭和33年ですから、そこまで行くには10年以上の実務があります)に及ぶ共謀概念の事例蓄積がなかったから、こう言う漠然とした用語になったのではないでしょうか?
ちなみに共謀共同正犯論は、これを最初に提唱した草野豹一郎博士の昭和7年論文と言われていますから、その後幾多の学説論争を経て、昭和33年の大法廷判決になっているのです。
当時共謀を処罰するのは近代刑法の個人責任主義や、行為責任主義に反すると主張されていたのですから、反対論の主張によれば日本だけが突出して経験を積んで来たことになります。
我が国では諸外国と違い、(上記のとおり想像に過ぎませんが・・)相談や協議や会談等の漠然としたいろんな概念の中で、このコア(中核)になる「共謀」と言えるまで厳密に絞り込まれたときに限って共謀認定して来た・・長年運用して来た実績があります。
私のように刑事事件をあまりやっていない弁護士でもこれまで共謀共同正犯事件・・どの時点で共謀が成立したと言えるかなど数え切れない程担当して来ています。
実際に殺人事件等が起きてから後追いでやって来た従来の共謀認定とは、殺人行為等実害のまだ存在しない段階での共謀認定とは方向性など違いますが・・少なくとも共謀認定の実績・事例集積がある点では諸外国とは大違いですから、既に法制化している諸外国よりも我が国の方が濫用リスクが少ない筈です。
我が国では普通の「相談」程度では法律用語としての「共謀」にならない・・充分に絞り込まれていることは、争いがないと言い切れる状態です。

中間層・蓄積の重要性8(同胞意識5)

ちなみに武士の出現以前にも、武士に守ってもらうべき需要・・自作農があちこちに存在していたこと・もっと古くは荘園への名義だけの寄付が流行ったのも自作農地を守るためのものでした。
水田耕作の我が国では、水路の維持管理の必要性からムラ社会は一心同体の紐帯で結ばれて来たことを書いたことがあります。
ムラの代表者は自己保身のためではなく、むしろ自己を犠牲にしてもムラ人が全員一族・同胞のつもりですから、全構成員のために政治をすることに千年単位で親しんできました。
戦国武将が自分が腹を切っても城兵全員の助命を開城の条件にしていたし、農民一揆でも代表者・・庄屋クラスが処刑されること・自己犠牲を前提にしてムラのために頑張って来たことが、その象徴です。
莊屋クラスが自己保身・・私腹を肥やして農民から抗議されるような事件は全く起きていません。
中国だけはなく、朝鮮半島でも初の統一支配政権となった李氏朝鮮の支配下で、両班以外は人間扱いされない(文字も知らない)ままで近代に至り、日本支配になって漸く平等を前提に全員が教育を受けられるようになったに過ぎません。
総督府の時代に一般人対象に教育を始めたのですが、イキナリ漢字を教えるのは無理があったことから、総督府の勧めで現在のハングル文字(表音文字ですので言わば平仮名だけしか理解出来ない状態が、今も続いています)の普及を奨励したのが文字教育の始まりです。
我が国では名目的な律令体制を導入しましたが、班田収授法・・すなわち国有農地方式は根付かなかったことを01/15/06「三世一身法と墾田永年私財法1(法か律か?)」前後で連載しました。
中国や朝鮮の地域では(中国では辛亥革命まで)律令体制をそのまま敷いてきましたので、自作農・・自分の農地と言う観念自体が育たなかったでしょう。
だからこそ食えなくなれば簡単に流民化するし、共産革命・・集団・国営農場化が簡単に出来た面があることを、03/04/06「商から農への転換9・・・中国の場合1」等で書いたことがあります。
中韓両国の地域では異民族支配の繰り返しこれとセットの専制君主制・王朝下で何千年も来たので、日本のような国民(同胞)という概念もなく、単に支配領域内に住んでいる人間と言うだけで言わば支配対象・物みたいな客体でしかありません。
(この点日本人は他所の国の人を「その国民(同胞)」と日本的理解で考えると間違うことをこのあとで書いて行きます)
中国政府にとっては中国国内にいる人間も領域外にいる人間も、全て将棋の駒みたいな政権維持の対象・材料にしか過ぎず、(中国では異民族支配が繰り返された経験があるので、)領域外にいる人間も領域内にいる人間も将棋の駒のように取れば自分で使えるコマ・・工場経営で言えば原材料的対象として考えているので、都合によってどのように切り刻もうと自由自在ではないでしょうか。
領域内の国民も政権に反抗するならば、国境の外にいる外国人よりも政権維持にとって危険ですから、死刑・臓器摘出を含めて徹底的に押さえ込む・・恐怖政治でやって行くのが今でも中国風の政治です。
文化大革命当時に流行った下放政策も根は同じです。
国民の方も都合が悪ければ流民化したり、外国籍をとったりすることに抵抗がありません。
日本人の場合同胞どころか身近な動物まで家族のように可愛がり、大切にする社会です。
勿論庭に植えた草木もこよなく大事にしますし、針供養で知られるように身近な道具類にさえも魂を認めて大事にします。
まして同じ人間同士では、ネットその他では観念的に韓国や中国批判論が盛んですが、実際に身近にいる外国人を差別したり貶めたりする気持ちが(内心でも)基本的にありません。
中韓でいくらいろんなことがあっても、ネット騒いでいても、具体的に身近な中韓の人に対して罵詈雑言を浴びせるような人は(礼儀上黙ってるというだけではなく内心でも目の前にいる人には皆平等に接する気持ちが基本で)皆無と言っていいのではないでしょうか?
内心で異民族を侮蔑し、憎悪しながら理性の力で、博愛・動物愛護などと主張している欧米とは順序が違います。

中間層・蓄積の重要性7

話がそれましたが中国の蓄積の薄さ・・2013/01/19最先端社会に生きる8(中間層の重要性3)の続きに話題を戻します。
中国経済について連載している勝又寿良氏の1月14日の中国経済に関するコラムで中国の報道を引用しての意見によれば、中国では年金の積み立てが11年度GDP比2%しかないと書いてあります。
(日本の積み立て比率は25%、アメリカの場合15%とのことです)
中国の2013年度の積み立て不足額が18兆3000億元であり、11年度のGDP比39、3%にも達していると書いてあります。
中国のGDP統計は水増し報告・発表の繰り返しの累積ですから、実態はその半分〜3分の1以下かもしれないのですが・・・簿価に対する不足分は逆に少なめに報告されている筈です・・仮に統計どおりでもGDPの4割も不足しているとしたら大変な事態です。
※ 他人の文章なので「不足」の意味が良くわからないのでここでは、そのまま書いています。
もしかして帳簿上あるべき資金に何故か穴があいていて実際には存在しないという意味かも知れません。
中国の統計が実態をあらわさない(政治上の思惑・動機としては地方政府幹部は地位保全のために計画以上に達成したと報告したいし・政府としては対外的に虚勢を張りたいことにあるのは当然ですが・・・)技術上これを可能にしている原因は、日本のように実物と照合する・棚卸しチェックをしないで良い・・各地方政府からの書面上の報告で足りる点にあるとも言われています。
このような制度では、(二重帳簿ならば正確な帳簿が別にあるので権力者・経営者には実態が分りますが、・・)、帳簿上の積立金が、そのとおりあるかどうかについて政府首脳自身も誰も正確に知ることが出来ません。
その他のデータ(自分のところのデータだけではなく、当然他所のデータもいい加減を前提に推計して)からそれぞれ部門関係者が推測しながら政治をやっているのですから、国家運営が目をつぶって車を運転しているようなやり方になっています。
個人商店ならば、規模が小さいので帳簿が良い加減でも経営者の現場勘だけで儲かっているか最近客が減っているか程度が分かりますが・・・。
ソ連崩壊直前に最高権力者ゴルバチョフが実態がどうなっているのか調査しようとしても何もかもがいい加減なので、最後まで自分が統治しているソ連自体の各種実態を把握出来なくて困ったとどこかで読んだか聞いたことがあります。
韓国も中間層の発達が遅かったことから、年金制度開始(積立開始)が遅いことと非正規雇用の拡大迅速化で(中間層の積み立て期間が少なかった)年金積み立て不足は(・・個人金融資産が存在するどころかマイナス状態とも報道されています)日本の年金資金不足どころの話でありません。
(年金積立金も個人金融資産の一部ですから、個人金融資産がマイナスということは年金もほぼ存在しないに等しいことになります)
日米や中韓との年金積立て比率差は、まさに中間層の厚さ・中間層社会の持続期間の長短によると言えます。
中間層とは家計の健全な階層・・収入の一定割合を、継続的に貯蓄して行ける階層のことと言っても良いでしょうか?
仮に収入の1割前後の貯蓄振り向けを出来る階層を中間層とした場合、10年間でやっと年収分相当ですから、中間層期間が数年や5〜6年で終わって国民の殆どが非正規雇用に変わってしまうとイザというときのための個人金融資産の蓄積が不足します。
日本を追い上げていると宣伝している中韓両国では、中間層がまともに育つイトマもないまま非正規雇用社会に突入しているので、庶民層が安定した蓄積をする余裕がないまま現在に至ってます。
・・・近代化が始まってから直ぐに非正雇用になったのが韓国であり、近代化が始まったときに既に非正規雇用の時代に入っていたのが中国です
労働者・都市住民の大多数は、非正規雇用でこれと言った蓄えのないその日暮らし状態ですから、この状態で失業が襲ったら大変です。
前近代に食うや食わずの農民が飢饉に見舞われると直ぐに流浪の民になることを繰り返して来たのと同じ状態が、中国では今でもまだ続いているのです。

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