証拠法則と科学技術6(自白→弁明権へ)

自白するようになってからの録画を見ても、多くの被疑者は、「済みません反省しました・・刑事さんさんどう言えば良いのですか?」聞いて刑事から、教えられたとおりの供述をすらすら始めるのが普通ですから、その段階の録画をいくら見ても不思議な点がある筈がありません。
自白に転じた被疑者は、従来から「検事調べに行ったらこういうのだぞ!」違ったことを言うと俺がおこられ、勾留が長引いてしまうからドジするなよ!」と担当刑事に言い含められて検事の前に連れて行かれるのが普通でした。
この段階が刑事調べ室に入ってからの録画録音に早まるだけで他方、刑事弁護人の労力が圧倒的に多くなります。
録画録音が開示されているのに大したことがないだろうと弁護人が目を通さないで弁護をやっていれば、職務怠慢・懲戒リスクに見舞われます。
えん罪防止のために、全てに神経を研ぎすまして弁護するには、あまりにも種々雑多で(約1ヶ月かけてみないと見切れないような)膨大な資料を提示されると却って有効な弁護活動が出来なくなる逆張り効果にならないか心配です。
捜査期間は半年以上かけて大勢のチームが内偵して資料を読み込んでから立件逮捕するのですが、弁護側は逮捕されてから頼まれるので、そもそも事件概要すら把握するのに時間がかかります。
それから段ボール箱トラック1台分もあるような証拠を開示されて半年前後にわたる質問のやり取りの録画を開示されて「勝手に見て下さい」と言われても、半年分見るのに半年かかる(録画や録音は飛ばし読み出来ません)理屈です。
勾留期間20日間内に一人、二人の弁護人が選任されても、勾留されている場所への面会するための往復数時間をとられること(・・面会しての本人との打ち合わせでも本人が手持ち資料を持っていないので、本人の記憶による口頭だけの説明になるので大変です)などとても太刀打ち出来ません。
資料の写しが手に入ってからでも本人が見れば自分が作ったものなので、何ページに書いてあったかを忘れていてもあちこちパラパラとめくって探せますが、ガラス・格子越しないので、こちらが言われた部分をめくって探しながらの打ちあわせでは効率がすごく悪いのです。
裁判になってからも公判準備期日までに膨大な時間が必要ですが、警察や検察のように大勢の専従ではなく、弁護人はいろんな事件を平行して受任していないと事務所維持出来ないので、かかり切りになる時間が少な過ぎます。
取り調べ可視化議論は、自白の重要性を変える努力ではなく、自白の重要性をそのままにして今も時代遅れの?議論が進んでいると言えるでしょう。
・・もしかして可視化した以上は、信用性が高まる・・お墨付きになって、もっと自白を重視する運用になるのが心配です。
必要なことは自白に頼らない客観証拠に関する科学進歩・収集管理・証拠の改ざんを防ぐためにの管理合理化の議論ではないでしょうか?
12月6日にニューヨーク市警の例を書きましたが、今後有罪認定するには客観証拠に限り、被告人の供述は有利に使うときだけ採用すると言う逆の運用に変えて行く努力が必要です。
実際に我が国でも行政処罰では、この運用でやっていて、非処分者が言い分を聞いて欲しいときだけ弁明出来る仕組みです。
スピード違反等による免許停止その他の行政処分は、弁明したい人だけ来てくださいと言う告知・聴聞制度になっていることを知っている方が多いでしょう。

行政手続法
(平成五年十一月十二日法律第八十八号)

第三章 不利益処分
  第一節 通則(第十二条―第十四条)
  第二節 聴聞(第十五条―第二十八条)
  第三節 弁明の機会の付与(第二十九条―第三十一条)

条文は長いので省略しますが、身近に経験した方も多いし、目次だけ見ても制度骨子が分るでしょう。
弁明の機会の付与」とあるように、「チャンスを与えます」と言うだけで、自認行為を必要とはしていません。
今後自白は弁明する権利だけにして、有罪認定証拠に使わない・・使っては行けないようにした方が合理的です。

証拠法則と科学技術5(自白重視5)

実際には、人は弱い者で、いろんな状況下で刑事に迎合してやってもいないことを言えば、刑が軽くなるかと思ったりして妥協してしまう傾向があります。
平成26年12月6日の日経朝刊第一面の春秋欄には、この機微を書いています。
曰く、江戸時代、辣腕の吟味与力がある日、自分の下男に言いがかりで罪をなすり付けて試してみたところ、下男は最初否認していたがその内に罪を認めてしまったのにショックを受けて、辞職し隠居したと言う話が書かれています。
(国立公文書館で開催中の「罪と罰展」で「知った」と書いていますが、何を読んだのか出典を書いていないので、どう言う公式記録にあったのか、誰かのフィクション・・解説だったのか明らかではありません。)
良く知られているところでは、痴漢疑いで逮捕されたサラリーマンが半年近く拘束されて裁判で争っていると会社に知られてクビになってしまうことから、認めれば罰金程度ですぐに出られると言われると刑事に迎合して認めてしまうリスクがあります。
多くのえん罪事件は「素直に認めれば大した結果にならないから・・」と言う刑事の誘導に負けてしまい、やってもいない自白(刑事の描くストーリーにあわせて述べる・・自白をしてしまうことが圧倒的に多いのです。
補強証拠さえあれば良いと言う近代法の証拠法則では、この種のえん罪を防げません。
歴史と同様に事実はいろんな矛盾証拠(事実)その他で成り立っていますから、論者に都合の良い事実だけ拾い出せば一応一貫した筋立てにあう証拠もそろっています。
刑事の想定するスジ建てにあう事実・証拠だけ開示し提出すれば、矛盾はなくなりますし、裁判所は「自白が一貫していて補強証拠とも合うし自白が信用出来るとなってしまいます。
問題は大阪地検の証拠改ざん事件は、矛盾・両立しない証拠があったことから、検事がデータを改ざんしたい誘惑に駆られた結果の事件です。
パソコンなどを駆使した事件の場合、自分の作った物ですから、ここにこう言う記録をしてあった筈などと覚えています・・これが検事による改ざんがバレる原因となり、検事の命取りになりました。
従来型型実務では、矛盾証拠が滅多にある訳がありません。
満員電車内での痴漢事件のように、被害者の背後にいた5〜6人が全員痴漢する可能性があって、誰もが矛盾証拠を出せない場合が殆どです。
ところが残り全員がその場を離れていて最早特定出来ない状態で、タマタマ一人だけ標的にされてアリバイや絶対出来なかった位置関係など矛盾証拠を出せと言われても偶然背が高過ぎたり・・右手不自由だったりなどの特殊事情がない限り・・中肉中背の平均的な人の場合、反論しようがないのが普通です。
こう言う場合、裁判所は補強証拠がないと言うのではなく、(被害者が「この人に違いない」と断言する程度で?)被害者があえて噓を言う必要性がないなどと言う変な論理で有罪と認めてしまうのですから怖いものです。
こう言う運用が「やっていなくとも早く認めて罰金にして貰おう」とする自白者が輩出する土壌です。
話を戻しますと、数年前に発生した大阪地検特捜部の記録改ざん事件以来、捜査手続改革に関して流行になっている取り調べ可視化問題は、証拠としての自白の重要性を前提に自白取得過程を録音録画しよう(「しゃべらないといつまでも出られないようにしてやるからな!」とかの脅しや拷問がなかった証拠のために)と言うだけです。
全面可視化は望ましい事は確かですが、何人もの刑事が交代で調べた延べ何百時間に及ぶ取り調べ過程全般を仮に録画しているとした場合、その同じ時間弁護士は録画をチェックしなければならない、1回見るだけでも取り調べに要したのと同じ時間かかります。
ビデオ録画は書物のように斜め読みのように早送りしていたのでは、ビデオが警察に都合良く編集しているのかどうかを見破ることは出来ません。
まして気になるところを巻き戻して(他の供述や帳簿等と付き合わせてみるには)何回も見直したりすれば、取り調べ時間の何倍も時間を取られます。
録画を見たり聞いたするのが、弁護業務の全てではなく、その他膨大な資料の読み込み証拠のチェックや面会に行っての打ち合わせ時間などを考えれば、天文学的時間を要することになります。

証拠法則と科学技術3(自白重視3)

客観証拠が充実して来れば、事件当時の半年〜1年以上前のおぼろげな記憶による当事者の思いつき的供述の真偽究明よりは、(記憶違いではないかなどと前後供述の矛盾追及などよりも)提出されたビデオやパソコンの記録やデータの読み取り方その他のデータ相互の矛盾追及などの信用性を争うのが、弁護士の中心的仕事になってきます。
大阪地検の証拠改ざん事件は、このチェック過程で生じたものです。
いろんな民事事件で現場写真や録音テープ・メール等が証拠提出されることがありますが、写真やテープは証拠にならないと言って争うのではなく、「この写真が現場写真としてはこの家が写っていないはおかしい」「この表情・動作からこのように読み取るべきだ」など、内容で争うべきことです。
たまに法律相談で「メールや録音などは証拠にならないですよね!」と(ネットに書いてあったと言って自分の意見が正しいと言う前提で強制的に?)同意を求めて来る人がいますが、「一般論ではなく前後の事情その他具体的内容による」と答えています。
ただし、刑事事件では証明力以前に証拠能力と言う関門がありますので、刑事件の相談ならば一応検討する意味がありますが、一般的にこう言う相談は浮気のやり取りがメールに残っていて、これが配偶者に抑えられた場合、証拠にされるかの相談が圧倒的です・・民事では証拠能力と言う関門がありません。
防犯カメラの設置に反対する動き・・論文を11月8日に紹介したことがありますが、この運動主体が「自白に頼るな」と主張するグループである弁護士会と重なるのが不思議です。
プライバシー保護を理由にいろんな客観証拠のデータ化に反対・または反対論を学ぶための集会をしている・・「証拠収集反対論2(防犯カメラ1)」 November 8, 2014で紹介した論文は、「■九州弁護士会連合会主催「監視カメラとプライバシー」シンポジウム 2004年10月http://www.meinohamalaw.com/activity01/5.htmから見た論文を読んだ印象を書いたものですので、関心のある方は上記にアクセスして原典に当たって下さい。
・・その大会で防犯カメラ設置反対決議したものではないとしても、こう言う講演依頼をして集会を開催していること自体が主催者の意図・体質を表しています。
このような研修集会をするならば、防犯カメラの有用性を主張する学者ああるいは捜査関係者にも講演してもらい、双方の意見を戦わせて会員が公平に判断出来るような集会にすべきです。
一方の立場に有利な講演をしてそれに基づいて防犯カメラが社会に害があることばかり強調する集会運営して行くのでは、防犯カメラと言う客観証拠の発達を阻止したい・・反対するためにあら探しの研修集会をしているように国民が思う・・誤解?するのではないでしょうか?
憲法9条を考える会と言うような趣旨の集会案内を良く見かけますが、双方または複数の意見を聞いてみるのではなく、一方的な意見ばかり聞かされるのが普通です。
弁護士団体が偏った意見の集団ではなく、法制度をよりよくして行くためにいろんな研修をして行くのは良いことだと思っていますが、反対意見の講演ばかりしていて「何でも反対集団」と言う評価が定着していた元社会党のようになってしまうと、マイナス・・本当に良い意見も通り難くなる心配をしています。
11月30日日経新聞朝刊17Pには、脳指紋の研究が進んでいて「未来の科学捜査」と言う見出しで、将来は、無意識でも脳に痕跡が残る・・過去に脳が見たり経験した事柄が科学的に判別出来るようになりそうだと言うサイエンス記事が大きく出ています。
これらも、将来現実化して来ると技術の不確実性・・信頼性が100%でないことを理由に(「専門家による)採用反対論が大きな声になるように思えます。
スピード違反自動検出機器(オービス)も、たまには間違いがありますが、それでもその誤差を自覚して運用すれば良いのであって、その有用性は明らかで、今は定着しています。
技術には当然欠陥や誤作動があり得るので裁判では、万分の1の欠陥でも当該事件になかったか厳密に検証して行くべきですが、それとは別に各種機器や科学検査の否定運動・・防犯カメラのように設置自体反対になって来ると、刑事弁護の立場からの主張としては意味不明です。
ただし、公益と人権(プライバシー)侵害の兼ね合いと言う批判は勿論ありますが、新技術が出ると先ずは反対する材料がないかと言う視点が先にあるような印象を受ける人が多いのではないかが心配です。

証拠法則と科学技術2(自白重視2)

事件前後の状況が克明に記録されていることが、犯罪関与程度の証明が自白によらずに客観証拠によれるようになって来た社会的基礎です。
昨日紹介した憲法制定当時では、まだ自白を証拠の中心であることを前提にして、客観証拠で補強する必要がある程度でしかありませんでした。
この後で紹介する刑事訴訟法もあるいは昨今流行の取り調ベ可視化問題も、自白を重要証拠として自白獲得過程の透明化を狙ったものに過ぎません。
言わば、法律家は現在の科学技術の進展より100年くらい前の思想・・近代社会を実現するかどうかについて、今頃議論している状態です。
社会実態はもっと進んでいて、昨日紹介した各種科学技術の発達によって、自白中心から客観証拠中心に変えて行ける時代が来ています。
昨日紹介したニューヨーク市警の黒人殺害事件に関して言えば、誰かが撮影していたビデオ映像が決め手であって警官の自白・供述の有無(何故後ろから首を絞めたかの言い訳を聞く程度・情状程度しか意味がない)は殆ど意味をなしません。
この結果、アメリカでは、カメラ設置または自動撮影機の携帯を大幅に増やすと報道されています。
オービスによる写真プラス計測結果によって、速度違反も含めて、客観証拠が補強ではなく、中心になりつつある時代です。
こうした社会ルールの変化は進歩的文化人?の主張によって変わるのではなく、科学技術の発達が思想や実務運用を変えて行くものです。
進歩的文化人とは、国民の多くが海外の文物に接することが出来ない時代に、留学等で自分だけが知っている・・「海外ではこうだ」と直ぐ言いたがるグループのことです。
進歩的文化人とは、新しいことがスキと言うのではなく、欧米思想を勉強した者・・過去の権威を学び修得しただけのことですから、基本的に19世紀型欧米思想の保守的に親和性のあるグループであることを大分前に連載したことがあります。
革新系政党や団体は、「進歩的」文化人と言うブランド重視ですから、共産党などでは東大卒が大好きです。
我が国伝統的価値観を守るのではなくこれを否定する点が革新のように誤解されているだけで、近代から変化した現在社会から見れば柔軟性のない・超保守に見えてややこしいのは、欧米近代思想を守るための革新?系運動家ですから、彼らがこだわるのは現在よりは過去(19世紀型)の「近代思想」になるのは必然です。
現在社会の実態については、国民が等しく知っていて(タクシー運転手に聞く街角景気同様に現場人間の方が学者よりも世情に詳しい)優位性を保てないので、飽くまで近代法理にこだわっていることになります。
「護憲」勢力は、戦後パラダイムの基本改正に反対する点で象徴的ですが、いわゆる護憲勢力の共通項は、19世紀型思想にこだわる超保守政治家と同義であったこと・・戦後急速に進んだ現在型社会の変化にすべて反対する超保守・・結局「何でも反対の社会党」になるしかなかったことが、この関係を表しています。
現在は現在の社会・科学技術・経済活動を基礎にして新たなルールのが生まれつつあるのですから、現在の科学技術を前提に現在社会でのルールがどうあるべきかを議論すべきです。
新規科学技術の発達が、証拠法則を劇的に変えて行く・・証拠の客観化が進み自白または関係者の供述証拠の証拠価値を減らして行く大きな役割を現に果たしていることが分ります。
証拠の客観化の進行は、自白追及のために長期間拘束する習慣が自然に解消されて行くことに繋がるので、(私に言わせれば、公道で防犯カメラに知らぬ間に写真撮影されている程度の被害・マイナスに比べれば長期間拘束されて自白強制されるよりマシだと言う意見ですが・・)人権擁護を主張する我々弁護士にとっては望ましい動きである筈です。
客観証拠の発達があろうがなかろうが、自白の必要性の有無など「四の五の言わずに拘束を先ずやめるべき」というのが革新系の主張ですが、自白の有無に頼る裁判をしているかぎり、拘束が長引く傾向になるのは否定できないでしょう。
やはり、自白外の証拠で認定して行く社会。。科学技術発展を促進して行く方が、拘束と言う重要な人権侵害を減らして行けることが確かです。
ニューヨーク市警の例で言えば、警官が首を絞めたことが防犯カメラだけで証拠上充分として、警官の方で首を絞めた動機原因とし「て自分に有利な言い訳したいならば、聞いて上げましょう」と言う逆の関係になるので、拘束する必要がありません。

証拠法則と科学技術1(自白重視1)

責任を問う場面の極限である刑事罰の根拠について・・近代刑法では、自由な意思と実行行為の両輪(構成要件該当行為実行+故意)で犯罪が成立する仕組みですが、これは哲学者の机上理念の結果法理になったのではなく、当時の証拠収集能力・・証拠法則と密接に結びついています。
近代刑法原理もその時代の有用性に即して成立したものですから、現在社会・・社会構造が大幅に変化し来ている現在には、現在社会の実態に合わせた理念の再構築が要求されています。
犯罪構成要件の決め方が「行為」と言う外形事実を必須要件としたのは、犯罪認定のルールとして、えん罪を防ぐためには、内心の意思だけで処罰するのではなく、行為と言う外形的事実・証拠による認定を要求したことによります。
その結果自白だけでは処罰出来ないことその他、厳格な証拠法則が発達しました。
近代刑法の理念を具体化した日本国憲法を見ておきましょう。

憲法
第三十八条  
 何人も、自己に不利益な供述を強要されない。
 2  強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。
 3  何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。

共謀罪についても、内心の意思だけを理由に犯罪にするのでは、恣意的運用・・政治弾圧になり兼ねません。
今の科学技術でも、内心の意思そのものは神様しか分らないのですから、どうしても判定したいとなれば、神判に委ねるしかないと思われます。
外形行為があれば内心の意思の判定は可能です・・例えば、人のクビを故意にちょん切った場合「まさか死ぬとは思わなかった」と言う主張をしても、殺意が認定されます。
即ち内心の意思・・故意=殺意の有無を争うのが裁判の主たるテーマですが、実際の裁判では、間違ってクビに刃物があたったかどうかが重要争点になり、この認定によって、殺意の有無が違ってきます。
警官が足を狙ってピストルを射ったところ、タマタマ相手が転んで頭に当たったとかいろんな主張がおこなれますが、全て殺意と言う内心の意思確定業です。
周辺事情に関する外形行為の証拠収集能力が発達しない時代に、内心の意思をそのままストレートに認定するためには、「神様しか分らないよ!」となって、古代には神判が行なわれていたのはこのせいです。
これがあまりにも不合理なことから、自白していれば、「本人が自分の気持ちを言うのだから確かだろう」・・逆から言えば、自白がない限り無理に認定しないルールが世界標準になりました。
これが「自白は証拠の王」と言われるようになった所以です。
本人の意思次第と言う・・人権重視・・えん罪を防ぐ目的から言えば、当時とすれば画期的理想的な制度でしたが、これを悪用して、「悪いことしても自白さえしなければ良い」と言う狡い人が出て来ると、この制度の有用性が揺らいでしまいます。
現在でも刑事弁護専門家によると、どんな事件でも、完黙(黙秘権を行使して何も話さないで押し通す)を進める弁護技術が奨励されているようです。
この論者の本心は、「免れて羞じない輩を唆す」目的ではなく、多分・捜査機関は外形証拠をきっちり収集すべきであって、自白に頼ろうとする捜査手法に問題がある捜査の科学化の進展を期待する愛のムチと言うことでしょう。
外形証拠が足りず有罪立証出来ないならば仕方がない・・これの繰り返しで、捜査機関が発奮努力して合理的な新技術が発展するのじゃないかと言う前向き意見と思われます。
上記の例で言えば、相手が直前に転んだのかどうかは防犯カメラで分ることが多くなりましたし、防犯カメラやGPS・各種電子機器・現場に残された微量の毛髪その他の収集能力の発達がDNA等によって、事件現場やそこに至る犯人の行動記録が秒単位で証拠として残る時代が来ました。
昨日あたりからニューヨークで大騒ぎになっている同市警察での黒人死亡事件も、警官が後ろから首を絞めていたことが議論になっていますが、これもビデオカメラと音声録音の御陰ではないでしょうか?

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